武蔵【大和型戦艦 二番艦】不沈艦武蔵の強靭な船体 屍を超えて目指せレイテ | 大日本帝国軍 主要兵器
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武蔵【大和型戦艦 二番艦】

起工日昭和13年/1938年3月29日
進水日昭和15年/1940年11月1日
竣工日昭和17年/1942年8月5日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月24日
(シブヤン海海戦)
建 造三菱長崎造船所
基準排水量64,000t
全 長263.00m
水線下幅38.9m
最大速度27.0ノット
航続距離16ノット:7,200海里
馬 力150,000馬力

装 備 一 覧

昭和17年/1942年(竣工時)
主 砲45口径46cm三連装砲 3基9門
副砲・備砲60口径15.5cm三連装砲 4基12門
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
機 銃25mm三連装機銃 8基24挺
13mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 12基
艦本式ギアードタービン 8基4軸
その他水上機 6機(射出機 2基)
最終時(あ号作戦後)
主 砲45口径46cm三連装砲 3基9門
副砲・備砲60口径15.5cm三連装砲 2基6門
40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
機 銃25mm三連装機銃 35基105挺
25mm単装機銃 25挺
13mm連装機銃 2基4挺
12cm28連装噴進砲 2基?
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 12基
艦本式ギアードタービン 8基4軸
その他水上機 6機(射出機 2基)
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長崎の港を怯えさせた謎の兵器、第二号艦

昭和10年/1935年5月、三菱重工業長崎造船所艦政本部から複数の要人がやってきました。
「この第二船台では、最大幅124フィートの艦が建造できないか?」
これが、長崎造船所【武蔵】について初めて知った情報でした。

造船業界は「ワシントン海軍軍縮条約」の煽りをもろに受けており、長らく不況に喘いでいました。
しかし残念ながら国際情勢の悪化というのは軍関連のメーカーにとってはありがたいことで、国際連盟からの脱退を受けて各造船会社は人員確保や設備増強を進めつつありました。
そんな中での艦政本部からのこの言葉、願ってもないことではありましたが、さすがに度肝を抜かれるサイズでした。
長崎造船所は船台から対岸までの距離が680mしかないため、この時は船台の強度と進水が可能かどうかという点で長く話し合いが続きました。

やがて建造が始まりそうになるところで、本部からまた強引な命令が届きました。
建造中の【武蔵】(この時は「第二号艦」と呼称)が、外観から建造風景から全てを完全に遮断する具体的な方法を至急明示せよ、というものでした。
長崎造船所は山に囲まれているうえに外国人用の施設も多く建ち並んでいるため、この命令は不可能と言ってもいいものでした。
実際三菱財閥ほどの強大な存在感と資金力がなければ、不可能だったでしょう。

しばらくすると、長崎だけではなく九州、それどころか四国からも棕櫚の繊維が市場から忽然と消えはじめました。
棕櫚繊維の一大産地だった九州と四国から全く棕櫚が供給されないことから国内は急激な棕櫚不足に陥り、特に漁の網に多く使われることから漁師たちは困り果てて自治体に窮状を訴えるほどでした。
この棕櫚がなぜ消えたのか、どころか買い付ける者ですら、何に使うのか知らされないまま、棕櫚は長崎造船所内にどんどん積まれていき、最終的には500tというとんでもない重さになりました。

一方造船所の中でも、建造に携わる者、そして【武蔵】の艤装員となった者は一人残らず身辺調査が為され、さらに情報漏洩をしないという宣誓までさせられました。
この時すでに「第一号艦」である【大和】では艤装員が軍機漏洩で逮捕されており、仕事が始まる前から穏やかではありませんでした。
【筑摩】の建造が現在進行中ですので、新人として入った工員も含め、軍艦の建造経験は積めました。
あとは彼らが【武蔵】建造に値すると認められるかどうかと、やはり不足している工員を急いで補充することが求められました。

昭和12年6月1日、遂に【武蔵】の概要が明かされました。
長崎造船所の想定を大幅に上回る満載排水量70,000tという数字。
そして何よりも45口径46cmという口径の大きさ。
常識を覆すどころではなく、怪物級の超戦艦の姿がこの数字に隠れていました。
呉は言っても軍の工廠、しかし【武蔵】は民間企業が建造するのです。
名誉と言えば聞こえがいいですが、まさに大和そのものを背負う責任が三菱重工業にはのしかかったのです。

長崎造船所では、第二船台の拡張工事の準備、山を切り開く作業、150tという破格の起重機船の建造、500tという棕櫚の簾を編み込んでドック全体を覆い隠す作業と、【武蔵】を建造する前の動きだけでも相当慌ただしい動きを見せ始めました。
宣誓書に署名をした者、していない者を区別するために新しい腕章を用意し、出入りの際に腕章を守警と受け渡しを行って、腕章をつけていいエリア、つけていい者を徹底的に管理。
艤装員長(のち初代艦長)の有馬馨(当時大佐)ですら、腕章を忘れれば立ち入りを断られており、顔パスなどもってのほかだったようです。
そして「第二号艦」という呼称すら使うことを禁じられたことで、関係者は謎の巨大戦艦を「八〇〇番船」と呼んでいました。

それ以上に度が過ぎていたのが民間の外国人の監視で、突然中国人を投獄・尋問したり、怪しい者は容赦なく国外追放するなど、極めて横暴なものでした。
日本人相手でも、ドックをじっと眺めていたら警察にしょっぴかれたり、造船所から周囲に向けてカメラを設置して怪しい動きをしているものがいないかチェックをしたりと、まるで侍が不敬の農民をひっとらえるようなものでした。

41cmというこれまた常識外の装甲を貫くために16,000本という鋲が試作され、竜骨が次々と組み立てられていきます。
今もまだ船台は拡張工事中です。
誰もが疑問だらけなのに誰も答えてくれない、聞いてはいけないという空気の中、【武蔵】の建造が進み始めました。

この空気がとんでもない事件を引き起こします。
なんと軍機密である設計図面のうち、砲塔のターレット部分の図面1枚がなくなっていたのです。
どの部分でもなくなればまずいですが、主砲部分の図面なんて戦艦の力が一発でわかる部分です。
万が一外国の手に落ちれば、これまでの苦労が水の泡どころか日本は壊滅すると断言できます。
今はアメリカはパナマ運河の影響で建造できる船のサイズに限界がありますが、日本が46cm砲の戦艦を建造しているとなると、あらゆる手段を講じてこれに対抗してくるでしょう。
数で勝てないから質で勝負しているのに、質でも並ばれると勝ちようがありません。

魂が抜けていくのを必死に抑え込みながら、極々一部の事態を知る者だけで徹底的に捜索が行われますが、金庫のような扱いだった個室の中からはついに見つからず、関係ない工員が数名厳しい取り調べという名の拷問にかけられるほどの事態となってしまいました。
最終的には証言の矛盾から、19歳の少年が犯行に及んだことを突き止めます。
工員として雇われたのに雑用ばかり、沈黙の空間で誰の教えも請えないし誰からも手伝ってくれという声もかからない。
失策を起こせばどこかに罰として異動させられるだろうと考え、何でもいいから1枚抜き取って燃やしたと彼は供述しています。
彼はその後執行猶予判決を受けましたが、家族とともに中国(満州?)へ強制移住させられたそうです

この事件によって造船所はより一層寡黙になりました。
外界では長崎造船所の噂は悪いものばかり、それが内側でも鬱屈としていくと、辞めるものは増えるのに入る者は一向に増えないという事態に陥ります。
実は図面の紛失事件の影響で建造工事は約2ヶ月も停滞しており、更に図面に関係のない船台拡張工事などの設備面の改修も軒並み遅れていたのです。

