起工日 | 昭和8年/1933年1月14日 |
進水日 | 昭和9年/1934年9月23日 |
竣工日 | 昭和10年/1935年3月25日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年7月28日 |
グロスター岬 | |
建 造 | 川崎造船所 |
基準排水量 | 1,400t→約1,700t |
垂線間長 | 103.00m |
全 幅 | 10.00m |
最大速度 | 36.5ノット→33.27ノット |
航続距離 | 18ノット:4,000海里 |
馬 力 | 42,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
50口径12.7cm単装砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 2基6門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 40mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
改初春型、有明型など、様々な分類が存在する有明
「初春型」の五番艦にあたる【有明】は、六番艦【夕暮】とともに「有明型」として建造される予定でした。
もともと「初春型」は61cm四連装魚雷発射管+次発装填装置2セットの組み合わせを目標としていましたが、残念ながら四連装魚雷発射管の開発が「初春型」建造の段階で間に合わなかったため、4隻は三連装3基、5隻目以降は四連装2基とし、代わりに主砲を12.7cm連装砲2基のみにする予定でした。
とにかく一発逆転が期待できる魚雷への期待が高かった日本は、武装は魚雷重視だったため主砲が連装砲2基でも許されました。
しかし「初春型」の公試が始まるや否や、とんでもない復原力の欠如が発覚し、慌てて「初春型」は【初春】~【有明】までに片舷300mmのバルジを取り付け、建造が始まったばかりだった【夕暮】だけはバルジではなく単純に最大幅を+600mmに増加させて急場を凌ごうとしました。
とりあえずこの対応のおかげで最低限の復原性は確保できたとされて、【有明】は建造が進んでいきます。
そして昭和8年/1933年末には【有明】以降の駆逐艦は「初春型」ではなく「有明型」として分類されることが正式に決まりました。
「初春型」は魚雷と5門の主砲を強引に詰め込んでいる設計ですが、四連装2基と連装砲2基になれば随分デザインも変わります。
これを同じ艦型に分類するのなら、確実に「朝潮型~夕雲型」は姉妹艦です。
あまりに傾斜しやすい「初春型」の公試を受けて、【有明、夕暮】には新しい対策が試されました。
それは傾斜型2枚舵を使い、旋回性能を向上させた上にその際の傾斜を弱めようとするものでした。
ところが実際にやってみると旋回性能は変わらないし逆に速度が0.5ノットほど低下してしまい、この実験は失敗に終わってしまいます。
この時後に続く「白露型」(当時はまだ「初春型」7番艦以降や「有明型」3番艦以降の立ち位置)の分(どの計画の何隻分かは不明)も傾斜型2枚舵を先に造ってしまっていて、全部無駄になってしまいました。
実はこの実験は目の付け所は正しかったのですが、舵の形状に問題があり、「米ギアリング級駆逐艦」は半平衡の2枚舵で藤本が求めた成果を得ています。[1-P114]
ところが「初春型」の復原性はバルジ程度ではどうしようもないものでした。
それが発覚したのが昭和9年/1934年の「友鶴事件」です。
この事件を受けてトップヘビー艦の構造が非常に危険だということが発覚し、そしてその最たるものが「初春型」でした。
急遽「初春型」は重心を下げるための改造が始まります。
そしてそれは建造中の【有明、夕暮】も同じでした。
さらに【有明、夕暮】は「初春型」との大きな違いであった四連装魚雷発射管も重量が要求よりもかなり重いということから取り上げられてしまい、これが三連装2基にグレードダウン。
