起工日 | 大正9年/1920年5月15日 |
進水日 | 大正9年/1920年10月22日 |
竣工日 | 大正10年/1921年7月29日 |
退役日 (除籍) | 昭和20年/1945年10月5日 |
建 造 | 舞鶴海軍工廠 |
基準排水量 | 1,251t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 8.92m |
最大速度 | 39.0ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 |
機 銃 | 6.5mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
三菱パーソンス式ギアード・タービン 2基2軸 |
回天搭載も実用はゼロ 戦後は小名浜で防波堤 汐風
【汐風】は「日華事変」では華南を中心に活動していました。
第四航空戦隊(【龍驤】【春日丸】)に所属し、【帆風】とともに海上へ不時着してしまった航空機のパイロットを助け出す「トンボ釣り」を行いました。
太平洋戦争が始まると四航戦はパラオへ進出します。
昭和17年/1942年3月には【松風】とともにブリトゥン島付近でオランダの掃海艇【エンデ】を撃沈。
いくら12cm砲とは言え補助艦艇ぐらいなら問題なく仕留められます。
その後「AL作戦」を実施するために【汐風】は大湊へ向かい、護衛の相手は【特設水上機母艦 君川丸】となりました。
「AL作戦」によってアッツ島・キスカ島はあっさりと手中に収めはしましたが、本丸である「MI作戦」で日本はボロボロの大惨敗を喫し、「AL作戦」の意義はほぼ消失しました。
7月に【君川丸】がキスカ島より手前にあるアガッツ島付近で爆撃を受けたため、【汐風】はその護衛について横須賀へ帰投。
【汐風】自身も横浜で整備を受けた後、今度は10月に第一海上護衛隊所属となり、主に門司を起点として南方方面へ向かう輸送の護衛につくことになりました。
ここから【汐風】は幾度となく船団護衛に参加しているのですが、しかしそもそもの戦力が貧弱な【汐風】では戦況が悪化すると護衛の任務は到底全うできなくなっていきます。
潜水艦による雷撃が船団の大きな障害でしたが、しかし【汐風】には対潜装備というのは爆雷しかありません。
結局目を皿にして潜望鏡を探すしかなく、やがてどんどん輸送船が魚雷の餌食になっていきました。
【汐風】の能力では対処しきれず、被害を受けてからの爆雷で追っ払うのが精一杯。
沈みゆく輸送船から乗員を救い出し、輸送を続行するしかありませんでした。
昭和20年/1945年1月5日時点の兵装 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 2基2門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 2基4門 |
機 銃 | 25mm連装機銃 4基8挺 |
25mm単装機銃 10基10挺 | |
電 探 | 13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
そんな苦しい年月を重ねながら、昭和20年/1945年1月13日、【汐風】は佐世保から高雄へ向かいます。
この輸送はルソン島のアパリ防衛のための輸送と、フィリピンに取り残された航空機搭乗員の救出でした。
フィリピンにはもはや稼働する航空機がなく、移動手段のない搭乗員が取り残されていたのです。
高雄で限られた戦力と武器、燃料を搭載し、【汐風】は【梅】【楓】とともに31日9時に高雄を発ちます。
しかし出発して2時間で早速偵察機に見つかってしまいました。
15時にはその報告を受けて3隻撃沈のためにやってきた【B-25】と【P-38、P-47】の空襲を受けます。
貧弱そのものである対空機銃で応戦しますがかすり傷にもなりません。
楽々機銃掃射と爆撃を行うアメリカ航空機に翻弄され、【汐風】は命中弾こそなかったものの至近弾で右舷タービンとスクリューが損傷、速度が低下します。
さらにともに行動していた【楓】も艦首に被弾。
【梅】は被弾と至近弾で機関部がやられ、航行不能状態となって20度の傾斜を起こしてしまいました。
【楓】はまだ行動ができましたが、【梅】は浸水も酷く沈没は時間の問題でした。
やむを得ず【汐風】は乗員を全て収容した後、【梅】を砲撃処分します。
当然作戦を遂行することもできず、2隻は高雄へと戻っていきました。
修理を経て、【汐風】は2月16日に作戦完遂まであと少しというところに迫っている「北号作戦」の完部隊の護衛につくように言われます。
台湾北西にある馬祖島に仮泊していた完部隊は、台湾の馬公から馬祖島までを【野風】【神風】が護衛していました。
馬祖島から完部隊は引き続き中国大陸沿いに北上し、16日は上海付近の舟山島を目指す計画でした。
【野風、神風】のバトンを受け継いだ【汐風】でしたが、しかしここでもやはり旧式艦であることが【汐風】の活躍を邪魔します。
39ノットというスペックはもはや過去のもの、むりやりで30ノットは出せますがそのためには事前に許可が必要という状態で、完部隊の18ノット前後は【汐風】にとっては事実上かなりの高速となっていました。
更に天候も非常に悪く、凌波性にも乏しい【汐風】は護衛どころか自身が安全に航行することを優先するしかありませんでした。
結局悪天候と視界の悪さ、そしてついていける力がもう残っていなかったため、【汐風】は部隊から落伍。
単艦で寂しく呉へと戻っていきました。
19日、【汐風】は呉に到着し整備を受けます。
そしてここで禁断の果実を手にするのです。
「回天」の搭載です。
装備としては1番砲だけが名残惜しそうに残り、3番砲、魚雷、機雷装備が全部なくなります。
そして主砲跡には25mm連装機銃が2基ずつ、他にも13mm単装機銃が両舷合わせて8基と、今更ながらようやく対空兵装がマシになりました。
さらにマストには13号対空電探、艦橋トップには22号対水上電探が搭載されました。
そして後檣を3番砲跡のすぐ後ろに移設し、後檣の後ろには「回天」両舷2基ずつ、計4基搭載できるように改造。
およそ1.5m艦尾が延長されています。
当然進水させるために艦尾はスロープ状になり、いよいよ禁じ手を使うことができる船へと様変わりします。
しかし幸か不幸か【汐風】が「回天」を使用する機会は訪れませんでした。
呉近郊はすでに海上封鎖状態で、まず移動も難しかったのが影響しているのでしょう。
結局【汐風】は呉で終戦を迎えます。
終戦後、資材の宝庫であった艦艇は物資不足にあえぐ日本にとって貴重な存在でした。
しかしそれ以上に食糧不足が深刻な状態で、漁場を造るために小型艦を防波堤の代わりとして沈める案が浮上します。
この候補となったのが【汐風】と【澤風】でした。
【澤風】は昭和23年/1948年4月に福島県の小名浜にて沈設。
さらに【汐風】も8月に同じく小名浜港の1号埠頭に沈められました。
のちに撤去される【澤風】とは異なり、【汐風】は今も同じ場所に眠っています。
埠頭は拡張されて【汐風】を生で見ることは叶いませんが、かつては【汐風】が沈んでいる場所だけタイルの色が変えられていて、そこに【汐風】が沈んでいることがはっきりわかるようになっていました。
ところが平成23年/2011年の東日本大震災により大きな被害を受けた後、復旧工事の際にその識別用の色の違いもなくなってしまい、視覚ではついに確認できなくなってしまいました。