起工日 | 昭和11年/1936年12月1日 |
進水日 | 昭和12年/1937年11月18日 |
竣工日 | 昭和14年/1939年6月28日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年4月7日 |
坊ノ岬沖海戦 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 1,961t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.35m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:3,800海里 |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
忌まわしき7.5 北に嫌われた霞
【霞】は【霰】【陽炎】【不知火】とともに第十八駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に所属。
艦型が「朝潮型」と「陽炎型」が混ざっていますが、両者の設計に他の艦型ほどの違いがないので、運用上の障害にはなりませんでした。
太平洋戦争の開幕戦となった「真珠湾攻撃」では、補給部隊を護衛して出撃。
ただしばらくは二水戦から一時抜けて第一航空艦隊に所属して4月まで働きます。
ド派手な戦果を残して日本に凱旋しました。
ただこの時【霞】と【霰】の航続距離は「陽炎型」に比べて短いことから、艦内には予備として18ℓの燃料入りのドラム缶がたくさん搭載されていました。
帰投後も機動部隊の護衛として各作戦に参加。
重要な作戦としては日本の一大拠点となったラバウルの攻略です。
「R作戦(ビスマルク作戦)」と呼ばれるこの作戦では、ラバウルやビスマルク諸島、カビエンの攻略を昭和17年/1942年2月上旬には完全に達成しました。
一方で2月1日に日本はアメリカの反撃である「マーシャル・ギルバート諸島機動空襲」の被害を受けます。
この追撃に【赤城】らが出動していますが、他の部隊含めてこの空襲は撃ち逃げされてしまい捉えることができませんでした。
ですが日本の勢いはとどまるところを知らず、ポートダーウィンの空襲、チラチャップへの空襲、そして4月には「セイロン沖海戦」でイギリス軍の基地があったセイロン島を徹底的に破壊。
これでイギリスの東洋艦隊は前線を下げざるを得ず、以後の日本の目下の敵はアメリカとオーストラリア、ニュージーランドとなったのです。
常に花形だった機動部隊を護衛してきた【霞】ですが、「セイロン沖海戦」を終えたあとに本土に帰投し整備を行います。
次の壮大な作戦が、日本の未来をより明るくする、そう誰もが思ったことでしょう。
ところがその壮大な作戦は、その夢を牽引する4隻の空母をむざむざ沈めるという、目を覚ますにしても限度があるだろというほどの取り返しのつかない結果を残して大失敗します。
言うまでもなく「ミッドウェー海戦」です。
【霞】はこの海戦では空母ではなくミッドウェー島攻略部隊の護衛として参加していますから、つい数ヶ月前まで行動を共にしてきた勇壮な空母たちの最期を見届けることはできませんでした。
【霞】の不幸はこれに留まりません、むしろ自身の不幸はこちらのほうが圧倒的です。
「MI作戦」は崩壊しましたが、アリューシャン列島攻略の「AL作戦」は一部だけ達成されています。
第十八駆逐隊は第五艦隊に所属し、この北方海域での活動を命じられて船団護衛や哨戒活動を行うことになりました。
そんな中、【霞、霰、不知火】は6月28日に【千代田】【あるぜんちな丸】を護衛して横須賀を出港し、キスカ島まで輸送を開始。
【陽炎】は【山風】が行方不明(当時)になったことで東京での対潜哨戒任務を代わりに行うことになったため不参加です。
道中は至って平穏でしたが、7月4日、アリューシャン列島が近づくと視界を遮る濃霧が5隻を包み込みました。
この海域では、特に春から夏にかけて気温差による濃霧がしょっちゅう発生し、また夜間ということでこのまま無理をすると座礁の危険もありました。
