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涼月【秋月型駆逐艦 三番艦】その2
Suzutsuki【Akizuki-class destroyer】

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「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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三度艦首喪失 坊ノ岬沖海戦を英霊が守り抜き、涼月根性の帰還

さらに強くなった【涼月】ではありましたが、残念ながら今や帝国海軍には敵を脅かす力が全く残されていませんでした。
多くの船が燃料節約のために港に留め置かれ、損傷艦は修理を受けることなく固定砲台として扱われる有様でした。
【涼月】達のように動ける駆逐艦も訓練は行うものの、外洋に出ることはなく、やがて呉軍港空襲などの本土空襲が活発になり、どこにいても危険な状態となり始めます。

そんな不遇な時を過ごしていた間にも、連合軍の侵攻は着実に行われていました。

ついに沖縄が標的となり、そして昭和20年/1945年3月末から「沖縄戦」が始まりました。
海軍に残された戦力は僅かですが、一般市民をも巻き込む戦闘が始まったとあっては黙っているわけにはいきません。
26日、「天一号作戦」が発動します。

特に沖縄への特攻作戦を「菊水作戦」と銘打ち、航空機による特攻が大々的に行われることになります。
一方で【涼月】らの出撃も目前に迫っていました。
【大和】と第二水雷戦隊もまた、沖縄への事実上の特攻作戦を行うことになったからです。
選ばれたメンバーは28日に呉を出撃し、29日に佐世保に到着する予定でした。
特攻すなわち死の作戦ということで、各艦戦闘に携われなかったり、力になれない者は下船させており、【涼月】の例ではどうせ金勘定もしないんだからと、経理部長である主計長が退艦しています。

ところが九州への空襲も始まったことから佐世保への移動は中止となり、一行は三田尻に留め置かれます。
さらには三田尻へ向かう途中、周防灘で【響】が付近に敷設された機雷に接触してしまい、機関を損傷してしまいます。
【朝霜】の曳航で呉へ戻る【響】
途中で自力航行が可能になったため【朝霜】は戻ってきましたが、早速貴重な味方1隻を失ってしまいました。

4月6日、待たされた【涼月】達に最後の出撃指令が下りました。
「菊水作戦」にちなみ、【涼月】の煙突には菊水紋が描かれていました。
かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

翌7日、【大和】旗艦の第二艦隊は輪形陣を形成して南下を続けます。
しかし悲運にもここまで何度か修理のタイミングを逃し、無理を強いてきた【朝霜】の機関がこの土壇場で悲鳴を上げ、どんどん速度を落とし、やがて止まってしまったのです。
【涼月】はもがき苦しむ【朝霜】の姿が小さくなっていくのをじっと見つめるしかありませんでした。
【朝霜】の最期は、英字で淡々と記録されました。

第二艦隊にもその時が迫っていました。
すでに第二艦隊の出撃は潜水艦によってしっかり報告されており、命知らずの日本海軍をこの手でひねり潰すべく、大量の航空機を放ちます。
12時半から「坊ノ岬沖海戦」が始まりました。

海戦と言っても相変わらず敵艦影は見えず、夥しい敵機に向けてひたすらに主砲と機銃を振り回して反撃するしかありません。
長10cm砲を搭載する【涼月、冬月】ですが、その性能はすごくとも、2隻じゃ艦隊でも16門に過ぎません。
【大和】の三式弾もありますが、護衛の戦闘機がいない以上、これまでの戦い同様、どうやっても限界があります。

輪形陣を組んでも、縦横無尽に攻め立てる航空機の動きに合わせて舵を切るうちにどんどん陣形は崩れていきます。
みんな【大和】のそばに戻ろうとしますが、各々空襲を回避していくうちに【大和】との距離は開く一方です。
最初は2,000mの距離で護衛していたのですが、やがて5,000mほどにまで離れてしまい【涼月】は歯がゆい思いをしながら機銃や主砲を撃ち続け、何とか【大和】に接近していきます。
機銃掃射を受けた際に断片が予備魚雷を貫き、ギリギリのところで魚雷を回避、機銃で破壊。
一瞬一瞬が幸と不幸、生と死を分けていきます。

