プライドの戦いを現実に引き戻す 坊ノ岬沖海戦の顛末
修理後は他の艦と同じく作戦らしい作戦も与えられず、訓練、待機、空襲警戒を続ける毎日でした。
昭和20年/1945年1月31日、【冬月】は大分港外で座礁事故を起こしてしまいます。
ただこの座礁、実は艦長である作間英邁中佐の飲酒操艦が原因だったようです。
世界のどこでも戦争と酒のエピソードには事欠かないと思いますが、普通に問題行動でした。
ですが作間艦長は3月1日付で「松型」オンリーとは言え第四十三駆逐隊司令に転出していますので、事故による処分人事ではなさそうです。
座礁からは【涼月】が救出してくれて、その後呉で修理を行っています。
作間艦長に代わって【霞】からやってきた山名寛雄中佐が艦長に付きますが、それから間もなく【冬月】は呉軍港空襲に遭遇しています。
この空襲では【大淀】が直撃弾や至近弾を浴びていますが、【冬月】はこの空襲で2機撃墜を記録しています。
空襲後はドックで修理を行いましたが、同時に最後の作戦の準備も進んでいました。
いよいよ「沖縄戦」が目前となり、本土決戦になったらもう仕事はないに等しい海軍の船は、ここが最後の働き場所だと生死を厭わない最終決戦を挑むことになりました。
「天一号作戦」です。
【大和】を中心に、名ばかりの二水戦が脇を固めた第二艦隊が沖縄へ突撃するというこの作戦ですが、敵は相変わらず航空機となります。
しかし航空機は本土防衛のために温存され、僅かな直掩機が途中まで同行してくれるだけに過ぎませんでした。
つまりいつものように船だけで自衛をしなければなりません。
誰もが馬鹿馬鹿しい戦いと思ったに違いありませんが、もう散々鹿馬鹿しい命令で馬鹿馬鹿しい作戦を強いられてきたわけですから、当然文句の十や百で命令は引っ込みません。
なので4月6日、【冬月】らは渋々徳山沖を出撃します(ここに至るまでに【響】が触雷のため撤退しています)。
この時の燃料に関しては昔から様々な論が出ていて、他の項では敢えて触れていませんが、2024年で調べる限りでは、片道の燃料、ということはなさそうです。
なぜ【冬月】の項でのみ触れるかというと、【冬月】はこの海戦後、「大豆油ハ冬月ノ使用実績(横須賀機関学校ニ報告済)ニ依レバ機関教範所定汽缶諸元ニテ使用シ差支ナシ」と戦闘詳報で述べているためです。
つまり燃料をケチってはいなかったけど、燃料の質そのものはかなり悪化していたということです。
航空機用のガソリンに松根油を使っていたのと同様です。
【冬月】は問題なしと報告しているものの、【雪風】では馬力が2割ほど低下したと認識されています。
4月7日早朝、【朝霜】が突如として速度を落とし、どんどん味方から引き離されていきます。
機関故障を起こした【朝霜】は最後の最後の戦いの寸前で、運命の悪戯により1隻取り残され、そして撃沈されてしまったのです。
奴の無念は我々が晴らすしかない、【冬月】は【大和】の右舷後方から、小さくなっていく【朝霜】の最後の姿をしっかりと目に焼け付けながらも、南進を続けました。
そして12時半頃から、厚い雲の下に現れた敵機の群衆がついに目視でも確認できるようになりました。
機銃が回り、砲身が上を向きます。
あとは砲撃開始の命令を待つだけです。
「坊ノ岬沖海戦」が始まりました。
輪形陣を組んで抵抗の姿勢を見せていた第二艦隊でしたが、航空機の数が多すぎるので輪形陣+機銃や高角砲ぐらいでは全く怯みません
弾幕不足は明らかで、すぐに輪形陣を突破してきた航空機から爆撃だ雷撃だと翻弄されることになります。
各艦己の身を守るために回避行動を取りますから、陣形維持なんて到底不可能でした。
一際大きい【大和】からは何度か被弾による爆発が発生し、かと思えば舷側で魚雷が命中したであろう水柱も発生。
周辺では【矢矧】が被雷により航行不能、【浜風】も被弾後に動けなくなり、その後魚雷を受けて沈没します。
【涼月】も直撃弾と至近弾の連続被害で中身も外見もボロボロになります。
第一波を乗り切った【冬月】ですが、第二波の空襲は1時間もしないうちに始まります。
乗り越えたとは言え皆無傷というわけではなく、また二水戦は司令部が【矢矧】に取り残されていたため、旗艦継承のために【矢矧】への横付けも必要でした。
そんな状況で再び輪形陣を形成するのは無謀でした。
第二波の空襲でも【大和】は大量の魚雷による浸水に耐えきれずに徐々に傾斜を強めていきました。