またここ数週間は連日働き通しだったこともあり、なので駆逐艦3隻は無理に入港をせず、第十八駆逐隊司令の宮坂義登大佐は、休息も兼ねて揚陸は日が昇ってからにすると命じます。
輸送の2隻は湾外に留まらずに入港し、揚陸を行っています。
霧も深かったので敵襲の恐れもないだろうという考えもあったかもしれませんが、夜が明けきる前に霧は濃淡を繰り返しながらも徐々に晴れていきました。
そして視界が良好になったことで、潜水艦から見れば格好の的になってしまったのです。
霧が晴れたら報告するようにと念を押していたのですが、敵はこの隙を逃しませんでした。
3隻に狙いを定めていたのは、【米ガトー級潜水艦 グロウラー】でした。
午前3時ごろ、【グロウラー】は3隻それぞれに1本ないし2本の魚雷を放ち、そして次の瞬間、ドカーン、ドカーンと耳をつんざく音と同時に足場が大きく揺らぎました。
3隻それぞれに魚雷が1本ずつ命中し、うち【霰】は船体断裂の憂き目にあい、あえなく沈没。
この時【霰】は沈没する前に【グロウラー】を視認して砲撃を行いましたが、恐らく追撃の1本がさらに命中したことで【霰】の息の根を止めました。
【不知火】は魚雷を機関部付近に受けたほか艦尾の甲板も屈曲したことで全く動くことができず、【霞】もまた艦首への被雷により火災と右屈曲で航行不能に陥ります。
一瞬にして1隻沈没2隻大破という大惨劇となってしまったキスカ沖。
【グロウラー】がそのあと立ち去ってくれたおかげで【霞】と【不知火】は何とか生き長らえましたが、それでも2隻は身動きが取れません。
すぐそばで【霰】が沈んでしまっているのに、助けることもできないのはどれほどもどかしかったことか。
懸命な応急修理の末、【不知火】は前進、【霞】は後進でキスカ湾にまで入港することができました。
その後はキスカ島で空襲を受けて沈没していた【日産丸】の陰に隠れて修理を行い、また修理用の物資も【陽炎】や【長波】が横須賀から運んできてくれました。
【霞】は26日に曳航が可能なまでに回復したことで、27日には【雷】の曳航、【陽炎】の護衛を受けてキスカ島を出港。
その後幌筵で【電】に、さらに石狩で【富士山丸】に曳船がバトンタッチされ、8月13日に舞鶴に無事に到着し、ようやく本格的な修理が始まりました。
第十八駆逐隊はこれで活動できるのが【陽炎】だけになってしまったので、15日に解隊。
【陽炎】は第十五駆逐隊に異動となりました。
【霞】はここから修理に10ヶ月を擁し、被害を受けてから約1年でようやく本来の形に戻ることができました。
この修理中に九三式水中探信儀を増設されています。
修理を終えた後は第十一水雷戦隊で訓練や試験協力を行い、昭和18年/1943年9月1日に第九駆逐隊に編入されます。
そして【霞】は早くも憎き思い出のある北方海域へと向かうのです。
しかし今回は何事もなく任務を遂行することができました。
ところが北は大きな動きがなくても南は時々刻々と情勢が変わっています。
戦力補充のために臨時で内南洋部隊の指揮下に入り、横須賀経由でルオットへの緊急輸送を実施。
その後はトラックに向かい、ラバウルで空襲を受けていた【最上】を護衛して呉へ向かいました。
【最上】を送り届けた【霞】は、そのまま北に戻るのではなく自身も舞鶴へ向かいます。
そしてここで対空兵装強化の為に2番砲塔が撤去され、代わりに25mm三連装機銃が2基設置されました。
電探も22号対水上電探と13号対空電探がそれぞれ1基、恐らくこのタイミングで装備されていると思います。
その後北へと戻った【霞】ですが、昭和19年/1944年3月15日、ここまで難を逃れてきた第九駆逐隊もついに被害を受けてしまいます。
【薄雲】【白雲】とともに4隻の輸送船を護衛して、小樽から釧路経由で得撫を目指していました。
当然潜水艦を警戒しながらの航行となりますが、この中で慎重になりすぎたのか、輸送船の【日蓮丸】が暗闇の中でチラッと目に入った艦影に突如砲撃を行います。
その砲撃を受けたのが【白雲】だったのですが、【白雲】はこの中で発光信号を放って誤射を止めさせようとしました。