やがて皆が自主的に休日返上で働くようになり、徐々に遅れが取り戻されていきました。
それに伴い、事態はいよいよ進水の準備へと進んでいきました。
進水に先駆けて、これまで完全に簾に覆われていた船台から海へと場所が移ることから、再び視界を遮る必要が出てきます。

気になったのは香港上海銀行長崎支店グラバー邸でした。
特にグラバー邸は丘の中腹にあるため、造船所付近の景色は丸見えだったのです。

そんな中、香港上海銀行長崎支店が、近日中に業務を止めて売りに出すという話が舞い込んできました。
渡りに船だと海軍は急いで話を取り付けて、佐世保鎮守府長崎支店の土地と建物を買収。
その勢いでグラバー邸も所有者である息子と交渉して買い上げ、これで1つの懸念は払しょくされました。

しかしもう1つ、財力でも権力でもどうにもならない障害が残ってます。
それは米英の領事館でした。
領事館に出てってくれなんて絶対言えません。
結局対応としては監視の目を強めるとともに、視界を遮るように倉庫を建設するなどして対策をとるしかありませんでした。
これも結構バタバタと決まったようで、材木調達も艦政本部に協力を仰ぐほどでした。

進水に関しては昭和14年/1939年7月1日から、46cm三連装砲を搭載するためだけ(51cm砲にも対応したらしい)の【給兵艦 樫野】の建造が第四船台でスタートしました。
10月下旬には進水後の【武蔵】を引っ張るためだけの、430tの排水量で1,600馬力という性能を持つ【曳船 朔風丸】の建造も始まります。

一方で進水式が近づくにつれ、【武蔵】建造の総責任者となっていた渡辺賢介鉄工場長は毎夜悪夢にうなされていたと言います。
見る人が見れば、この【武蔵】建造で最も困難な工事がこの進水であることがすぐわかるからです。
まず70,000tの戦艦の建造が世界初であれば、70,000tの船の進水も世界初。
【武蔵】は船体重量だけで約36,000tもあります。
これがどういう数字かというと、建造当時の「長門型」よりも重い数字です。
主砲も艦橋も一切ないのに、すでに完成した「長門型」よりも重たいのです。

冒頭で紹介した通り、長崎造船所は680m先に対岸があります。
普通の船ならこんな距離でも何の問題もありませんし、前級になるはずだった【加賀型戦艦 土佐】も、進水式そのものでトラブルはありましたがちゃんと進水に成功しています。
【土佐】は計画常備排水量が約40,000tで、6割が船体排水量としても24,000tです。
それより10,000t以上重いわけですから、経験則だけではどうにもならず、全く新しい手法を編み出さなければならないのです。
それを海水まで滑らせるための滑走台の大きさ、強度、獣脂の量と質、あらゆる困難が待ち受けていました。
進水までまだ1年ありますが、あと1年しかないというのが本音でした。

とにかく1分半後に680m先に突っ込む前に船体を曲げることができるのか、これが最大の課題でした。
船体の右側に重しの鎖を取り付ければ曲がるのではないかと考えましたが、計算して見るとたった1分半ではまったく足りません。
最終的には左右両方に285tずつの重りの鎖を取り付けて、さらに艦尾と岸を鉄の束で編み込んだロープで結び、念のため対岸には緩衝材として木材や筏を大量に浮かべるという方法となりました。

船体の建造は順調に進み、計画通り昭和15年/1940年11月1日に進水式が執り行われることになります。
進水式前日は、準備の為に夜を徹した作業が行われるのですが、いきなり真夜中でも棕櫚の中で煌々と明かりが灯っていると、翌日何かあるのではと勘ぐられてしまうということから、2週間前から夜間作業を継続して「別に前からこうですよ」と怪しまれないような対策も採られていました。

10月31日、ドックでは進水の準備が着々と進みますが、渡辺鉄工場長は気が気ではありません。
慎重に慎重を重ねながらも、遅れてしまうと満潮期を逃してしまうので時間通りに行う必要があります。
そんな中、恐れていたことが起こります。
厚さ1mもある船台のコンクリートに2本の亀裂が走ったのです。

連鎖的に亀裂が走っていくと、船の重量が偏りますのでもうなす術がありません。
【武蔵】は誕生することなく横転し、第二船台はおろか第三船台で建造中の【橿原丸】もろとも破壊し尽くすでしょう。
心臓がはち切れそうな鼓動を感じながらその亀裂の状態を確認する中、どうやらこの亀裂が他へ影響することはないという判断がありました。
難事を乗り越え、進水作業は黙々と、着々と進んでいきました。

いよいよ11月1日、進水式当日となりました。
と言っても式っぽさは何一つなく、まず「防空演習」と称して住民の外出を禁止、それより遠方のものも立入禁止、周辺には憲兵や警察が至る所に配置されて目を光らせます。
沿岸沿いの住民に対してはメデューサが出るのかというぐらい外部からの光を一切遮断させ、さらに警官が1戸1戸監視するというものでした。
参列者は僅か30人ほどで、一切が私服で皇族の伏見宮博恭王ですら平服で式場に入り、造船所に入ってから軍服へ着替えるということになります。
当然ラッパも禁止、久寿玉も禁止(発注で分かる)、ただでかい鉄の塊が水の中に滑っていくのを偉い人たちが見てるだけの時間となるのです。

式台に上がったのは、時の海軍大臣及川古志郎大将
「軍艦武蔵、昭和13年3月工を起し、今や船体成るを告げ、茲に命名の式を挙げ、進水せしめらる」
公に【武蔵】の名が告げられた瞬間でした。

安全装置などの支えはすべて取り外され、進水予定時刻の8時55分となりました。
今、【武蔵】を支えるものは綱一本のみ。
あとは銀斧を降り降ろせば、【武蔵】は誕生します。

小川嘉樹造船所長が、銀斧を降り降ろし、唯一の支えである綱が切断されました。
【武蔵】はゆっくりと、やがて速度を上げて船台を滑り降りていきます。
そして見たこともないような水しぶきを上げて、【武蔵】は海面に突っ込みます。
引っ張られ、ガラガラとやかましい音を立てる大量の鎖が、この後暴れ馬の手綱となってどうどうと宥めながら【武蔵】を右に旋回させていきます。

想定よりも右に旋回したものの、最終的に【武蔵】は計算との誤差僅か1mという、完璧と言っていいほどの進水となりました。
ここまで建造に携わってきた全ての人たちは、それこそ戦争に勝利したかのような、至上の喜びと感動に飲み込まれていました。
聞こえるのは歓声ではなく嗚咽ばかり、粛々と執り行われた進水式は、流汗滂沱の中で幕を下ろしました。

一方で対岸に住む住民には、何一つ見えない状態でけたたましい音に続いて何かとてつもないものが水に突っ込んだ音だけが耳に飛び込んできます。
恐ろしいことが起こっていると怯える中、今度はいきなり海水が家を襲ったのです。
満潮時に【武蔵】が突然海に突っ込んだことで人造の津波が発生し、家屋に流れ込んできたのです。
慌てて住人は家の外に避難するのですが、無情にも監視している警官が強引に家に押し戻し、住人は家が海水で水浸しになる中でただ外出の許可が許されるまで待ち続けるしかありませんでした。

進水を終えた【武蔵】は急いで曳船に引っ張られて繋留されます。
この時ちょうど艤装工事中の【春日丸】がいたので、全体はもちろん覆い隠せませんがある程度は遮蔽が可能なので、向島艤装岸壁まで【武蔵】に寄り添って移動しました。
ここでも棕櫚の簾はかけられていたらしいのですが、果たしてどのような形で覆われていたのかがよくわかりません。
船台にいた時と同様に上から全体をすっぽり覆うものでないことは確実なので、簾で【武蔵】の姿を完全に隠匿することはできていません。
しかも長崎は一般的な港湾ですから、距離があるとはいえ国内外の貨客船や漁船などがひっきりなしに出入りします。

