②昭和14年/1939年(改装完了後)
起工日 | 昭和2年/1927年4月28日 |
進水日 | 昭和5年/1930年5月12日 |
竣工日 | 昭和7年/1932年5月31日 |
退役日 (処分) | 昭和21年/1946年10月29日 |
(マラッカ海峡) | |
建 造 | 横須賀海軍工廠 |
基準排水量 | ① 10,000t |
② 13,400t | |
全 長 | ① 203.76m |
水線下幅 | ① 19.00m |
② 20.73m | |
最大速度 | ① 35.5ノット |
② 34.3ノット | |
航続距離 | ① 14ノット:8,000海里 |
② 18ノット:5,049海里 | |
馬 力 | ① 130,000馬力 |
② 133,100馬力 |
装 備 一 覧
昭和7年/1932年(竣工時) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
備砲・機銃 | 45口径12cm単装高角砲 4基4門 |
40mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm連装魚雷発射管 4基8門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
昭和14年/1939年(改装) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 4基16門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油12基 |
艦本式ギアード・タービン 8基4軸 | |
その他 | 水上機 3機 |
さらなる高みを目指して 重巡洋艦の最高峰 高雄
「妙高型」が建造されてからも、日本は引き続き重巡洋艦の充実に力を注ぎます。
「妙高型」は確かに高火力を発揮した重巡洋艦でしたが、建造中に少なからず不満な点が発生しています。
そこで、その不満箇所を解消し、さらにもっと艦隊の役割を明確にする「高雄型重巡洋艦」の設計が始まりました。
なお、書類上では「高雄型」は日本で最後の重巡洋艦であり、以降の「最上型」、「利根型」は、最終的にはともに重巡洋艦に分類されるスペックを持ちながら、「二等巡洋艦」すなわち軽巡洋艦としてあり続けました。
「高雄型」設計・建造にあたっては、軍令部にとって「口煩い」平賀譲氏を排除し、新たに藤本喜久雄海軍造船大佐が担当することになります。
「高雄型」はあくまで「妙高型」がベースとなっており、全く新しい巡洋艦というわけではありませんでした。
しかし土台は同じでも、求めるものは大きく異なります。
1つは、「高雄型」最大の特徴ともいえる大型艦橋、そしてもう1つが、諸外国の「条約型巡洋艦」の姿が見えてきたことによる更なる改善でした。
まずはその大きい、大きすぎる艦橋の構造を説明しましょう。
この大きさは素人からプロ、外国の設計者もこぞって同じ評価、すなわち「なぜこんなに大きな艦橋が必要なのか」でした。
意図が見えない大きすぎる艦橋に対し、「甲状腺の肥大したカバ」とまで、ジェーン軍艦年鑑の編集者に言われてしまいます。
他にも、「現場に言われたまま造っただけだろ」と、ズバッと本質を突かれる一言も残されています。
しかし「高雄型」には、何とかしてこの大きさに見合った設備と役割が必要だったのです。
艦艇は1隻1隻が独立して動くわけではなく、大きな組織として運用されます。
トップに連合艦隊を据えて、その後艦隊、戦隊、駆逐隊と続いてきますが、連合艦隊と艦隊はおおむね大型艦、つまり制約がなければ戦艦が務めていました。
しかし「ワシントン海軍軍縮条約」によって戦艦の建造が認められなくなったため、艦隊旗艦には10,000t級の巡洋艦も担当することが容易に想像できました。
「妙高型」では【妙高】【足柄】が艦隊旗艦設備、【那智】【羽黒】が戦隊旗艦設備を要していましたが、知っての通り非常に狭いわけで、満足のいく設備ではありませんでした。
