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【松型駆逐艦 檜】
Hinoki【Matsu-class destroyer】

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起工日昭和19年/1944年3月4日
進水日昭和19年/1944年7月4日
竣工日昭和19年/1944年9月30日
退役日
(沈没)
昭和20年/1945年1月7日
リンガエン湾近海
建 造横須賀海軍工廠
基準排水量1,262t
垂線間長92.15m
全 幅9.35m
最大速度27.8ノット
航続距離18ノット:3,500海里
馬 力19,000馬力
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機ロ号艦本式缶 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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レッドフィッシュに反撃を マニラを巡り米駆に成す術なし

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

【檜】は就役後に練習部隊となる第十一水雷戦隊にて訓練を積んでいましたが、約半月後の10月18日にその旗艦に抜擢されることになります。
前日の10月17日に、日本は「捷一号作戦」を発動させ、日本にいた多くの艦がこの作戦に駆り出されました。
これまで第十一水雷戦隊の旗艦を務めてきた【多摩】もこの作戦に参加することになり、変わりの旗艦を置かなければならなかったのです。
この旗艦任務は11月23日に【楓】に引き継がれるまでの約1ヶ月間続けられました。

11月15日、【檜】【桑】【杉】【樫】【樅】と第五十二駆逐艦を編成し、さらに23日には第三十一戦隊の所属となりました。
25日、【檜】はヒ83船団の護衛任務について日本を出撃します。
ヒ83船団は最終目的地がシンガポールで、船団の中心は【海鷹】
護衛は【檜、樅】【榧】【卯月】【夕月】と海防艦5隻でした。

ヒ83船団に限りませんが、当時は船団を大型化する護送船団方式が採られたため、最終目的地が違う輸送も、ルートが一緒ならまとめて船団に組み込むことが一般的でした。
道中では【卯月、夕月】が基隆へ向かうために離脱し、また高雄に到着すると【檜、樅、榧】も離脱。
【榧】はこの後マニラへ向かい、そして【檜、樅】は呉に帰っていきました。

12月17日、今度は空母として完成したものの、その実「桜花輸送艦」に成り果ててしまった【雲龍】の護衛を任されました。
【時雨】【樅】とともに呉を出発した【檜】でしたが、19日夕方、その【雲龍】へ向かって4本の魚雷が一直線に襲いかかってきました。
【米バラオ級潜水艦 レッドフィッシュ】が放った魚雷は、3本までは回避できたものの残りの1本が右舷中央部に直撃。
第一、第二缶室がともに浸水し、【雲龍】は動力を失います。
そこへさらにもう1発の魚雷が撃ち込まれ、【雲龍】は搭載していた「桜花」への引火もあって爆発、沈没してしまいました。

【雲龍】に2本目の魚雷が命中する前に、【レッドフィッシュ】【檜】に向けても魚雷を発射していました。
この魚雷に【檜】が気づいていたのかはわかりませんが、【雲龍】沈没後に【檜】は潜望鏡を伸ばした【レッドフィッシュ】を発見します。
こちらに猛進してくる【檜】に気づいた【レッドフィッシュ】は慌てて潜航しますが、【檜】は周辺で爆雷を投下。
1回目の爆雷では船殻が損傷、2回目の爆雷では油圧系統と電気系統の故障を招きました。

黙って敵が去るのを待ち続けた【レッドフィッシュ】に対し、【檜】は最後の爆雷を投下。
ただこの爆雷が【レッドフィッシュ】に与えたダメージはなく、【檜】はその後【雲龍】の数少ない生存者の救助に移ります。
一方攻撃を耐えきった【レッドフィッシュ】はハワイまで撤退しましたが、この損傷が原因で終戦まで出撃の機会はありませんでした。

その後【檜】【樅】は高雄へ、舵を故障していた【時雨】は佐世保へとそれぞれ撤退しました。
【檜、樅】はそのままマニラへと向かうのですが、マニラ入港直前に【檜】は大きな衝撃に襲われます。
アメリカが少し前に敷設した磁気機雷が爆発したのです。
しかし磁気機雷は性質上非接触爆発であるため、大穴が開くような被害にならないケースも多く、幸い【檜】も小破で済んでいます。[1-P93]

12月31日の大晦日、【檜】【樅】【生田川丸】を護衛してサンジャックからマニラまで向かいます。
昭和20年/1945年1月4日に無事にマニラへ到着した3隻でしたが、到着後にアメリカ輸送船団の第77.6任務部隊がルソン島へ接近していることが判明。
この船団の目的地はマニラではなくリンガエン湾だったのですが、【檜】【樅】にはカムラン方面への退避命令が出たため、【生田川丸】とともに急遽マニラを出撃します。
このとき【生田川丸】と一緒にマニラを離脱していたのですが、同じタイミングでマニラから逃げ出した船には他に【第二氷川丸】や輸送艦がおり、これらが全て一緒に行動したかどうかはよくわかりませんでした。

