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『阿賀野型軽巡洋艦』
【Agano-class light cruiser】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量6,625t
全 長174.50m
水線下幅15.20m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:6,000海里
馬 力100,000馬力
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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那珂誕生から17年 久々登場の新軽巡阿賀野型

「川内型」の3隻が建造されたあと、四番艦として予定されていた【加古】は重巡へと姿を変えました。
以後、世界は「ロンドン海軍軍縮条約」の影響を受けて、限られた排水量の最大限の活用を模索します。
結果として日本とアメリカは1隻の存在感を重視した重巡に、イギリスは植民地支配の影響もあり、数を増やして軽巡に注力していきました。
そして日本とアメリカでは重巡よりも軽兵装の軽巡には目も向けられず、「ロンドン海軍軍縮条約」以降は両国ともに1隻も新規建造されることがありませんでした。

【那珂】が就役してから15年後の昭和14年/1939年。
この年には最後の重巡【筑摩】が誕生しています。
この頃日本はすでに「ロンドン海軍軍縮条約」から脱退しており、無条約状態によって大幅な軍拡が進んでいました(「マル3計画」)。
この「マル3計画」は、「海軍国防所要兵力整備十年構想」と呼ばれる昭和12年/1937年~昭和22年/1947年の10年で海軍力を増強するという構想の前半4ヶ年にあたります。
しかしこの「マル3計画」では巡洋艦の建造計画はなく、「大和型」「翔鶴型」「陽炎型駆逐艦」らの建造が決定しました。

一方、アメリカもこれまでの軍縮状態から解き放たれたために「第一次ヴィンソン案、第二次ヴィンソン案」を策定して軍備拡張を進めていました。
これに呼応する形で日本は「マル3計画」の期間を1年短縮し、そしてさらに後半6ヶ年の「マル4計画」も前倒ししてスタートすることになりました。
この「マル4計画」で産声を上げたのが、「夕雲型」であり「秋月型」であり、そして久々の新造軽巡洋艦である「阿賀野型」です。

言うまでもなく日本の軽巡事情は芳しくありません。
確かに数は14隻と揃ってはいましたが、改装されているとは言っても全て重巡の前に誕生している古い設計です。
特に14cm単装砲7門という兵装は重巡の標準装備である連装砲、三連装に比べると大きな制約があります。
もともと「オマハ級」に対しての5,500t級は戦力として勝っているわけではなく、また「最上型」の影響で他国もどう運用するかは別として超強力な軽巡をすでに建造しています。
日本は特に水雷戦隊旗艦としての役割を軽巡に担わせたいという構想上、甲型駆逐艦を新造するのに軽巡を旧式で使い続けるのは理に適わなかったのです。

「阿賀野型」は軽巡最大の存在意義である水雷戦隊としての戦力を求められ、旗艦能力を備えた軽巡として設計が始まりました。
「マル4計画」では6隻の軽巡洋艦の建造が計画されましたが、そのうちの4隻が「阿賀野型」でした(残りは【大淀、仁淀】)。

これまでの5,500t級が抱えていた問題は砲撃力だけではありません、というか問題だらけです。
速度は新造時の35~36ノットという速度から改装によって32~3ノットにまで落ち込み、また航続距離も新しい駆逐艦に劣っていました。
通信設備の更新は限界、偵察能力として重要な偵察機も1機だけしか積めなかったので旗艦運用としては物足りません。
船の改装が進むにつれてそれを扱う人員は増えるのに、居住区は相変わらず狭いままで人の住む場所とは到底言えず。
さらに凌波性も「特型」以前の艦であることから駆逐艦にも劣る有様で、軽巡が駆逐艦の足を引っ張るという悲しい現実が軽巡には突き付けられていたのです。
このように、5,500t級は戦争が始まったために多くの活躍をしていますが、戦争が始まらなければ確実に世代交代の波に飲み込まれた艦でした。

5,500t級に代わる「阿賀野型」ですが、日本には2つの選択肢がありました。
すなわち、重巡をベースとした上で水雷戦隊旗艦に相応しい性能とするか、これまでの軽巡をベースに小型軽快性を重視するかです。
日本は後者を選択し、「阿賀野型」は基準排水量6,625tと、5,500t級に比べると大型化はしていますが随分小柄です。
前者を選択したアメリカの「クリーブランド級軽巡洋艦」は基準排水量が11,000tを超えており、同じ軽巡と名乗る艦でも大きく異なります(厳密にはこの頃軽巡・重巡を分ける意味がないのですが)。

