
起工日 | 昭和2年/1927年4月25日 |
進水日 | 昭和3年/1928年9月27日 |
竣工日 | 昭和4年/1929年5月10日 |
退役日 (沈没) | 昭和17年/1942年10月12日 ニュージョージア島沖 |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 4基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
最後にドラマを演じた、駆逐艦の祖の血筋を引く叢雲
【叢雲】は建造時は「第三十九号駆逐艦」とされ、昭和3年/1928年8月の建造途中に【叢雲】と改称されます。
この【叢雲】は2代目で、初代【叢雲】はなんと日本初の駆逐艦、そして同時に、初めて駆逐艦の命名に気候現象を採用した、日本駆逐艦の祖と言える存在でした。
でもネームシップではないのです(「東雲型駆逐艦」)。
【叢雲】は【東雲・薄雲・白雲】と第十二駆逐隊を編成し、「支那事変(日中戦争)」では昭和15年/1940年に華北沿岸部、「北部仏印進駐作戦」に参加します。
そして太平洋戦争に突入するのですが、まず【薄雲】が開戦前の昭和15年/1940年8月に機雷触雷によって修理離脱、さらに第一二駆逐隊の【東雲】が12月17日に早々と沈没していまい、早くも第一二駆逐隊は2隻となってしまいました。
昭和17年/1942年3月、第一二駆逐隊は解散され、【白雲】は第二〇駆逐隊、【叢雲】は【深雪】喪失によって穴が空いていた第一一駆逐隊へと編入されます。
太平洋戦争では「南方侵攻作戦、ミッドウェー海戦」などに参加しました。
また「バタビア沖海戦」では【白雲】とともに【蘭駆逐隊 エヴェルトセン】を砲撃し、大破炎上まで追い込みます。
惜しくも逃してはしまいましたが、のちに【エヴェルトセン】は自沈しています。
10月、【叢雲】は第一一駆逐隊とともに「サボ島沖海戦」に突入します。
この海戦では【吹雪】が沈没し、【叢雲】は必死に両艦の生存者の捜索を行いました。
しかし夜が明けてしまい、【叢雲】は米航空機のいい標的となってしまいます。
ガダルカナル島が近くにあったため、航空機は減ることなく次々と現れます。
やがて魚雷が一発当たるのですが、運悪くそれがスクリューに直撃。
必死に回避を続けていたのに、これによって【叢雲】は何もすることができなくなってしまいます。
至近弾や爆風、誘爆によって艦上の構造物は軒並み崩壊し、鉄くず寸前まで追い込まれました。
しかし、何故か一発も直撃弾がなく、【叢雲】は動けないのにもかかわらず怒涛のしぶとさを見せつけます。
逆に【叢雲】の救助にやってきた【夏雲】が沈んでしまいました。
救助に現れたもう1隻の駆逐隊【初雪】によって乗員は救助されますが、艦長と水雷長だけはそれを固辞。
【叢雲】とともに散る覚悟でした。
【初雪】は一度はそれを受け入れ、乗員を引き受けて退避しますが、その後再び両者を説得・救助するために【叢雲】の元へと向かいました。
そして2人を探すと、なんと2人はビールと羊羹で宴会をしていたといいます。
【初雪】艦長は、残るのなら俺も残ると命をかけて説得、ついに艦長と水雷長は折れ、【初雪】は最後の救助を終えて【叢雲】から離れていきました。
そしてその時、2人を送り出した【叢雲】から激しい炎があがります。
2人が退艦するまで耐え忍んでいたかのような大炎上を起こした【叢雲】は、最後に【初雪】の手によって雷撃処分されて生涯を閉じました。