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『香取型練習巡洋艦』
【Katori-class training cruiser】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量5,890t
全 長133.50m
垂線間幅15.95m
最大速度18.0ノット
航続距離12ノット:7,000海里
馬 力8,000馬力
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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戦う船ではなく、戦いを学ぶための船 香取

日本でも海外でも、艦艇の歴史が長くなるにつれ、訓練用に使われた船は前線を退いて旧式となったものが大半でした。
1930年代当時の日本の練習艦は、元の【出雲型装甲巡洋艦 出雲、磐手】ら5隻でしたが、しかし艦齢は35年を超えるほどの老朽艦でした。
昭和10年/1935年の時点ではその練習艦も【磐手、八雲】のみ。
軍艦の装備も性能もまるで違う、浮いてる以外は全部違うと言ってもいいぐらいの変化がこの35年の間にありました。
日露戦争時代の軍艦が練習艦ではさすがに荷が重くなり、日本は新しい練習艦の手配に乗り出します。

当初はやはり大正生まれの老齢艦となっている「球磨型」から3隻捻出することも考えられましたが、しかし「球磨型」はかなり小型の巡洋艦で、かつての装甲巡洋艦と同じキャパシティはありません。
練習艦にするとなると、そのための改装費がかかるだけでなく、「球磨型」に代わる軽巡も急いで用意しなければなりません。
そんな中で「満州事変」「上海事変」が勃発したものですから、いくら古い「球磨型」とは言えそうやすやすと手放すわけにはいかなくなってしまいます。

日本は「ロンドン海軍軍縮条約」からの脱退をうけて軍拡が再始動され、それに伴って士官候補生などの海軍兵が急増しており、「球磨型」はおろか重巡である「古鷹型」でも艦内環境は練習艦に相応しくないと判断されました。
「古鷹型」までの巡洋艦はいずれも非常に窮屈な船で、居住性なんて二の次三の次でしたから、多少武装を減らした程度ではどうしようもありませんでした。

結局旧式艦を練習艦に流用するのは諦め、予算承認を経て練習艦を新造することになりました。
それこそが「香取型練習巡洋艦」4隻です。
昭和13年/1938年度計画では2隻のみ、翌年に1隻、さらに昭和16年/1941年に1隻と3回に分けて予算が承認され、建造が始まっています。
ですが四番艦の【橿原】については、開戦直前であることから建造する価値が限りなく薄れてしまい、建造は中止となっています。

「香取型」最初の2隻の建造予算が承認された際の予算請求での説明を引用いたします。

「特定の練習艦による少尉候補生の実務練習は明治7年以来(遠洋航海は明治8年軍艦筑波により)実施せる処にして士官養成上不可欠の一課程なりとす。而て練習航海には多年浅間型海防艦を使用せるも同型艦を始めて練習艦として使用せしは明治43年にして、当時浅間は艦齢11年の堂々たる一等巡洋艦なりしも今日に於いては艦齢約40年に達する老朽艦なり。従て特定練習艦の建造はすでに久しく祖の必要を唱えられつつある所なるも、戦列部隊の整備が常に先順位たる為に巳むを得ず老朽艦を弥縫して年々当座を凌ぎ来りたるも、今や」駑馬老衰(どばろうすい)鞭つも前(すす)まず余命幾何もなきため修理も改造も手の施し様なき有様となれり。近時海軍生徒の員数は激増しまた艦船兵器及戦術は隔世的進歩を見たるを以て、練習艦の居住及性能も之に伴いて一大革新を要するの時機となれるを以てこの際差当り練習艦2隻の建造を必要とす。」

建造許可が下りたとはいえ、練習艦は戦うことは考慮されていない船です。
そんなジャブジャブお金をくれるわけがなく、1隻辺りたったの660万円でした。
これは「阿賀野型」1隻分の予算で【香取】【鹿島】【香椎】の3隻を造れというほどの低額であり、複雑とは言え「甲型」1隻すら造れない超ケチりっぷりでした。

