秋風【峯風型駆逐艦 九番艦】

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起工日大正9年/1920年6月7日
進水日大正9年/1920年12月14日
竣工日大正10年/1921年4月1日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月3日
ルソン島付近
建 造三菱長崎造船所
基準排水量1,251t
垂線間長97.54m
全 幅8.92m
最大速度39.0ノット
馬 力38,500馬力
主 砲45口径12cm単装砲 3基3門
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 3基6門
機 銃6.5mm単装機銃 1基1挺
缶・主機ロ号艦本式缶 4基
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸

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駆逐艦秋風虐殺事件 峯風型屈指の激戦地巡り

【秋風】「支那事変(日中戦争)」では華中の沿岸で活動をしていました。
昭和15年/1940年には【羽風】【夕風】【太刀風】とともに第三四駆逐隊を編成し、【鳳翔】【龍驤】を中心とする第三航空戦隊に配属されます。
しかし翌年4月には【夕風】だけが第三航空戦隊に残り、残りの第三四駆逐隊はなんと第一航空戦隊に所属することになります。
正に身に余る光栄だったわけですが、1ヶ月もしないうちに第一七駆逐隊が第一航空戦隊に編入となり、第三四駆逐隊は第二遣支艦隊へ異動。
9月にはさらに第十一航空艦隊へと異動となりました。
第十一航空艦隊は国内と台湾の陸上航空基地であり、また南方の航空基地への派遣元になりますから、主に輸送の護衛任務を任されることになります。

太平洋戦争開戦後、緒戦の「マレー作戦」「蘭印作戦」で護衛を行い、さらにラバウルまでに足が伸びるとここと台湾や日本を結ぶ輸送の護衛にも就きます。
昭和17年/1942年8月に「ガダルカナル島の戦い」が始まると、この老体にもかかわらずこんな危険な地域にも第三四駆逐隊は飛び込んでいくことになってしまいました。
ガダルカナルやブカへの輸送を行いながら、時折【秋津洲】を護衛して移動するなど、かなり重要な役割を何度も任されました。

その後も【秋風】は血生臭い鉄底海峡で走り回り、実際に空襲の被害を受けながらもごく僅かな対空兵装で戦いながら任務を果たしていきます。
同様に【太刀風】も空襲によって損傷し、年末には修理のために佐世保へ帰投。
更に翌昭和18年/1943年1月には【羽風】【秋津洲】を護衛中に【米ガトー級潜水艦 ガードフィッシュ】の魚雷を受けて沈没。
第三四駆逐隊は2隻となってしまいます。

3月18日には【秋風】もカビエンを発ち、ラバウルへと向かいます。
この時【秋風】にはカイリル島とマヌス島の現地住民など多国籍の計約70名を乗せていて、これは命令により住民をラバウルへと移送する為でした。
国籍としてはドイツ人が最も多かったようです。
しかしこの約70名は誰一人ラバウルの地を踏むことはありませんでした。
老若男女問わず全員が、【秋風】で処刑されたからです。
「駆逐艦秋風虐殺事件」です。

処刑の理由は今もってはっきりとしていません。
当時はスパイも疑われる時代ですが、尋問のような記録もなく、10歳に満たない子どもも被害者に含まれています。
艦長らはその命令を拒否したかったようですが、上官の命令に逆らうことを軍が許すことはありません。
結局【秋風】では一切の例外なく、成人は一部の斬首を除いて目隠しをして銃殺。
処刑台に吊り下げられた被害者は、銃殺された後縄を緩めるとそのまま海に落ちるようになっています。
子どもは生きたまま海に落とされました。

2時間半~3時間程度で処刑は完了。
【秋風】に部外者はいなくなりました。

【利根】で発生した「ビハール号事件」は殺害されたのが捕虜でしたが、こちらはさらに無関係の民間人とあって、終戦後に連合国は本事件を徹底調査します。
責任は第八艦隊司令長官の三川軍一中将及び参謀長の大西新蔵少将、そして南東方面艦隊司令長官であった草鹿任一中将に問われましたが、最終的に当時の【秋風】の指令系統のトップは南東方面艦隊の戦時日誌が証拠となって草鹿氏であることが確定。
冷戦の炎がくすぶる当時の情勢から草鹿氏が起訴されることはありませんでしたが、言い逃れのできない明確な戦争犯罪でした。

佐世保帰投後の4月1日、2隻となった第三四駆逐隊は解隊。
【秋風】は第十一航空艦隊直属となります。
修理を受けた後再び【秋風】はラバウルへと向かいますが、7月28日は空襲を回避するうちにグロスター岬で座礁してしまった【三日月】【有明】の乗員の救助に向かいました。