この選択には日本の苦しい台所事情がありました。
条約脱退後にアメリカも本格的な軍拡に踏み切っていたのですが、その「第一次~第三次ヴィンソン計画」では空母をはじめ巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を大増強する壮大な軍拡計画でした。
これに対応する必要に迫られた日本でしたが、予算が足りないから乙巡4隻、丙巡2隻に抑え、かつ乙巡は水雷戦隊旗艦任務を遂行できる性能を持ちつつ多種多様な任務に応え得るものとする、と最低限の予算で最大限の性能を発揮させるしかありませんでした。

まずは魚雷です、「阿賀野型」の能力を下げた一番の原因だと私は思ってます。
日本巡洋艦としては「大淀型」を除いて搭載に執着していた魚雷は、61cm四連装魚雷発射管が2基と強力でした。
次発装填装置も備えられていて、雷撃戦を駆逐艦と共に行える強みがありました。
魚雷は駆逐艦同様中心線上に配置されていたため、片舷8門を指向することができます。
露天搭載式のために発射管にも次発装填装置にも防盾や覆いが付けられています。

主砲は15.2cm連装砲を3基搭載。
ベースとなったのは「金剛型」「扶桑型」で採用されていた15.2cm単装砲で、これを連装砲塔化したものです。
ですが完全な機力装填ではなく、弾薬庫の直上に砲塔が配置されていません。
弾薬庫から揚弾装置で中甲板まで砲弾を上げた後、人力で砲塔下まで砲弾を運び、そこから再び揚弾装置で装填するという流れでした。
できるだけ小型にする一方で、船の構造に余裕がなく、このような方法を取らざるを得なかったのでしょう。
スペースがあれば「最上型」の15.5cm三連装砲もしくはそれの連装砲化でもいいわけですから。

「阿賀野型」自体が小型だったことと、魚雷も搭載していることから3基6門では強力とは言い難いです。
魚雷がなくなればあと1基ぐらいは十分搭載できたでしょう。
しかし決して強いとは言えない15.2cm砲を大量に搭載するよりも、優速を活かしつつ8門の魚雷で痛恨の一撃を与える方がいいとも言えます。
砲塔は艦橋前に背負い式で1番、2番、艦尾に3番が配置されています。
ちなみに仰角は55度まで可能で対空砲撃もできるという触れ込みでしたが、その実、装填時に7度まで砲塔を下ろす必要があったため、例にもれず対空砲としての期待値は低い砲でした。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

航空兵装は露天繋止用の飛行甲板が設けられていて、そのすぐ後ろにカタパルトが置かれています。
ついに2機の水上機の搭載が可能となりました。
ちなみにこの航空兵装の下に魚雷発射管が配置されています。

馬力は10万馬力と凄い高そうに見えますが、忘れてはいけません、「球磨型」の時点ですでに9万馬力です。
「阿賀野型」「大淀型」はこれまでの巡洋艦に比べると蒸気圧と蒸気温度が大きく勝っていました。
つまりは出力に対して発生する馬力量が増すということなので、このおかげで排水量が5,500t級よりも増したにもかかわらず、速度も航続距離も向上したのです。
18ノット:6,000海里というのは十分な航続距離で、高速化を図っていた甲型駆逐艦を束ねるに相応しい能力でした。

日本の艦船としては珍しく艦本式ボイラーは6基となっていますが(タービンは4基4軸)、これは結局サイズの問題で搭載できる最大の容積が6基分だったのが原因です。
このうち第1、第2ボイラーだけが1つの缶室に収まり、残りは単独の缶室で管理されたので缶室が5つと基数になっているのも特徴です。

急速に必要性が高まっていた対空兵装ですが、これは「阿賀野型」でも特に不足していた能力として当初から不満がありました。
搭載されたのは8cm連装高角砲と25mm三連装機銃が2基ずつだけ。
いくら15.2cm連装砲が両用砲としての役割も期待されていたとはいえ、非常に貧弱です、両舷1基ずつしかありません。
これは排水量の関係上精一杯積んでこれだけだったと言われていますが、じゃあ高角砲を止めて機銃をもっと増やすとか、魚雷を全廃して対空兵装の強化をすべきだとかいろいろ反論を受けています。
それでもそのまま押し通すってどれだけ魚雷好きなのよ。
時代の流れを受け入れるものと理想を追い続けるものの諍いが「阿賀野型」を巻き込みました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