対策として、特に近くを通る、港内を渡る交通船は窓にベニヤ板がはられて一切外が見えないようにされた上、憲兵が乗船から下船までじっと監視するという方法がとられていました。
また昭和16年/1941年に入ってからは、背景の崖の色との対比で艦が目立つということから、崖一面をペンキで塗る(灰色の軍艦色?)という大掛かりなこともやっています。
なかなかどうして、このペンキ作戦は確かに【武蔵】の全容が見えにくくなったようです。

しかし一大難事を突破してこれでうまい酒が飲めるほど、世界情勢は甘くはありませんでした。
今度は工期を7ヶ月も短縮するように海軍通達があったのです。
不当な要求ではあったものの、小川所長が懸命に食い下がってもやってもらわないと困るの一点張りで、計画の大幅な修正に迫られてしまいます。

艤装工事が進む中、市中では何かが進水したことだけは知れ渡っていました。
しかしその後も第二船台の棕櫚が取り払われないことから、これを巡って第二船台ではまだ何かが起こっているという噂が広がり始めます。
そんな噂の火消しに走っていた憲兵達でしたが、その噂の火はそのまま現実の炎となって第二船台を襲いました。
第三船台で建造中の【橿原丸】の溶接の火花が棕櫚に燃え移り、夜にメラメラと燃え始めたのです。

その炎の裏側には揺らめく黒い影が写り、噂は本当だった、第二船台にはお化けがいると炎を見ながら皆口々に言いました。
やがて鎮火しましたが、第二船台には何もありません。
黒い影の正体は、その向こうで建造中の【橿原丸】でした。
この火事によって結果的に第二船台は公となり、そしてそこにはお化けもおらず、新しい客船の建造が進んでいる姿だけが目に映ります。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、お化けの噂も静まっていきました。

急ピッチで建造が進んでいく中、7月1日、【武蔵】は舵やスクリューの取り付けのために佐世保工廠まで夜な夜な移動します。
排水機能のない長崎造船所ではどうしてもこの作業はできないので、あらかじめ拡張しておいた佐世保工廠第七ドックでこの部分だけ取り付けて、1ヶ月後にまた長崎へ帰っていきました。

12月16日、開戦から約1週間後に【大和】が竣工。
日本軍は陸海共に圧倒的な強さを見せつけ、連日紙面を賑わせて国内は狂喜乱舞していました。
しかしその戦果の中に、【大和】の姿はありませんでした。

【武蔵】はこの勝利の山に1日でも早く加わるために工事に一層熱が入ります。
しかし片方が完成している中、2隻目には必ずと言っていいほど修正が入ります。
開戦によって工期はさらに約1ヶ月短縮されている一方で、旗艦任務を遂行するためには艦橋にはさらにあれが必要だのこれが必要だの好き勝手言われて、修正箇所は到底小手先で済むレベルではありません。

造船所はこの横暴な要求に対して俄然戦います。
すでに寿命を削る努力をしている中でまだ無茶を言われると死人が出てしまいます。
挙句絶対秘密だと言い続けられた「大和型」を前にして「秘密だからとこれまで設備情報を明確にしてこなかっただろう」というわけのわからない反論すら出る始末。
よくちゃぶ台がひっくり返らなかったものです。

完成は早めろ修正も一緒にやれなんてできるわけがないので、ここを譲ることはできません。
断固反対を貫き通し、なんとか2ヶ月の延長にこぎつけました。
ここで改善された中で有名なのが、副砲塔の内部の装甲強化です。
改装予算だけで駆逐艦1隻が建造できるほどでした。

昭和17年5月19日(もしくは20日)、工事はほとんど完了し、若干の残工事と公試は呉で行うことになったため、【武蔵】は初めて自力で動き始めました。
苦節4年、汗と涙でできた不沈要塞が、戦地で咆哮をあげるまであと少し、誰もがそう思いながら、【武蔵】の後姿を眺めていました。
初めて【武蔵】の護衛に就いたのは、【暁】【響】でした。
この時点ですでに豊後水道は危険海域だったため、対潜護衛は疎かにできませんでした。

工事が終わり、いよいよ最終調整である公試が6月18日から始まりました。
主砲発射試験では、その衝撃を知るために、かごに入れたモルモット(恐らく生物としてのモルモットとそれ以外の実験動物としてのモルモットの両方が配置されていたはず)を各所に配置したほか、鉛の板もあちこちに置いていました。
そして46cm三連装砲が左舷に向けて動き始め、曳船の曳く標的に向けて狙いを定めます。
有馬艤装員長「打ち方始め」の号令を合図に、遂に【武蔵】の沈黙が破られました。

耳栓をしていててもそれを突き破らんばかりの爆音と、油断すると圧だけで失神してしまいそうな衝撃、右舷9度の傾斜を計測するほどの凄まじい反動を残して、【武蔵】は雄叫びを上げました。
砲撃の後、衝撃を見るために配置していたモルモットは無残な姿を晒しており、籠は跡形もなく消失していました。
主砲の近くにあった鉛の板はベコッと凹んでおり、また砲身の先端直下の木甲板は真っ黒に焦げていました。
その他艦内も当然反動であらゆるものが落下、破損し、電線の断線、電話などの故障など、想像以上の被害が出ています。

しかし公試を終えた時、日本はすでに「ミッドウェー海戦」で敗北をしていました。
【信濃】は建造が中断、「第四号艦」は起工後まもなく建造は中止となっており、解体までされていました。
ほんの数年前まで世界中が研究に研究を重ね、仮想敵を粉砕する威力を持つ戦艦をどの国も欲していました。
その戦艦の歴史の歩みが、ここでピタッと止まってしまうのです。
太平洋戦争は、どこの海域でも砲撃音よりプロペラ音のほうが目立つ戦争でした。
そして【大和、武蔵】の戦いは、戦艦と航空機との戦いでもありました。

主副砲の発射試験を行う【武蔵】

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不戦艦武蔵

【武蔵】の公試中に、大敗北の事実を隠すために幽閉されていた【赤城】の生存者が新たに乗組員として加わりました。
竣工後には「ガダルカナル島の戦い」が勃発したことで、機動性の高い艦艇が集中的に動員されたことから【武蔵】がすぐに出動することはありませんでした。
【武蔵】は柱島に残って猛烈な訓練を続け、そしてそのまま1942年が過ぎていきました。

昭和18年/1943年1月18日、ついに【武蔵】は本土を離れてトラック島に進出。
【大和】から連合艦隊の旗艦を受け継いで、山本五十六連合艦隊司令長官(当時大将)が乗艦します。
【大和、武蔵】の、かつての戦艦大国であるイギリス、そして今相対するアメリカも到底保有できない超戦艦が2隻鎮座するトラック島は、大変平和なものでした。
艦内環境はまるでド田舎と大都市のような差、映画も見れるし演劇も見れる、日々の課業は大変ですが、それはどの船でも同じです。
ここではまるで、戦争は起こっていないかのようでした。

一方で戦況は全く改善の兆しがありません。
年明けとともに、大量の艦船と人命を失った地獄のガダルカナル島からの撤退が始まりました。
トラック島の空も、ガダルカナル島の空も、全く同じの真っ青なもの。
しかしガダルカナル島の海はトラック島のそれとは違い、黒くて赤い、海水以外の何かがしみ込んだものでした。

戦艦の出番がないまま、月日が過ぎていきました。
ガダルカナル島から撤退した艦船はトラックやラバウル、本土を中心に引き上げていきますが、しかし陸軍はニュージョージア島やサンタイサベル島といった、すぐ近くの島に引き上げたにすぎません。
島々の戦いとなる以上、彼らの支援は欠かせないわけですから、舞台は変わっても機動性の高い船が引き続き最重要の存在でした。
つまり相変わらず戦艦の出番はなかったのです。

