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夕暮【初春型駆逐艦 六番艦】

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起工日 昭和8年/1933年4月9日
進水日 昭和9年/1934年5月6日
竣工日 昭和10年/1935年3月30日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年7月20日
ベララベラ島近海
建 造 舞鶴海軍工廠
基準排水量 1,400t→約1,700t
垂線間長 103.00m
全 幅 10.00m
最大速度 36.5ノット→33.27ノット
航続距離 18ノット:4,000海里
馬 力 42,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
次発装填装置
機 銃 40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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誕生の混乱から一変 輸送護衛に重宝された夕暮

「初春型」の六番艦【夕暮】は、【有明】の項でより詳しく説明をしておりますが、「初春型」の中でも最も建造が遅かったことから一番マシな状態、また次級の「白露型」の特徴も多い存在となっています。
唯一復原力確保のためのバルジを取り付けずに艦幅そのものを広くしていたり、「特型」以来の特徴であった、艦中央部までの長いフレアも短くされているなどの違いがあります。

とは言え設計上は「初春型」の図面から建造が始まっていたので、新しく線を引き直すことになった「白露型」とは扱いとしては別物となっています。
特に61cm四連装魚雷発射管を搭載していないのは明確な違いでしょう。

竣工後、【夕暮】【有明】【白露】【時雨】と第九駆逐隊を編制。
昭和13年/1938年には横須賀鎮守府から佐世保鎮守府へ異動となり、その際に第二十七駆逐隊へと変更されました。
各鎮守府によって編制に振れる番号の範囲が決まっているため、このようなことが発生します。
太平洋戦争がはじまる直前の昭和16年/1941年7月には【有明】【夕暮】とともに魚雷発射管の改装を実施。
日本ご自慢の酸素魚雷を搭載できるようにパワーアップしました。

12月8日、まさに太平洋戦争が始まったその日、【夕暮】は連合艦隊を護衛して柱島を出撃。
しかしこれは機動部隊の「真珠湾攻撃」が失敗であったり被害が大きかった場合のための保険の出撃だったため、戦果上々ということで途中で引き返しています。
その後各機動部隊が帰ってきたときに護衛のために再度出撃しています。

年が明けてからは第二十七駆逐隊はアンボンやポートダーウィンへの攻撃の支援を行います。
「スラバヤ沖海戦」「バタビア沖海戦」のような海の上でのドンパチはなかったのですが、空母支援ということで航空戦や空襲の護衛として機動部隊の猛攻を支え続けました。
その甲斐あって「蘭印作戦」は目標を見事に達成し、日本は次なる行動をまとめるために戦力、編制の練り直しを行います。
その関係で第二十七駆逐隊もいったん日本に戻ることになりました。

4月12日、第五航空戦隊を主軸とした南洋部隊が編制され、第二十七駆逐隊もその一員となります。
そして南洋部隊の大半で「MO作戦(ポートモレスビー攻略作戦)」実施のための機動部隊が編制されることになりました。
米豪遮断のため、ニューギニア島南東にあるポートモレスビーは手中に収めておきたいという考えでした。

しかし出鼻をくじかれる出来事が日本を襲います。
陸上機を空母から飛ばすというとんでもない手段で行われた「ドーリットル空襲」です。
この時五航戦は「インド洋作戦」を終えて日本に帰投中、また第二十七駆逐隊はこれを護衛するために台湾に向かっていました。
ただちに五航戦に敵機動部隊を追撃するように命令が下りますが、離れすぎてますから当然無理です。
結局命令は取り下げられたわけですが、日本はここで兜の緒を締めなおすことはなく、じわじわとアメリカの自力に苦しめられるようになります。

5月7日、「MO作戦」のためにトラック島から出撃した機動部隊は、索敵機が空母と見間違えた【油槽船 ネオショー】を撃沈。
しかし日本があとから見つけたアメリカ機動部隊が【祥鳳】を蹂躙し、【祥鳳】は空母化後の初陣で沈んでしまいました。
これが「珊瑚海海戦」で、そして翌8日、ついに両軍の機動部隊が激突します。

