香取【香取型練習巡洋艦 一番艦】練習生のための特別な巡洋艦は、戦争では潜水戦隊旗艦として指揮を執る | 大日本帝国軍 主要兵器
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香取【香取型練習巡洋艦 一番艦】

起工日昭和13年/1938年8月24日
進水日昭和14年/1939年6月17日
竣工日昭和15年/1940年4月20日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年2月17日
トラック島空襲
建 造三菱長崎造船所
基準排水量5,890t
全 長133.50m
垂線間幅15.95m
最大速度18.0ノット
航続距離12ノット:7,000海里
馬 力8,000馬力

装 備 一 覧

昭和15年/1940年(竣工時)
主 砲50口径14cm連装砲 2基4門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃 2基4挺
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 2基4門
缶・主機ホ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基
艦本式22号10型ディーゼルタービン 2基2軸
その他水上機 1機
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戦う船ではなく、戦いを学ぶための船 香取

日本でも海外でも、艦艇の歴史が長くなるにつれ、訓練用に使われた船は前線を退いて旧式となったものが大半でした。
1930年代当時の日本の練習艦は、元の【出雲型装甲巡洋艦 出雲、磐手】ら5隻でしたが、しかし艦齢は35年を超えるほどの老朽艦でした。
昭和10年/1935年の時点ではその練習艦も【磐手、八雲】のみ。
軍艦の装備も性能もまるで違う、浮いてる以外は全部違うと言ってもいいぐらいの変化がこの35年の間にありました。
日露戦争時代の軍艦が練習艦ではさすがに荷が重くなり、日本は新しい練習艦の手配に乗り出します。

当初はやはり大正生まれの老齢艦となっている「球磨型」から3隻捻出することも考えられましたが、しかし「球磨型」はかなり小型の巡洋艦で、かつての装甲巡洋艦と同じキャパシティはありません。
練習艦にするとなると、そのための改装費がかかるだけでなく、「球磨型」に代わる軽巡も急いで用意しなければなりません。
そんな中で「満州事変」「上海事変」が勃発したものですから、いくら古い「球磨型」とは言えそうやすやすと手放すわけにはいかなくなってしまいます。

日本は「ロンドン海軍軍縮条約」からの脱退をうけて軍拡が再始動され、それに伴って士官候補生などの海軍兵が急増しており、「球磨型」はおろか重巡である「古鷹型」でも艦内環境は練習艦に相応しくないと判断されました。
「古鷹型」までの巡洋艦はいずれも非常に窮屈な船で、居住性なんて二の次三の次でしたから、多少武装を減らした程度ではどうしようもありませんでした。

結局旧式艦を練習艦に流用するのは諦め、予算承認を経て練習艦を新造することになりました。
それこそが「香取型練習巡洋艦」4隻です。
昭和13年/1938年度計画では2隻のみ、翌年に1隻、さらに昭和16年/1941年に1隻と3回に分けて予算が承認され、建造が始まっています。
ですが4番艦の【橿原】については、開戦直前であることから建造する価値が限りなく薄れてしまい、建造は中止となっています。

「香取型」最初の2隻の建造予算が承認された際の予算請求での説明を引用いたします。

「特定の練習艦による少尉候補生の実務練習は明治7年以来(遠洋航海は明治8年軍艦筑波により)実施せる処にして士官養成上不可欠の一課程なりとす。而て練習航海には多年浅間型海防艦を使用せるも同型艦を始めて練習艦として使用せしは明治43年にして、当時浅間は艦齢11年の堂々たる一等巡洋艦なりしも今日に於いては艦齢約40年に達する老朽艦なり。従て特定練習艦の建造はすでに久しく祖の必要を唱えられつつある所なるも、戦列部隊の整備が常に先順位たる為に巳むを得ず老朽艦を弥縫して年々当座を凌ぎ来りたるも、今や」駑馬老衰(どばろうすい)鞭つも前(すす)まず余命幾何もなきため修理も改造も手の施し様なき有様となれり。近時海軍生徒の員数は激増しまた艦船兵器及戦術は隔世的進歩を見たるを以て、練習艦の居住及性能も之に伴いて一大革新を要するの時機となれるを以てこの際差当り練習艦2隻の建造を必要とす。」

建造許可が下りたとはいえ、練習艦は戦うことは考慮されていない船です。
そんなジャブジャブお金をくれるわけがなく、1隻辺りたったの660万円でした。
これは「阿賀野型」1隻分の予算で【香取】【鹿島】【香椎】の3隻を造れというほどの低額であり、複雑とは言え「甲型」1隻すら造れない超ケチりっぷりでした。