戦場から遠い存在の不沈艦は、俯瞰的に見ても主観的に見ても初陣を飾れないことに焦りがでてきました。
何しろ【武蔵】が初勤務の乗員は、開戦から1年が経過してもこの目で戦争の現実を見たことがありません。
あるとすれば、トラック島に引き上げてきた傷付いた船と兵士たちだけ。
生き残りのものから、まるで終戦後の取材のような形で現実を伝え聞くことだけが、いま日本が戦争中であることを知ることができる方法でした。

管理する側としても、そんな彼らの士気を維持させること、また練度を高めることに頭を抱えていたことでしょう。
今後戦艦の出番は来るのだろうか、戦争が始まってこのかた、「大和型」はおろかかつてのビック7である「長門型」ですら腰を下ろしたままです。
すでに4隻の空母を失って半年以上が経過したにもかかわらず、その代わりにもならない戦艦の役割とは何なのか、そしてその敵空母たちに立ち向かうにはどうすればいいのか、有り余る時間が逆に、戦艦の肩身の狭さを物語っていました。

そんな中、「い号作戦」激励の為に4月3日にラバウルに発ち、その後ラバウルからショートランドへ向かう山本長官を乗せた「一式陸上攻撃機」が、暗号を解読したアメリカの「P-38」の襲撃によって撃墜されるという「海軍甲事件」が発生します。
4月18日のことでした。
これまで訓練こそ過激なものの穏やかな洋上ですごして映画を暢気に楽しんでいた面々にとって、これほどまでに戦争を実感する出来事はありません。
何しろ海軍実務部隊のトップであり、そして【武蔵】がトラック進出後に抱えていた山本長官が、一瞬のうちに命を落としたのです。

1ヶ月間はこの事実を秘匿し続けた上層部でしたが、特に住処であった【武蔵】の中では、そもそも戦死した18日の段階で、【武蔵】を出発してから2週間が過ぎていることから色んな噂が飛び交っていました。
特に噂されていた19日の帰還がならなかったことから、のっぴきならない事態が起こっていると、艦内はますます不安に陥りました。
【武蔵】山本五十六戦死の訃報を初めて受け取ったのは、4月21日のことでした。
その後もこのことはトップシークレットとなり、大半の乗員は空のままの椅子を眺めるばかりでした。

4月23日に遺骨が【武蔵】に戻ってきました。
しかし長官室付近は見張りが立って立ち入り禁止となったほか、25日に古賀峯一大将【武蔵】に乗艦した時から大将旗が再び翻ったことで、士官も徐々に事態を理解し始めました。
加えてこれだけの乗員がいるわけですから、「誰にも言っちゃいけないよ」とみんなが言いながら、噂は広まっていくものなのです。

5月17日に【武蔵】はトラックを発ちます。
21日には【武蔵】の乗員にも山本長官の死が正式に伝えられ、そして【武蔵】はかつての主の遺骨を本国へ送り届けるために日本へと帰っていきました。
ただ、この17日の出撃の本来の役割は北方海域で活発化するアメリカの動きを封じるためというのが本来の目的であり、出撃後にアリューシャン列島の放棄が決定されたことでこの作戦が消失、結果として遺骨を運ぶためだけの移動となったわけです。

横須賀港を目前に控えたところで、艦内では告別式が執り行われました。
入港後は遺骨が引き上げられましたが、一方で天皇陛下の行幸も行われています。
ドックでの整備を行った後、7月31日に【武蔵】は愛媛の長浜沖よりトラックに向けて出発しました。

しかしトラックに戻ってからも、戦艦の立場は変わりません。
その後も【大和】と同じく待機が続き、「大和ホテル」と対なす「武蔵御殿」と揶揄されていました。
いざ出陣とマーシャル方面に向かうも、9日間洋上に浮かび続けただけの空振りに終わり、今度は「連合艦隊の大散歩」と罵声が飛びました。
世界最強の戦艦は、出し惜しみに加えてそもそも出る幕がないという二重苦に苛まれていました。

このトラックに在泊中に、【武蔵】は防火対策のリノリウムや塗料剥がし、可燃物の撤去が継続して行われ始めました。
戦時中にも関わらず未だ火砲の一撃も交えたことのない、どころか海戦にすら出撃したことのない【武蔵】は、対抗すべきは砲撃ではなく空襲であることを自覚し始めたのです。
かつては内装も豪華で洋上ホテルと言える存在だった【武蔵】でしたが、日に日に彩りは失われ、やがて殺風景な鉄だらけの艦内へと姿を変えていきます。
木甲板も黒か鼠色の塗装、もしくは掃除を一切取り止めて汚れを甲板にしみ込ませて黒くさせるといった方法がとられ、隠蔽性を高める行動も進められました。
【武蔵】の塗装や塗装剥がしは長い時間をかけて行われていたようですが、昭和18年/1943年末の段階ですでに甲板は黒かったという証言がいくつか残っています。

昭和19年/1944年2月17日、トラック島が空襲されます。
実は日本はマーシャル諸島の陥落によってトラック島はすでに敵の射程圏内に入っていることを理解していて、空襲前から続々と艦が脱出しており、2月10日に【武蔵】や重巡、空母らはトラック島を出撃していました。

ところがこの情報は在泊する船全てに伝えられていたわけではなく、戦線は縮小しているのに作戦行動が複雑化して情報共有に大きな穴がありました。
トラック島に残る海上護衛総司令部とその任務を担う駆逐艦や輸送船などには全くそのような情報が下りてこず、【武蔵】撤退から1週間もあったのにトラック島は甚大な被害を負ってしまったのです。
どれだけ輸送が重要であっても、何よりもまず不沈艦が大事、【武蔵】は15日に横須賀に到着しました。

ただ、横須賀に戻った後の【武蔵】の今度の仕事は、言い方は悪いですが、見捨てた輸送船たちの代わりでした。
トラック島が死に体となってしまった中、次に海軍の拠点となったのはパラオでした。
【武蔵】はこのパラオへ向かう際に、大量の物資と陸海合わせて数百の兵員を乗せることになりました。
喫水線は2mほど下がっていて、想定される排水量は74,000tにまで至りました。
通商破壊による被害が続出している中、皮肉なことに、潜水艦の魚雷を受けても余裕綽々で通過できる頑丈性を持つ【武蔵】が、初めて【武蔵】であるが故に行えた任務とも言えるでしょう。

その後24日に船団は横須賀を出撃しますが、出港して間もなく船は嵐に突入。
駆逐艦はとても波に逆らうことができず、振り回されながら必死に前進しますが、さすが【武蔵】は幅広の構造も相まって悠々と突破していました。
しかし護衛の駆逐艦をほったらかしにすることもできず、彼女らに合わせるために速度は最終的に4ノットにまで落とさざるを得ませんでした。
こうなるとでかさが裏目に出ます。
ゆ~らゆ~らとゆっくり上下左右に揺れるものですから、荒波を突っ切るより船酔いしやすいわけです。
加えて艦内には海に慣れない陸軍兵も大量にいますから、普通の航行でも危ない人が耐えきれるわけがありません。
あっという間にあっちこっちで呻き声と吐瀉物が散らばり、惨憺たる光景となってしまいました。

そんな地獄を乗り越えて29日にパラオに到着します。
ところがせっかく到着したパラオも、近々空襲の危機にあることを3月27日に暗号解読から察知します。
翌日には索敵機も機動部隊を発見しましたが、船団はいなさそうだということで、トラック島と同じく食い散らかすだけで占領しないということがわかりました。
距離からしてパラオ来襲は30日以降と判断されます。