恐らくこのやり取りが、【米タンバー級潜水艦 トートグ】の知るところとなったのでしょう、【白雲】はこの後この【トートグ】の魚雷を受けて轟沈してしまったのです。
その後【トートグ】は【日蓮丸】も沈めており、【霞】は爆雷を投下しますが【トートグ】は被害なく撤退に成功。
船団は【薄雲】が護衛して釧路まで引き上げ、また対潜哨戒はその後応援を受けて広範囲で行ったもの、手応えはありませんでした。
【白雲】の喪失によって第九駆逐隊は解隊。
実は3月1日に【不知火】が第九駆逐隊に編入されていたのですが、この時彼女は南にいたため同行しておらず、解散後は【霞、薄雲、不知火】の3隻で、面子こそ違いますが再び第十八駆逐隊を編成するに至りました。
ただ第十八駆逐隊は「マリアナ沖海戦」とそれに関する作戦には参加しておらず、しばらくは第五艦隊と行動を共にしていました。
さらに7月5日には【薄雲】も船団護衛中(第十八駆逐隊とは別行動)に沈没しており、第十八駆逐隊も2隻となってしまいます。
昭和19年/1944年9月2日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 8基8挺 | |
13mm単装機銃 4基4挺 | |
電 探 | 22号対水上電探 1基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
フィリピンを巡る無謀な作戦 屍を超えて最後の突撃
第十八駆逐隊は第一水雷戦隊に所属していて、10月15日に「台湾沖航空戦」のちょっとは報告疑えよってほどの妄想全開戦果の大本営発表を受けて、残存艦を仕留めるために【那智】や【足柄】ら志摩艦隊の一員として出撃。
御存知の通り敵の被害なんてあってないようなものですから、のたうち回っている敵がいるわけがなく、逆に動きが緩慢だったことから袋叩きにされずに済んだまであります。
結局敵機動部隊はピンピンしていることが分かったことで、志摩艦隊は奄美に移動し、そこからついに「レイテ沖海戦」へと突入するわけです。
志摩艦隊は全体の中でも役割が決まるのが遅く、結局西村艦隊と一緒にスリガオ海峡を突破することが決定します。
ですが全体の連携がちぐはぐだったことで西村艦隊は志摩艦隊の到着を待たずに海峡に突入。
敵が無傷でスリガオ海峡の通過を許してくれるわけもなく、西村艦隊は瞬時にほぼ全滅。
志摩艦隊が到着した時には【時雨】だけが健在で、【最上】が低速撤退中、他は沈没か身動きがほとんどとれない状態でした。
そんな中で【那智】は【最上】と衝突、【阿武隈】も被雷して志摩艦隊は西村艦隊以上に何もできずに撤退し、コロンへと逃げ帰りました。
なお、【阿武隈】の被雷、そして沈没により第一水雷戦隊の旗艦は以後【霞】が担うことになります。
コロンへの退避後、「捷一号作戦」と並行して行われていたオルモックへの輸送作戦に従事していた【鬼怒】と【浦波】が空襲を受けたという報告があり、救援のために【不知火】が出撃。
ところが到着したころにはすでに2隻の姿はなく、【不知火】は近くのセミララ島で座礁していた【早霜】の救援に向かいました。
ですが【早霜】の来るなという信号を無視した【不知火】は空襲の新たな餌食となってしまい、ここで【不知火】も沈没してしまいました。
ついに第十八駆逐隊も【霞】1隻のみとなってしまいます。
「捷一号作戦」が失敗した今、レイテ島への輸送が最後の手段でした。
【鬼怒、浦波】が失われたもののこの輸送は成功しており、日本は「多号作戦」を組んでこの輸送に駆逐艦と輸送艦を集中させます。
もちろん【霞】もこの作戦に参加しました。
最初に参加した10月31日出撃の第二次多号作戦は、全9回の多号作戦の中でも護衛艦の数が2番目に多く、また揚陸率も一番高い輸送でした。
さらに陸軍の直掩機も飛んでいたことから、もっとも輸送らしい輸送ができたと言えるでしょう。
【霞】は第二次多号作戦では旗艦となっています。
ただ、全ての輸送艦と一緒に行動したわけではなく、みなオルモックへの揚陸を行ったのですが【第131号輸送艦】と【第6号、9号、10号輸送艦】がそれぞれ別々に出発、到着しています。
