起工日 | 昭和8年/1933年4月8日 |
進水日 | 昭和9年/1934年3月14日 |
竣工日 | 昭和9年/1934年12月15日 |
退役日 (沈没) | 昭和20年/1945年1月3日 台湾高雄沖 |
建 造 | 播磨造船所 |
基準排水量 | 7,100t |
全 長 | 144.0m |
全 幅 | 22.0m |
最大速度 | 20.4ノット |
馬 力 | 7,500馬力 |
類を見ない特種揚陸艦 神州丸の構造とは
※「艦」の文字を多数使用しておりますが、帝国陸軍は「艦」とは呼ばず「船」を使うため、例えば「発艦」などの表記は陸軍用語としては使用しません。
敵占領地へ攻め込むにあたり、人員や物資、兵器等を陸に上げるためには当然船舶が必要です。
大型の輸送船にこれらを載せて目的地まで向かいますが、当然その船が接岸できるわけではありません。
なにしろ海岸は浅瀬なので、大型船が侵入すると座礁してしまいます。
そのため、輸送船はあくまで輸送手段であって、上陸には別の船艇が必要となります。
いわゆる上陸用舟艇というもので、【大発動艇、小発動艇】などがこれにあたります。
本来なら輸送船が接岸して直接物資を下ろしたり、逆に発動艇が海上を航行できれば一番いいのです。
なにしろ輸送船から海上に上陸用舟艇を下ろすのにはとても時間がかかります。
デリックやクレーンでまず上陸用舟艇を海面に下ろし、そのあと人や物資を下ろしてようやく進行できます。
もし海面が荒れている場合は、航行以前に下ろすことすら叶いません。
これが平時なら何の問題もありませんが、この作業が必要な時は戦闘の最中もしくは奇襲なので、この作業中に襲われたり、時間を浪費するとたまったものではありません。
一気に揚陸し、一気に攻め込む。
時は金なりではありませんが、一分一秒を惜しまなければ死に直結するため、揚陸という任務に対して帝国陸軍は非常に重要視していました。
1920年代から30年代にかけて、【大発、小発】の開発と実用化に成功した帝国陸軍は、引き続き上記の理由により揚陸をよりスムーズに行う方法の研究を進めていました。
本来なら海上輸送となるため海軍がこの研究を行うべきなのですが、これは海上戦闘を主とする海軍と陸上戦闘を主とする陸軍との意識の差に問題がありました。
結局海軍は海上戦闘に必要な研究や投資を行うに過ぎず、上陸や輸送への熱意はほぼ皆無でした。
本土決戦とならない限りは海上輸送が不可欠な陸軍としては、海軍がなにもしないのなら自分たちで何とかするしかなかったのです。
昭和7年/1932年の「第一次上海事変」の「七了口上陸作戦」において、陸軍は改めて揚陸時に時間がかかりすぎることと無防備であることを問題視し、大量に上陸用舟艇を搭載し、物資を載せたまま直接海上に送り出すことができる全く新しい揚陸艦の開発に着手しました。
最大の特徴は、格納庫に大量の【大発】等の船艇を搭載し、船尾ハッチを開けることでこの船艇を続々と進水させていくことができる構造です。
さらには偵察機などの艦載機も搭載できるようにし、上陸支援を行えるようにしました。
この独自の発想によって、強襲揚陸艦の祖とも言える【神州丸】が開発されたのです。
【神州丸】は当初「R1」という名前で計画がスタートし、やがて船尾ハッチだけでなく上甲板両舷部に【小発】を下ろすためのダビットを多数搭載、さらには艦首部に小規模の飛行甲板とカタパルト2基を搭載するという、奇抜ながらも輸送能力満載の様相を呈するようになってきました。
このままだとかなり複雑になり、そもそも船舶は専門外である陸軍はここで海軍の協力を仰ぎます。
海軍はこの設計図に大幅に手を加え、実用性の乏しい飛行甲板を排除して航空機についてはカタパルト2基に絞り込みました。
また従来の輸送船と方法にあまり違いがない【小発】とダビットの組み合わせを、船尾ハッチと同じように両舷側に舷側ハッチとホイスト(小型の巻き上げ機)を設けました。
これだと【小発】も船尾ハッチとあまり変わらない速度で泛水(へんすい=船艇を水上に発進させること)させることができます。
船尾ハッチから全通式となっている艦内には軌条が引かれていて、その上に【大発】をのせ、トロリーワイヤーで船尾ハッチまで引っ張ります。