29日になって、連合艦隊は在泊艦艇を一時的に避難させることを決定します。
しかし【武蔵】は潮が引いてしまうと航路が浅瀬になって動けなくなることから、数時間という超短時間で出港をしなければならなくなりました。
この時全員が艦内にいればまだよかったのですが、いきなりの出来事だったので陸で仕事をしている兵士も大勢いました。
このドタバタの中で全員の収容もしくは通達ができなかったことから、一部の兵士たちがパラオに取り残されたまま、【武蔵】たちは急いでパラオを脱出しました。

しかしその離脱途中に、艦隊の警戒をかいくぐってきた【米ガトー級潜水艦 タニー】の魚雷が後方から【武蔵】に迫ってきました。
この時零式水中聴音機が魚雷を探知したので、【武蔵】は慎重に舵を取り、魚雷の間に入るように回避行動をとりました。
そして2本は回避できたのですが、1本だけ何故かかなりの低速で後ろからノロノロと【武蔵】を追いかけてきました。

とっとと追い抜いてほしいのですが、針路と同じ方向に向かってくる魚雷はなかなか回避できません。
どっちに舵を切っても艦首か艦尾が膨らみますから、ギリギリの距離を並走する場合はどこかで天命に任せることになってしまいます。
皆が恨めしく白い雷跡を目で追いますが、どうやら魚雷と【武蔵】は並行ではないようで、ゆっくりと艦首に向けて進んでいきます。

当たってくれるなと皆が願い続けましたが、残念ながらついに魚雷は左舷艦首に命中してしまいました。
しかしさすが不沈艦、魚雷1本程度ではビクともせず、ちゃっちゃと注水をした【武蔵】は速度を上げて潜水艦から逃げ出します。
乗員の証言では、魚雷が命中した時よりも反撃の爆雷の音のほうが腹に響いたそうです。

【大和】では魚雷による戦死者は出なかったのですが、【武蔵】はこの被害で全部注排水管制所と揚錨機室にいた計7名が戦死しています。
命中箇所が艦首と防御が薄い場所だったことで、破孔は直径5m以上の大きさでした。
この雷撃で揚錨機が1組破壊されてしまいました。

加えて【大和】が昭和18年/1943年12月25日に【米バラオ級潜水艦 スケート】の雷撃を右舷後部に受けて大きな被害をもたらした対策が全く講じられていなかったため、2,600tもの膨大な浸水を被っています。
この時の【武蔵】の被害も、リベットの数が衝撃に耐えうる数でないことは確かですから被害増大に繋がったと想定されます。
本来であればパラオの空襲をやり過ごした後はパラオに引き返す予定でしたが、この損傷もあって【武蔵】はそのまま呉へと戻ることになりました。
戻ってくる予定だったために連合艦隊司令部もパラオにあったのですが、このパラオ空襲の結果、ダバオへ向かう途中で発生した一大失態の「海軍乙事件」のきっかけにもなっています。

呉に帰投した【武蔵】は、無用の長物となっている15.5cm三連装副砲のうち側面に設置している2基を撤去し、25mm三連装機銃が両舷3基ずつ設置されました。
本来はこの箇所には12.7cm連装高角砲が6基搭載される予定でしたが、在庫がなかったため間に合わせて25mm三連装機銃となりました。
これとは別に三連装機銃がさらに16基、単装機銃が25基増備されています。
また22号水上電探2基、13号対空電探2基もこの時に設置されました。

また、配備のタイミングがわかりませんが【伊勢】【日向】で有名な12cm28連装噴進砲【武蔵】にも2基搭載されていたと言われています。
ただしこの噴進砲の初試射は昭和19年/1944年8月と記録されているため、このタイミングだと試射の記録と整合しません。
搭載したのであればいつ、どこでなのか、謎として残っています。

その後「あ号作戦」とそれに付随する「マリアナ沖海戦」の為に【武蔵】は他の多くの主力艦とともにタウイタウイ泊地へ進出します。
【武蔵】らは5月11日に佐伯湾を出港してタウイタウイへ向かいました。
ですがタウイタウイは潜水艦がうようよ出てきて、連日対潜哨戒に駆逐艦が駆り出されていたのですが、どんどん返り討ちにあっておりおちおち訓練もできない状態でした。
特に空母の飛行訓練は、航行中の空母からの発着艦が訓練の肝ですから、潜水艦が陣を張っているとこの訓練も困難になります。

加えて日本のパイロット養成は大きな穴が開いていて、開戦前に過酷な訓練を積んできた腕の立つパイロットは皆ここまでの戦いで散っていきました。
戦死者が出るのは仕方のないことですが、その後に続く者が大した訓練も受けないうちに戦場に駆り出されてしまうので、初心者マーク付きの航空機がどんどん増えてしまいました。
そんなレベルでタウイタウイに連れてこられたものですから、発着艦訓練中になんと50機超の艦載機が失われてしまいました。
「マリアナ沖海戦」は、こんな悲惨な状態で始まったのです。

足元がおぼつかい中で戦場に引っ張り出されてしまった海軍は、結局2日に渡る「マリアナ沖海戦」で大量の航空機と【大鳳】【翔鶴】【飛鷹】を失う最悪の結果となります。
初心者の艦載機が、あの目の前が爆発し続ける対空射撃を突破できるはずがなく、加えて敵戦闘機もどんと待ち構えていましたから、こちらの攻撃もほとんどが無効化されます。
逆に日本では攻撃を終えて戻ってきた味方機に対して対空射撃を行うお粗末ぶりで、数機が撃墜されています。
【武蔵】【大和】とともに三式弾で上空で蠢く無数の敵機を攻撃し、20機以上の撃墜を記録はしていますが、ついに徹甲弾を装填して敵艦艇にぶっ放すという本来の使命を果たすことはありませんでした。

「マリアナ沖海戦」の敗北により、航空戦となっているこの戦争での勝ち目は潰えました。
空母は【瑞鶴】と改装空母のみ、艦載機は数不足でまともにそろえることもできない。
こうなると最強の旧時代兵器である戦艦を中心に一点突破するしかありません。
残る戦力のほとんどを注ぎ込んで、破れかぶれの「捷一号作戦」が発動されました。
どうせフィリピンをとられたら艦隊の機能もほぼ死んでしまうのだからという、背水の陣の作戦でした。

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重すぎた不沈艦の称号 さらば日ノ本の国、武蔵沈没

昭和19年/1944年7月14日時点の兵装
主 砲45口径46cm三連装砲 3基9門
副砲・備砲60口径15.5cm三連装砲 2基6門
40口径12.7cm連装高角砲 12基24門
機 銃25mm三連装機銃 35基105挺
25mm単装機銃 25基25挺
13mm単装機銃 2基4挺
電 探21号対空電探 1基
22号水上電探 2基
13号対空電探 2基

出典:[海軍艦艇史]1 戦艦・巡洋戦艦 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1974年

レイテ島へ向けて出撃する前に、【武蔵】は塗装を塗りなおしています。
その色が銀鼠色であったことから、結果的に次の海戦で大きく目立つ存在にはなりましたが、そもそもこの時期は【大和】もグレー基調の塗装だと言われています。
塗装をするかどうかは各艦が決めることですが、【武蔵】は最後の戦いのつもりで、死に装束を身に纏うつもりで新調したのかもしれません。
8月12日に艦長に猪口敏平大佐が着任しますが、彼が4代目艦長、そして副長が2代目の加藤憲吉大佐であったことから、「四二装束」と語呂をあてられて気味悪がられていました。
前年末のトラック島での可燃物除去の際に塗装もされていたようですが、先述の通り塗装は時間を見つけて部分的に行われていたようです。
猪口艦長【大和】の副長であった能村次郎大佐(猪口が砲術学校の教頭だった際の教官)にも塗装を進めたのですが、「塗装するぐらいなら休んだ方がいい」という思いを胸に秘めながら断っています。

