起工日 | 昭和9年/1934年2月1日 |
進水日 | 昭和10年/1935年6月20日 |
竣工日 | 昭和12年/1937年1月7日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年3月5日 |
ビラ・スタンモーア夜戦 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 1,685t |
垂線間長 | 103.50m |
全 幅 | 9.90m |
最大速度 | 34.0ノット |
航続距離 | 18ノット:4,000海里 |
馬 力 | 42,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 2基4門 |
50口径12.7cm単装砲 1基1門 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 40mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
第三次ソロモン海戦で運命のいたずら 生き長らえるも闇討ちで何もできず沈没
【村雨】は【夕立】【春雨】【五月雨】とともに第二駆逐隊を編成して太平洋戦争を迎えます。
ちなみに【村雨】と【夕立】の竣工日は同じ昭和12年/1937年1月7日です。
竣工当時は第一水雷戦隊でしたが、昭和15年/1940年11月15日に第二駆逐隊は第四水雷戦隊に編入されました。
【村雨】は「南方作戦」の作戦部隊に配属されていて、11月29日にはすでに日本を発ち台湾馬公へ向かっていました。
そして7日にフィリピン攻略のための船団を護衛して馬公を出発、開戦するや否や戦争の最前線に赴いています。
10日にルソン島ビガンに陸軍を上陸させますが、この時アメリカの戦闘機が船団に襲い掛かり、1機撃墜を記録したものの機銃掃射を受けて5人が戦死してしまいました。
その後リンガエンやバリクパパンへの上陸支援を行い、潜水艦との戦闘も早くも経験しています(重油流出の確認までは戦果がありましたが、撃沈したかどうかは不明)。
昭和17年/1942年1月24日の「バリクパパン沖海戦」ではアメリカにしてやられ、また翌日は空襲でヒヤッとする攻撃も経験しましたが、日本の進軍は順調で、バリクパパンも無事制圧。
そして2月末にはジャワ島攻略の中でABDA連合軍と第五戦隊をはじめとした蘭印部隊が衝突した「スラバヤ沖海戦」が勃発。
第一次昼戦の途中から四水戦は戦闘に加わり、10kmを切る距離まで接近して肉薄雷撃を仕掛けますが、信管の作動が敏感すぎて1/3ほどが到達前に爆発してしまいました。
また早爆を起こさなかった魚雷も命中せず、結局46時間に及ぶ長大な海戦で日本は何度もチャンスを逃し大量の砲弾や魚雷を無駄にしました。
撃沈数は多いので結果を見れば大勝利ですが、内容は全く満足のいくものではありませんでした。
【村雨】は3月1日に【蘭病院船 オプテンノール】を臨検し、その後【オプテンノール】は【特設病院船 天応丸】として海軍に属して活躍します。
※【オプテンノール】の臨検拿捕に関する情報は複数ありますので、これが事実とは限りません。
3月に入ってからはセブ島やクリスマス島の攻略に参加。
【村雨】自身は特別な動きはありませんが、クリスマス島攻略の間に旗艦【那珂】が【米サーゴ級潜水艦 シーウルフ】の雷撃を受けて大破してしまい、旗艦には変わって【由良】がつくことになりました。
無事に「蘭印作戦」が達成されたことで【村雨】は5月6日に横須賀に帰投し整備を受けます。
5月末に第四水雷戦隊は「MI作戦」決行に際し、ミッドウェー島攻略部隊の護衛として出撃。
ところがご承知の通り「ミッドウェー海戦」は酷い負けっぷりで、無類の強さを誇ってきた日本の機動部隊が1日でほとんど崩壊してしまいます。
「MI作戦」が中止となったところで、日本は次の一手を迷ってしまいます。
その中で第二駆逐隊は第七戦隊とともにインド洋の通商破壊を行うことになり、マレー半島メルギーに進出します。
7月29日には第七戦隊が雷撃を受けたことから対潜掃討を行い、哨戒機の報告をもとに爆雷攻撃を実施。