お互い敵影を見ることのない、航空機のみの戦いとなった「珊瑚海海戦」では、日本は【翔鶴】が集中攻撃を受けて全速力で逃げ出します。
日本はこの戦いで【米レキシントン級航空母艦 レキシントン】を沈める大戦果をあげてはいるものの、【米ヨークタウン級航空母艦 ヨークタウン】は仕留めきれず、またこの影響で「MO作戦」も中断することになってしまいます。
【夕暮】【翔鶴】を護衛して日本に帰投、【翔鶴】はすぐさまドック入りとなりました。

【瑞鶴】も損耗機数が多く、護衛すべき五航戦が一時離脱してしまったことから、第二十七駆逐隊は次の護衛先を第一艦隊に指定されます。
そして一行はミッドウェー島を目指して29日に日本を出撃します。
「MI作戦」の発動です。
ところが戦艦に代わって絶大な貢献をしてきた空母を一瞬で4隻失い、今度は意気消沈して日本にすごすごと帰っていきました。

飛車角落ち状態となった日本ですが、南ではガダルカナル島のルンガ飛行場の整備が進んでいました。
再編により第四水雷戦隊に異動した第二十七駆逐隊の次の部隊がこのガダルカナル島を巡る戦いとなります。
8月7日に突如アメリカ軍が造成中のルンガ飛行場を掻っ攫い、またまた日本は一夜にして戦況をひっくり返されてしまいます。
これを受けて日本はガダルカナル島奪還の為に戦力を集中させていきます。
【夕暮】【有明】は8月22日にオーシャン島、ナウル島へそれぞれ派遣されて艦砲射撃を実施。
その後両島は無事に占領をすることでき、その後【有明】を除いた第二十七駆逐隊はギルバート諸島アパママやタラワ島の占領にも貢献しています。

ここから【夕暮】は日夜輸送に明け暮れます。
制空権が奪われている中の海上輸送は非常に危険で、やがて輸送船の被害を恐れて駆逐艦だけで輸送を行う鼠輸送が主流になっていきます。
ショートランドを起点として頻繁に前線に赴く【夕暮】でしたが、肝心要の陸軍の侵攻状況は悪いままで、物資不足に陥った陸軍の力はどんどん落ちていきました。
このままではジリ貧だということで、「南太平洋海戦」で敵空母も排除したことから、ついに「金剛型」4隻を一気に投入し、その中でも【比叡】【霧島】を中心とした陸海からの総攻撃を実施することになりました。

機関故障で離脱していた【有明】を除いた3隻は、ガダルカナル島、ラッセル諸島警戒隊として編制され、トラック島の主力部隊11月9日に、第四水雷戦隊は11日にショートランドを出撃します。
しかし本隊がガダルカナル島とサボ島の間(がガダルカナルの北側)を進んでいく針路だったのに対し、警戒隊はガダルカナル島西側のラッセル諸島との間が活動エリアだったため、あの「第三次ソロモン海戦」の激闘にはほとんど参加していません。
【比叡】が舵故障により航行が非常に難しくなった中、護衛のためにあとから駆けつけたものの、曳航することもできず、さらに夜明けに空襲も受けたことで【比叡】の救出は断念。
処分したか自沈したかは未だにはっきりしていませんが、【夕暮】は他艦とともに【比叡】の生存者を救出し、トラック島へ引き上げていきました。
この関係で第二十七駆逐隊は第二夜の戦いには参加していません。

この戦いで「ガダルカナル島の戦い」の結末はほぼ決まってしまいます。
【夕暮】は引き続き輸送の激務をこなしたものの、年末には島からの撤退が確定。
昭和18年/1943年1月7日に【夕暮】【瑞鶴】【陸奥】らを護衛してトラック島を出撃し、日本へ帰還しました。
ガダルカナル島はこれから大博打を打って生き残った日本兵を救い出すという「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」が始まるのですが、ここまでほぼ休みなく働き通しだった【夕暮】は国内で整備を受けることになりました。

