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望月【睦月型駆逐艦 十一番艦】

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起工日 大正15年/1926年3月23日
進水日 昭和2年/1927年4月28日
竣工日 昭和2年/1927年10月31日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年10月24日
ニューブリテン島
建 造 浦賀船渠
基準排水量 1,315t
垂線間長 97.54m
全 幅 9.16m
最大速度 37.25ノット
馬 力 38,500馬力
主 砲 45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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激戦地を支えた度重なる輸送 二度の修理も挫けない望月

【望月】は竣工当初は「第三十三号駆逐艦」と呼ばれ、昭和3年/1928年8月1日に【望月】と改称されます。
昭和4年/1929年7月9日、第二水雷戦隊の演習中に【望月】は竣工したての【叢雲】の右舷に衝突してしまいます。
この事故で【叢雲】の乗員が1名死亡してしまいます。

【望月】は戦前に【菊月】【三日月】【夕月】とともに第二十三駆逐隊を編制していましたが、太平洋戦争直前に【卯月】と入れ替わって【睦月】【如月】【弥生】のいる第三十駆逐隊へ編入。
開戦直後の「ウェーク島の戦い」に参加します。

第六水雷戦隊所属の第三十駆逐隊は、当初航空支援もあって楽勝とされていたウェーク島の攻略で大きな痛手を負います。
破壊したと思われていた陸上砲台が残存していたため、接近して艦砲射撃を行っていたところに突如として反撃の砲弾が飛び込んできたのです。
この反撃によって【疾風】が沈没し、さらに【F4F ワイルドキャット】に追い回された挙句僚艦の【如月】までもを失ってしまいました。
最終的に「真珠湾攻撃」後の第二航空戦隊を呼び寄せてウェーク島は攻略することができましたが、第三十駆逐隊にとっては幸先の悪い門出となりました。
この戦いの後、第三十駆逐隊は各艦13mm連装機銃を1基増設されています。

翌年からは重要拠点となったラバウルの攻略や、ラエ、サラモアといったニューギニア島制圧のための輸送に従事。
昭和17年/1942年2月20日には「ニューギニア沖海戦」の航空戦の後に水上艦で敵空母を攻撃する可能性がありましたが、発見できずに引き返しています。
「MO作戦」では第六水雷戦隊はポートモレスビー攻略部隊を任されることになりましたが、この作戦は「珊瑚海海戦」での【祥鳳】沈没によって延期され、米豪遮断という目的が遠のいてしまいました。

その後【望月】はガダルカナル島の設営に向けた輸送作戦を行います。
ひと段落した7月に【望月】【弥生】と共に一度本土に戻り、整備を受けてから再びソロモン諸島へ向けて出発。
戦いに直接関与はしていないものの、「第二次ソロモン海戦」で沈没した【龍驤】の不時着した艦載機の乗員の救助にも参加しています。
そこからも自らが修理中に敵の反攻拠点となってしまったガダルカナル島奪還のため、【望月】は懸命に輸送に励みました。

9月11日、ラビに上陸した陸戦隊を撤収させるために【弥生】【磯風】がラビへと向かっていました。
しかしそこを敵機に襲われて【弥生】が沈没してしまい、逃げ惑っていた【磯風】が戻ってきたときには生存者はどこにも確認できませんでした。
その後、21日に戦闘機が1艘のカッターを発見し、その収容の為に【望月】【磯風】がラバウルを出撃。
カッターに乗っていた10人は、実は【弥生】の乗員の生き残りで、他にも生存者がノーマンビー島で助けを待っていると訴えました。
直ちに2隻はノーマンビー島に向かったのですが、この時は合流できずに一度引き返し、26日に無事全員の救助が成功しています。

その後もガダルカナル島への輸送を頻繁に行い、またガダルカナル島艦砲射撃の護衛でも出撃。
11月8日には魚雷艇からの魚雷が一本命中してしまいますが、幸い不発だったため難を逃れています。
13日の「第三次ソロモン海戦」では輸送部隊の一員として参加していますが、この戦いは海戦後の輸送部隊の被害も重大なものです。
11隻の輸送船がガダルカナル島へ向かうところ、相変わらず健在のヘンダーソン飛行場から【B-17】【SBD ドーントレス】が出撃し、これらを次々と破壊していきました。
結局6隻の輸送船が沈没し、【望月】は沈没船の乗員の救助を行い、また沈没を免れた【佐渡丸】【天霧】と一緒に護衛してショートランド泊地まで撤退していきました。