660万で「香取型」

・兵科:約200名
・機関科:約100名
・主計科:約50名
・軍医科:約25名

を収容訓練させることになります(乗員総数は590名)。

「香取型」には設計のベースとなる艦が存在しました。
それは「迅鯨型潜水母艦」です。
「迅鯨型」はやがてサイズ的に一等潜水艦の母艦に対応できなくなってしまいましたが、それ以前に設計段階からたった5,000t超の排水量しか許されずに苦労して建造された船でした。
排水量と予算、制限された項目は異なりますが、その影響で対処しなければならないことは同じです。
また潜水母艦は他の船に比べて明らかに劣悪な環境での活動である潜水艦から戻ってきた乗員を労う場所ですから、居住区をはじめとした船の設備はかなりゆったりとしていました。
この点も練習艦に応用できたため、「香取型」「迅鯨型」を参考にしながら設計が始まりました。

まず非常に横幅が広い設計となっています。
全長は133mで、これは小さい小さい「天龍型」の142mを下回っています。
一方で全幅は16.7mで、「天龍型」の12.42mに比べて4m以上広くなっています。
近い幅だと「古鷹型」が16.5mですから、「天龍型」より短い長さで「古鷹型」よりも広い幅を持っていることになります。
上から見てみると、多くの巡洋艦や駆逐艦のような、中心部分が一番幅広で、艦首艦尾は共に細くなっている形状ではなく、「大和型」のように艦尾にかけてもかなり幅が広いまま維持されているのも特徴的です。

艦首は船首楼型となっていますが、これは艦内容積を確保するためです。
何分小さな船ですから、幅と高さで可能な限りスペースを造らなければなりません。
広い居住区は当然ながら、陸上の兵学校などで行うようなことを艦内でも行う必要がありますから、艦内には講堂までありました。

また後述するように兵装は簡素だったため、このままでは船首楼型も影響して重心が高くなってしまいます。
そのために587tものバラストが艦底に搭載されていました。
実に排水量の1割がバラストであり、かなり異質な構造だということがわかります。

兵装は14cm連装砲が前後に1基ずつ。
これは「迅鯨型」と同じ兵装です。
14cm砲は重巡では搭載されていませんが、軽巡や「伊勢型」に搭載されていたり、「香取型」の排水量に適していることから採用されました。
魚雷はかなり旧式の53.3cm連装魚雷発射管が2基で、連装砲はともかくこの雷装からも戦闘に使うつもりがさらさらないことははっきりわかります。

対空兵装としては12.7cm連装高角砲が1基、25mm連装機銃が2基とこれもやはり実際の戦闘用とは思えない少なさ。
機銃ぐらいは単装機銃数基ほど増やしてもよさそうな気はします。
他には練習艦はこれまでも諸外国へ立ち寄ることが頻繁にありましたから、その儀礼用として5cm礼砲が4基搭載されていました。

諸外国へ立ち寄るというのは、練習艦は長期航海の訓練があり、その訓練の目的地に外国の港が設定されることが多かったからです。
当然事前に立ち寄ることを報告の上の訓練になりますし、やってくるのは日本海軍の士官候補生と立派な軍人、そして軍艦です。
寄港地の要人との会談もありますから、練習艦には日本国として恥ずかしくない威厳が求められました。

そのため、まず艦橋は大きく見せるために前後にかなり幅があります。
高さは復原性の関係からそこまで高くできないため、横から見た時に十分な存在感が伝わるようなサイズになっています。
羅針艦橋も十分な広さがありますが、これはアピールの他にも羅針艦橋内に候補生が多く入って訓練を行うことから大きくなったという理由もあります。
羅針艦橋の下には天測甲板があり、また使わなくても機器類や小さな兵器が取り揃えられていたようですが、軍事機密レベルのものや最新兵器などは避けられています。

公式な軍艦ということで、菊の御紋も艦首に燦然と輝いています。
また賓客を招き入れる施設にもなることから、司令官室など重要な場所はできるだけ豪華な装飾を施すなどの配慮もなされました。

艦橋の後方に煙突があり、その両脇に魚雷が搭載されています。
煙突は計画よりも2mほど延長されましたが、この理由は艦橋との見た目のバランスが悪いために伸ばしたとか、艦橋の測距儀の観測に影響したとか言われています。
その後ろはカタパルトがあり、水上機は繋留場所がないため搭載する際はカタパルトに載せられました。
ちなみに水上機は計画では「零式水上偵察機」だったのですが、残された写真では搭載されているのが「九四式水上偵察機」であることがわかっています。
カタパルト周辺は広いスペースとなっていて、ここに12m内火艇2隻と12m内火ランチ3隻がびっしり置かれています。