しかし次の仕事はすぐに舞い込んできました。
月末には丙号輸送部隊の一員として青島からウェワクへの輸送を行い、ここからトラックと本土の往復が始まります。
【夕暮】は主に航空機輸送を行う改装空母の護衛に就いていました。
4月14日にはスコールの中で護衛していた【武庫丸】と衝突してしまいますが、大した被害ではなくすぐに【明石】に修理されています。

5月8日には【大和】【雲鷹】【冲鷹】らを護衛してトラック島を出撃。
6月10日に【飛鷹】を護衛して再びトラック島を目指したのですが、三宅島付近で【米ガトー級潜水艦 トリガー】に襲われて【飛鷹】が魚雷を1本受けてしまいます。
沈没はしませんでしたが航行不能となってしまったことで、急遽横須賀から【五十鈴】が救援に駆け付けます。
この時周りは真っ暗だったのですが、雷撃を受けた【飛鷹】が対潜哨戒中の【夕暮】を敵潜水艦だと勘違いしてなんと高角砲と機銃を誤射してしまっています。
しかもこの誤射で戦死者2名、負傷者5名の被害を出していて、非常にやるせない形で各々は日本へと引き返すことになりました。

【飛鷹】が抜けた穴には【龍鳳】が入り、18日に再び【夕暮】などの護衛を受けて出撃。
トラック島には無事到着しましたが、しばらくもしないうちに連合軍がニュージョージア島に上陸、「ニュージョージア島の戦い」が始まります。
更に「クラ湾夜戦」「コロンバンガラ沖海戦」で第二、第三水雷戦隊司令部が全滅という窮地に陥ってしまいます。
特に海軍水上部隊の先頭で常に刀を構えていた二水戦がなくなったことは大きな痛手で、海軍は四水戦を解散し、所属していた第二十七駆逐隊と直属だった【五月雨】を二水戦に当て込むという臨時措置を行っています。

新生第二水雷戦隊が編制されたのは7月20日。
この日が何の日かお判りでしょうか。
実は昭和18年/1943年7月20日は、【夕暮】が沈没した日なのです。
つまり、【夕暮】は沈没したその瞬間こそ二水戦所属艦としての最期を迎えていますが、そんな実感は何一つ味わうことなく沈んでしまいました。

7月20日になったころ、【夕暮】はコロンバンガラ島への輸送に対して襲い掛かってくるかもしれない敵艦隊を迎え撃つ水雷戦隊部隊としてクラ湾周辺にいました。
一行は前日にラバウルから出撃しており、ブインからやってきた輸送隊と合流し、コロンバンガラへの輸送は無事に成功。
夜戦部隊、水雷戦隊部隊も輸送完了を受けて撤退を始めていました。
しかし輸送こそ成功したものの、この動きはレーダーを搭載した【PBY カタリナ】に知られており、闇夜に紛れて突然【TBF アヴェンジャー】が襲い掛かってきました。
奇襲を受けた【夕暮】【アヴェンジャー】の雷撃を受けて轟沈。
あっという間の出来事で、さらに【熊野】も雷撃を受けて舵が故障してしまいました。

突然の出来事で海に投げ出された【夕暮】の乗員に救いの手が差し伸べられます。
ともに行動していた【清波】が引き返してきてくれたのです。
ところが敵の攻撃は一波で終わらず、続いて【B-25】が現れて【夕暮】の乗員を救助する【清波】にも無慈悲に爆撃を行います。
数発の命中弾があったと記録されており、この被害で【清波】も沈没してしまいます。
助かるすべを失い、2隻の中で生存したのは孤島に流れ着いた【清波】乗員の西川水兵長ただ一人でした。