またこの作戦は輸送艦は輸送艦のみ、輸送船には【霞】ら護衛が就いての輸送となっています。
被害としては【能登丸】が沈没してしまいましたが、それでも他の作戦と比較しても沈没1隻は素晴らしいです(帰投中に【第9号輸送艦】が損傷)。
しかもこの時【霞】は、他艦は引き揚げさせる一方で、司令部がある自身が戦場に残って【能登丸】の生存者救助に当たっており、この辺りは一水戦司令官の木村昌福少将らしいと言えます。
成功理由としては護衛が空海共に備わっていたことに加え、輸送船4隻が全て高速船だったことも挙げられています。
1回の輸送が終わっても全く休まる暇はなく、11月5日にはマニラが大規模な空襲を受けて、これまで幾度となく作戦を共にした【那智】が無残な姿になって沈没してしまい、また【曙】も大破してしまいます。
燃え盛る炎に怯えながらも【霞】は救助のために【曙】に横付けし、また消火活動を支援してなんとか【曙】はこの時は一命をとりとめます。
第四次多号作戦は数字上では4ですが、11月5日のマニラ空襲の影響を受けて第三次輸送部隊の出発が延期となったため、11月8日に先に出撃。
この時も輸送船3隻に対して護衛10隻とがっちり守られていますが、直掩機は「四式戦闘機 疾風」8機だけ。
しかも悪天候の中途中で7機がはぐれてしまい、護衛は吉良勝秋曹長が操る1機だけとなってしまいます。
ですが吉良曹長は現れた【P-38】に対して有利な低空での戦闘に持ち込み、なんと10数機相手に2機を撃墜した上に離脱に成功しています。
とはいえこれは道中の護衛であり、オルモック湾での護衛はこれでなくなってしまいました。
嵐の中を押し進む輸送部隊ですが、オルモック湾手前で空襲を受けます。
機銃掃射を受けたものの被害は多くありませんでしたが、9日の日没後に到着すると、揚陸の頼みの綱であった大発動艇がさっぱり見当たりません。
実は前日の台風で多数の【大発】が損壊したり砂に埋もれたり、さらに第二次輸送の経験から、オルモック湾の警戒を強めたアメリカ軍の空襲で【大発】が破壊されていたのです。
無事な【大発】はたった5隻でした。
さらにオルモックが見えるエリアはアメリカ陸軍の火砲の射程にも入っていたことから、止む無く少し東側のイビルに揚陸地点を変更。
念のため【高津丸】が【大発】を6隻搭載してきたのですが、これも道中の空襲で破壊されてしまい、揚陸作業は困難を極めました。
少数の【大発】に物資が細々と搭載されて往復される一方で、挙句の果てには海防艦を浅瀬ギリギリまで突っ込み、そこから運んだりと苦肉の策で揚陸が続きます。
実は出撃前に木村少将は陸軍に対して【大発】不足の場合の対応を考えておくように要求していました。
それが蓋を開けてみればこのザマで、さらにセブ島の大発部隊もちょっとしか応援に駆けつけていなかったため、この後物資不足に悩むのも仕方のないことでした。
魚雷艇が邪魔をしてくるので護衛艦はそれを追い払い、その間にできる限り輸送は続けられましたが、しかし50隻以上はいるはずだった【大発】が1/10になっているのに輸送が順調に進むわけがありません。
夜通しの揚陸でもやはり重量のある武器や物資の揚陸はほとんど進まず、やがて日が昇り始めます。
このままでは空襲を受けるのは確実です。
こんな有様でしたから上陸した第二十六師団は小銃一丁だけを携えてレイテ島に上陸します。
中国大陸からわざわざレイテまで連れてきた部隊がこの扱いは哀れとしか言いようがありません。
この船団の輸送とは別に、後発で第二次同様に【第6号、9号、10号輸送艦】がオルモックに到着をして第一師団(第二次輸送時の師団)の残員1,000人を揚陸しています。
この3隻が果たしていつ頃オルモックを発ったのかはわからないのですが、本隊より早くマニラに戻っているようです。
輸送を切り上げて急ぎマニラへと帰投を始める第四次輸送部隊でしたが、すでに日は高く、オルモック湾の出口付近で行きと同様に再び空襲を受けます。
【B-25】と【P-38】が船団上空を飛び回り、木村少将にとって悪夢である反跳爆撃が輸送船に向けて繰り広げられました。