【大和、武蔵】は当然第一遊撃部隊第一部隊、いわゆる栗田艦隊で、作戦の本丸です。
国内は燃料不足の為、7月には水上艦隊はパレンバン油田に近いリンガ泊地に移動していました。
その後出撃を控えてブルネイにいた、第一遊撃部隊は10月22日にブルネイを発ち、パラワン島西を通過して、東進してから南下、レイテ島を目指すというルートでした。
しかしこのルートの最大の障害として、パラワン水道がありました。
パラワン島とミンドロ島の間にあるこの海峡は交差点のような位置にあり、横断縦断どちらもできますから網を張るには絶好の場所だったのです。

いくら不沈艦だと威張っていても、今回は作戦が作戦なので、さすがに艦内も動揺を隠しきれない乗員が目立ちました。
罠にかかるのを覚悟で進んだわけですが、結局旗艦の【愛宕】【摩耶】が沈没し、【高雄】は大破撤退。
「高雄型」は火力もさることながら設備面でも非常に秀でた巡洋艦だったため今回の艦隊でも旗艦になっていたわけですが、たった1時間で【鳥海】1隻になってしまいます。
この作戦がどれだけ無謀なものかが身に染みた被害でしたが、後戻りはできません、栗田艦隊は東進を続けました。

そして翌24日、栗田艦隊はシブヤン海に到達しました。
(以下、時間はブレがあります。)
敵味方共に相手の存在を確認し、そして午前10時29分から、第一波の攻撃機が栗田艦隊に襲い掛かってきました。
「シブヤン海海戦」の始まりです。
これまで波が起こる音しか聞こえなかった大自然の中に、突如として人工的な発砲音が無数に響き渡りました。
第一波の攻撃は10分ほどで終わりましたが、ここで【武蔵】は早くも右舷中央部に魚雷を1本受けています。
記録ではこの第一波では【武蔵】の主砲は完全にだんまりだったという証言のほうが多いです。

被害そのものが軽度なのは今更言うまでもありませんし、右舷側5.5度の傾斜がありましたが注水により1度にまで回復。
速度も1ノット低下の最大26ノットが発揮でき、艦隊行動に支障はありません。
ですが魚雷は命中してから上に跳ね上がってから爆発したそうで、つまり海面にかなり近いところで炸裂したと言われています。
その衝撃で甲板には大穴が開いていたそうです。
ですが被雷の最大の被害は艦橋トップにある方位盤の故障で、衝撃で方位盤が架台から落ちて旋回できなくなり、砲撃に大きな支障が出てしまいました(第一波では砲撃があり、旋回中の砲撃による振動が原因という説もあります)。
その他1番砲塔には直撃弾を受けますが、45kg爆弾と推定され、厚い装甲がこれを難なく跳ね返しています。

12時7分からの第二波は、今度は一際大きな【武蔵】【大和】へ攻撃が集中しました。
今度こそ【武蔵】は主砲を放ち、敵編隊に向けて爆音を轟かせましたが、方位盤故障の影響で照準は各砲塔に任せることになってしまいました。
しかしこの時から、主砲を発射する際の事前のブザーが鳴らないケースが出てきました。
衝撃が強すぎるため、砲撃時に甲板に生身の人間が立っているとどんな被害を受けるかわからないためにブザーが鳴るということが決まっていたのですが、予告なく主砲が雄叫びを上げるわけですから、甲板の機銃員などは卒倒したり意識が混濁したりと酷い有様でした。
頭を抱えながら持ち場に戻ろうとしても、フラフラの状態では迅速に敵機に照準を合わせることもできません。
現場は大きく混乱していました。

【大和】は雷撃を回避し至近弾だけでしのぎましたが、【武蔵】は回避行動中に雲に隠れて後方から突っ込んできた雷撃機を撃墜できず、左舷に3本の魚雷を受けてしまいます。
この雷撃はさすがに見逃せる被害ではなく、二番機械室が大量の高温蒸気で満たされてしまい、とても操作できる環境ではなくなってしまいました。
その他被雷箇所から注排水区画なども浸水し、今度は左舷5度ほどの傾斜が発生します。
浸水を食い止めた箇所も、補強は行ったものの全く安心できる状態ではありませんでした。
ですがここも注水によって1度まで回復しており、今もってなお【武蔵】は健在でした。

第二波の被害は魚雷だけでなく、2発の被弾もありました。
左舷艦首に命中した一撃は艦首に浸水をもたらし、艦中央部の250kg爆弾も最上甲板、上甲板を貫いて炸裂し、多くの乗員を殺傷しました。
第二機械室が使用不可になり3軸運転を余儀なくされ、また第十二缶室が使用不能、艦首被弾により約2m沈下したことで【武蔵】の最大速度は22ノットにまで低下してしまいます。

他に高射装置からのデータを送る道である発砲電路も破壊され、主砲に続いて高角砲も砲側照準を強いられることになります。
この結果、各高角砲や機銃が連携して攻撃ができなくなり、以後攻撃が分散されて弾幕が薄くなってしまいました。
また被弾の衝撃と思われますが、装填していた1番砲塔の中砲が突然押し戻され、内部を破壊してしまいました。
この結果1番砲塔は砲撃ができなくなったと言われています。
1番砲塔が使えず、更に最大22ノットという制限は、個艦はともかく艦隊としての行動を著しく阻害する被害でした。

1時間ほどの間が開いて次は13時30分から第三波、そして数分後に第四波が立て続けに到来します。
重油を垂れ流している【武蔵】は他の艦に比べて明らかに手負いでした。
この第三波空襲が【武蔵】沈没の最大の要因となる被害をもたらし、数にして魚雷5、直撃弾4、至近弾2という、普通の船ならこれだけで確実に致命傷になるダメージを受けています。
一番砲塔が使えない分、そして機銃がどんどん破壊された中、気を吐いたのが2基の副砲で、この第三波で海戦最大の79発を発射しています。

【武蔵】にとって不運だったのは、被害の一部がすでに被弾、被雷している箇所のすぐ近くで発生し、左舷艦首と右舷中央部の浸水がより悪化したことでした。
艦首被弾は水密構造を破壊してしまい海水がドバドバ入り込み、第三水圧機室は満水、沈下は4mとさらに悪化します。
右舷の再びの被雷も防水補強が破壊されてやはり浸水が悪化し、船は相変わらず異常なほど丈夫なのですが、どんどん海水に足を引っ張られるようになります。
それでも未だ注水で傾斜回復ができてしまうあたりは、ダメージコントロールの観点から見れば恐ろしく強靭な肉体であることは間違いありません。

ですが沈まない船は確実に沈みつつありました。
これまで栗田艦隊はこれまでの対空兵装の弱さを払拭するかのように、遠距離は三式弾、中近距離は副砲や高角砲、機銃が猛烈な弾幕を展開し、何機も撃墜し、何度も火を噴く姿を目にしてきましたが、落としても落としてもきりがありません。
鮮血が至る所に飛び散り、日光に照らされて不気味に光ります。
甲板にある血だまりは乗員の脚に生への執念かのように絡み付き、肉片や四肢、そして戦死者もそのまま転がっています。
治療室では耳を塞ぎたくなる叫び声が途切れることなく響き渡っていましたが、一方で明らかに重症なのに痛がるそぶりも見せずにケロッとしている者もいて、悪夢のような光景でした。
やがて前部治療室は爆撃による一酸化炭素充満によってその声も聞こえなくなりました。

いまだ最大20ノットは出せるという強力な馬力は健在でしたが、この重たい海水を背負ったままではろくに回避行動もできませんし、また対空射撃も多くの戦死者が出ていることと主砲の精度が落ちていることで自衛も難しくなってきました。
防水区画もほとんどが浸水した状態で、構造上これ以上の浸水を抱えることができません。
やがて【武蔵】は完全に第一部隊から落伍し、12km後方を進んでいた【金剛】ら第二遊撃部隊に組み込まれる形となりました。