結果として武装は改装後の「初春型」とまったく同じになってしまったことから、「有明型」は消滅し、【有明、夕暮】は「初春型」の五番艦、六番艦となったのです。
それでも本当は別分類になるはずだったので部分部分では違いが残っています。
主砲は「初春型」はB型改二、旧「有明型」はC型となっているようです。
今でも「改初春型」や「有明型」という呼称は、特に改装の影響を大きく受けた4隻と「白露型」に近い部分も残る2隻を分ける場合によく使われます。
翌年には「第四艦隊事件」も発生したことでまたまた改装工事を実施。
これは「初春型」だからというものではありませんでしたが、これも新しい船ほど排水量を抑えるために絞りすぎた強度が限界を超えていたことを明るみにした事件でした。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
心機一転、「初春型」として再スタートを切った【有明】は、【夕暮】とともに次級の「白露型」【白露】【時雨】と第九駆逐隊を編成します。
横須賀鎮守府所属だった彼女らが昭和13年/1938年に佐世保鎮守府へ異動すると、その際に編成も第二十七駆逐隊へと変更されました。
各鎮守府によって編成に振れる番号の範囲が決まっているため、このようなことが発生します。
太平洋戦争がはじまる直前の昭和16年/1941年7月には【有明】は【夕暮】とともに魚雷発射管の改装を実施。
日本ご自慢の酸素魚雷を搭載できるようにパワーアップしました。
12月8日には連合艦隊を護衛して柱島を出撃。
これは「真珠湾攻撃」を行った機動部隊に不測の事態が発生したら駆けつけるためのものでしたが、大戦果を収めたため取り越し苦労に終わりました。
一度艦隊は日本に戻りますが、機動部隊が戻ってくると第二十七駆逐隊は第二十一駆逐隊とともに英雄たちを出迎えるために再度出撃しています。
その後【有明】と【夕暮】は所属の第二航空戦隊の【蒼龍】【飛龍】を護衛してアンボン攻略の為に出撃。
続いてポートダーウィンやケンダリーへの攻撃に従事し、黙々と護衛任務をこなしていました。
「蘭印作戦」が無事に成功、終了したことで、3月22日に【有明、夕暮】は本土へ帰投。
整備を受けて次の命令を待ちました。
4月に入り、第二十七駆逐隊は第五航空戦隊らとともにMO機動部隊に編入されることが決定。
五航戦が中心となって「MO作戦」(ポートモレスビー攻略作戦)を実施することになります。
そしてこの時【翔鶴】【瑞鶴】がインド洋作戦を終えて日本に戻ってくる途中だったので、第二十七駆逐隊はこれを護衛するために日本を出撃ました。
ところが18日に日本は高くしていた枕をいきなり蹴飛ばされる事態に見舞われます。
「ドーリットル空襲」です。
アメリカの奇襲を受けて五航戦は急いで敵空母を追撃するように命令されますが、台湾から追いつけるはずもなく命令はのちに撤回。
日本はそこそこ事前情報を仕入れていましたが全容を掴み切れず、まんまとアメリカの士気回復のチャンスを与えてしまったのです。
トラックに到着した第二十七駆逐隊は、「MO作戦」実施の為に5月1日に出撃。
しかし作戦の趣旨を理解したアメリカも機動部隊を派遣し、両者で索敵合戦が繰り広げられます。
その中で【翔鶴】の【九七式艦上攻撃機】2機がついに空母1隻を含む敵艦隊を発見。
さらに【古鷹】【衣笠】の偵察機も別の方向で【米航空母艦 サラトガ】を含む艦隊発見を報告し、五航戦は行動指針を打ち出し、機動部隊殲滅の準備を進めます。
ところがやがて【九七式艦攻】の報告が誤りであることが発覚。
2機が発見した空母の正体は【油槽船 ネオショー】であり、この報告を受けてすでに出撃していた攻撃隊は雷撃機だけが帰還、爆撃機はしっかり【ネオショー】と護衛の【米シムス級駆逐艦 シムス】を仕留めています。
しかし【九七式艦攻】2機が【翔鶴】に帰り着くことができず、【有明】は不時着水した2機の捜索に派遣され、無事全員を救助しています。
同日は「珊瑚海海戦」が勃発し【祥鳳】が沈没。