そこで「高雄型」には、もっと充実し、かつ十分なスペースを確保した艦橋を整備し、司令塔としての役割を担える船に仕上げようと考えたのです。
ただ、簡単に言えば、いわゆるお偉いさん用の部屋を増やすことがその答えになります。
例えば司令長官の部屋、参謀長の部屋、軍医長、主計長など、1隻どころか10隻単位の船を束ねる面々の生活環境を整えなければなりません。
人数にして100人以上の増員となります。
他にも作戦室や無線通信室など、普通の船にはない設備も用意しなければならず、艦橋のサイズはまずこれらをしっかりと収めるものにする必要がありました。
それに加え、普通の船の艦橋設備、羅針艦橋、各兵装指揮所などがありますし、さらにこの艦橋構造の研究会を開いた際に次々と要望が飛び込んできて、まとめていくとこんなに大きくなってしまったのです。
この大きさでもちょっと小さくした結果で、全部受け入れていたら果たしてどれほどの大きさになったのでしょうか。
改装で【高雄】【愛宕】は艦橋の小型化がされているので、いささか大きすぎたのは間違いないでしょう。
床面積は「妙高型」の3倍ほどにまで膨れ上がりました。
そして要求というのは吟味しなければなりません。
すなわち、要求の根拠が正しいのか否かです。
まぁだいたい要求丸呑みのケースは根拠はイメージだけなのですが、案の定、これだけ大きな艦橋を用意したにもかかわらず、いくつかは空き部屋になったり適当な物置部屋になったりしました。
過剰だったのは結果を見れば明らかです。
ただ、 面白いことに、この艦橋、現在の海上自衛隊の
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の艦橋によく似ています。
当時の設計コンセプトが現代のイージス艦設計に通じているというのは大げさでしょうが、艦橋が持つ役割というのがどんどん強まっていたのはこういう点からも推察されます。
艦橋構造でもう1つ面白いのは、煙突の上に乗っかっている点です。
「妙高型」は艦橋の付け根部分から煙路が斜め後ろに伸びていますが、「高雄型」はほとんどが艦橋の下に一体化しており、煙突と艦橋の間の隙間はずいぶん少なくなっています。
このように、「高雄型」は「妙高型」よりも隙間を狭くした構造となっています。
構造物を密集させるのは、バイタルパートを狭くして防御力を高めるためです。
バイタルパート=重要防御区画とは、防御を優先すべき区画のことで、船の心臓部である機関部や、誘爆の危険性がある弾火薬庫などがそこにあたります。
主砲の隙間を狭くし、上記のように煙突と艦橋を一部一体化、さらに弾火薬庫の舷側装甲は「妙高型」より1cm大きく12.7cmになりました。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
上面装甲も47mmとなり、弾火薬庫防御については世界トップクラスとなっています。
水線下装甲は「妙高型」から踏襲した傾斜12度、厚さ102mmの分厚い装甲を要し、これも世界トップクラス。
しかし砲塔装甲は25mmとこれもまた「妙高型」と同じで、これは重量を抑える際に致命傷になる舷側や水線下装甲を緩めるより、5砲塔のうち1砲塔が動かなくなるほうがまだましだったからです。
また、主砲がダメージを受けても魚雷があれば十分戦えるという考え方もありました。
その主砲ですが、これまでと同じく20cm連装砲5基ではありますが、その仰角において大きな改善がありました。
これが海外の10,000t級巡洋艦を参考にした結果の1つで、「高雄型」の20cmE型連装砲は仰角がこれまでの40度から一気に70度まで指向できるようになりました。
これはイギリスの「ケント級重巡洋艦」に搭載されたMark VIII 8インチ50口径砲の性能に影響を受けたもので、両用砲としての活用が期待されました。
そのため水上艦砲撃用だけでなく、対空砲撃用の砲弾も準備されていました。