このおかげで14時20分から始まった第五波の空襲は【武蔵】にはやってきませんでしたが、【大和】【長門】に被害がありました。
ここでは事なきを得た【武蔵】でしたが、機動性を大きく落とした【武蔵】は自身が生き残る意味でも艦隊の円滑な行動面でも離脱するしかありませんでした。
【武蔵】【清霜】【利根】に護衛され、反転コロンへ向かうことになりました。
しかし
第六波の空襲は【武蔵】達を逃さず、14時59分から今度こそ動く要塞を沈めようと突撃してきました。

ロケット弾搭載の「F6F ヘルキャット」は護衛の2隻に襲い掛かりますが、ロケット弾は艦そのものへの影響は比較的低いため致命傷にはなりませんでした(人的殺傷能力は非常に高い)。
ですが本丸の【武蔵】にはやはり「SB2C ヘルダイバー」「TBF アヴェンジャー」が突っ込んできて、猛烈な攻撃を仕掛けてきました。
特に1発目の爆弾が艦橋内で炸裂し、艦橋内の全員が即死。
この爆弾はアメリカの記録では450kg半徹甲爆弾であり、つまり信管の秒数を若干遅めにして貫通した後に炸裂させて空間への衝撃を大きくさせるものでした。
その上の防空指揮所にいた艦長の猪口敏平少将も負傷し、指揮官の被害はここで致命的となります。

今度は右舷の艦首付近に魚雷が命中し、今まで浸水していなかった場所でさらに浸水が発生。
この艦首への度重なる被雷が【武蔵】の寿命を縮めたのは間違いありません。
第六波の攻撃だけで、【武蔵】は被雷11本(2本不発)、直撃弾10発、至近弾6発を受けています。

これだけの被弾があると、生き残っている機銃はもう残り僅かでした。
艦首は波に洗われる寸前まで沈下し、さらに第四機械室も被雷からなる浸水で使い物にならなくなり、【武蔵】は二軸運転でよろよろの状態でした。
度重なる被弾と水圧などで補強材も変形して防水が追いつかず、魚雷が舷側甲鈑を貫通して機銃弾庫にまで到達したりと浸水による被害は増大する一方でした。

至近弾の水しぶきは甲板に降り注ぎ、ドロリとした血液を海に還していきます。
治療室の前には負傷者が延々列を作り、呻き声と血が流れるばかり。
甲板で戦い続ける兵士の数は激減し、そして機銃も酷使によって過熱しており、戦闘能力も大きく低下していました。

シブヤン海海戦で猛攻を受ける【武蔵】

それなのに、それなのにまだ【武蔵】は沈みません。
艦首の沈下は8mに達し、甲板上で最も低い場所になる1番砲塔付近はほぼ海面と並ぶほどでした。
傾斜は左に10~15度ほどあり、発電機や舵取電源喪失による舵故障も起こしています。
ところがここに至ってもなお傾斜は6度にまで回復し、操舵も人力操舵への切り替えが完了、さらに速度は最大で18ノット発揮できたと記録されています。
あまりに痛ましい、しかしあまりに勇ましい姿。

ですがいくら沈まないと言っても、動けなければ意味がありません。
まっすぐ進もうとしても舵が安定せずに蛇行してしまうため、18ノットという数字を発揮することは現実的ではありませんでした。
加えて満水状態の【武蔵】がここから370kmも先にあるコロンまで向かうというのもこれまた現実的ではありません。
理論値だけでは物事は進みません、結局この被害ではコロンまで逃げ帰るのも不可能だと思われたため、【大和】からは「付近のシブヤン島に座礁し修理を行うか陸上砲台となれ」という信号が送られます。
いよいよ【武蔵】にも限界が迫っていました。

一方で、栗田艦隊は第六波の空襲を受けてもまだ日が高いことを危惧し、この先は針路が狭くなるため日中だとさらに被害が増大するということを理由に、反転西進を始めていました。
すでに撤退を行っていた【武蔵】でしたが、無事な艦隊が先に引き上げていく姿を眺めるしかありませんでした。
【武蔵】【利根、清霜】、さらに加わった【島風】の護衛の下で必死に足掻き続けます。
右舷軸のみの航行となっていた【武蔵】は、とにかく浸水を、浸水を防げば沈まないという言葉を全員が胸に刻んで死に物狂いで動き回っていました。
排水が難しい以上、入ってくる海水を抑えなければなりません。

幸い火災はほとんど起こっておらず、すべきことは防水と傾斜回復の為に重い物や人員を右に寄せる作業でした。
対空班以外に重量物の移動の命令を下すために、大半の乗員が甲板上に集められました。
もちろんこれまでの自分の持ち場がありますから、戦闘が始まってから初めて甲板に上ったものが大半でした。
その凄惨極まる光景は、現代のホラー映画ですら吹いて飛ぶほどの地獄でした。
これが、数日前にブルネイで見た、あの【武蔵】か。
不沈艦と謳われ、世界最強の、圧倒的世界最強の戦艦の姿か。
右を見ても左を見ても、足元を見ても構造物を見ても、見渡す限り血、血、血。
人間とはこれほど簡単に四散し、そしてこれほど大量の血を巡らせているのか。

【武蔵】は護衛の【清霜】に対して、日が暮れてから艦尾の曳航操舵を試すことを伝えました。
この重量物移動でどこまで回復するか、しかし持ち直せば必ず生き残る、という願いがそこには込められていました。

しかし数万トン規模の浸水が【武蔵】を引きずり降ろそうとしているのに対し、人が運べるほどの荷物や死傷者の移動だけでは何トンにもなりません。
一番重たい左舷主錨を投棄し、さらに右舷居住区に無理矢理注水までしています。
それでも地球の7割を占める海水に対しては【武蔵】は巨大でも何でもありません。
再び傾斜が10度を超えるに及んで、最終的には缶室や第三機械室にまで水を流し込むという荒業にまで出ていますが、そんな努力もむなしく、【武蔵】はじわりじわりと左へ傾いていきました。
傾斜が酷くなるとその力以上に逆側に引っ張らなくてはなりませんから、傾斜は酷くなればなるほど回復の道筋は細くなっていきます。

17時14分、反転していた栗田艦隊が再反転、再びレイテ島を目指して東進し始めました。
【武蔵】を護衛していた【島風】は、【摩耶】沈没時に救助していた人員や負傷者を引き取って栗田艦隊に戻っていきました。
他に【利根】も十分戦力として戦える状態だったため、戦列に復帰を嘆願し、【武蔵】から離れていきました(1回却下されています)。
【清霜】【浜風】は護衛に就いていましたが、ゆっくり傾きつつある【武蔵】の周辺をウロウロすることしかできません。

【武蔵】の最期。艦首が大きく沈んでいるのがわかる

19時15分、傾斜はついに12度に達しました。
副長である加藤憲吉大佐が、総員退去を決定しました。
不沈艦【武蔵】の最期が決まった瞬間でした。
猪口艦長は遺書と形見のシャープペンシルを加藤副長に渡し、艦長休憩室の鍵を閉めました。

甲板には生き残った乗員が揃いましたが、すでに士官の独断で海に飛び込んでいる者もいました。
足元はおぼつきません、傾斜はさらに酷くなります。
【浜風】【清霜】が乗員救助の為に【武蔵】から接舷の命令が下りますが、馬鹿みたいに巨大で、しかも傾斜が酷くどのように動くか予測できない【武蔵】に接舷するのは非常に危険でした。
しかもすでに周囲は暗くなっていて、ふとした拍子に接触したらあっという間にこっちがお陀仏なのです。