この爆撃で【高津丸】が3発、【香椎丸】が5発も直撃弾を受けて炎上し、さらに揚陸できなかった弾薬に引火したことで【香椎丸】は大爆発を起こしました。
やがてこの2隻は沈没してしまいます。
この他に【第11号海防艦】も2発の被弾の末航行不能となり、流されて座礁。
空襲が終わった後に【第13号海防艦】によって砲撃処分されています。
その【第13号海防艦】も被弾しており、また【秋霜】は1番砲塔付近の被弾によって艦首を切断するほどの被害を負います。
それでも沈没は食い止められ、【潮】に護衛されながら前進で撤退を続けました。
【潮、秋霜】と【若月】や海防艦は、損傷するも唯一無事だった【金華丸】を護衛しながらマニラへと急ぎます。
一方【霞】【長波】【朝霜】は脱出の前に沈没した船の救助にあたってから後を追いました。
マニラへ向かう途中、出発が遅れていた第三次輸送部隊と遭遇します。
延期が決まった時、第三次輸送部隊は第四次が戻るまで待ってからの出発と予定されていたのですが、悪天候だったことから空襲を避けるために今のうちに出撃することになったのです。
そして合流の際、南西方面艦隊の命令によって【長波、朝霜、若月】がマニラに戻らず第三次に合流し、逆にここまで第三次を護衛してきた【初春】【竹】が第四次に回ってマニラにとんぼ返りすることになりました。
【長波、朝霜】は救助した者たちを【霞】に移し、今しがた脱出した地獄の門を再びくぐるために反転しました。
【霞】は我々同様航空護衛の少ない中オルモックに突入していく第三次の背中を見つめながらマニラに向かいます。
第二次より第三次のほうが空襲は酷かったことを考えると、彼らの輸送も同等かそれ以上のものになるのは必定。
そしてその通り、第三次の艦船は【朝霜】を除いてすべて沈没するという、「多号作戦」でも断トツの被害を生み出す結果となってしまいました。
帰投後木村少将が「艦隊司令部は毛が三本足りない」とひとりごちたのを、通信参謀だった星野清三郎少佐が聞いています。
よほど憤懣やるかたない気持ちだったのでしょう。
(猿は利口で人間にきわめて近い動物だが、人間に知恵が及ばないのは毛が三本足りないからだ、という意味の諺から)
【霞】はこの作戦をもって「多号作戦」と別れを告げますが、作戦はなおも続行されました。
マニラ帰投後も13日には再び大空襲が遅い、数々の艦船が破壊されていきます。
【霞】が全弾ほぼ撃ち尽くしたこの六波に及ぶ空襲でしたが、【霞】は沈没せずに戦い抜きました。
しかし周辺はここが海上とは思えないほど広範囲で火災が発生しており、消火をする気も失せるほどの猛火に覆われました。
先日沈没から救うことができた【曙】ですが、残念ながら彼女もこの空襲で着底してしまっています。
すでに数度の空襲を受けているマニラにこれ以上留まることは死を意味するため、空襲が去った13日夜に動ける【霞、朝霜、潮、初霜、竹】はブルネイまで避難しました。
遠くなっていくマニラの炎は、この地に置いていかれる怨嗟のように感じました。
15日、復活した第十八駆逐隊は再び解隊され、【霞】は【潮、曙】とともに第七駆逐隊を編成しますが、【潮】は修理が必要、【曙】は前述の通り沈没してしまったので実質【霞】1隻だけとなります。
また20日には一水戦も解隊となり、残された第二水雷戦隊の旗艦に【霞】が就くことになりました。
かつては水雷屋の憧れの的であった二水戦も今や錆びた看板でしかありません。
その二水戦は一水戦の司令官を務めていた木村少将が率いることになり、そして【霞】も同じく一水戦旗艦から二水戦旗艦の座へと移ることになりました。
残存戦力だけで見れば旗艦は【矢矧】が相応しいのですが、この時【矢矧】は本土にいたため主戦場に近いリンガの兵力から旗艦を選ぶ必要がありました。
しかし【榛名】がリンガへ向かう途中に浅瀬で座礁してしまったことで、【霞】は旗艦を一時【潮】に預けて【初霜】とともに救援に向かいます。
【榛名】はもともと速度が落ちていたのですがこの座礁で最大18ノットまでに低下してしまい、たとえ次の作戦があったとしても担える能力ではなくなってしまったので、本土まで回航されることになります。