【矢矧】が魚雷を受けて航行不能となり、【涼月】のそばで戦っていた【浜風】も爆撃を受け、最後は魚雷で止めを刺されて沈没。
【大和】もすでに被弾被雷をしており、それでも頑丈な体を目一杯振り回して対空射撃の音は止みません。

自身も一機また一機と敵を撃破する【涼月】でしたが、こちらも機銃掃射で機銃手が次々に吹き飛ばされます。
弾薬を運ぶ者も傷つき倒れていき、機銃は無事なのにそれを操作する者が減っていきます。
そんなあまりにも多い攻撃の嵐の中、ついに【涼月】は2番砲塔後方に被弾、続いて後方で至近弾2発を受けてしまいました。

被弾により1番、2番砲塔は大破し、爆弾は甲板貫通後に爆発。
その衝撃は外板までを吹き飛ばし、弾薬庫は浸水してしまいます。
機関は第一缶室が浸水しましたが、第二缶室が無事だったためにまだ【涼月】は動きます。
ですが操舵装置も故障して人力操舵を強いられ、さらに電源も喪失したことから消火活動に大きな支障をきたし、2番砲塔の弾薬庫の誘爆や重油タンクの火災を防ぐことができませんでした。

艦首が炎に包まれ、1つの缶だけが頼りとなった【涼月】の速度はどんどん落ち、さらに舵も聞きませんから右に旋回し続ける状態となります。
そんな中、被害増大により同じく副舵を故障して転舵が劇的に重くなっていた【大和】に追突されそうになっています。
【涼月】は後進一杯で【大和】との衝突を寸でのところで回避します。
体感かもしれませんが、その距離数十メートル、目と鼻の先まで迫ってきていたといいます。

【大和】に押し潰される危機を回避はしたものの、【涼月】は他にも通信設備、ジャイロコンパスの破壊、海図の喪失と、とても戦闘が継続できる状態ではありませんでした。

ですがすぐに逃げられるほど軽い怪我でもなかったため、【涼月】はこの有様でも残された後部主砲や機銃を人力で動かしながら抵抗を続けました。

あまり動けない【涼月】を敵は放置し、【大和】とその取り巻きの撃沈に力を注ぎます。
【大和】【涼月】が何隻沈むかわからないほどの魚雷を受け、爆弾を受け、悲鳴と血飛沫が飛び交い、曇天の坊ノ岬で慟哭します。
しかし戦艦が敵制空権内で航空機に勝てないことは、もう身を持って何度も体験をしています。
14時23分、空襲が始まってから約2時間、【大和】はついに力尽き、沈没。
最後は転覆とともに大爆撃を起こし、曇り空に更に濁った煙が立ち上りました。
【涼月】【冬月】からは、この転覆の時の乗員の足搔き、そして爆撃によって吹き飛ばされる姿が残酷なまでにくっきりと見えました。


度重なる空襲で炎上する【涼月】

【浜風】の他【矢矧】【霞】【磯風】がこの戦いで戦没。
逆に生存艦は【涼月】以外は航行に支障が出るほどの被害はなく、果たして生存艦だけでも沖縄に突っ込むか、みんな引き返すかを考えるぐらいには戦える状態でした。
ですが【涼月】はそうはいきません。
前述の被害であり、沖縄に行くかどうかの一悶着があったことも把握できない【涼月】は、誰に言うでも言われるでもなく、自力で日本に帰るしかありませんでした。
第一缶室は浸水したものの、生き残った第二缶室の出力により最大20ノットでの航行が可能でした。
しかし大穴を空けてグラグラし、いまだに炎が燃え盛る一方で艦首は浸水しており前傾傾斜がおよそ10度、この状態で前進するわけにはいかず、【涼月】は後進9ノットで空襲を目指して北上を開始します(速度は結構ブレがあります、3ノット、9ノット、最大で限界速度である後進強速度黒二十など)。

