起工日 | 大正9年/1920年8月18日 |
進水日 | 大正10年/1921年3月31日 |
竣工日 | 大正10年/1921年12月5日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年2月18日 |
トラック島空襲 | |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,251t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 8.92m |
最大速度 | 39.0ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 |
機 銃 | 6.5mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 |
のちの大和艦長を擁し、要所を結んだ太刀風
【太刀風】は竣工後に【汐風】【夕風】【帆風】と第三駆逐隊を編成しますが、この頃駆逐隊の編成はコロコロ変わっており、翌年には【帆風】【羽風】【秋風】と新たに第四駆逐隊を編成しております。
【太刀風】の歴代の艦長には、少佐時代の田中頼三、有賀幸作がおり、また【雷】の艦長として「スラバヤ沖海戦」でイギリス兵を大勢救出させた工藤俊作も務めています。
すでに竣工から15年を過ぎていた「日華事変」や「南部仏印進駐」では完全に補助要員で、これはもちろん太平洋戦争でも同じです。
海上護衛や輸送をこなす日々ですが、マーシャル諸島というかなり遠方まで進出しており、ラバウルやトラックといった日本の要衝を行き来する機会も多い艦でした。
昭和17年/1942年6月2日には触雷、沈没をした【給糧船 第二号大井丸】の救助を手伝い、その後もルオットなどで輸送や哨戒、航空訓練の標的を担うなどひっそりと活動します。
12月26日、【太刀風】はラバウルにありました。
しかしそこへアメリカの陸軍航空機が突如空襲を仕掛けてきました。
ラバウルは「ガダルカナル島の戦い」において遠方ですが非常に重要な航空基地だったので、アメリカもなんとかここを叩いておきたいわけです。
この【B-17】の空襲で【太刀風】は左舷艦首に直撃弾を1発、さらに至近弾を1発受けてしまいます。
命中の位置的に何でと思わなくもないのですが(機銃攻撃もあったのか、被弾による破片が致命傷になったのか)、この被害で艦長の平佐田休中佐と機関長が戦死しています。
【太刀風】は【山彦丸】による応急修理を受けますが、ラバウルは翌月6日も空襲に合います。
ここでは被害がありませんでしたが、修理を急いで【太刀風】は【涼風】【卯月】に護衛曳航されてラバウルを脱出、舞鶴で修理を受けました。
3月10日に日本を出発し、【太刀風】は早々にラバウルへと戻ってきました。
しかし18日に到着して23日にはまた空襲に合ってしまいます。
4月15日も輸送中に空襲を受けて損傷し、【太刀風】は再び【山彦丸】の応急修理を経て舞鶴で修理を受けることになりました。
このような被害があっても【太刀風】はラバウルと縁を切ることはできません。
【太刀風】は常に上空を警戒しながらトラックやブカを結ぶ輸送を多くこなします。
ですがラバウルを覆う暗雲はどんどん厚くなっていきます。
そして10月12日、遂に大規模なラバウル空襲の幕が開けます。
この日は天候が悪く連合軍にとっての環境は良くありませんでしたが、それでも【太刀風】や【望月】【水無月】が被害を受けてしまいます。
この被害を受けて【太刀風】は輸送を兼ねてトラックへと向かい、そこで再び修理を受けました。
この輸送中の11月5日、ラバウルはかつてない大空襲に見舞われ、進出してきたばかりの多くの重巡達が軒並み大ダメージを受けてすごすごとトラックへ帰っていくという、大変情けない事態となりました。
今回ばかりはラバウルでの被害を回避できた【太刀風】ですが、ラバウルの次がトラックになるのは時間の問題でした。
修理後もラバウルやトラック、パラオへの輸送を引き続き行っていましたが、2月4日、トラック付近のクループ環礁でなんと座礁してしまいます。
ガッツリ食い込んでしまったようで、【太刀風】は自力での脱出は不可能でした。
とりあえず積んでいた荷物をトラックまで輸送し(誰が運んだのか?)、身軽になってから曳船で引っ張ることにします。
ところがなかなか時間がかかってしまい、離礁は17日になってしまいました。
ここが運の尽き、17日はあのトラック島空襲の日です。
バラバラとけたたましいプロペラ音がトラック島上空を覆い、見つかった【太刀風】にも攻撃が行われました。
17日の被害は判然としませんが、座礁していた【太刀風】は自身で爆撃を回避することができません。
翌18日にもやってきた艦載機群のターゲットとなり、【太刀風】は2発の直撃弾と数発の至近弾を浴びせられて沈没してしまいました。