船尾にはバラストタンクがあり、ハッチを開いてこのタンクに注水を開始すると、船尾が少し沈下し、スロープが海面に入るようになります。
そうすることで、送り出された【大発】がスムーズに浸水することができるのです。
船尾ハッチは【大発】用、舷側ハッチは主に【小発】用で、その他の船艇についてはデリック等で通常通り下ろしていました。
廃止された甲板とカタパルトについてですが、特に甲板が廃止されたことにより、発艦はできても着艦をすることは不可能になりました。
【神州丸】から発艦する艦載機は水上機ではないため、陸上への着陸か不時着、もしくはパイロットは落下傘で脱出して機体は海上放棄するかのどちらかでした。
着水も不可能ではありませんが、分解の危険性が高いためほとんどやりません。
航空機は艦橋下に設置された航空機格納庫に最大12機を搭載可能で、結構大型な格納庫でした。
この格納庫も秘匿名として「馬欄甲板」という名前がつけられていました。
ただ、このカタパルトや航空機運用については実用例が乏しく、昭和12年/1937年9月に「日華事変」で上海に向けて独立飛行隊第4中隊が発艦した例しかありません。
航空機の発達が著しく、無理に【神州丸】から帰還できない航空機を飛ばす必要がなくなったのです。
このような形で誕生した【神州丸】は特種船に分類され、世界にも類を見ない全く新しい船舶だったため、「第一級秘密兵器」として諸外国に情報がもれないように厳密に秘匿されることになります。
秘匿にあたり、名前も「R1」の他、「GL」「MT」「龍城丸」などが時事に応じて使い分けられていました。
一般人に対しても「馬匹及重量材輸送船」として公表しつつも、印刷物等メディアに載せることを禁じていました。
その他、播磨造船所からの引渡式では軍服の着用を禁じ、【神州丸】関係者や幹部以外の【神州丸】見学には陸軍大臣の事前許可が必要など、陸軍内でも見ることができる人間は限られていました。
さらに外観からはあまりにも他の船と違いすぎるため、少しでも他の船舶と似せようと大型の擬装煙突を船体中央部に設置。
これは【日向】改装後に余った第二煙突を転用したもので、実際にここから排煙が出ることはありませんでした。
その特殊性あふれる【神州丸】の性能と外観を見た陸軍は、この性能は保持しつつも、この形状はあまりにも異様だと判断し、以後の量産特種船は商船や貨物船を思わせる外観とすることにしました。
ただ、外観こそゴテゴテしている【神州丸】ですが、船体構造は実は軍用艦のものではなくまさに商船レベルで、大した防御力は備えていませんでした。
そのため、建造中に発生した「友鶴事件」の影響で【神州丸】は復原力向上のためにバラストが新たに搭載されるのですが、同時に浸水の被害を食い止めるための防水区画の増設が行われました。
しかしこれによって計画よりも排水量が1,600tも増えてしまいました。
さらに竣工後も、舞鶴海軍工廠で対魚雷防御の観点から25mmのDS鋼板を二重に追加する改装工事も行われました。
味方の魚雷を受けても復帰 輸送に欠かせない陸軍の宝
昭和12年/1937年7月、上記の水中防御改善の工事を行っている最中に「日華事変」が勃発します。
そのため、結局この改装工事は完全には施されず、未成状態で【神州丸】は早速戦場へと送り出されました。
【神州丸】は独立工兵第六連隊の第一中隊所属となり、8月10日に第一次上陸船団の一員として広島の宇品を出港します。
【大発】12隻、【小発】26隻、装甲艇4隻、【高速艇 甲】4隻と、当初の予定通り大量の上陸用舟艇を搭載して中国へと向かいました。
13日に装甲艇、【高速艇 甲】を偵察のために先に出発させ、翌14日に第二次上陸船団が到着すると、予定通り【大発、小発】を迅速に泛水し、無事全ての船艇を上陸させることに成功しました。
今回の上陸先である大沽はすでに占領済みだったので、更に翌日の15日の第三次上陸船団の輸送も滞りなく行われ、初任務を終えた【神州丸】は宇品へと帰港しました。
以降、特殊揚陸艦として【神州丸】は度々中国へ出向き、全ての任務を完遂させました。
ただ、この任務の最中に【神州丸】はアメリカ海軍の目に止まってしまい、トップ画像の写真がこの時に撮られています。