上記の発揮速度も含め、この後の【涼月】の動向についてはなかなか正確な情報が見い出せませんのでご理解ください。
【涼月】はコンパスも海図も失っていたため、北東を目指したと言っても正しい方角ははっきりしません。
特に当日は雲がかかっていたため太陽の方向も曖昧で、最初は全然違う南東へ向かって進んでいたそうです。
その【涼月】の姿を見た【初霜】が、【涼月】に向かって手旗信号で日本はあっちと方角を示してくれました。
【初霜】にはまだ沈没艦から脱出した人たちの救助という大仕事が残っていたため、【涼月】は彼女らの最後の仕事を目にしながら北東に進み始めます。
撤退途中には雷撃機が止めを刺そうと突っ込んできたこともあり、戦いはまだ終わっていませんでした。

重油が炎上していることから消火は全くお手上げ状態で、その炎と電源喪失が邪魔をして浸水の軽減や排水も大変でした。
ですが今度の被害は艦首がくっついている状態で大穴が開いていたため、浸水が酷くなると艦首の沈下と浸水のダブルパンチで船が海に引きずり込まれる可能性があります。
また前部浮力を維持するためにも、艦首にある物はできるだけ捨てたり艦後部に移動させたりと、ボロボロになりながらも皆懸命に生きるために努力しました。

【涼月】がバックで日本を目指している時、【涼月】【磯風】の横を通り過ぎたと言います。
最終的に沈没してしまう【磯風】でしたが、しばらくは動くことができ、【涼月】同様日本へ向けて撤退をしていました。
ところが機関室の浸水という致命的なダメージを受けていた【磯風】は、ついに航行不能に陥ってしまったのです。

【磯風】の生還を願いながらも、【涼月】が手を差し伸べることはできません。

【涼月】は目印になってしまう火災の処置に全力を尽くしましたが、結局月が昇ってからも【涼月】の炎は消えることがありません。
こんな状態なので潜水艦に狙われるのは当たり前で、見張員は暗い海面に潜望鏡や雷跡が現れないかと血眼になって探します。

そしてついに8日未明、恐れていた事態が起こりました。
暗い水面に白い蛇が走ってきました。
間違いなく魚雷です。
万事休すか!?

ところが魚雷は【涼月】の艦首を掠めて通り過ぎていきました。
首の皮一枚でつながっていた【涼月】は、まさにその言葉通り、首の皮一枚の距離で生きながらえたのです。

その後夜を徹した消火活動により、ようやく【涼月】の火災は鎮火。
後は日が昇った後、周囲に何が見えるかです。
ちゃんと北北東、九州へ向けて進んでいるかどうか、ただただ願うばかりでした。

一方で残りの生存艦ですが、彼女は彼女らで九州を目指していました。
二水戦旗艦を引き継いでいた【初霜】は、【冬月】に対して【涼月】の捜索、護衛と、状況によっては【涼月】の処分を許可しており、各艦も捜索をしながら撤退をしております。
【涼月】が無事なら、上手くいけば合流できるかもと考えていましたが、通信設備が壊れていることを知らない一行は返事のない【涼月】の生死を悲観していました。
【冬月】は結局【涼月】を発見できずに夜明けを迎えます。

その後3隻は佐世保に到着。
傷だらけとなった仲間が、二度と踏まないと覚悟を決めた日本の土を踏みしめて上陸していきます。
ですが腰を下ろす暇はありません、【涼月】の所在は不明のままなだけで、沈没と決定したわけではないのです。
【冬月】【涼月】捜索の援護要請を出し、空からの【涼月】の捜索が始まりました。

その【涼月】ですが、周囲が明るくなってもまだしっかりと航行を続けていました。
そして鹿児島の西南西付近を航行中、ついに9時半ごろ、指宿の水上偵察機が【涼月】を発見。
この時水偵から【涼月】に対して何かアクションがあったかはわからないのですが、【涼月】発見の報告はすぐさま佐世保にも届きます。
タイミング的には【冬月】がすでに佐世保に到着しており、残り2隻はもう間もなくというところでした。

頑張れ【涼月】、あと一息だ!
そう【涼月】を鼓舞するのは、やがて【涼月】の乗員だけではなくなりました。
特設掃海艇か、はたまた単なる漁船か、ともかく非常に小型の船が【涼月】に接近し、「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号を送ってきました。
恐らくこの船にできることなどないでしょう。
しかし【涼月】の命は、この旗が風を切るキレの良い音でさらに力強さを増したのです。