潜水艦の正体は【蘭O21級潜水艦 O21】と思われますが、【O21】はこの攻撃を回避して撤退しています。
作戦実施直前の8月7日、連合軍が突如ガダルカナル島への上陸を開始。
日本としては寝耳に水で、慌ててこの作戦を中止、あらゆる戦力がソロモン諸島に投入されることになりました。
8月21日、【夕立】を除いた第二駆逐隊がトラック島に到着。
すでに戦端は開かれていて陸上では一木支隊がヘンダーソン飛行場奪還のために突入を控えていて、【村雨】たちは【陸奥】を護衛してトラックを出撃します。
しかし当日に一木支隊は壊滅的な被害を受けてしまい、ヘンダーソン飛行場の奪還が容易ならざるものだと日本は危機感を募らせました。
そこでヘンダーソン飛行場を攻撃する【龍驤】以下第二艦隊と、それに誘い出された敵機動部隊を叩く【翔鶴】【瑞鶴】以下第三艦隊の二手に分かれての作戦が開始されます。
この作戦でも【村雨】は第二艦隊の【陸奥】を護衛していたのですが、戦艦は【陸奥】だけで他は巡洋艦や空母ですから速度は十分出ます。
こうなると【陸奥】が足手まといになってしまうことから、やむを得ず【陸奥】は艦隊から切り離されてしまいます。
その結果護衛についていた【村雨、春雨、五月雨】もそれに付き従うことになり、【龍驤】や【睦月】が沈没した「第二次ソロモン海戦」には何ら貢献することができませんでした。
奪還に時間がかかることが明白になったこと、またすなわち制空権は敵に奪われた中での作戦が続くことから、日本は危険な輸送作戦に奔走することになります。
9月17日にはヌデニ島の飛行艇基地への攻撃命令が下され、【五月雨】とともに夜討を仕掛けましたが、すでに基地は移転しており空振りに終わりました。
その後も【村雨】は偵察や輸送に駆り出されますが、10月5日はガダルカナルへ向かうところで【SBD ドーントレス】の空襲を受けてしまいます。
この空襲で至近弾を受けた【村雨】【峯雲】が浸水し、護衛の【夏雲】とともに輸送から離脱。
残り3隻は輸送に成功しましたが、【村雨】は修理の為にいったんトラックまで引き揚げました。
修理はすぐに終わり【村雨】はショートランドに帰ってきますが、ここからも立て続けに輸送任務が【村雨】にのしかかってきます。
しかも10月15日の輸送で3隻の輸送船が空襲で座礁するなど、足の遅い輸送船などが空襲に堪えられないことから、輸送量は減っても軽快な駆逐艦だけで輸送を行うことになってきたことでさらに駆逐艦が酷使されるようになってきました。
17日の輸送では【村雨】【時雨】がヘンダーソン飛行場へ艦砲射撃を行い、その隙に揚陸に成功。
しかし25日の輸送では往路で空襲に合ってそこで【由良】が沈没、第四水雷戦隊旗艦の【秋月】も至近弾を受けて速度が低下したことで、一時的に【村雨】が旗艦任務を引き継ぎました。
この被害によって25日の輸送は断念され、ヘンダーソン飛行場の脅威は拭い去るどころかどんどん強まっていきました。
そして11月13日、このままでは押し負けるという危機に瀕した日本は「金剛型」4隻を2つに分け、そのうち【比叡】【霧島】を挺身攻撃隊の中核に据えた大攻撃と輸送作戦を決行します。
【村雨】は【五月雨】【朝雲】ととともに【比叡、霧島】の左舷前方10km付近を警戒しつつ、ガダルカナル島に向けて航行していました。
ところが道中で猛烈なスコールに襲われたことで、艦隊はいったん反転します。
この時に艦隊の隊列が崩れてしまい、再反転した時には【村雨】達は逆に【比叡、霧島】の右舷側並走から少し下がり気味、そしてもともと右舷側にいた【夕立、春雨】も【村雨】達より前を並走状態で、つまり艦隊の先頭に【比叡】が立つような状態になってしまいました。
そしてそんな状態で突然【夕立、春雨】の目の前に敵艦隊が現れ、超至近距離での艦隊決戦「第三次ソロモン海戦」が始まりました。
警戒をしていたたはずの【村雨】は実は一番後方から戦闘に参加する形になってしまいましたが、【村雨】はこの戦いで魚雷7本を発射。
この戦いは各艦の戦果がはっきりしないのですが、【村雨】の魚雷が砲撃を受けていた【米グリーブス級駆逐艦 モンセン】に止めを刺した可能性があります。
その他【米ヘレナ級軽巡洋艦 ヘレナ】の砲撃命中も記録されていますが、反撃を受けて機関部に損傷を負ってしまいます。