【霞】と【初霜】は【榛名】を台湾まで護衛し、その後カムラン湾へと向かいました。
護衛中に【米ガトー級潜水艦 カヴァラ】が魚雷を放っていますが、幸い命中することはなく脱することができました。
その後雷撃を受けてマレーに逃げ延びていた【妙高】を曳航するためにカムランを出撃し、曳航にチャレンジしますが、さすがに【霞】だけで【妙高】を引っ張り続けるのは無理で、さらに天候が悪くなったことから曳航索が切断されたことで断念。
最終的に【妙高】は【羽黒】に曳航されてシンガポールまで向かうことができました。
【霞】は後を【初霜】に任せてカムランに戻り、そして次の作戦の準備に早速取り掛かりました。
「礼号作戦」、それはミンドロ島に上陸しているアメリカ軍に対して艦砲射撃を行うというないようでした。
【潮】に預けていた二水戦旗艦はこの後さらにコロコロ変わっており、【霞】は【大淀】から旗艦の座を譲り受けます。
作戦となれば旗艦は本来大きめの船が担いますが、司令官の木村少将は、馴染みがある、またよその編成の船である【足柄】や【大淀】を使うことに引け目があったという理由で再び【霞】が旗艦となったようです。
でも恐らく本人が叩き上げの水雷屋であることが【霞】を選んだ大きなウェートを占めていると思われます。
また【伊勢】【日向】も健在ではありましたが、速度の問題と湾内の輸送船や物資を攻撃するということで狭い湾内に突入することから召集されませんでした。
「礼号作戦」はミンドロ島に集まっている輸送部隊を攻撃し、同島占領の遅延を狙ったものですが、いかんせん艦砲射撃を行う戦力は心許ないものでした。
戦艦は当然不在、【足柄】1隻の重巡と【大淀】、残りはすべて駆逐艦です。
ですがミンドロ島で飛行場が整備されるとルソン島など近隣の島々やフィリピンやマニラは連日の爆撃が目に見えているので、効果の大小問わずやるしかなかったのです。
12月24日、【霞】達挺身部隊はカムランを出撃。
マニラ方面への偽装針路を取ったのが功を奏したのか、発見されることなくかなりミンドロに近づくことができました。
26日夕方にようやく明確に敵に発見されましたが、ミンドロの航空戦力は万全とは程遠かったため、とりあえず行ける状態の飛行機から順次離陸、という状況でした。
また海上戦力も魚雷艇しかおらず、空襲さえ耐え凌げば日本の有利は絶対でした。
26日21時前、夜とはいえ月明かりが海を眩しいほどに照らしていたため、挺身部隊は隠れることができません。
いよいよ空襲が始まりました。
ここ最近の雨のような空襲に比べると生温いものではありましたが、こちら側の反撃能力は相変わらず乏しいので追い払うことはできません。
ですが緊急発進の影響か、【大淀】に2発命中した爆弾はいずれも不発弾、どころか信管がない状態、つまり爆発することのない状態の爆弾だったことで、貫通だけで難を逃れることができました。
これまで何往復もされてきた機銃掃射も粘着されることは少なく、奇襲がある程度功を奏しているようでした。
しかし被害ゼロで突破できるほど甘いものでもありません。
夜間の空襲で、艦隊型駆逐艦で最も若い【清霜】が、艦中央部に被弾。
この爆弾は機関部にまで到達したことで機関は沈黙、さらに浸水も始まったことで【清霜】は航行不能になってしまいました。
ですがミンドロは目前であったこと、海は前述の通り明るかったことから、救助は後回しにしてミンドロへの砲撃を優先することになりました。
23時ごろについに挺身部隊はサンホセ泊地へ向けて砲撃を開始。
上空には若干の【瑞雲】の支援もある中で、輸送船や魚雷艇、海岸の物資へ攻撃を行いました。
魚雷艇の動きに注意しながら、挺身部隊はかなり一方的な攻撃を行うことに成功しました。
実際の戦果としてはほとんど効果があるものではありませんでした。
それでもこれまで失敗と敗北のオンパレードだった作戦の中で、単発小規模とはいえ久々に思い描いた結果を残した作戦となりました。
「ミンドロ島沖海戦」とも称さる「礼号作戦」は、海軍最後の組織的戦闘の勝利であります。