翌日は【翔鶴、瑞鶴】が【米レキシントン級航空母艦 レキシントン、米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】と航空戦を繰り広げます。
ですが【有明】は先の乗員救助の為に艦隊を離れていたことで、海戦には全く関与していません。
【レキシントン】を撃沈させることに成功したものの、【翔鶴】の被害も大変重く、結局「MO作戦」はいったん中断せざるを得なくなります。
そして第二十七駆逐隊もMO機動部隊から外れて本土に帰投することになりました。
【夕暮】だけが【翔鶴】護衛の為に一足早く日本に帰っています。
次なる大作戦となった「MI作戦」で、第二十七駆逐隊は主力部隊の護衛として出撃。
今度は【有明】だけが別行動となり、主隊護衛任務を受けています。
【有明】は【鳳翔】の護衛を【夕風】とともに行ったとされています。
言わずもがな海戦は【ヨークタウン】1隻と引き換えに4隻の空母を失う大敗北。
「MO作戦」どころではなくなってしまいます。
そしてポートモレスビー攻略ができなかったことが、のちに非常に大きく響いてきます。
8月に入り「ガダルカナル島の戦い」が始まります。
この時第二十七駆逐隊は第四水雷戦隊に転籍していて、8月22日に【有明】はナウル島を、【夕暮】はオーシャン島へ向けて艦砲射撃を実施。
その後両島は無事に占領をすることできました。
続いて【有明】は本丸であるガダルカナルへの陸軍輸送の一員としてショートランドを出撃。
青葉支隊、一木支隊を送り込むことに成功します。
その後もガダルカナルへの輸送や艦砲射撃を絶え間なく実施します。
しかしヘンダーソン飛行場は日本の攻撃を耐え忍んで着々と整備を進め、日本の駆逐艦による夜間輸送や鼠輸送は常に危険が付きまといました。
輸送中の空襲はもちろん、輸送に成功しても揚陸地が空襲されて消し炭になったりと、肉体的にも精神的にも大きなダメージが日本側に蓄積していきました。
肝心要の陸軍による攻撃もことごとく失敗する中、11月6日に【有明】は機関故障を引き起こしてしまいます。
働き通しだった無理が祟ったのでしょう、【有明】はトラックにいる【明石】のお世話になり修理を受けることになりました。
この修理期間の真っ只中で「第三次ソロモン海戦」が勃発し、「ガダルカナル島の戦い」の大勢が決してしまいます。
復帰後も【有明】は輸送を頻繁に行いますが、7日には【野分】が空襲を受けて航行不能となり、【長波】の曳航を護衛して撤退。
21日は【宏山丸】を【江風】と護衛してムンダへ向かっているところに【米ガトー級潜水艦 アンバージャック】が現れたためにこれを撃破するなど、道中の危険もますます増してきました。
25日、【卯月】が護衛していた【南海丸】が【米サーゴ級潜水艦 シードラゴン】の雷撃を受け、さらに【南海丸】が【卯月】に衝突。
【南海丸】は沈没しませんでしたが、衝突の影響で【卯月】が航行不能となってしまい、救援の為に【有明、長波】【谷風】【浦風】が派遣されました。
そして【有明】が【卯月】を曳航してラバウルへ引き返しているところに【B-24】が襲来し、一行はたちまち窮地に陥ります。
各艦の機銃が唸りますがそう簡単に引き下がってはくれません。
結局次々と爆弾が投下され、【卯月】を曳航して動きの鈍い【有明】は6発もの至近弾を受けてしまいます。
直撃弾こそないですが、場所によっては浸水を引き起こす至近弾のほうが危険なこともあります。
案の定【有明】では浸水が発生し、また後部の2番、3番砲塔も火災などの影響で使用できなくなります。
速度も16ノットにまで低下し、戦死者28名と大きな被害を出してしまいました。
沈没もせず航行も可能ではありましたが、大怪我を負った【有明】は当然修理が必要で、トラックで再び【明石】の応急処置を受けた後、年明けに【瑞鶴】らを護衛しながら本土へ帰投。
馬車馬のように働き続けた【有明】が引き揚げたと同時に、ガダルカナルからも日本軍が引き揚げる準備に入りました。
修理とともに旧式の40mm単装機銃が25mm連装機銃に置き換えられます。
復帰後は日本~トラック間の航空機輸送を多く任されるようになりました。