しかし翌月にはついに【秋風】も致命的な被害を受けてしまいます。
8月2日に空襲に巻き込まれた【秋風】は直撃弾を環境に受け(被弾数不明)、艦橋はぐしゃっと潰れて艦橋で指揮を執る者たちは軒並み戦死。
マストも第一煙突も跡形もなく、這う這うの体でラバウルに逃げ帰ります。

その後佐世保と舞鶴で修理を受けた【秋風】ですが、これだけの危機を味わってなお、【秋風】の出撃先はラバウルのままでした。
任務は変わらず、しかし危険度は増す一方の南方海域。
【秋風】は11月にラバウルに戻ってきましたが、12月7日に【天霧】と衝突、さらに21日には空襲を受けて再び損傷し、トラックで修理を受けることになりました。

修理を受けて【秋風】は三度ラバウルへ出撃。
しかし昭和19年/1944年2月17日にトラック島が大空襲で殲滅されたため、ラバウルは中継点を失い基地としての機能はほぼ消滅。
この時【秋風】は舵が故障していて出港できなかったのですが、幸い攻撃を受けることなくに空襲をやり過ごすことができました。
空襲後は他の駆逐艦と共に【明石】を護衛してパラオへ退避しました。
船団護衛が続く【秋風】ですが、4月17日にはグアムまで【松江丸】を護衛していたところを【米ガトー級潜水艦 ハーダー】に襲われ、【松江丸】は沈没してしまいました。

5月1日には【秋風】【松風】【卯月】【夕月】で第三水雷戦隊所属の第三〇駆逐隊を編成。
ところが6月には【松風】【米サーゴ級潜水艦 ソードフィッシュ】の雷撃によって沈没し、第三〇駆逐隊はさらに【皐月】【夕凪】を加えたやむを得ずの5隻編成となります。
しかし【夕凪】が8月に【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】によって、9月には【秋風】以上に最前線で走り続けていた【皐月】も空襲によって沈没し、あっという間に3隻となってしまいました。

そして【秋風】「捷一号作戦」でも小沢艦隊の給油を行うタンカー【仁栄丸】の護衛として参加しています。
他に【31号、43号、132号】と3隻の海防艦が就いたのですが、今や「峯風型」よりも量産の海防艦のほうがよほど戦力になります。
それでも数を揃えるため、【秋風】も老体に鞭打って大日本帝国の乾坤一擲の戦に挑みました。

ですがそんな決意をあっさり打ち砕いたのがアメリカの潜水艦です。
10月25日に【第132号海防艦】が雷撃を受けて艦橋付近までを失い大破。
こんな大損害を被ったにもかかわらず、いくら高知沖でまだ日本近海とは言え、なんと【第132号海防艦】は自力航行で呉へと避退します。
更に護衛すべき【仁栄丸】にも魚雷が命中し、【仁栄丸】は沈没。
【秋風】「レイテ沖海戦」に参加することなく脱落し、奄美大島へ向かいました。

それに伴い、【秋風】には新しい護衛対象が与えられます。
それは佐世保からブルネイへの輸送を担った【隼鷹】の護衛でした。
当時はすでに艦載機なんて数もないし乗せる意味もない状態で、【隼鷹】でさえ大型で高速の輸送艦となり果てていました。
護衛には【秋風】の他に同じ第三〇駆逐隊の【卯月、夕月】も参加します。

11月3日、ブルネイへ向けて移動中の4隻の動きをはっきり捉える存在がありました。
【米バラオ級潜水艦 ピンタド】です。
この時周辺には複数の潜水艦が関所のように配置されていて、そのうち【ピンタド】は巨大な艦船を屠るために接近します。
【ピンタド】は高速で移動する巨大な艦船、すなわち【隼鷹】に向けて側面から6本の魚雷を発射。
魚雷は【隼鷹】に吸い込まれるように着実に接近していきました。

しかしそこへその雷跡を遮断する存在が突然現れました。
それが【秋風】です。
これは偶然なのか雷跡を発見した後に身を挺した行動なのかは定かではありませんが、【秋風】【隼鷹】に向かっていく魚雷に直撃。
本数は4本と記録されているようで、これほどの魚雷を受けて耐え切れる駆逐艦は存在しません、【秋風】は大爆発を起こして轟沈しました。
生存者がいるとは到底思えない爆発でした。

【卯月、夕月】が爆雷攻撃を行い、【ピンタド】は戦場から離脱し、【隼鷹】は無事でした。
しかし【秋風】の乗員はどこを見てもまるで見当たりません。
1隻の艦とその乗員をゴッソリ失った3隻は、沈黙のままブルネイへ向かいました。

昭和58年/1983年、【隼鷹】の慰霊碑が呉海軍墓地に建てられました。
その傍らには8年後に建てられた【秋風】の慰霊碑があります。
彼女の護衛任務は今も続いています。

2021年07月04日 加筆修正