後檣(デリック付き)と14cm連装砲がその後ろにあるわけですが、なぜか「香取型」には練習艦なのに対潜兵装が一切ありません。
理由は不明ですが、この辺りは日本が潜水艦対策を軽視していた表れの1つかもしれません。

逆に将来性を見込んで重視されていたのが機関でした。
これまで建造された多くの艦艇は蒸気タービンを搭載していますが、日本はかねてより燃費のいいディーゼルタービンの開発に期待を寄せていました。
ディーゼルタービンは最大出力こそ蒸気タービンには及びませんが、燃費が蒸気タービンに比べてめちゃくちゃいいので、自国で燃料を調達できない日本にとっては頼みの綱だったのです。
そのため、「香取型」には蒸気機関の艦本式タービン(二段減速装置付き)とディーゼル機関の艦本式22号10型ディーゼルタービンが2基ずつ搭載されています。
ちなみに艦本式タービンには巡航タービンがなく、巡航時にディーゼルで対応する形となっています。

ボイラーは多くの艦艇で使われているロ号艦本式缶ではなく、「橋立型砲艦」で採用されていた小型のホ号艦本式缶(空気予熱器付き)が3基搭載されました。
この2つの機関をフル稼働させた場合の最大速度ですが、わずか18ノットです。
なにせ最大馬力はたったの8,000馬力です。
このスペックはほとんど【秋津洲】【伊良湖】と同じで、巡洋艦というのにはかなり無理がある速度でした。
事実、巡洋艦とは言われるものの基本計画番号には水上機母艦などに使われる「J」が振られています。
実際に3基の缶があるものの、この馬力だと2基で十分で、1基は保守用としての搭載だったそうです。
ディーゼルと低速軽量のおかげで、「香取型」はかなり燃費のいい船となりました。

艦影を見ると、艦橋より後ろが非常にすっきりしている分、艦橋の大きさがより際立ちます。
さらに見た目に反してかなり短いですから、菊の御紋をつけた軍艦の中でも変わった姿であることは間違いありません。
このような形で「香取型」は1番艦【香取】が昭和15年/1940年4月に竣工。
しかしこの時期はすでに練習艦が練習に没頭できる時期ではなく、ほぼぶっつけ本番で試合に臨むことになってしまいます。

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教鞭ではなく采配を振る香取 訓練から実戦へ

限られた排水量でどれだけ戦力を高められるかという軍艦や駆逐艦と違い、カツカツの排水量で軽い兵装と大きな艦橋、さらに1割がバラストに使われるという困難な設計だった「香取型」
設計が終わり、昭和13年/1938年から【香取】【鹿島】の建造が始まりました。

しかし国際情勢は暗雲垂れ込め、すでに「日華事変」により日本軍は中国との戦闘状態にありました。
「香取型」は練習艦ではありますが、有事の際にはどのような役割を担うことができるか、それも並行して検討されました。
結果「香取型」はその広いスペースを活用できる母艦任務に適していると判断されます。

昭和15年/1940年8月7日、【香取】【鹿島】とともに江田島から大連や上海を巡る、初の練習航海に出ることになります。
ところがこの初練習は上海に寄港したところで中止が告げられ、「香取型」は練習巡洋艦としての晴れ舞台を完遂することなく無念の本土帰投を強いられてしまいました。
9月28日横須賀帰投。
これより「香取型」は練習巡洋艦の任を解かれ、指導する立場から指揮する立場へとその役目を変えます。

【香取】の武装は他の艦と比べれば圧倒的に見劣りしました。
しかし、その安定感ある船体と大きな艦橋、充実した設備は、母艦としては申し分ないものを持っていたのです。
【香取】は潜水母艦として第六艦隊旗艦となり、戦いに挑みました。
結局「迅鯨型」を参考にした結果、役割をも「迅鯨型」と同じものとなったのです。

開戦の奇襲を間近に控え、11月24日に横須賀を就航してトラック島を目指します。
この航行中に【香取】はアメリカ輸送艦隊と遭遇しましたが、まだ開戦前、ピリピリした空気とはなりますが黙ってすれ違っていきました。
そしてそのトラック島から東にあるクェゼリン環礁で【香取】は12月8日を迎えます。