ですが、日本はどうも両用砲の扱いが苦手で、装填するために5度まで降ろす必要があったのはこれまでの20cm砲と同じでした。
また、砲弾の重さも速射性を損ねる原因となります。
速射性が求められる対空砲においてこのタイムラグは命取りで、またここまでの大口径だと急降下爆撃機よりも雷撃機に向けてはなったほうが効果的だったので、結局【摩耶】はE1型と呼ばれる仰角55度のものが搭載されています。
このように20cm連装砲及び20.3cm連装砲は各艦型と同じように更新されていて、その比較の図がありますので掲載しておきます。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
似たようなことは駆逐艦の主砲である12.7cm砲でも起こっており、仰角40度だったA型に対して75度のB型、そして仰角と重量をを抑えたC型(55度)へと戻っています。
設計上ではこの両用砲の効果があるとし、対空砲である12cm単装高角砲が「妙高型」の6基から減じて4基となっています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
ただ、機銃は7.7mm単装機銃2基が40mm単装機銃2基へと大型化しています。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
海外の影響を受けた点としては、カタパルト2基搭載も重要なことです。
つまり水上機の活用がより重要であるという意識で、アメリカの「ペンサコーラ級重巡洋艦」が、カタパルト2基、水上機4機搭載という能力を持って誕生。
カタパルトの性能もよく、「高雄型」はそこまでの能力は持てなくても、カタパルト2基、水上機2基を搭載するようになりました。
それに伴い、揚収用のデリックと格納庫も設置され、まとめて後部煙突と3番砲塔の間にまとめられています。
最後に、帝国海軍の艦艇で切っても切れない魚雷です。
「妙高型」では強引に中甲板に突っ込んだ魚雷ですが、「高雄型」ではついに魚雷の性能向上が実現し、上甲板に設置しても誤作動が起こらないようになったのです。
これにより、誘爆の被害を抑えることができるようになりました。
また、設置場所もできるだけ外側に寄せ、旋回させると魚雷発射管の先っぽが艦の外に飛び出るようになっています。
そして画期的なのが、次発装填装置の導入でした。
これまで魚雷の装填には20分以上の時間がかかっており、また車両を用いた人力での装填ですから戦闘中の装填は非常に困難でした。
しかしこの次発装填装置を使うと、魚雷発射管の向きを元に戻したら自動で魚雷を発射管の中に装填することができるのです。
所要時間約3分、とんでもない速さでした。
「高雄型」は重量の関係で「妙高型」の三連装から連装へとグレードダウンしてしまい、片舷2基4門となっていました。
しかしこの次発装填装置のおかげで、疑似的に片舷4基8門に限りなく近い雷撃能力を身に付けることができたのです。
また艦内環境では居住性が大改善され、通気性がよく非常に快適だったそうです。
厨房も艦隊旗艦司令長官以下将校が揃って乗艦する船ですから、かなり気合の入った設備を抱えていました。
こうして完成した「高雄型」は、「条約型巡洋艦」として基準排水量10,000t以内に全く収まりませんでした。
まぁ見た目通りの重量超過で、実際は11,350tと1割以上オーバーしています。
結局軍令部の要求をポンポン反映させれば10,000t以下なんて到底不可能で、艦橋の絞り込みができていれば規定内の排水量で収まったのは間違いないでしょう。
馬力は「妙高型」と同じ130,000馬力、缶とタービンは同じですが、12ある缶のうち6つに空気予熱器を取り付けることで性能が上がり、排水量が上回っているにもかかわらず最高速度は35.5ノットと0.5ノットだけ向上しています。
妙高と揃って終戦を受け入れる 名艦長を輩出した高雄