開戦してからは対空兵装の強化が事あるごとに叫ばれ、遅きに失しつつも徐々に機銃が増えていきました。
8cm連装高角砲は「秋月型」で搭載された長10cm砲の小型版とも言えるのですが、長10cm砲よりもさらに複雑な構造で、故障の報告や長10cm砲への換装依頼が多くあったようです。

船体の構造としては、非常に小さいのですがバルバス・バウの艦首形状をとっています。
また防御力は対軽巡砲撃に対して十分耐えうるもので、さらにバイタルパートの小型化にも苦心しています。
この辺りも甲板の材質や設計上の経験が5,500t級当時に比べると格段に進歩したからです。
採用したCNC甲板の性能のおかげで、「阿賀野型」は砲撃による損害は生涯通じて多くありません。
その代わり全部空襲で沈んでいますが。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

このように、新型軽巡として誕生した「阿賀野型」
コンパクトなサイズや兵装の配置バランス、後部マストは珍しく単檣を採用するなど、限られた排水量で新しいことを取り入れたり無駄なものを排除したりと、かなり意欲的な船であることは間違いありません。
しかし残念ながら巡洋艦として強力な船とは言えません。
つまり「阿賀野型」は、そのスペックを紐解くと、結果的には「大型嚮導駆逐艦」と言ったほうが正鵠を得ていると言えるのです。

砲撃力よりもサイズを、砲撃力よりも魚雷を、高出力よりもサイズを、強力化よりも小型化を重視しているのがわかりますでしょうか。
「阿賀野型」は多くの点でこれまでのノウハウがつぎ込まれ、そして排水量に比した戦闘能力を持ち、そして流麗なシルエットを備えた軽巡洋艦ではありました。
しかし二者択一で選択してのはいずれも駆逐艦的、ともすれば魚雷中心なものであり、それは艦影を見ればはっきりわかります。

水雷戦隊だから魚雷は欲しい。
魚雷があるから主砲3基6門。
魚雷外せば主砲増やせるじゃん→イヤ。
重量バランスが崩れるから高角砲2基止まり。
じゃあ魚雷外して対空兵装増やせばいいじゃない→イヤ。

全てが中心線上にまとまっていて、狭いスペース、小さい船体に対してどれだけバランスよく、干渉させずに配置すべきかの努力はうかがえます。
その結果、確かに旗艦としては十分な船となりましたが、巡洋艦としては仮想敵に「クリーブランド級」がいることもあって評価負けし、いずれにおいても中途半端、あくまで対駆逐相手なら勝てそう、じゃあ対軽巡はとなると魚雷で殴るしかない、という能力でした。
ただ、砲撃力を重視するとどうしても大型化し(初期「最上型」相当?)、予算の問題がのしかかります。
となると一撃必殺の魚雷に頼らざるを得ないというジレンマがあったのも事実です。
ちなみに「アトランタ級軽巡洋艦」は結果的に防空巡洋艦となっただけで、誕生経緯は「阿賀野型」に通じる点もあります。

この影響で、「阿賀野型」をもう少し大型化し(とにかく狭い)、「島風型」にできるだけ対応できるように速度を増し、対空兵装をもっと充実させた「改阿賀野型」の建造も要求されています。
「改阿賀野型」は排水量8,520t、15.2cm連装砲4基、高角砲4基、三連装機銃3基、魚雷2基、最大速度37.5ノットという計画でした。

こう見ると、「峯風型」が誕生してからそれに合った「天龍型」が誕生し、狭いし能力的にも余裕がないから5,500t級が誕生したという経緯とまったく同じ道をたどっていることがわかりますね。

こうして「阿賀野型」一番艦の【阿賀野】は昭和15年/1940年に起工。
2年後の昭和17年/1942年10月に竣工するのですが、その時にはすでに太平洋戦争が開戦し、日本の凋落の始まりとなる「ミッドウェー海戦」での敗北後。
【阿賀野】は苦しむ日本の救世主となるべく、即実践へと突入します。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

軽巡洋艦
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