「第三次ソロモン海戦」の敗北は日本にとって非常に大きな痛手となりました。
さらに間髪を入れずに「ブナ・ゴナの戦い」が16日から始まります。
このおかげで【望月】は再びニューギニア島への輸送にも汗を流すことになるのですが、12月19日にフィンシュハーフェンへの輸送を行った帰り道で空襲に合い、戦死者40名を出す大被害を負ってしまいました。
それでも引き返さずに諸島の輸送が続いた【望月】ですが、昭和18年/1943年1月13日にレカタへの輸送中に座礁してしまい、さすがにこのままの状態で戦い続けるのは無茶になってきます。
2月2日に佐世保へ戻り、しっかり修理を受けることになりました。

この間にガダルカナル島から日本軍はきれいさっぱりいなくなり、修理を終えた【望月】はレカタを中心に周辺の島々への輸送に奔走します。
この時第三十駆逐隊(前年末に解隊後【望月】【卯月】【三日月】で再編)は第三水雷戦隊に所属しており、6月30日から始まった「ニュージョージア島の戦い」によって第三十駆逐隊の役割はより一層重要となってきます。
7月5日の輸送では【望月】【三日月】【浜風】とともにコロンバンガラ島を目指しますが、ここでこの鼠輸送を察知した米艦隊と激突。
これが「クラ湾夜戦」です。

輸送隊だった【望月】は急いで輸送を行ったのですが、この時【望月】は引っ張ってきた【大発動艇】を繋ぐ曳航索がスクリューに巻き込まれるというトラブルを起こしてしまいます。
そのため輸送は少し遅れてしまい、帰り際に海戦を終えて沈没した【米セントルイス級軽巡洋艦 ヘレナ】の救助を行っていた【米フレッチャー級駆逐艦 ニコラス、ラドフォード】に見つかって砲撃されています。
損傷があったものの、煙幕を炊いて【望月】はブインまで何とか逃げ切りました。
この海戦では第三水雷戦隊旗艦の【新月】を失い、また輸送中に座礁した【長月】が離礁することができずに放棄されています。

【望月】はいったんラバウルで応急修理を受けますが、すぐにブインへ引き返して輸送を再開する必要がありました。
ところが運悪く到着した17日にブインは空襲を受け、一緒にラバウルからブインへ向かった【初雪】が沈没してしまいます。
さらに翌日もブインは空襲に晒されて、【望月】もここで損傷してしまいます。

この時ブインには、「クラ湾夜戦」「コロンバンガラ島沖海戦」の2つの海戦によって敵水上艦隊も相当疲弊していると考え、【鳥海】【熊野】【鈴谷】といった強力な重巡とその脇を固める水雷戦隊がいました。
この面々で輸送隊を護衛し、海戦となった場合に敵を潰すという作戦をとっていました。
ブインの空襲はその矢先の出来事だったのですが、18日に一時避難していたラバウルから艦隊は出撃、コロンバンガラ島を目指しました。
ところが輸送には成功したものの、帰路で夜間空襲を受けてしまい、敵水上艦を蹴散らすどころか【夕暮】【清波】を失ってしまいます。

応急修理を受けていた【望月】は、この空襲で損傷した【熊野】を護衛してラバウル、そしてトラックへ退避します。
【望月】はその後再び佐世保へ戻り、ここで修理を受けることになりました。
そして9月末にラバウルへと復帰し、すぐさま輸送を再開しました。

10月23日、ニューブリテン島ジャキノットに連合軍が上陸したという報告を受け、追撃するために陸戦隊を乗せた【望月】【卯月】がラバウルからジャキノットを目指します。
到着した2隻からは次々と陸戦隊が上陸していきますが、24日0時20分という真夜中でも敵機は正確に2隻の位置を把握し、50機という大群が空襲を仕掛けてきました。
2隻は急いで離脱を始めますが、この空襲で【望月】は被弾、最終的には沈没してしまいました。
戦死者は10名と少なく、生存者は空襲を逃げ切った【卯月】に救助され、【卯月】はラバウルへと引き返していきました。