軍艦旗が降ろされ、海に飛び込むように命令されますが、皆足がすくんで飛び込めません。
なにしろ20mもの高さがあるのです、いくら下は海で、衝撃で死ぬことはないとわかっていてもあまりに高すぎます。
しかし傾斜が酷くなると途端に傾斜速度は速くなります。
いつまでも【武蔵】にしがみついていれば、飛び込むどころか飛んでくる積載物などに吹き飛ばされてしまいます。

【武蔵】とともに死ぬか、【武蔵】の死を乗り越えて生きるか、1秒が何分にも感じる恐怖と戦いながら、ついに1人が飛び込み、そして次々と意を決して【武蔵】の甲板を蹴りだしました。
ですが最後まで飛び込む勇気が持てず、傾斜で滑り落ちる兵士や荷物に衝突して次々に左舷側に放り出されていく者もいました。
副長の「自由行動をとれ!」という命令を受けても、簡単に恐怖には打ち勝てません。
船乗りと言えば泳げて当たり前だと思われるかもしれませんが、特に志願兵などの急ごしらえの新兵の中には泳げない者もたくさんいました。
もちろんれっきとした海軍兵でも、泳げない者はいるわけです。
ここにいればあと数秒は生きている、しかし飛び込めば確実に溺れ死ぬ。
この場面で飛び込めなかった者を責めるのはあまりに酷です。

この時の【武蔵】の傾斜は30度程と推定されており、わずか20分で18度も傾斜が進んだことになります。
しかも命令が下るや否や、【武蔵】はさらに急速に傾斜し始めました。
【浜風】【清霜】も、その唐突な傾斜に巻き込まれるギリギリまで接近していたため、【浜風】後進、【清霜】前進で辛くも離脱しています。

船から飛び降りた後はいち早く船から離れなければなりません。
沈没する船は渦を生み出し、海水だけでなく人も飲み込み、また爆発も起こるからです。
横転し、煙突が半分ほど水に浸かったところで1回目の爆発が発生しました。
この後にも【武蔵】は爆発を起こしていて、ここまで生き抜いたのにこの爆発の衝撃で戦死した者も多数いました。

船から脱出しても、次は救助されるまで耐え抜かねばなりません。
試練は次から次へと敗者にのしかかってきます。
可燃物が除去されたことから浮遊物が極端に少なく、また極度の疲労により身体は重いため逆に力を抜くことができません。
さらに溢れだした重油が身体にまとわりつき、臭いや飲み込んだことで余計に身体を痛めつけます。
余裕のある者は服を脱ぎ棄てひたすら浮かぶことに集中できましたが、精神的に追い詰められている者は重しになる服を脱ぐことすら憚られ、やがて誰かにすがりつこうとする者がそこかしこで現れます。
それを振り払う気持ちはいかばかりか。

しばらくして、【清霜】【浜風】が救助の為に駆け寄ってきました。
ここが最後の試練です。
助かったとわかった瞬間、気力がプツッと切れて、穏やかな顔で沈んでいく者が次々と現れるのです。
救助されてから息を引き取る者、ロープに触れた瞬間に沈んでいく者、潮に流れないように駆逐艦は低速で動いているのですが、その小さな流れに耐え切れずに後方に流されてしまう者。
最終的に生存者は【清霜】が約500名、【浜風】が約830名救助されています。
栗田艦隊にその後の行動の指示を仰ぎましたが、返答がなかったため2隻はコロンへ向かうことになりました。

世界最大最強の戦艦の一翼を担った【武蔵】
ですが【武蔵】は最強であると同時に、最堅牢の戦艦であったことも忘れてはなりません。
日本側が報告している被弾内容は、「軍艦武蔵戦闘詳報」によると「被雷20本以上、被弾17発以上、至近弾20発以上」となっています。
恐らく被害状況を知るものとして最も一般的だと思われる、著:吉村昭「戦艦武蔵」に掲載されております資料がこちらです。

設計上での【武蔵】の予備浮力は57,450tで、戦闘詳報などの被害から推定される浸水量は35,000~40,000tと言われています。
なので計算上では【武蔵】はこれだけの被害を負ってもなお沈まないことになっていたのです。
ですが丸い物体ならともかく、こちらは船なわけですから、浸水する場所とその量によってバランスは大きく変わってきます。
【武蔵】は被害が左右にばらけたことで、【大和】のような沈み方はしませんでした。
しかし艦首に相当の浸水をきたしたことが復原力喪失に直結しており、結果浮力はあっても浸水に耐え切れなくなったことから沈没に至りました。
恐らく数多の駆逐艦のように艦首が吹き飛んでいれば、逆に【武蔵】は健在だったでしょう(後進で生還できたかどうかは別として)。

とは言うものの、浸水で沈む船はたいてい浸水による復原力の限界突破が原因なので、これで【武蔵】が堅牢だというのは少し違う気がします。
【武蔵】の場合は、被害に対して沈むまでの時間が非常に長いという点こそ堅牢さを物語る部分だと思います。
そして心血を注いで守ろうとしたバイタルパートは見事に被害を食い止めており、甲板被弾により第二機械室が使えなくなったほかはほぼほぼ守り通しています。
バイタルパートへの魚雷命中も何発もありますが、機関や弾薬庫に影響を与えてはいません。

加えてこの水上要塞である【武蔵】の被害は、他の艦の被害を最小限に食い止めることにもなりました。
【武蔵】と運命を共にした猪口少将は遺書に

「唯本海戦に於て他の諸艦に被害ほとんどなかりし事は誠にうれしく、何となく被害担任艦となり得たる感ありて、この点幾分慰めとなる。」

と記しています。
一方で猪口少将は対空射撃の威力と精度の悪さを嘆いています。
最終形態の【大和】が機銃と高角砲を山のように積み込んで沖縄を目指したわけですが、アメリカの機体は単発機も双発機も無数に現れます。
速射性が求められる対空機銃ではありますが、指揮統制はあっても照準は人力なので、遠くからいろいろ計算して船を狙う砲撃や高角砲とは全く勝手が違います。
それこそ旧時代の戦艦の砲撃戦のような、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる理論で戦うしかないのです。
そしてその手段である以上、精度を高める手段を徹底しなければなりません。

機銃の数は「レイテ沖海戦」に限れば非常に潤沢に配備されていたと言えるでしょう。
しかしそれでも【武蔵】【妙高】の被害、また他の艦の被害を見ても敵勢力に対しては不足していたと言わざるを得ません。
敵機は頑丈な構造で、25mm機銃程度では被弾はしても弾かれたり、数発の貫通程度では耐え抜かれているため、例え機銃の数が倍であっても被害は決して半減しません。
日本の40mm機関砲「マレー作戦」でイギリス軍から鹵獲したボフォース40mm機関砲のコピーである五式四十粍高射機関砲が終戦時に僅かに製造されただけ。
アメリカはスイスのエリコン製FF20mm機関砲と不良の国産品28mm機銃からボフォース40mm機関砲への置き換えが進んでいたため、本来であれば日本が先んじてこの対策をとっていなければなりませんでした。
「シブヤン海海戦」での【武蔵】の戦う姿は、帝国海軍が旧態依然とした思考で太平洋戦争に抗い続ける姿そのものだったと言えるでしょう。

【武蔵】の生存者は、【武蔵】沈没を「証明してしまう」生存者であることから、隔離されて新たな所属先もないまま終戦を迎えています。
一部は輸送中に戦死、一部は移送されたコレヒドールやマニラでの戦いで戦死と、救助されてからも安寧の時が与えられない者が大勢いました。
そして終戦から70年となる2015年3月、アメリカのポール・アレン氏創設のチームがシブヤン海水深1kmで眠っている【武蔵】を発見しています。
【武蔵】の姿は沈没した時とは全く異なり、弾火薬庫からの度重なる爆発によりバラバラになっていました。

2021年10月24日 加筆・修正



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