また【矢矧】の救助に向かっていた【磯風】もこのときの空襲で機関室に浸水が発生し、これが原因でこちらも航行不能となってしまいます。
【冬月】はまだ必死に戦い続けていました。
方位盤の電路が被害を受けて統一射撃ができなくなっていましたが、命中したロケット弾の不発や魚雷の艦底通過などの幸運にも恵まれ、被害を出しながらもその猛火は衰えることなく、無数の星を撃ち落とすために機銃は唸り続けます。
しかし戦うばかりではなく、もともと【大和】の救助は【冬月】が行うことになっていたので、【大和】への接近も諦めていませんでした。
すでに【大和】はあちこちが火災と煙に苛まれていて、しかもそれよりも危険なのは傾斜角度でした。
もうその寿命は幾許もないことは明白でした。
当初は接舷して乗員の救助を行うつもりでしたが、【大和】は旋回する方向へ傾斜しており、これは転舵の際の遠心力の力よりも、浸水による傾斜の力のほうが強いことを示します。
このまま旋回の内側に残ると、突然の転覆の時は諸共沈んでしまいます。
第四十一駆逐隊司令の吉田正義大佐は接舷中止を命令して【大和】から離れ始めました。
そして14時23分、【大和】はその世界最大の躯体を横たえ、無数の乗員とともに沈没していきました。
二水戦司令が未だに機能不全のため、先任将校の吉田司令は乗員の救助を命令します。
しかしこれに対して待ったをかけたのが【雪風】の寺内正道艦長(当時中佐)でした。
海軍兵学校の期で言えば吉田司令のほうが5期上なのですが、寺内艦長は「出撃前に『救助活動せずに残ってる船で突っ込む』って決めただろ」と食ってかかったわけです。
救助を待つ者たちは、今救助すれば助かるが、今救助しなければ助かるかどうかはわかりません。
しかし一方で、沖縄は海軍陸軍も、特攻兵も、民間人すら戦火に巻き込まれていたため、それを見捨てて帰るなんて不義理は断じて承服できない。
両者はどこに身を置くかで激しく対立しました。
寺内艦長は再三吉田司令に命令に従って進撃を要求しますが、吉田司令は頑なに行動を変えようとしません。
ただ【雪風】もいつまでも食ってかかっているわけではなく、上官の言う事ですから救助には全力を尽くしています。
【冬月】から連合艦隊へは被害状況と救助中であることと合わせ、「生存者ヲ救助ノ後再起ヲ計ラントス」という通信を送りました。
再起の部分を曖昧にすることで、連合艦隊の判断基準に幅を持たせています。
やがて【初霜】が【矢矧】搭乗の二水戦司令部の救助を達成。
これで指揮権は吉田司令から二水戦司令官の古村啓蔵少将に戻ります。
当然ですが、古村司令官は決め事通り「ワレ残存駆逐艦ヲ率イ沖縄に突入セントス」と草案を作成。
ただこの通信を送る前に、連合艦隊からは「作戦中止」の命令が飛んできたため、ここで沖縄突入の可能性は潰えました。
これで心置きなく乗員救助だけに集中できます。
最終的に【冬月】は【大和、矢矧、霞】合わせて600名以上を救助したと言われています。
【霞】の救助に向かうと、【霞】は少し前までの親分である山名艦長が乗る【冬月】の到来に大きく湧きました。
しかし【霞】は直撃弾と浸水で機関はボロボロの状態。
未だに空襲を受けるエリアにいるわけですから、曳航は非常に危険なため、【霞】は残念ながらここで処分されることが決定します。
【霞】が【冬月】の魚雷を受けて沈没していた姿を、【霞】の乗員も、山名艦長も脳裏に刻みつけました。
救助活動を終えると、佐世保への帰投がはじまります。
生存艦は1隻を除いて航行に支障はないのですが、その1隻の扱いがまた大変でした。
その1隻こと【涼月】は、【大和】沈没の頃はまだ視界に入っていましたが、本人は後進撤退を行っていたため救助中に艦隊とは離れてしまいます。
しかもこの時は誰も知る由がなかったのですが、【涼月】は通信設備が壊れていて、しかも電源も喪失状態だったため、例え日本中から【涼月】捜索の通信が発せられたとしても【涼月】には届くことはなかったのです。
【涼月】の捜索には、同じ駆逐隊という理由からか、【冬月】が任ぜられます。
しかし一方で【涼月】の状態如何によっては処分しても良いという命令が付帯していました。
【冬月】は【涼月】を追い求めて北上を開始します。
ただ【涼月】は電源だけでなく海図もコンパスもない有様で、佐世保まで最短距離で進むことはできない状態でした。
なので【冬月】がとる航路上に【涼月】がいる保証は全くありませんでした。