しかもそのケチりに対して、予算要求の時に「商船をちょっと改造した程度でいい」と言われていたものが、ふたを開けてみれば設計要求は商船の姿なんてどこにも見えない立派な軍艦型だったのでさあ大変。
つまり660万という金額であっても、「香取型」の建造は到底できなかったという事です。
もちろん見積を立てた造船所からは大目玉を食らい、恐らく次年度の予算で不足分を補ったのだと思われます。[1-P148]

「香取型」には

・兵科:約200名
・機関科:約100名
・主計科:約50名
・軍医科:約25名

の収容訓練ができる設計が求められました(乗員総数は590名)。

「香取型」には設計のベースとなる艦が存在しました。
それは「迅鯨型潜水母艦」です。
「迅鯨型」はやがてサイズ的に一等潜水艦の母艦に対応できなくなってしまいましたが、それ以前に設計段階からたった5,000t超の排水量しか許されずに苦労して建造された船でした。
排水量と予算、制限された項目は異なりますが、その影響で対処しなければならないことは同じです。
また潜水母艦は他の船に比べて明らかに劣悪な環境での活動である潜水艦から戻ってきた乗員を労う場所ですから、居住区をはじめとした船の設備はかなりゆったりとしていました。
この点も練習艦に応用できたため、「香取型」「迅鯨型」を参考にしながら設計が始まりました。

まず非常に横幅が広い設計となっています。
全長は133mで、これは小さい小さい「天龍型」の142mを下回っています。
一方で全幅は16.7mで、「天龍型」の12.42mに比べて4m以上広くなっています。
近い幅だと「古鷹型」が16.5mですから、「天龍型」より短い長さで「古鷹型」よりも広い幅を持っていることになります。
上から見てみると、多くの巡洋艦や駆逐艦のような、中心部分が一番幅広で、艦首艦尾は共に細くなっている形状ではなく、「大和型」のように艦尾にかけてもかなり幅が広いまま維持されているのも特徴的です。

しかし「香取型」は大きな矛盾を孕んだ設計になってしまいます。
船はずんぐりむっくりですが、部屋が多く空間が大きい一方で、武装重量が少ないために水線上の重量が軽すぎるという問題がありました。
軽すぎると何がまずいのか、船が浮いて吃水が浅くなり、安定性が損なわれるのです。[1-P150]
普段はトップヘビーにならないようにと軽量化に心血が注がれている軍用艦建造で、まさか「もっと重くしないと」と悩む日が来ようとは。

上が軽い状態で重心を下げるとなると、もう艦底を重くするしかありません。
つまりバラストや海水の投入です。
改装の過程でバラストを搭載したり、燃料消費後に海水を投入してバランスを確保することはありましたが、初期設計の段階でバラストを積むなんてあまりにもったいないので、従来なら検討すらされない手段でした。
結局余分な重量の行き先は見つからず、バラストだけで400t、重油タンクに重油と海水で重量を確保するバラスト400tと、計800tもの重しを抱えることになりました。[1-P152]
なおこのバラストの重量には資料によって差がありますのでご注意ください。

艦首は船首楼型となっていますが、これは艦内容積を確保するためです。
何分小さな船ですから、幅と高さで可能な限りスペースを造らなければなりません。
広い居住区は当然ながら、陸上の兵学校などで行うようなことを艦内でも行う必要がありますから、艦内には講堂までありました。

兵装は14cm連装砲が前後に1基ずつ。
これは「迅鯨型」と同じ兵装です。
14cm砲は重巡では搭載されていませんが、軽巡や「伊勢型」に搭載されていたり、「香取型」の排水量に適していることから採用されました。

魚雷はかなり旧式の53.3cm連装魚雷発射管が2基で、連装砲はともかくこの雷装からも戦闘に使うつもりがさらさらないことははっきりわかります。

対空兵装としては12.7cm連装高角砲が1基、25mm連装機銃が2基とこれもやはり実際の戦闘用とは思えない少なさ。
機銃ぐらいは単装機銃数基ほど増やしてもよさそうな気はします。
他には練習艦はこれまでも諸外国へ立ち寄ることが頻繁にありましたから、その儀礼用として5cm礼砲が4基搭載されていました。

