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初月【秋月型駆逐艦 四番艦】その1
Hatsuzuki【Akizuki-class destroyer】

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起工日昭和16年/1941年7月25日
進水日昭和17年/1942年4月3日
竣工日昭和17年/1942年12月29日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年10月25日
エンガノ岬沖海戦
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量2,701t
垂線間長126.00m
全 幅11.60m
最大速度33.0ノット
航続距離18ノット:8,000海里
馬 力52,000馬力
主 砲65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

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対空自慢の初月 戦う相手は海の中

昭和17年/1942年末に竣工した【初月】ですが、彼女は本来は昭和18年/1943年5月竣工の予定でした。
当時、海軍史上最も大型の駆逐艦だったにもかかわらず、1年半足らずでの竣工にまで短縮することができました。
第三艦隊に所属した【初月】は、竣工後3月までは本州周辺の警戒にあたっていました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

【初月】と同じ日には【涼月】も竣工しており、2隻は1943年1月15日に第六十一駆逐隊に編入されます。
第六十一駆逐隊は【秋月】【照月】で編成されていましたが、【照月】は12月12日に沈没していて、彼女らの編入と入れ違いで除籍となっております。
さらに【秋月】も1月19日に【米ナワール級潜水艦 ノーチラス】の魚雷を受けて大破してしまったことから、早速第六十一駆逐隊は【初月、涼月】コンビでの活動を余儀なくされました。

15日、【初月】【涼月】は横須賀を出港して呉へ向かいました。
しかし16日未明、潮岬沖を航行中に2隻の前には【米ガトー級潜水艦 ハダック】が現れました。
【ハダック】は浮上した状態で発見され、2隻は速攻で爆雷を投げつけます。
慌てて【ハダック】は潜航し身を隠し、結局そのまま逃げられてしまいました。

呉到着後はしばらく日本を離れることはなく、初の外洋任務は3月下旬になりました。
それは第二航空戦隊の【飛鷹】【隼鷹】と第八戦隊の【利根】【筑摩】をトラックまで護衛するというものでした。
護衛は【初月、涼月】のほか【夕暮】【陽炎】がおり、22日に佐伯港を出撃した面々は27日に無事にトラックに到着しました。

その後航空機の整備士やパイロットを乗せて【初月、涼月】はカビエンへ移動。
彼らは「い号作戦」のために最終的にラバウルへ向かう予定だったのですが、経由地のカビエンで停泊していた4月3日、夜間空襲に晒されてしまいます。
【B-17】3機のこの空襲で【青葉】が被弾し、さらに魚雷の誘爆により大破擱座という大惨事を引き起こしました。
浅瀬だったために沈没はしませんでしたが、当然身動きが取れないため、【初月】【青葉】の救助活動を行っています。
【青葉】はこの後排水と応急修理を受けて受けてトラックに向かいますが、呉に到着するまで4ヶ月ほどかかりました。

その「い号作戦」ですが、作戦終了には山本五十六連合艦隊司令長官が乗った【一式陸上攻撃機】が撃墜されて戦死するという「海軍甲事件」が影響しています。
当然こんな超超超大事件は上層部の極一部の者たちにしか知らされず、【初月】もまた、そんなことが起こったなど夢にも思わないまま、【武蔵】らを護衛して日本に戻るという命令を受けます。
5月17日、山本大将の遺骨を抱えた【武蔵】をはじめとした一行はトラックを出撃。
【初月】達は本土帰還の後には北方海域に派遣され、「アッツ島の戦い」などの支援を行う予定になっていました。

しかし当初からアッツ島、キスカ島を占領し続ける意味が薄かったので、事ここに至って大本営は守備隊を全力でサポートすることに匙を投げました。
結局現地の守備隊は、はっきり言って見捨てられたのです。
5月29日、守備隊の玉砕によって「アッツ島の戦い」は終結します。

その後奇跡の「キスカ島撤退作戦」という美談もあるわけですが、【初月】はこの作戦には参加せず、瀬戸内海に移動。
6月30日には長期離脱中の【秋月】が第六十一駆逐隊から除籍され、いよいよ本当に2隻体制となりました。
2隻は1ヶ月ほどここで訓練を行って次の出撃を待ちました。

7月10日、【初月】はトラックへ向けて出港。
この時護衛をしたのは「翔鶴型」2隻を含めた空母4隻や【日進】などであり、航空機輸送には欠かせない戦力たちでした。
当然潜水艦の魚雷を受けないように、各艦は警戒を緩めることなく目を光らせていましたが、海軍の暗号を解読した【米ガトー級潜水艦 ティノサ】がトラック近海で待ち構えていました。