威容な存在感を放つ「高雄型」ですが、この姿を修正するきっかけとなる出来事が、竣工してから3年後に発生します。
「第四艦隊事件」です。
船体強度の問題が浮き彫りになったこの事件によって、被害が出た船の多くは藤本大佐が設計した船だったことがわかります。
「高雄型」はこの事件で直接被害を受けてはいませんが、設計の基準が被害増大の原因なわけですから当然改善しなければなりません。
【高雄、愛宕】は事件後すぐではありませんが、昭和13年/1938年から改装が行われました。
翌年には改装が完了し、艦橋は多少は小さくなりましたが、それでも過去の姿を忘れさせるほどの変化ではなく、相変わらず一番の特徴ではありました。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ
兵装面では連装魚雷発射管が一気に倍の四連装発射管へと変わり、搭載魚雷数は24本、片舷8本、さらに次発装填装置もありますから、駆逐艦もビックリの水雷兵装を持つことになります。
対空兵装については、両用砲運用に失敗したため高角砲と機銃に変化が見られます。
高角砲は12.7cm連装高角砲へ換装され、機銃も25mm連装機銃4基、13mm連装機銃2基へ換装・増備されています。
さて、【高雄】は太平洋戦史に名を残している艦長を多数輩出しています。
特に有名なのは、真珠湾攻撃時の第一航空艦隊司令長官として、【赤城】をはじめとした航空母艦の総攻撃を指揮した南雲忠一大将(当時大佐)、そして【武蔵】最後の艦長を務め、運命を共にした猪口敏平中将(当時大佐)です。
旗艦の役割を務めれるように設計された【高雄】は、出世街道のかなり上位に位置していた艦でした。
【高雄】は【鳥海】を除いた3隻が、第二艦隊所属の第四戦隊を編成します。
太平洋戦争開戦後は「南方作戦」に従事して、真珠湾攻撃には参加していません。
上陸支援の任務を終えたあとは、「蘭印作戦」でオランダの輸送船の攻撃を行いました。
3月1~4日の間には【米クレムソン級駆逐艦 ピルズバリー】をはじめ、輸送船やタンカーの撃沈と拿捕の戦果を挙げています。
5月2日には【米ガトー級潜水艦 ドラム】の雷撃によって、軍艦初の沈没となってしまった【瑞穂】の救助へと向かっています。
(駆逐艦は軍艦じゃないのです。)
この時はもともと【高雄、摩耶】が【瑞穂】に遅れて横須賀から呉へと向かっているところで、【高雄】が乗員の救助、【摩耶】が周囲の警戒にあたっていました。
その後、【鳥海】も第四戦隊に編入されて、戦隊は【愛宕、鳥海】の第一小隊、【高雄、摩耶】の第二小隊となります。
そして第二小隊が「アリューシャン作戦」に参加しますが、「ミッドウェー海戦」の大敗北によって同作戦は中止。
そして「高雄型」は【鳥海】が新設された第八艦隊の旗艦を任されることになり、再び第四戦隊は3隻となってしまいました。
【高雄】は次なる戦地、ソロモン諸島へと進出するため、トラック泊地へ向かいます。
そして「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」という航空戦を経験し、ついに水上艦の力の見せ所となる海戦に突入します。
「第三次ソロモン海戦」です。
【高雄】は第一夜戦には参加しておらず、【比叡】沈没の悲報を糧に、必ずや敵を撃沈せしめると海戦に臨んだことでしょう。
昭和17年/1942年11月14日、【高雄】は【霧島】【愛宕】らとともに、輸送船団の援護のために憎きヘンダーソン飛行場の艦砲射撃を行うために出撃します。
しかし前日の第一夜戦があり、敵艦隊も日本の反撃に備えて態勢を整えていました。
そして23時ごろ、【川内】を旗艦とした掃討隊が敵艦隊と遭遇。
この最初の砲撃戦で、日本は【綾波】を失うも、単艦で【米シムス級駆逐艦 ウォーク、ベンハム級駆逐艦 ベンハム】を撃沈(【ベンハム】は大破のち沈没)、【米マハン級駆逐艦 プレストン】が炎上、さらに【米サウスダコタ級戦艦 サウスダコタ】への砲撃が電気系統の故障を招きました。