しかしこの後南西方面艦隊は過去の成功体験から迂闊な命令を下します。
日本は少し前の12月26日に「礼号作戦」を実行し、一応敵の輸送物資に被害を与えるなど勝利と言える結果を残しました。
この機運に乗っかって、当時とは戦力差がありすぎるにもかかわらず、【檜】【樅】だけで輸送船団を攻撃するように命じたのです。

魚雷こそ【竹】の例があるのでワンチャンあるかもですが、砲撃となりますと、まず3門しかない上に、前方指向は単装砲のみ。
つまりある程度腹を晒さない限り、2隻合わせて2門で殴りかからないといけないのです。
それでもすでに特攻機による攻撃が何度も行われており、水上艦が飛行機に勝る点としては継続した攻撃ができる点にあります。
輸送船相手なら「丁型」でもやってやれないことはありません。
命令とあらば基本的には従わざるを得ませんので、【檜】【樅】は敵船団を探して引き返しました。

やがて北上していた敵船団を発見。
敵に気づかれることなく【檜】【樅】はこれを後方から砲撃し、戦闘が始まりました。
全く想定しなかった敵からの攻撃に慌てるも、急いで【豪スループ ワレーゴ、ガスコーニュ】が反撃に出ます。
(役に立たない豆知識:ガスコーニュはフランスのガスコーニュ地方ではなく、オーストラリアのガスコーニュ川が命名の由来。ガスコーニュ川の由来自体もイギリス人の名前なのでフランス関係なし)

ただお互い有効な打撃を加えることができず、敵側には【米フレッチャー級駆逐艦 ベニオン】が加わって抵抗してきました。
結局1時間の砲撃戦は大した意味をなさず、【檜、樅】は撤退。
しかし敵にとっては飛んで火に入る夏の虫、わざわざ殴られにやってきた2隻を放っておくわけがありません。
船団の護衛空母から艦載機が次々に発艦していきます。

当時は16時前後と思われ、太陽は水平線に隠れていません。
空襲は十分できる明るさで、しばらくもしないうちに2隻は敵機の網にかかりました。

対空戦をしていた中で【檜】は直撃弾1発を受け、機関を損傷して航行不能に陥ります。
また至近弾も受けて戦死者は21名を数えました。
【樅】に至っては舵を損傷した後で爆撃か魚雷を受け、これが原因で沈没してしまいました。

しかしその後【檜】は脅威の粘りを見せ、機関の復旧に成功。
さらに最大12ノットという足枷を抱えながら空襲だけでなく潜水艦の雷撃も回避し、なんとかマニラまで逃げ切ったのです。

とりあえず追手から逃げることができた【檜】でしたが、逃げた先のマニラも今や超危険地帯で、のんびりしてる暇はありません。
そもそもリンガエンへ向かう船団はマニラ湾の前を通るので、マニラなんて半分閉じ込められていたようなものです。
7日夕方、応急処置を終えた【檜】は海が暗くなる時間を見計らってマニラを離れました。

ところが不安は的中し、西進する【檜】をリンガエンへ向かう船団の【米フレッチャー級駆逐艦 チャールズ・オースバーン】のレーダーが発見。
【米フレッチャー級駆逐艦 ブレイン、米シムス級駆逐艦 ラッセル、米マハン級駆逐艦 ショー】とともに【檜】を攻撃するために捜索を始めました。
レーダーの圏内に入ってしまうと、速度の遅い【檜】が逃げ切ることはできません。

【檜】自身が電探で敵の接近に気づいていたかはわかりませんが、やがて射程に入った【チャールズ・オースバーン】からの砲撃が始まります。
さらに【ブレイン】が放った照明弾が周囲を煌々と照らし、他の駆逐艦からの攻撃も集中。
【檜】は東に反転し、マニラへ戻ろうとしたらしいですが、流石に手負いの状態で3隻からの砲撃に耐えることはできませんでした。
【檜】からの砲撃が命中したという記録はアメリカ側になく、【檜】は大きな爆発音とともに沈没してしまいました。
乗員全員が戦死したと言われています。

なおこの交戦中、アメリカ側は魚雷らしき航跡を発見したと記録しています。
これが本当に魚雷かどうかはわかりませんが、もし魚雷であれば、帝国海軍の歴史において最後に放たれた魚雷ではないか、と言われています。

参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]第二水雷戦隊突入す 著:木俣滋郎 光人社

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら本HPの参考文献、引用文献はすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。

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