この被害が影響して【村雨】は【比叡】の護衛や第二夜の戦いには参加することができず、そして日本はついに一発逆転のチャンスも逃してしまいました。
【比叡、霧島】の喪失により、「ガダルカナル島の戦い」の敗北はいつ認めるかという時間の問題になります。
【村雨】はその後も輸送や撤収任務を少しこなした後、昭和18年/1943年1月14日に【浦波】とともに【冲鷹】を護衛して本土へ帰投。
久々の日本の土を味わう一方で、修理と並行して旧式の毘式40mm単装機銃が25mm単装機銃に換装されました。
修理を終えた【村雨】は2月7日に【浦波】【朝潮】とともに再び【冲鷹】を護衛してトラックへ向けて出発。
この頃の日本はガダルカナルからの撤退を始めていて(「ケ号作戦」)、日本はニュージョージア島の力を高めるためにムンダ飛行場の整備や守備隊の増強を実施していました。
しかし空襲を受けてコロンバンガラ島からムンダへ向かう輸送船3隻中2隻が沈没及び炎上し、物資不足に陥ってしまいます。
この穴を埋めるために急遽トラックから【村雨】と【峯雲】が派遣されることになりました。
ドラム缶などをたっぷり積んだ2隻は3月4日にラバウルを出撃します。
ムンダへの輸送は地理的、安全面からコロンバンガラから【大発動艇】で行うことになっていたので、2隻はコロンバンガラへ向かいました。
2隻はショートランド泊地を経由し、5日夜に無事にコロンバンガラに到着。
無事揚陸に成功し、22時30分に2隻は元来た道ではなく一直線にラバウルへ向けて北上し始めました。
しかしこの動きは監視していた【PBY カタリナ】によってバッチリ捉えられていて、北上し始めた【村雨、峯雲】に向かって第68任務部隊が迫りつつありました。
第68任務部隊はムンダ砲撃の為にクラ湾に迫っていましたが、構成されている中には最新の「米クリーブランド級軽巡洋艦」が3隻もいて、とても駆逐艦2隻で相手になる戦力ではありませんでした。
当然レーダーも搭載されていたため、【村雨、峯雲】は全く敵の存在に気付かない一方で【モントピリア】などはしっかりとこの2隻の位置を把握していました。
23時ごろ、突然東方から閃光が放たれました。
この光を見て艦長の種子島洋二少佐は「稲光だろう」と感じたようです。
しかし再びの閃光を確認した瞬間、すぐ後方で大きな水柱が立ちました。
一瞬空襲かと対空戦闘を準備しますが、間もなく南南東から砲撃を行う第68任務部隊を発見し、2隻は敵艦隊から追撃を受けていることを知ります。
ところがこちらからは敵の正体がはっきりわかりません。
レーダーのない2隻はただただ後方からの砲撃に合わせて反撃するしかありませんでした。
この中で【峯雲】の最期ははっきりしておりませんが、アメリカの記録から見ると、砲撃を浴びせる中で【米フレッチャー級駆逐艦 ウォーラー】が魚雷を発射しており、このうち1本が命中したとされています。
この魚雷と思われるものが【村雨】にも迫っていましたが、この魚雷は艦底を通り過ぎていきました。
しかしこの幸運で【村雨】の寿命が延びたわけではありません。
猛烈な砲弾の嵐で2番煙突からは炎も噴き出ており、やがて主砲も鳴りを潜め、機関にも大ダメージを負ってしまいます。
足の止まった目隠し状態の敵を沈めるのは非常に簡単です。
【村雨】も【峯雲】の後を追い、海底に引きずり込まれていきました。
この、日本のお家芸として絶対の自信があった夜戦において、アメリカが完全勝利を収めた「ビラ・スタンモーア夜戦」は、レーダーの性能が夜戦においても日本相手に相当な効果があることが実証された初めての海戦でした。
一方日本では生還した第二駆逐隊司令の橘正雄大佐が研究会においてボロカスに叩かれていて、とてもアメリカのレーダー性能が云々を理解してくれる雰囲気ではありませんでした。
この海戦後に第68任務部隊は本来の任務であるコロンバンガラ砲撃を実施したことで、島のすぐそばで沈んだ2隻の生存者の救助に向かうことが遅れてしまいます。
最終的には【大発動艇】による救助の他に自力で泳ぎ切ったりなど【村雨】は110~130人ほどが生存していますが、轟沈した【峯雲】は40人ほどしか助かっていません。