昭和16年/1941年の太平洋戦争勃発以後も【神州丸】は重宝され、12月8日に「真珠湾攻撃」と同時に行われた「マレー作戦」で早速活躍します。
翌昭和17年/1942年1月は、資源確保のために行われた「蘭印作戦」に参加。
日本が是が非でも手に入れなければならなかった南方諸島の資源、特に重要視されたパレンバン大油田奪取のために、【神州丸】や竣工したばかりの【あきつ丸】も動員し、早くも総力戦となりました。
2月18日に【神州丸】や【あきつ丸】は56隻の大船団を組み、西部ジャワ島上陸部隊を結成。
さらに東部ジャワ島上陸部隊も38隻の大船団で、一気にジャワ島を攻め落とす算段でした。
これを阻止すべくABDA連合軍艦隊が立ちふさがり、2月27日から海軍との大規模な砲撃戦が勃発します。
これが「スラバヤ沖海戦」で、最終的に日本が勝利するものの、長時間の戦闘に対して非常に低い命中率が問題となりました。
続く3月1日深夜、「スラバヤ沖海戦」で敗れて生き逃れた【豪パース級軽巡洋艦 パース】と【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】が、ジャワ島バンタム湾に上陸を行っている【神州丸】をはじめとした輸送船団を発見します(【あきつ丸】はメラクへ上陸したためこの船団にはいませんでした)。
この時2隻は船団の護衛をまだ発見できておらず、武装のない船団相手なら撃破できると考えて船団に接近します。
ところが日本の護衛艦隊の一員【吹雪】はすでに【パース、ヒューストン】を発見していて、【吹雪】は二隻の後ろに回り込んでいました。
船団から引き離したあとに挟み撃ちをもくろんでいた海軍でしたが、先に2隻が船団に砲撃を開始したため、【吹雪】は2隻に急接近して魚雷を発射、この魚雷は命中しませんでしたが、急襲は成功し、【吹雪】は煙幕で姿をくらまします。
一方船団も【春雨】の煙幕によって守られ、ここから近距離での砲雷撃戦が始まります。
こちらには水雷戦隊に加えて【最上】【三隈】と重巡洋艦も2隻いたため、多勢に無勢。
砲撃と魚雷を受け続けた2隻はやがて航行不能となり、ともに海軍によって撃沈されました。
これが「バタビア沖海戦」です。
が、この際にとんでもない事件が起こります。
出所不明の魚雷が、なんと次々に船団に直撃したのです。
【第2号掃海艇】沈没、陸軍輸送船【佐倉丸】沈没、陸軍病院船【蓬莱丸】横転着底、魚雷を回避しようとした陸軍輸送船【龍野丸】が座礁。
そして【神州丸】も魚雷を受けて大破してしまいます。
この恐ろしい命中率であった魚雷を発射したのは、当初は発見できなかった敵魚雷艇と思われていましたが、調査の結果、犯人は身内だったことが判明します。
魚雷を発射したのは、言うまでもなく【ヒューストン、パース】を撃沈させた護衛隊でした。
戦闘はかなりの近距離で行われていたことと、輸送船団が敵艦の後ろ側に逃れていたため、外れた魚雷がそのまま真っすぐ輸送船団に突っ込んでいったのです。
さすが隠蔽率が段違いの酸素魚雷、その威力をあろうことか味方で証明してしまったのです。
穏やかな気候で明るかったですが、それでも約100名の生命が失われてしまいました。
この大失態はさすがに公にすることはできず、陸軍もこの被害を連合軍によるものとして海軍の責任を不問としました。
この後着底した【神州丸】はサルベージされるのですが、その被害を受けた右舷付近には見事に「九三式」と刻印された破片が船倉に落ちていたそうで、これはその場で廃棄されました。
5月、酸素魚雷をまともに受けた【神州丸】でしたが、幸いにも改修工事がされていた水中防御向上が功を奏し、防雷隔壁は第一層こそ突破されていましたが、第二層は無事で浸水もありませんでした。
各所で水没が多発していましたが、発動機室は無事だったことも不幸中の幸いでした。
心臓部のダメージを食い止められたのは、その後の復帰までの期間に大きく影響します。
しかし動かせるようになるには相当時間がかかりました。
ヘドロを取り除き、破孔を塞ぎ、傾斜を復元させ、12月にようやく応急修理が終わります。
ただ、穴は木材で塞いでいるに過ぎず、ここから日本まで回航するのはかなり無茶だったため、シンガポールでよりしっかりと修理が施されることになります。
5月1日、1年以上かけてようやく航行が可能となった【神州丸】は、生ゴム1,000tと本土帰還者を載せて宇品へと戻ります。
