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秋月【秋月型駆逐艦 一番艦】その2
Akizuki【Akizuki-class destroyer】

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魚雷の執着が命を奪う エンガノに舞う怨嗟の黒煙

復帰した【秋月】は12月1日にトラックに到着。
この時初めて【涼月、初月】と対面しました。
第六十一駆逐隊が新編されてから約11ヶ月も経っていました。

12月31日にトラック島からカビエンへ向かう戊三号輸送部隊の一員として【秋月】はトラックを出撃します。
昭和19年/1944年1月1日、元旦の初日の出を見る前に戊三号輸送部隊はカビエンに到着。
しかし揚陸完了直後に新年祝いの空襲がお見舞いされ、各艦対空戦闘のために抜錨し、また【零式艦上戦闘機】も50機ほどが迎撃に出ます。
回想では敵機は100~200機(第二波含む?)ほどという規模の空襲だったようです。

この空襲で【秋月】【大淀】とともに対空戦闘を行います。
さすがに相手の数も多いため長10cm砲の餌食となった機がパラパラと火を噴き始めます。
これに脅威を感じたからなのか、【秋月、大淀】組には遠くから爆弾を落としては引き返す機が目立ち、結局機銃の射程にまで入り込まれたことはほとんどなかったようです。

一方で【能代】【山雲】組は苦戦を強いられます。
対空兵装が【秋月、大淀】と比べると全然少ないわけですから、接近されても対応には限界があります。 
結局【能代】は至近弾5発に直撃弾1発、【山雲】も至近弾を受けるという被害を負いました。
また【大淀】も煙突付近に不発でしたが50kg爆弾を受けています。
唯一【秋月】だけ爆撃による被害はありませんでした(機銃の被害は各艦負っています)。

【秋月】はその後しばらくは艦隊護衛に従事。
戦艦や空母、特に【大鳳】の完成に応じて各艦は拠点を変更しながら作戦の立案にあたっていました。

ところがそんなことをしているうちにアメリカはマリアナ諸島に対して進軍を開始。
海軍の予想よりはるかに早い上陸で、日本は「あ号作戦」を追い立てられる形で発令。
これにより勃発した6月19日の「マリアナ沖海戦」は、【秋月】も当然機動部隊の護衛として参加しています。
これが【秋月】「秋月型」の本懐を果たした初めての戦いとなりました。

しかしこちらの艦載機はまるで何かの壁に衝突したかのように、懐に飛び込む前に見事に撃墜されていきます。
一方日本側には空だけではなく海からも刺客が迫っていました。
【米ガトー級潜水艦 アルバコア、カヴァラ】です。
この時【アルバコア】は5,000mほどの距離からの雷撃でしたが、【カヴァラ】はわずか1,000mにまで接近されていて、日本の潜水艦探知がいかにお粗末かがここでもはっきりわかります。
【アルバコア】【大鳳】に1発の魚雷を、【カヴァラ】【翔鶴】に4本の魚雷を命中させ、特に【翔鶴】はたちまち煙突から白い蒸気を吐き出してしまいます。

やがて【翔鶴】は大爆発を起こして沈没。
そして当初は大丈夫だろうと思われていた【大鳳】も気化した燃料への引火をきっかけに大爆発を起こし、これもまた沈没。
装甲空母も内側の爆発は防げません、これで2隻の空母を一気に失ってしまいました。

【秋月】【カヴァラ】の魚雷を発見後に爆雷を投げ込みますが、【カヴァラ】そのものを見つけているわけではないので威嚇程度にしかなりません。
その後機動部隊は撤退を始めますが、そこに襲い掛かる敵機に対して【秋月】らは必死に対空砲をぶっ放します。
それでも【瑞鶴】には1発の命中弾と6発の至近弾、さらに【隼鷹】中破、【飛鷹】沈没と無事に逃げ切ることはできず、甚大な被害を負って日本に逃げ帰ってきました。

呉に戻った【秋月】は、三度目の機銃の増強にとりかかります。
結果、【秋月】の機銃は計32挺(+銃座7基)にまで膨れ上がり、さらに13号対空電探も装備されました。
機銃を乗せるスペースを確保するため、艦載艇4つのうち3つも降ろさざるを得ませんでした。
この改装は他の艦でも実施されていて、とにかく機銃を載せることが最優先とされました。

昭和19年/1944年6月30日時点の兵装
主 砲65口径10cm連装高角砲 4基8門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 5基15挺
25mm単装機銃 7基7挺
単装機銃取付座 7基
電 探21号対空電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

「マリアナ沖海戦」の敗北とサイパンの喪失は、日本の事実上の敗北と言ってもいいほどのショックでした。
八方塞がりとなった日本はもはや一点突破にかけるしかなく、連合艦隊は残存艦を結集してレイテ島目指して突撃しました。
「捷一号作戦」です。

【秋月】【若月】【初月】【霜月】とともに小沢機動部隊の護衛として参加。
機動部隊とは言うものの、実態はほとんど中身空っぽの空母を捨て駒にするという無茶苦茶なものでした。
作戦そのものは悲観的でしたが、こちらは天下の「秋月型」でしたから、自分たちが沈没するかもという不安は全くなかったと言います。