その後、今度は【朝雲】を先頭に、【照月】【愛宕】【高雄】【霧島】の単縦陣で進行していた日本がこの【サウスダコタ、米ノースカロライナ級戦艦 ワシントン】と遭遇します。
【霧島、愛宕】の探照灯を受けた【サウスダコタ】は多数の砲撃を浴びる一方で、自身は電気系統の故障が復旧しておらず、ほとんど反撃できずに敗走しました。
【高雄】は砲撃はもちろん、自慢の魚雷も発射し、これは命中したと思われていましたが、残念ながら自爆や沈没している駆逐艦などに阻まれて、命中は1発もありませんでした。
【サウスダコタ】敗走後は、敵味方の判別がついていなかった【ワシントン】の反撃が始まります。
始まるといっても、決着はあっという間、記録では7分で9発の被弾を受けたとされ、もともと【ワシントン】の誇る40.6cm砲に耐えられる防御力ではない【霧島】の命運は尽きてしまいます。
【ワシントン】に対してはほかの日本艦もほとんど砲撃することができず、【ワシントン】は駆逐艦の砲弾1発を受けたのみ。
蚊に刺された程度の被弾で、この海戦もまた、アメリカの勝利に終わっています。
翌年には「ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)」の支援も行いますが、その後は水上戦参加の機会は乏しく、トラック泊地周辺での活動が主になります。
しかし11月5日にはラバウル寄港時に運悪く「ラバウル空襲」に巻き込まれ、【高雄】は2番砲塔付近に2発の被弾をしてしまいます。
この被害の修理のために【高雄】は戦線を離脱し、昭和19年/1944年1月に復帰します。
1944年になると、もう水上戦はほとんどなくなり、輸送船団の護衛や訓練ばかりになります。
制空権がどんどん失われる中、輸送だけは止めることができません。
しかし輸送に対して現れるのは航空機と潜水艦ばかりで、重巡の出番はほとんどありませんでした。
6月には「マリアナ沖海戦」に参加しますが、やはり航空戦と密かに迫る潜水艦の戦いで、しかも【高雄】は味方航空機に向かって高角砲を発射するという大きな過ちを犯しています。
この被弾によって墜落している機があり、海戦の結果含め、全くいい所のない、最悪の結果となりました。
昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 5基10門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 6基18挺 |
25mm連装機銃 6基12挺 | |
25mm単装機銃 24基24挺 | |
単装機銃取付座 6基 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
そして10月22日、【高雄】は瀕死の日本を救うための起死回生の出撃、フィリピン防衛のためにラバウルを出撃します。
目指すはレイテ島、「レイテ沖海戦」の勃発です。
【高雄】ら第四戦隊(この時は【鳥海】復帰済み)は第一遊撃部隊に所属し、【大和】らと共に、ある種海軍が理想として描いた夢の大艦隊の一員としてパラワン水道へと入っていきました。
23日午前0時のことです。
この直後、艦隊は潜水艦を感知し、潜水艦との静かな戦いが始まります。
敵の正体は【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】。
2隻は息を殺して日本艦隊への攻撃の機会を伺います。
【ダーター、デイス】が艦隊を発見したのが1時過ぎ、そしていよいよ必殺の魚雷が放たれたのは、なんと6時半。
水中、水上速度共に潜水艦は水上艦には敵いません。
しかし艦隊は連動して動きますから、高速ではありません。
進路と敵の動きを読みながら、遅い速度で何とか敵との距離を詰める、しかしもちろん見つかるわけにはいかない。
護衛のついている相手への潜水艦の戦いはとても過酷です。
【デイス】はレーダーが故障してしまい、この時は司令部への報告含めて全て【ダーター】が行っています。