とはいうものの、志摩艦隊の司令官であった志摩清英中将は、要約すると「戦力僅かの中で駆逐艦1隻失っただけの価値がある戦果か?面子のための作戦だ」と冷静に分析しており、まぁ勝ったっちゃかったけど【清霜】1隻に相当する戦果とはとても言えません。
砲撃を終えたあと、【霞】は【朝霜】とともに【清霜】の乗員の救助に従事。
過去も木村少将は自らの船が率先して残り救助などを行ってきましたが、今回も旗艦でありながら残りの船を撤退させて【清霜】の救助のために戦場に留まりました。
応援のためにミンドロ島へ向かう魚雷艇の存在を知った【足柄】がこれに砲撃を行い反転させるなど、周辺の協力もあって救助は無事に完了。
【霞、朝霜】は急いで【足柄】たちの元に向かい、合流することができました。
しかし危険が去ったわけではありません
空襲は散発的に行われ、また合流後に荒天の中で潜水艦からの魚雷を回避することもありました。
一路カムランを目指した面々ですが、挺身部隊には【杉】【樫】【榧】の「松型」3隻が含まれていました。
最大速度は言うまでもなく、航続距離も巡航速度も他の艦に劣る「松型」は、艦隊の足を引っ張る要因になってしまっていました。
それに加えて【杉】は「多号作戦」の被害の修理が終わらないままの出撃、【樫】は給水ポンプが故障したままの出撃でそもそも速度が21ノットまで、【榧】は道中の機銃掃射の被害で缶が1つ使い物にならなくなっており、最大速度が20ノットに落ちていました。
そして空襲や潜水艦はまずは大型の【足柄、大淀】を狙うことが予想されたので、被害を最小に抑えるために【足柄、大淀、霞、朝霜】は「松型」3隻と分離して先にカムランへと向かうことになりました。
先行した4隻は28日18時30分ごろにカムランに到着。
そのまま今度はサンジャックに向かうように命令があったのですが、木村少将はそれを無視して3隻が戻ってくるのを待ち続けました。
危険海域で【清霜】を救助した【霞】が、今度は3隻を置き去りにして逃げてきたわけですから、この決断そのものも苦渋のものだったでしょう。
皆元気に戻ってきてくれるだろうか、そう願いながら夜が明けました。
そして間もなく正午というところで、ついに一際小さな駆逐艦3隻がカムランに姿を見せました。
1隻も欠けていません、どころか3隻は【米ガトー級潜水艦 デイス】に撃沈された【給糧艦 野埼】の乗員の救助まで行っていて、より多くの命がカムランに戻ってきたのです。
「礼号作戦」はこれにて完全に終了、戻ってきた7隻はちゃんと全員そろってサンジャックへ向かいました。
さらば大和の国 敵の手に陥らんとする沖縄を前に沈没
その後【霞、足柄、大淀、朝霜】は【伊勢、日向】とともにシンガポールへ移動。
また二水戦司令官は古村啓蔵少将と交代となりました。
整備を行っている間に、第七駆逐隊には衝突の修理を終えて【潮】から1番砲塔を受け継いだ【響】が新たに編入されました。
ただ【響】はこの時呉にいましたから、一緒に行動できたわけではありません。
シンガポールでちょっと一休みができていた一行ですが、事態は切迫しています。
日本はあらゆるシーレーンが包囲されており、シンガポールと日本という生命戦も潜水艦と航空機の検問が何重にも敷かれていました。
この航路や航路上の要衝では被害が尋常じゃないほど積み重なっていて、沈んだ船を数えだすとうんざりします。
おかげで日本は資源不足が顕著であり、一方でシンガポールはこのまま手をこまねくと脱出もできなくなる危険性がありました。
もちろんシンガポールも包囲だけで済まずやがて壊滅させられることでしょう。
なので一か八か、動ける船に資源や人材をドカドカ積み込んで薄氷を踏みながら日本まで帰るという超危険な賭けに出ることになりました。
「北号作戦」と呼ばれるものです。
失敗すれば致命傷ですが、残っていても致命傷、しかも逃げ切ったとしても積める物資の量は中型貨物船1隻分足らず。
作戦が決まってから、皆口には出さないものの死を覚悟しなかった者はいないでしょう。
参加艦はシンガポールに戻ってきた6隻から【足柄】が抜け、代わりに【初霜】が加わっています。
2月10日、完部隊と称された部隊がシンガポールを発ちました。