そして15日、暗号通り【ティノサ】の前には美味しそうな艦隊がやってきました。
後は魚雷を撃ち込むだけだったのですが、艦隊まで3,500mで放った魚雷は4本全て命中しませんでした。
護衛に成功したというべきか、運良く外れただけなのか判断に困るところですが、とりあえず無事に艦隊は同日トラックに到着しています。
その後空母を除いた大半の船がラバウルへ移り、さらに【初月、涼月】はブカまで輸送のために進出しています。

8月15日、第六十一駆逐隊に新たに【若月】が編入されました。
少し先の話になりますが10月31日に【秋月】も隊に復帰し、ここでようやく4隻体制が整います。
ただしすぐの合流とはならず、【初月、涼月】はその後もトラックやマーシャル諸島、ラバウルを転々とします。

11月10日、トラックにいる2隻に急報が入ります。
ラバウルからトラックへ向かっていた【東京丸】が、【米ガトー級潜水艦 スキャンプ】の魚雷を受けて航行不能に陥ったというのです。
この時【東京丸】【時雨】【御嶽山丸】と一緒に航行しており、【東京丸】は浸水があるものの曳航は可能ということで【御嶽山丸】による曳航が始まりました。

11日、2隻が【東京丸】のもとに到着しました。
【東京丸】は依然被雷した第6番艙への浸水が止まっておらず、状況は悪化してきました。
2隻は移動排水ポンプを使って排水を手伝いますが、浸水速度が排水速度を上回っていました。
やがて第5番艙にも水が及ぶようになり、荷物を移動させたり乗員を徐々に【御嶽山丸】に移動させたりと、沈没を覚悟した動きもみられるようになります。

同日夜、ついに排水は断念されました。
乗員は【東京丸】を離れ、残された道は沈没前にトラックまで曳航することだけだったので、【初月】【御嶽山丸】に代わって曳航を実施することになります。
【御嶽山丸】の馬力ではもう引っ張れないのです。

翌朝から【初月】の曳航で【東京丸】は再び動き出しました。
しかし【東京丸】の体力はもう残されておらず、12時過ぎには右舷傾斜が大きくなります。
排水を断念していた以上、傾斜が回復する可能性はありません。
残念ながら【東京丸】につながれていた曳航索は切断され、その後【東京丸】は沈没してしまいました。

トラックに戻ってきた【初月】ですが、間髪を容れずに出港することになります。
【東京丸】を沈めた【スキャンプ】が、今度は第六十一駆逐隊を統率する第十戦隊の旗艦【阿賀野】にも魚雷をぶつけていたのです。
【スキャンプ】は11日は夜まで【東京丸】で付近で様子を伺っていたようですが、その後移動し、今度はトラックへ向かう【阿賀野】【浦風】を発見し、【阿賀野】に魚雷1本を命中させていました。
11月11日はラバウルが空襲された日でもあり、この空襲で魚雷を受けて艦尾の一部を喪失した【阿賀野】は、舵のない中4軸中2軸のスクリューを調節しながらヨロヨロとトラックまで逃げているところでした。
【スキャンプ】から受けた魚雷はそのヨロヨロ航行すら許さない被害をもたらし、缶室浸水と機関停止により【阿賀野】は完全に航行不能となってしまいました。

【阿賀野】が動けなくなった場所はトラックから40海里とかなり近い場所だったため、【初月、涼月】【長良】はすぐに現場に到着します。
他にもラバウルから逃げ出してきた船から【能代】【藤波】【早波】【阿賀野】の救援に来てくれて、【阿賀野】【能代】【長良】の曳航により何とか沈まずにトラックに入港しています。

12月1日、復帰した【秋月】がトラックにやってきました。
これでようやく第六十一駆逐隊は4隻での行動が可能となります。
ですが任務は今や駆逐隊単位での行動を許してくれず、【若月】はすでにトラックを発って日本に戻っており、また7日には【初月、涼月】【瑞鶴】【筑摩】とともに本土へ向けて出港。
すぐに離れ離れになってしまいます。
呉に到着した後、【初月】【涼月】は修理を受けています。

24日、【初月】【涼月】とともに【赤城丸】を護衛して宇品を出撃し、ウェーク島への輸送に向かいます。
【赤城丸】には独立混成第五連隊と戦車第十六連隊が乗っており、この輸送は無事に達成されています。
到着したのは昭和19年/1944年1月1日。
果たしてどのような1年になってほしいと願ったか。