諸外国へ立ち寄るというのは、練習艦は長期航海の訓練があり、その訓練の目的地に外国の港が設定されることが多かったからです。
当然事前に立ち寄ることを報告の上の訓練になりますし、やってくるのは日本海軍の士官候補生と立派な軍人、そして軍艦です。
寄港地の要人との会談もありますから、練習艦には日本国として恥ずかしくない威厳が求められました。

そのため、まず艦橋は大きく見せるために前後にかなり幅があります。
高さは復原性の関係からそこまで高くできないため、横から見た時に十分な存在感が伝わるようなサイズになっています。
羅針艦橋も十分な広さがありますが、これはアピールの他にも羅針艦橋内に候補生が多く入って訓練を行うことから大きくなったという理由もあります。
羅針艦橋の下には天測甲板があり、また使わなくても機器類や小さな兵器が取り揃えられていたようですが、軍事機密レベルのものや最新兵器などは避けられています。

公式な軍艦ということで、菊の御紋も艦首に燦然と輝いています。
また賓客を招き入れる施設にもなることから、司令官室など重要な場所はできるだけ豪華な装飾を施すなどの配慮もなされました。

艦橋の後方に煙突があり、その両脇に魚雷が搭載されています。
煙突は計画よりも2mほど延長されましたが、この理由は艦橋との見た目のバランスが悪いために伸ばしたとか、艦橋の測距儀の観測に影響したとか言われています。
その後ろはカタパルトがあり、水上機は繋留場所がないため搭載する際はカタパルトに載せられました。
ちなみに水上機は計画では【零式水上偵察機】だったのですが、残された写真では搭載されているのが【九四式水上偵察機】であることがわかっています。
カタパルト周辺は広いスペースとなっていて、ここに12m内火艇2隻と12m内火ランチ3隻がびっしり置かれています。

後檣(デリック付き)と14cm連装砲がその後ろにあるわけですが、なぜか「香取型」には練習艦なのに対潜兵装が一切ありません。
理由は不明ですが、この辺りは日本が潜水艦対策を軽視していた表れの1つかもしれません。

逆に将来性を見込んで重視されていたのが機関でした。
これまで建造された多くの艦艇は蒸気タービンを搭載していますが、日本はかねてより燃費のいいディーゼルタービンの開発に期待を寄せていました。
ディーゼルタービンは最大出力こそ蒸気タービンには及びませんが、燃費が蒸気タービンに比べてめちゃくちゃいいので、自国で燃料を調達できない日本にとっては頼みの綱だったのです。
そのため、「香取型」には蒸気機関の艦本式タービン(二段減速装置付き)とディーゼル機関の艦本式22号10型ディーゼルタービンが2基ずつ搭載されています。
ちなみに艦本式タービンには巡航タービンがなく、巡航時にディーゼルで対応する形となっています。

ボイラーは多くの艦艇で使われているロ号艦本式ボイラーではなく、「橋立型砲艦」で採用されていた小型のホ号艦本式ボイラー(空気予熱器付き)が3基搭載されました。
この2つの機関をフル稼働させた場合の最大速度ですが、わずか18ノットです。
なにせ最大馬力はたったの8,000馬力です。
このスペックはほとんど【秋津洲】【伊良湖】と同じで、巡洋艦というのにはかなり無理がある速度でした。
事実、巡洋艦とは言われるものの基本計画番号には水上機母艦などに使われる「J」が振られています。
実際に3基の缶があるものの、この馬力だと2基で十分で、1基は保守用としての搭載だったそうです。
ディーゼルと低速軽量のおかげで、「香取型」はかなり燃費のいい船となりました。

艦影を見ると、艦橋より後ろが非常にすっきりしている分、艦橋の大きさがより際立ちます。
さらに見た目に反してかなり短いですから、菊の御紋をつけた軍艦の中でも変わった姿であることは間違いありません。
このような形で「香取型」は一番艦【香取】が昭和15年/1940年4月に竣工。
しかしこの時期はすでに練習艦が練習に没頭できる時期ではなく、ほぼぶっつけ本番で試合に臨むことになってしまいます。

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参照資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]軍艦開発物語2 著:福田啓二 他 光人社

軽巡洋艦
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※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
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