皆が縋ったのが強運艦であった【伊勢、日向】の存在。
その強運と各艦の命を懸けた努力により、部隊は次々と降りかかる危機を見事に回避していきました。
特に潜水艦の雷撃に関しては見張り員の目の交換が必要なぐらいあちこちから現れますが、ほとんどが発見することができて不意打ちを避けることができました。
さらに強運艦のなせる業か、天候は一貫して悪く、空からの視界は非常に悪い状態でした。
悪すぎて台湾から護衛についた【神風】【野風】や、その後を引き継いだ【汐風】は完部隊に続行することもできず、またその後たまたま航路が被った【蓮】も護衛に加わろうとしましたが30分ほどで脱落してしまうほどでした。
ちなみにこの3隻はいずれもこの後無事に目的地に到着しています。
数える指がなくなるほどの難事を乗り越えて、完部隊は2月20日、ついに呉に到着。
なんと被害はほぼゼロ、空襲を受けることがなかったので、変な被害で足を引っ張られることがなかったのも大きかったでしょう。
半分帰ってきてくれれば、という作戦だったのですが、この航路で100%成功とは逆に怖いほどでした。
海戦ではありませんが、この「北号作戦」が本当の海軍最後の勝利だったと言ってもいいでしょう、アメリカ側もすっかりやられたと戦後証言しています。
帰還した【霞】ですが、今稼働する駆逐艦は第十七駆逐隊の他は皆所属がバラバラでした。
一番数が揃っているのは第七駆逐隊だったのですが、【潮】はなおも作戦参加が難しく、【響】はまだ整備中でした。
このため【霞、初霜、朝霜】の3隻で新たに第二十一駆逐隊が編成されることになります。
そしてこの所属で、「天一号作戦」、すなわち「坊ノ岬沖海戦」に参加し、【霞】はその生涯を閉じます。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
3月1日、3年以上【霞】の主であった山名寛雄中佐が【冬月】の艦長に異動。
最初で最後の作戦を指揮する新しい艦長には、「睦月型」を最後まで牽引した【夕月】の艦長を最後に務めていた松本正平少佐が就きました。
4月6日、【大和】と【矢矧】に率いられて第一遊撃部隊が出撃。
豊後水道の敵潜水艦に見送られて、艦隊は沖縄に向けて南進します。
この時敵潜水艦は哨戒だけを求められていました、半端に被害を出して引き返されるのを嫌ったのです。
不幸はまだ続きます。
4月7日早朝、【朝霜】が突然速度を落とし始めたのです。
こんなタイミングで機関故障を起こしてしまった【朝霜】は、どれだけ手を施しても全然足を速めてくれず、結局【朝霜】は孤立無援状態のところを空襲され、拭おうにも拭いきれない未練を残して沈没してしまいました。
【朝霜】一人で死なせはしない、すぐに我々も後を追う。
そのような気持ちで【霞】達は沖縄を目指したことでしょう。
曇り空、しかし荒れてはいない天候で、ついに連合艦隊最後の戦いが始まりました。
日本軍が憧れた大航空編隊、それが【大和】目掛けて突進してきます。
輪形陣はすぐに崩壊し、バラバラになったところに【矢矧】や駆逐艦に対しても爆撃が始まりました。
もちろん【霞】にも爆撃が降り注ぎ、【霞】は直撃弾2発、至近弾1発の被害を受けてしまいます。
缶室が浸水したことで【霞】は航行不能に陥り、【大和】を、大和の国を守るという【霞】の長い長い戦いは終わったのです。
空襲の合間を縫って、救助のためにある駆逐艦が【霞】に接近してきました。
山名艦長率いる【冬月】でした。
防空駆逐艦の力を存分に発揮し、自身はこの爆弾と魚雷、銃撃の嵐の中でも戦い続けていました。
【冬月】は【霞】の生存者を次々と【冬月】に移譲させますが、残念ながらかつて我が子のように接した【霞】を救うことはできませんでした。
救助とともに、【霞】には雷撃処分とすることが決定されました。
救助を終えて、距離を取り、【冬月】は「秋月型」として使う機会が非常に限られていた魚雷を味方に向けて放ちます。
命中して大きな水柱が立ち上り、次の瞬間、【霞】の姿はなくなりました。
戦死者17名、負傷者43名。
【大和】や【朝霜】らとともに、【霞】はこの地で役割を終え、立派な最期を迎えたのです。