24日の日没後、小沢艦隊は水上艦を偵察に出して南下させます。
この作戦ではいつ見つかってもこちら側が不利なのは変わりませんが、夜となると反撃も困難になります。
結局この偵察で敵機や敵艦を発見することはできませんでしたが、しかし実は敵の偵察機がすぐそばまで接近していたようで、場合によっては夜間空襲を受けていた可能性もあったのです。

明けて25日午前8時15分、いよいよ敵さんの艦載機がぞろぞろと現れました。
「エンガノ岬沖海戦」の始まりです。
【秋月】は自慢の長10cm砲と大量に増備された機銃を遮二無二発射します。
さすがにこれだけの装備であれば1機、また1機と自身の攻撃によって撃墜されていく機体が目に留まります。
しかしその防空網を数の勢いで突破して果敢に急降下爆撃を仕掛けてきた【SB2C ヘルダイヴァー】の爆撃の1発が、艦中央部の魚雷発射管付近に直撃しました。
8時50分ごろと言います。

【秋月】被弾の瞬間をとらえた写真

この爆弾は機関室と缶室の真上になるため、衝撃でボイラーの350度に上る蒸気が一瞬で缶室を覆いつくしました。
煙突からは白煙が吹き出す一方で缶室は焦熱地獄と化し、脱出する間もなく肌は爛れ、息をすれば喉が潰れ、一歩二歩は進んでもついに三歩目を踏み出せず大量の戦死者が出てしまいます。
最終的には機関科員は第一缶室の3人を除いて全員が戦死し、当然【秋月】も航行不能となります。

煙突付近には機銃も多く、そのためつい数秒前まで機銃を撃ち続けていた人だったものが散乱していました。
56分には予備魚雷が誘爆して【秋月】は大爆発を起こし、吹き飛ばされた跡は波に洗われるぐらい破壊されていました。
被弾により電源を喪失した今、自慢の長10cm砲も虚しく空を見上げるだけです。
【秋月】はもう何一つできることがありませんでした。

艦は徐々に傾斜しつつ、また中央部から沈み始め艦首艦尾共にせり上がりつつあります。
艦長の緒方友兄中佐は総員退去命令を出し、皆最初は沈むのを嫌ってせり上がっていくてっぺんに向かって登り始めたのですが、一人が飛び込んだのを見ると皆次々と海に飛び込み、そして【秋月】から離れていきました。
艦長は当初は艦と運命を共にするつもりだったようですが、部下の必死の説得に応じて脱出し、その後無事生還しています。

しかし空襲が激しい中、【秋月】の乗員の救助は自らの沈没にもつながりかねない危険な行為でした。
この時【秋月】は救助艇などを降ろす暇もなかったため全員が海に浮かんでいる状態でした(艦長談)。
火災防止のため可燃物も陸揚げしてからの出撃だったため木材などもなく、頼れるのは自分の体力と精神力だけでした。

やがて【槇】が救助に訪れましたが、海戦は始まったばかりですから低速になる駆逐艦も当然標的になります。
救助の専念は難しく、最初は浮力のある樽などを投げ込むだけで精一杯。
最終的に150名ほどの乗員の救助に成功しましたが、他の救助艦はなく、またまだまだ生き残っている、特に艦後部側の乗員はついに多くを取り残したまま脱出してしまいました。
【槇】もこの戦いで3発もの直撃弾を受けたほか戦死者31名を出すほどの被害を出していますから、【槇】を責めることは決してできません。
また若干名が【霜月】にも救助されているようです。

8時59分頃、最期の爆発とともに【秋月】沈没。
被弾から6~9分で沈没したと言われていますが、最後の瞬間まで艦隊防衛、敵機撃墜に貢献し、この戦いでも13機の撃墜が報告されています。

【秋月】沈没の原因として、かつては【米ガトー級潜水艦 ハリバット】の雷撃が止めだったという説が唱えられていました。
しかしこの説はアメリカ軍の主張であり、また【秋月】の沈没時間と【ハリバット】の雷撃記録の時間の差が10時間ほどありました。
他にも「魚雷は確かに接近してきたが艦尾をかすめて通過していった」という証言、また「あれは魚雷の衝撃や損傷とは異なる」という乗員の証言も多く、雷撃が沈没の直接の原因という説は今ではかなり下火になっています。
同時に【瑞鳳】を庇って魚雷を受けた」という【瑞鳳】乗員の証言も、そもそも魚雷が命中していないはずなのでこれも否定されます。
魚雷に関しては艦攻が右舷から航空魚雷を投下したと言われています。

誘爆の原因が命中弾によるものか、艦長の証言である対空砲火の断片が魚雷を貫いたものなのか、はたまたいずれでもないのかいまだに確定はしていませんが、【秋月】の生存者や遺族会は【秋月】の沈没要因を爆弾の命中によるものと結論付けています。
特に艦中央部の悲惨な被弾跡の目撃証言が多数あること、また戦後の米軍撮影の写真から見ても被害箇所が一致することが決め手となったようです。
この沈没に至るまでの証言や検証は下記の書籍で多く記録されているので、興味がありましたらご一読ください。

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