日本に戻った3隻は今度は砲兵大隊、工兵隊、衛生隊を乗せて1月15日に呉を出撃します。
16日、3隻は豊後水道に差し掛かりました。
豊後水道と言えば国内でも敵の潜水艦が潜む鬼門で、今回もしっかり潜水艦が待ち構えていました。

太陽に照らされた海面に敵潜が紛れていないか、警戒を続けながら南下する3隻は、宿毛湾を通過し、豊後水道の出口に差し掛かっていました。
その動きを捉えていたのは、【米サーモン級潜水艦 スタージョン】でした。
【スタージョン】は3隻に気付かれることなく、側面から4本の魚雷を発射。
この魚雷は2本が【涼月】の艦首と艦尾に命中し、艦首に命中した魚雷は弾薬庫の誘爆を招き、大爆発の次の瞬間には艦首は完全に破壊されていました。
艦尾に命中した魚雷も4番砲塔よりも後ろを吹き飛ばし、【涼月】はあっという間に身体の40%を海に沈めてしまう瀕死の状態に陥ってしまいます。
【スタージョン】【初月】の爆雷を回避し、その後もかなりの時間留まり続けたようですが(攻撃は10時45分頃、撤退は19時前らしい)、【初月】の妨害もあって追加の雷撃は行っておりません。

この雷撃により、弾薬庫の爆発を至近距離で受けた艦橋内部は全滅。
それでも【涼月】は沈まずに浮かび続けたのですから、運と被害を受けた後の処置の両方に救われました。

【涼月】【初月】が曳航し、取り急ぎ宿毛まで避難。
その後【電纜敷設艇 釣島】【特設掃海艇 第六玉丸】の支援も受けて、慎重に呉まで撤退していきました。

ここまでともに行動してきた【涼月】が大怪我をしたことで、【初月】は日本にいた【若月】と新たにコンビを組みます。
2月6日、2隻は他の船とともに【翔鶴、瑞鶴、筑摩】を護衛して洲本を出撃し、シンガポールへ向かいました。
その後リンガへ移って1ヶ月ほど滞在した後、3月21日に日本に戻ってきました。

28日、【初月、若月】は再びシンガポールを目指して出撃しました。
彼女らの隣にはえらくデカい、見たこともない空母が存在していました。
その名は【大鳳】、言わずとしれた装甲空母です。
7日に竣工したばかりの【大鳳】は、「ミッドウェー海戦」以後戦力の補強が改装空母だけだった機動部隊にとって待望の新正規空母でした。
3隻はシンガポール経由でリンガに到着し、その後「あ号作戦」の準備のために順次タウイタウイ泊地へ移動します。

日本はアメリカの触手がマリアナ諸島にも及ぶことを危惧し、こことサイパンを絶対に死守するために「あ号作戦」を計画していました。
【初月、若月】も15日にタウイタウイに到着し、来る大決戦に備えて訓練に勤しみました。

ただ特に駆逐艦には訓練以外にも重要な仕事が与えられていました。
それは対潜哨戒です。
タウイタウイ周辺には潜水艦が陣取っていて、迂闊に外洋に出ようものならすぐにターゲットにされてしまいます。
確かにフィリピンやシンガポールはまだ日本の占領範囲でしたが、だからと言って潜水艦の出入りまでは制限できないことは、四国沖で雷撃を受けた【涼月】の例を見ても明らかです。
多くの駆逐艦が周辺の潜水艦捜索に駆り出されていました。

しかし敵潜水艦は日本の警戒を容易く突破し、どころか撒き餌で誘き寄せて返り討ちにしていたました。
6月6日にはタウイタウイからバリクパパンへ向かった【興川丸】とそれを護衛した【水無月】【若月】の前に【米ガトー級潜水艦 ハーダー】がひょっこり顔を出し、【水無月】を至近距離まで引き付けて雷撃で撃沈。
【ハーダー】は似たような方法で7日に【早波】、9日に【谷風】も撃沈し、さらに「第三次渾作戦」に合わせてダバオを出撃していた【風雲】が8日に【米ガトー級潜水艦 ヘイク】の雷撃でこちらも沈没しています。

一日一殺の屈辱を被った日本でしたが、さらにアメリカは日本が想定していた西カロリンではなくマリアナ諸島への攻撃開始。
結局この作戦でも主導権を失った日本は、引っ張り出される形で「マリアナ沖海戦」を戦います。
【初月、若月】はここまで護衛してきた【大鳳】の直衛として参加しています。