【香取】は度重なる再編があってもなお旗艦で在り続けました。
その期間、およそ4年。
帝国海軍の中でも屈指の長さでした。

昭和17年/1942年2月1日、クェゼリンがあるマーシャル諸島に向かって【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ】が空襲を仕掛けてきました。
この空襲での直撃弾はありませんでしたが、至近弾と機銃掃射を受けてしまった【香取】は一時本土に戻ることになりました。
修理中の2月21日に【香取、鹿島】は新たに爆雷の装備命令が出されています。
潜水母艦なのに戦争が始まってから爆雷を搭載するのは怖い・・・。

5月にクェゼリンに戻った【香取】は、翌月の「ミッドウェー海戦」では潜水艦をミッドウェー島周辺に散開させ、索敵を行っていました。
そこで大敗北の「ミッドウェー開戦」において一矢報いたのが、【伊号第百六十八潜水艦】による【米ヨークタウン級空母 ヨークタウン】【シムス級駆逐艦 ハムマン】の撃沈です。
【ヨークタウン】はこれまでの日本空母の攻撃により大ダメージを負ってはいましたが、まだまだ沈没確実とは言い難く、救う手段は残されていました(総員退去命令は出ていました)。
ここで【伊168】【ヨークタウン】を沈めていなければ、本当に「ミッドウェー海戦」は四肢を失うだけで何一つ得るものがなかったので、大殊勲と言えるでしょう。

その後も【香取】は役割上激戦地に赴くことはなく、トラック島やクェゼリン環礁を拠点として旗艦任務を遂行。
しかし指揮する潜水艦の損耗が日に日に激しくなり、【香取】の能力云々ではなく潜水艦隊そのものの灯火が消えつつありました。
そして同時にそこそこの速度が出る船はとにかく船団護衛に使いたいという状況になり、そこで【香取】にも潜水艦隊旗艦の任務を【特設潜水母艦 平安丸】へ引き継ぎ、海上護衛総隊へと異動になりました。
時は昭和19年/1944年2月15日です。

2日後の17日、【香取】【特設巡洋艦 赤城丸】【舞風】【野分】と共にトラック島を出発し、日本へ向かう予定でした。
本来であれば翌日の16日には出発の予定だったのですが、【赤城丸】の荷役が遅くなってしまい、結局予定を1日後ろ倒しになってしまいました。
【赤城丸】もクェゼリン諸島が陥落したことで急遽トラック島で負傷兵などの引き上げを行うことになってしまったからで、単に【赤城丸】の対応の遅さが原因ではありません。
この1日が4隻の寿命をあと数時間にまで縮めてしまったのです。

17日、悪夢の「トラック島空襲」が行われます。
戦地に一番近い拠点となっていたトラック島を壊滅させれば、日本の活動を著しく制限させることができるため、アメリカは偵察の結果と十分な戦力を確保することで、この17日に総攻撃を仕掛けてきたのです。

空襲を受ける前にトラックを出港することはできましたが、第一波の目から逃れることはできず、その後機銃掃射、爆撃、雷撃とあらゆる攻撃を以て【香取】らは蹂躙されます。
この時の被害というのはアメリカからの報告しか残っていないため比較検証ができませんが、最大で10発近い被弾があったようです。

これがいいのか悪いのか何とも言えませんが、【香取】は少ない排水量で非戦闘艦という設計のため、防御力というのはほぼゼロでした。
そのため大型爆弾が直撃しても簡単に貫通してしまい、信管が作動せずに爆発しないということもあり、被弾数に対して非常にしぶとく動き回ることができました。
火災の消火に全力を注ぎながらも、【香取】以上の大炎上を起こして沈没寸前の【赤城丸】の乗員を救助しながら何としてもこの危機を耐えきろうと必死に抗い続けました。

ですが「TBF アヴェンジャー」によるいい的となった【香取】には3本の魚雷が命中。
この被雷によって【香取】はアメリカ水上艦の標的艦になりました。
現れたのは【アイオワ級戦艦 アイオワ、ニュージャージー】を始めとした艦隊です。

【アイオワ】41cm三連装砲【香取】に直撃し、そのあと巡洋艦や駆逐艦からの砲弾がどんどん【香取】に降り注ぎます。
しかし【香取】は沈没その瞬間まで塵ほども諦めません。
その艦首が見えなくなるまで、【香取】は砲撃も雷撃も止めず、最後まで意地を貫き通しました。

【野分】は砲撃から逃げきることに成功していますが、【舞風】も旗艦任務を引き継いだ【平安丸】もこの空襲で沈没。
練習巡洋艦でありながら、そして戦闘に向かない兵装ながらも戦場で長きに渡り戦い続けた【香取】の姿は、指導者に相応しいものであったと思います。

トラック島空襲で被弾炎上する【香取】

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