そしてここまで耐えて忍んで攻撃の絶好の機会を待ち続けた2隻は、艦隊が之字運動を実施したその瞬間を狙いました。
6時32分、【ダーター】が待ち構えていたその先に、腹を向けた獲物が通り過ぎていきます。
まず【ダーター】が艦首から4本の魚雷を発射。
そしてすかさず進路を逆に向けて、今度は艦尾から4本の魚雷を発射します。
魚雷はぐんぐん目標へと迫ります。
標的は【愛宕】、そして【高雄】でした。
突然【愛宕】に猛烈な振動が襲い掛かります。
艦首からの4本の魚雷が一番砲塔、艦橋付近、右舷中央部、右舷後部を襲い、一瞬で【愛宕】の命を奪い去りました。
この時【ダーター】は【愛宕】のすぐそばまで近づいていて、気泡が目立つアメリカの魚雷でも雷跡が全く発見されないままでの被雷でした。
どんどん傾斜する【愛宕】の傾斜回復注水は全く意味をなさず、たった20分で【愛宕】は沈没してしまいます。
その姿を見ていたのは、同じく2発の魚雷を受けて喘ぐ【高雄】でした。
【高雄】は【愛宕】に魚雷が直撃した直後、接近する雷跡に気づき取舵回避を行いましたが間に合わず、艦尾からの魚雷4本のうち2発を受けていたのです。
【愛宕】被雷のわずか2分後のことでした。
幸い【高雄】は傾斜回復の注水に成功し、沈没することはありませんでした。
しかしスクリュー大破、第三、第四缶室の浸水による被害で【高雄】は完全に停止。
真水タンクも破壊されてしまい、海水を蒸留して第一、第二缶室のボイラーを無理矢理動かすしか方法がなくなってしまいます。
【高雄】が自力航行ができるようになったのが夜の9時過ぎ。
当然遊撃部隊は進撃を続けています。
【高雄】は日本の大一番の戦いに参加することなく、戦力外となってしまいました。
【高雄】は半日以上ももがき続け、【長波、朝霜】の護衛を受けて戦場から離脱することに成功しています。
この間、【摩耶】も【デイス】の雷撃を受けてしまい、【愛宕】と同じく4本の被雷、そして【愛宕】よりも早く10分足らずで沈没してしまいます。
通称「パラワン水道の悲劇」、「高雄型」1隻大破、2隻喪失の大損害でした。
そして【鳥海】もまた、翌々日である25日の「サマール沖海戦」で沈没し、第四戦隊は3日で壊滅しました。
【高雄】は【長波】【朝霜】の護衛の下、しつこく付きまとっている【ダーター】を牽制しながらなんとかブルネイまで逃げ延びました。
この間、【ダーター】はとどめを刺すべくずーっと3隻を追い回していたのですが、【長波、朝霜】の警戒が強固でなかなか攻撃の機会を得ることができませんでした。
そしてそんな中、【ダーター】は突然の振動に襲われます。
なんと航行中に座礁してしまい、【ダーター】は身動きが取れなくなってしまったのです。
この音は【長波、朝霜】にも伝わり、【ダーター】の艦内には迫りくる駆逐艦の音が、死の恐怖と共に大きくなっていくのが聞こえたことでしょう。
しかしこの後爆雷の衝撃を感じることはなく、【ダーター】は九死に一生を得ました。
【ダーター】の乗員はのちに【デイス】に救助されています。
同じく九死に一生を得た【高雄】は、応急処置も満足に受けられないまま、11月8日に【清霜】に護衛されてシンガポールへと向かいます。
ここならある程度の修理を受けることができますが、しかし戦況の悪化と、実質的な海上封鎖状態から、【高雄】は日本に帰ることが不可能となってしまいます。
【高雄】はシンガポールの防衛砲台として、この地に骨を埋めることになりました。
破損している艦尾を撤去し、撤去した部分には椰子の葉を覆って損傷を隠し、また迷彩も施されました。
やがて12月にはやはり潜水艦の雷撃を受けて艦首を損傷した【妙高】がシンガポールへと非難。
2隻のネームシップは、ここで空襲と戦いながら、被害を受けつつも終戦までの9ヶ月を耐え抜きました。
終戦後は2隻ともイギリスに接収されましたが、ともに処分が決定。
【妙高】は昭和21年/1946年7月6日にマラッカ海峡で、【高雄】は少し遅れて10月29日に同じくマラッカ海峡で海没処分されました。