門司から似島検疫所を経て懐かしの宇品へ戻った【神州丸】は、10月まで本格的な修理を受けて、11月に完全復帰をすることができました。
この2年近くの戦線離脱のうちに、輸送の重要性が遥かに増した太平洋戦争。
病み上がりにもかかわらず【神州丸】の復帰は待望だったため、早速南方輸送で働き詰めとなります。
ところが6月、バシー海峡で【米バラオ級潜水艦 ピクーダ】の魚雷を回避しようとした僚船【有馬山丸】が【神州丸】の艦尾に衝突し、艦尾にあった爆雷が誘爆してしまいます。
200名もの人が亡くなる大被害を負った【神州丸】は、【香椎】に曳航されて台湾の基隆で修理を受けることになります。
修理そのものはそれほどかからず、8月初旬には復帰することができました。
それ以後は釜山と日本との輸送をメインに行いました。
11月、いよいよ敗色濃厚と各所で黒星を積み重ねていたところに、「フィリピン防衛戦」のために「ヒ81船団」が編成されました。
【神州丸、あきつ丸】をはじめとした特種船が勢揃い、更には改装空母【神鷹】と対潜哨戒のスペシャリストである「第九三一海軍航空隊」の護衛を含めて編成された、非常に大型で対潜装備も充実した船団でした。
ところがこの船団を持ってしても、常に日本の上をゆくアメリカの潜水艦を食い止めることはできませんでした。
15日正午、【米バラオ級潜水艦 クイーンフィッシュ】の雷撃で【あきつ丸】は爆薬に誘爆して轟沈。
さらに17日18時には【摩耶山丸】も6月に【有馬山丸】を襲った【ピクーダ】によって撃沈されていまいます。
続いて「九三一空」を擁した【神鷹】も同日深夜23時に【米バラオ級潜水艦 スペードフィッシュ】の魚雷の餌食となってしまい、対潜性能ももはやアメリカに太刀打ち出来ないことを痛感することになりました。
船団は半壊し、無事だった【神州丸】と【吉備津丸】は、被害のない輸送タンカーとともに高雄へ向かいます。
そこで船団は「タマ33船団」として再編成され、目的地もマニラから北サンフェルナンドへ変更されました。
12月26日は「タマ38船団」を【吉備津丸】、さらには【日向丸】と一緒に編成し、高雄から同じく北サンフェルナンドへ輸送を開始。
揚陸中にアメリカの空襲にあい、輸送船【青葉丸】が沈められてしまいますが、輸送はほぼ成功しました。
開けて昭和20年/1945年1月、輸送が成功した【神州丸】や【吉備津丸、日向丸】は、本土帰還者を乗せた「マタ40船団」を編成し、今度は日本へ戻るために北サンフェルナンドを後にします。
3日の午前0時30分、船団は高雄沖に到着して一時投錨。
高雄入港がルートではありましたが、その時台湾でも空中戦が行われているという情報を入手した船団は、危険を回避するために寄港地を中国へ変更することにしました。
ところが日が昇った7時50分頃に、船団はアメリカの索敵機に発見されてしまいます。
護衛の飛行艇が撃墜されてしまい、更に爆撃機による空襲が行われましたが、船団はなんとかこれを撃退して事なきを得ます。
しかし空中戦が行われている台湾にほど近い箇所で発見されたということは、近くに空母がいるということにほかなりません。
11時30分、いよいよ本格的な空襲が「マタ40船団」を襲撃します。
【米エセックス級空母 ホーネット】から飛び立った50機の爆撃機・雷撃機が攻撃を開始。
【神州丸】は巧みな操艦でなんとか攻撃を回避しますが、的が大きい【神州丸】への攻撃は止むことがなく、ついに爆弾2発を被弾。
うち1発が爆薬に引火してしまい、【神州丸】は鎮火を早々に諦めるほどの大炎上をしてしまいます。
海防艦や【吉備津丸、日向丸】は無事だったため、生存者は各艦に救助されました。
甲板上や施設内は炎上していたものの、船体そのものは無事だった【神州丸】は、「マタ40船団」が【神州丸】から離れても【神州丸】ここにありと訴えるように、沈むことなく煌々と燃え続けました。
日付が変わる頃、【神州丸】は【米バラオ級潜水艦 アスプロ】の雷撃を受けてその生涯を閉じました。
陸軍ならではの発想から生まれた【神州丸】。
【神州丸】はやがて【あきつ丸】を生み出し、更には世界中で採用された強襲揚陸艦の元祖として、船の歴史では外すことのできない重要な船艇となっています。