1943年ブーゲンビル島沖海戦/エンプレス・オーガスタ湾海戦 ブーゲンビル島沖海戦エンプレス・オーガスタ湾海戦戦闘参加戦力大日本帝国連合国○連合襲撃部隊(司令官:大森仙太郎少将)第39任務部隊第一襲撃部隊(指揮官:スタントン・メリル少将)・第五戦隊 軽巡洋艦【モントピーリア】 重巡洋艦【妙高】 軽巡洋...1943年海 戦
駆逐艦長波【夕雲型駆逐艦 四番艦】 「夕雲型」四番艦の【長波】は「ミッドウェー海戦」後に竣工。 【長波】は【巻波・高波】とともに第三一駆逐隊を編成しました。 初陣は遅く、10月13日のヘンダーソン飛行場艦砲射撃の護衛に就いたのが初。 自身も艦砲射撃に加わった一方で、この砲撃を阻止しにきた魚雷艇を追い払ってもいます。 その後26日にも「南太平洋海戦」に参加し、ここから徐々に【長波】の出番が増えていきます。駆逐艦
駆逐艦初風【陽炎型駆逐艦 七番艦】 起工日昭和12年/1937年12月3日進水日昭和14年/1939年1月24日竣工日昭和15年/1940年2月15日退役日(沈没)昭和18年/1943年11月2日ブーゲンビル島沖海戦建 造川崎造船所基準排水量2,033t垂線間長111.00m...駆逐艦
駆逐艦時雨【白露型駆逐艦 二番艦】 太平洋戦争緒戦、【時雨】は主に護衛任務を行い、昭和17年/1942年4月には五航戦に所属し、【翔鶴・瑞鶴】の護衛を務めました。 5月は「珊瑚海海戦」に参加しますが、この戦いで【翔鶴】は沈没こそしなかったものの大破炎上。 【米レキシントン級航空母艦 レキシントン】を撃沈しますが、この【翔鶴】の大破は痛手となり、続く「ミッドウェー海戦」には【瑞鶴】とともに不参加を余儀なくされました。駆逐艦
駆逐艦白露【白露型駆逐艦 一番艦】 「特型駆逐艦」が「ロンドン海軍軍縮会議」によって建造を断念することになり、軽量型となる「初春型」が建造されますが、その結果は日本の駆逐艦史上でも最悪と言っていい失敗となってしまいました。 トップヘビーによる復原力不足、強度不足、バランスの悪さが災いし、結局「初春型」は「特型駆逐艦」よりも重いのに「特型駆逐艦」よりも攻撃力が劣化、速度も33ノットという平凡な姿に成り下がります。駆逐艦
軽巡洋艦阿賀野【阿賀野型軽巡洋艦 一番艦】 「川内型」の3隻が建造されたあと、四番艦として予定されていた【加古】は重巡へと姿を変えました。 以後、帝国海軍は重巡の徹底増備を行っていたため、次々と新しい重巡洋艦が建造されていきました。 一方、重巡よりも軽兵装の軽巡には目も向けられず、【那珂】以後は1隻も建造されることがなく、そのまま15年もの年月が流れてしまいました。軽巡洋艦
軽巡洋艦川内【川内型軽巡洋艦 一番艦】 5,500t級軽巡洋艦最後の登場となった「川内型」は、帝国海軍の軽巡洋艦の真打ちと言ってもいい存在でした。 何しろ建造予定は「長良型」よりも多い8隻。 設計も、かなり似ていた「球磨型」と「長良型」とは違い、「川内型」は違いがはっきりしています。軽巡洋艦
重巡洋艦羽黒【妙高型重巡洋艦 四番艦】Haguro【Myoko-class heavy cruiser Forth】 「妙高型」の末っ子として誕生した【羽黒】は、もともと呉海軍工廠での建造が予定されていましたが、経営が苦しくなっていた三菱長崎造船所への補助を兼ねて同造船所で建造されることになった、という経緯があります。 ちょうど【客船 浅間丸】も建造していたため、その影響が内装に現れています。 4隻の中では最も居住性が高かったそうです。重巡洋艦
重巡洋艦妙高【妙高型重巡洋艦 一番艦】Myoko【Myoko-class heavy cruiser First】 「古鷹型」と「青葉型」を相次いで建造した日本ですが、もちろん米英が対抗して大型巡洋艦の建造に踏み切ることは予測していました。 なので、日本もこの4隻で満足せず、より強力で大型な巡洋艦の建造へと移ります。 そこで生み出されたのが、【妙高】をはじめとする「妙高型重巡洋艦」です。 【妙高】はなんといっても火力重視の重巡で、これまでの6門から一気に10門まで主砲数を増やしています。重巡洋艦