5月17日には【武蔵】らを護衛してトラック島を出撃。
連合艦隊旗艦であった【武蔵】のかつての主は、骨壺に眠っていました。
「海軍甲事件」によって山本五十六連合艦隊司令長官は戦死し、日本は大きな支柱を失ってしまいました。
この時彼の死を明確に知っていたものは数少なく、恐らく駆逐艦のような末端ではまさか我が主の亡骸を護衛しているとは夢にも思わなかったでしょう。
そして6月10日に【有明】は【夕暮】とともに【飛鷹】を護衛してトラックへ向けて出発。
ところが三宅島付近で【米ガトー級潜水艦 トリガー】の雷撃にあって【飛鷹】が被雷してしまいます。
【夕暮】と共同で周辺に爆雷をばら撒いて追撃は許しませんでしたが、もちろん輸送を継続することはできず、横須賀から飛んできた【五十鈴】が【飛鷹】を曳航して撤退。
この後【有明】にはさらに25mm連装機銃が艦橋前に1基増備されたと推定されます。
【飛鷹】の抜けた穴には【龍鳳】が組み込まれ、そして【白露】を除いた第二十七駆逐隊は、【金剛】【榛名】らの第三戦隊をはじめとした大部隊を護衛して16日に横須賀を出港しました。
トラック到着後はさらに同行していた第七戦隊の【鈴谷】【熊野】らとともにラバウルへ防空隊を輸送しています。
そしてここからはトラックとラバウルという超重要航路の護衛任務につくことになります。
6月30日からは「ニュージョージア島の戦い」が始まり、陸上戦は次の局面に移ってきました。
7月27日に【有明】はココボ経由、ツルブへ向けての輸送の為に【三日月】とともにラバウルを出港します。
この時【有明】は機関部の故障がわかっていて、最大速度は28ノット程度しか出すことができない状態でした。
2隻は船に物資や兵員を乗せるのは当然として、さらに【大発動艇】も曳航していました。
無事ココボに到着し、そこからツルブへ向かっていた2隻ですが、当日夜、突然2隻が凄まじい衝撃とともに急停止してしまいます。
なんと2隻揃ってグロスター岬のサンゴ礁に乗り上げて座礁してしまうのです。
この時2隻は開けた海域を通ると潜水艦に襲われる危険があるとして、夜間でも岸に近い航路を進んでいました。
2隻とも26ノットという速度でサンゴ礁に突っ込んでしまったことから、被害も大きい上にちょっとやそっとじゃ離礁もできず、絶体絶命でした。
【有明】は浸水及び左舷軸損傷、【三日月】は浸水に加えて左右スクリューともに屈曲という航行不能寸前の状態に陥ります。
そんな中でも【有明】は10ノット以下という速度ながら何とか離礁に成功。
重いと離礁も難しいし、【有明】自身もかなりの被害を負っていますから簡単に引っ張ることもできません。
取り急ぎ【三日月】の搭載物や兵員をできるだけ【有明】に移乗させ、目前だったツルブへ運んでしまいます。
一方でこの報告を受けたラバウルからは、途中変更がありましたが最終的に【秋風】が救難のため派遣されました。
さらに空襲を受けないように【零式艦上戦闘機】も投入されました。
しかし【有明】は浸水を防ぐ程度の処置しかされていない状態です。
無理に引っ張ると【有明】の損傷も酷くなりますし、【三日月】もまた中途半端な力で引っ張るほうが余計に被害が増幅する危険性もあります。
さらに離礁に成功しても曳航する力はほとんどないため、やむを得ず【有明】は【三日月】の救出を【秋風】に任すことにしました。
ところがそんな最中、ついに懸念された事態が起こります。
【B-25】およそ20機が喘ぐ2隻を黙らせるためにやってきたのです。
【B-25】は反跳爆撃でゆっくりしか動かない【有明】の側面に爆弾をたたきつけます。
3~4発の爆弾が【有明】に命中し、さらに複数の至近弾を浴びた【有明】になす術はありませんでした。
浸水により【有明】はどんどん沈んでいき、14時40分に沈没。
全く動けない【三日月】もまた1発の被弾、複数の至近弾を浴びたことで船体放棄となってしまいます。
生存者は【有明、三日月】の【大発】やカッターなどに乗り込んだり、【秋風】に救出されました。
参照資料(把握しているものに限る)