【冬月】はもちろんこの事も知りませんが、【冬月】は絶えず「ワレ冬月、涼月何処二アリヤ」と通信を続け、敵の傍受を恐れずに懸命に捜索を続けました。
そんな【冬月】の努力も虚しく、【涼月】を発見できないまま【冬月】は鹿児島に接近しました。
1隻では捜索に限界があることは明らかで、ここで【冬月】は九州の艦船や航空機に対しても捜索を要請。
そして【冬月】は8日午前中に佐世保に入港しました。
当然【涼月】の姿はそこにはありません。
今のところ手がかり一つないため、すがる希望もありません。
捜索要請に呼応してくれた人たちからの朗報を待つしかありませんでした。
「【涼月】発見!」
この通信が飛び込んできたのは9時半頃でした。
この時【雪風】と【初霜】はまだ佐世保に入港していませんでしたが(10時頃到着)、どこの船でも歓喜の声が上がったに違いありません。
どうか無事に帰ってこいと、ひたすら願い、またソワソワしながら海を眺め続けました。
そして誰かが「【涼月】だ!」と叫び、皆の視線は一気に水平線上にぽつんと現れた黒い何かに注がれました。
それはゆっくりと、少しずつ大きくなり、そして距離が近づくに連れて佐世保港はお祭り騒ぎとなりました。
それはまぎれもなく、艦首大破のために後進で着実に佐世保を目指して進む【涼月】の姿でした。
【涼月】は入港のために最後だけ前進に切り替えますが、前進を始めた瞬間から力尽きるかのように浸水が激化。
大急ぎでタグボートが手配されてドックに運ばれましたが、ついに浸水した水を抜く作業を始める前に着底してしまいます。
【涼月】はこれまで何度も首の皮一枚で助かってきましたが、今回もまた九死一生の航海であったのです。
しかし【涼月】の身体はもうズタズタで、四度蘇ることはありませんでした。
後部の2砲塔だけが稼働できるようにされた【涼月】は、やがて佐世保の防空砲台となります。
残された【冬月】ですが、4月20日に二水戦は解隊され、第十一水雷戦隊所属艦を除いた残存駆逐艦は全部第三十一戦隊に編入されます。
ここに来てもなお第三十一戦隊と【北上】や【夏月】【波風】、「丁型駆逐艦」で海上挺進部隊を編成したりしましたが、まぁできることなんてほとんどないわけで。
5月20日に【宵月】、25日に【夏月】がそれぞれ第四十一駆逐隊に編入されますが、これも同様に戦況への影響はゼロでした。
ちなみに【涼月】が第四十一駆逐隊から外れるのは7月5日です。
結局第三十一戦隊がこの後戦隊として活動することはなく、例えば【雪風、初霜】は舞鶴に移動していますし、【冬月】も門司に移動してから「飢餓作戦」による機雷封鎖を受けて門司に閉じ込められます。
7月23日に機雷を投下しに現れた【B-29】1機の撃墜確実としておりますが、これが【冬月】の最後の戦闘でした。
8月15日、太平洋戦争は終わりを告げます。
敗戦に伴い【冬月】は呉への移動を命令されます。
20日、曳船に引かれて港を出発した【冬月】ですが、その直後、艦尾で大きな爆撃が発生しました。
これまで無数にばら撒かれた機雷に、終戦してから触れてしまったのです。
「飢餓作戦」による終戦後の機雷被害と除去は、これもまた日本の戦争とも言える生死を賭けた戦いだったのですが、【冬月】はこの機雷によって艦尾を喪失した他、5名の戦死者と多数の負傷者を出してしまいます。
この被害により【冬月】は呉へ出向くこともできず、そのまま9月20日に【涼月】と同じ第四予備艦となりました。
航行不能となった【冬月】は当然復員輸送任務に付くこともできず、工作艦として復興支援を行います。
彼女の支援は復員船だけでなく、自らをこんな姿にした機雷を地道に取り除く掃海部隊の後援にも充てられています。
【冬月】の工作艦任務は昭和22年/1947年秋頃まで続けられました。
工作艦の任務を解かれた【冬月】は、工作艦の仕事にすら就けずにいた【涼月】のいる佐世保に回航されました。
【冬月】最後の任務は、福岡県若松港の軍艦防波堤となることでした。
【涼月】【桃型駆逐艦 柳】とともに上部構造物などが旧佐世保海軍工廠、当時の佐世保船舶工業で撤去されます。
そして3隻は船体を連ねて防波堤として戦後の日本を支えました。
ただし今の【冬月】と【涼月】の姿はンクリートで完全に埋められていて、防波堤の撤去などで大掛かりな工事を行う機会がない限り、その姿を拝む機会はないでしょう。