しかし「マリアナ沖海戦」は日本の思い描いた結果とはかけ離れていました。
アウトレンジ戦法による航空爆撃は対空砲火の網に捕らわれて容赦なく撃墜され、さらに敵潜水艦が自陣付近に侵入していることも気付きませんでした。

約5,000mの距離という射程ギリギリの距離から【アルバコア】が魚雷を発射し、6本中1本が命中。
急いで【初月】らは魚雷の方向から【アルバコア】の制圧に向かいましたが、【アルバコア】は反撃を察知してすぐさま潜航。
この間に【米ガトー級潜水艦 カヴァラ】【翔鶴】へ魚雷を命中させており、その後の経緯はそれぞれですが、結局2隻ともこの被雷が原因で沈没してしまいます。
【初月】らは執拗に【アルバコア】を捜索して爆雷攻撃を続けましたが、ついに取り逃してしまいます。

空母2隻の沈没により、海は大量の乗員で溢れ返ります。
この他にも傷だらけになりながらも帰ってきた艦載機が、母艦着艦ができないために着水を余儀なくされるケースも有りました。
駆逐艦は生存者の救助でてんやわんやとなりました。

翌日には撤退中に【飛鷹】が敵艦載機の追手を振り切れずに沈没。
【初月】「秋月型」は前日はほとんど発揮しなかった対空砲火で敵機を追い払います(アメリカ側の記録ではトータルで20機が撃墜されたと言われています)。
【初月】は敵機に対し長10cm砲189発、機銃3,030発を放ったと記録しています。

撤退した一行は中城湾に立ち寄りますが、この時【初月】【瑞鶴】に燃料を供与しています。
駆逐艦が空母や戦艦から燃料をもらうことは珍しくもありませんが、この逆となると極めて異例です。
確かに「秋月型」の航続距離は長いほうですが、乱暴に動く艦種なので燃料の消費は激しく、そんな駆逐艦から燃料を取り上げてでも【瑞鶴】を守らないといけないという、盲目的な行動もあるほど滅多打ちの敗北でした。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 7基7挺
13mm単装機銃 3基
単装機銃取付座 7基
電 探21号対空電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

ここで横須賀に向かった【若月】とは別れ、【初月】は呉に帰ります。
呉で整備を受けた(このタイミングで上記の機銃増備と13号対空電探の配備が行われています)【初月】は、今度は【秋月】とタッグを組むことになりました。
7月30日、【初月、秋月】の新コンビは【瑞鳳】【山雲】【野分】とともに横須賀を出撃。
これは小笠原諸島行の第3729船団を護衛するというもので、そのため【瑞鳳】は対潜哨戒に特化した第九三一海軍航空隊の【九七式艦上攻撃機】を搭載しており、潜水艦は絶対ぶっ倒すという布陣でした。

厳重な警戒を敷いたこともあってか第3729船団は8月2日に無事に小笠原諸島の父島に到着。
護衛5隻の役割はここまでだったので、5隻はその後各母港に引き返していたました。
ただ第3729船団改め第4804船団はこの後【瑞鳳】を探して現れた敵群に見つかってしまい(諸説あり)、大量の犠牲を出してしまいます。

【初月】にとっては命拾いしたわけですが、小笠原諸島でもガチガチの編隊が現れるようになったというのは、まさに「マリアナ沖海戦」の敗北が導いた結果でした。
打つ手がない日本は、連合艦隊最後の戦いになるという覚悟で「捷号作戦」の準備に取り掛かります。
その中でも「捷一号作戦」は、作戦最初の激戦地になるであろうフィリピンのルソン島に使える船をほぼ全て突っ込むという、後戻りのできない内容でした。
戦争の主役となった空母ですら、もはや航空機もパイロットも用意ができないということから囮に使われることになり、この段階で本土決戦は覚悟していました。

この戦いはようやく第六十一駆逐隊が揃い踏みとなり、機動部隊を護衛するという本来の役割を果たす予定でした。
ところが10月16日、「台湾沖航空戦」の幻の大勝利という戦果を受けて【涼月、若月】は基隆への輸送を命じられます。
そして同日夜に【米バラオ級潜水艦 ベスゴ】の闇討ちに合い、【涼月】は復活したばかりの艦首がまた無くなって再度ドック送りになってしまったのです。
結局第六十一駆逐隊は一度も4隻揃っての活動ができませんでした。

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