やがて見覚えのある港が視界に入ってきました。
日本最西端の軍港、佐世保に間違いありません。
佐世保にはすでに4隻の生存艦が到着していました。
「坊ノ岬沖海戦」での被害状況、そして通信も全くつながらず、もう諦めるしかないのかと思っていた【涼月】
彼女はその生への執着を決して捨てることなく、三度艦首を失いながらもついに再び日本に帰ってきたのです。
異形の姿と成り果てた【涼月】の生還に、佐世保海軍工廠からはサイレンが鳴り響きどんちゃん騒ぎ、その声に答えるように【涼月】からは高らかに軍歌が歌われました。

【涼月】は入港のために前進に切り替えます。
もう少し、あと数百mだけ、最後のひと踏ん張り。
が、この最後のひと踏ん張りが【涼月】の限界でした。
ここまで懸命に耐えてきた浸水は、やはり後進という手段によってギリギリ保たれていたものであり、前進するや否や唐突に浸水が進み始めたのです。

大急ぎで手配されたタグボート3隻が【涼月】を抱え込み、第七ドックに滑り込みますが、排水する前についに【涼月】はドックに倒れこみました。
まさに九死に一生、崖っぷちの生還劇でした。

やがて、喜びに沸く多くの乗員を救うために、命を賭した人の姿が明らかになります。
排水を終えた【涼月】は、修理のために被害の調査が始まりました。
奇跡の生還と思われた【涼月】は、決して奇跡ではなく、日本の誇り高き軍人達の使命感溢れる行動によって支えられていることがわかってきました。
特に1番弾薬庫の浸水が防がれていることは、【涼月】の機関を守り抜いたことと同じぐらい、【涼月】の命運を握るものでした。

そこには3人の遺体がありました。
2人は窒息死、1人は短刀で自刃。
彼らは弾薬庫の「中」で戦死していました。
つまり弾薬庫を内側から塞ぎ、自らの命と引き換えに浸水を防ぐために弾薬庫のハッチを見事に密閉させていたのです。
この命を賭した行動は、艦首部の浸水が進む【涼月】の命綱となり、【涼月】の貴重な貴重な浮力を維持し続けたのです。

他にも艦内からは痛々しい仲間の亡骸が見つかりました。
誰一人として職務を離れることなく、その最後にどのような意思で行動していたかがつぶさにわかるような死に様姿でした。
戦死者57名、うち帰還後に発覚した戦死者は7名、その英霊たちの支えにより、【涼月】は今、佐世保にいます。

その後、修復に入った【涼月】でしたが、後部砲塁2基のみ作動できる状態にされてから相浦へと移動します。
完全な修理は行われず、艦首底の穴は角材で塞ぐ程度の最低限のもの、前部兵装は全て撤去され、【涼月】は防空砲台として繋留されました。
もう窯に火が入ることはありません、彼女の本体は後部2砲塔と機銃だけです。
7月5日には第四十一駆逐隊も解隊され、第四予備艦となります。

【涼月】の乗員は100名程度まで減少。
地元の人の協力を得て農業と漁業を行う傍ら、敵機が現れた時は兵士の目に変わるという日々を過ごすことになります。
防空駆逐艦である意地を見せ、8月には空襲にやってきた戦闘機の【P-51】を1機撃墜しています。

しかし8月6日、広島に原爆が投下。
さらにすぐその後、長崎にも9日に原爆が投下されました。
恐らく【涼月】は乗員もその特有のきのこ雲を見上げたことでしょう。

そして8月15日、日本は敗戦します。
航行が不可能な【涼月】は復員船としての役割を担うことはできず、昭和23年/1948年に佐世保海軍工廠の新しい姿、佐世保船舶工業で解体されました。
その後船体は【冬月、柳】とともに若松港の防波堤として活用されることになりました。
当時ではその姿をまだ拝むことができましたが、今は完全に埋没しており、視認することは叶いません。

三度の艦首損害、一度の艦尾喪失、そして「坊ノ岬沖海戦」を経験しながらも、終戦まで耐え抜いた不沈艦【涼月】
その数ある危機を乗り越えた【涼月】は、「秋月型」で最も長く戦い続けた駆逐艦でした。

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