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『睦月型駆逐艦』

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
基準排水量 1,315t
垂線間長 97.54m
全 幅 9.16m
最大速度 37.25ノット
馬 力 38,500馬力
主 砲 45口径12cm単装砲 4基4門
魚 雷 61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃 7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機 ロ号艦本式缶 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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駆逐艦の雷撃能力向上を求めて 61cm三連装搭載の睦月型

「峯風型」「神風型」が含まれる「八八艦隊計画」が計画される中、遠く欧州では第一次世界大戦が勃発しており、英独の激しい戦いが繰り広げられていました。
各国はこの大戦の戦況と行く末をつぶさに観察し、自国の戦術研究と戦力増強の大切な情報としていました。
とはいえ第一次世界大戦は9割超が陸上戦でしたので、艦艇に関する考え方としては、潜水艦Uボートの脅威とその対策が主題でした。
しかし大戦末期、駆逐艦をはじめ全ての艦種への要求が大きく変わる海戦が起こります。
「ユトランド沖海戦」です。

「ユトランド沖海戦」は、英独合わせて250隻の艦艇が戦場に現れた、第一次世界大戦ほぼ唯一にして最大の海戦です。
この戦いは、駆逐艦だけでなく、多くの戦術や艦艇構造に影響を与えた、歴史上でも非常に重要な戦いとなります。
駆逐艦に絞って言えば、ドイツ軍の水雷戦隊部隊を迎え撃ったイギリス軍の駆逐艦は、その火力を持って水雷戦隊を撃退。
魚雷を最大の武器とした駆逐艦が、駆逐艦の砲撃によって阻まれたのです。

日本の「八八艦隊計画」はこの海戦を踏まえ、強固な戦艦の建造と同時に、水雷戦隊の任務遂行のために超火力な巡洋艦の計画を立てていきます(のち重巡洋艦へと発展)。
そして駆逐艦は、まず敵水雷艇や駆逐艦を砲撃で鎮圧し、最終的には戦艦に迫って魚雷で一撃破壊を狙うという役割が期待されました。
「神風型」はすでに火力でも速力でも米英の駆逐艦に勝っており、まずは「神風型」を水雷戦隊の中心に据えようと考えます。
しかし、この「八八艦隊計画」「ワシントン海軍軍縮条約」によって断念、日本の艦艇編制計画は大きく転換することとなります。
「神風型」27隻の計画はたった9隻に減少、日本は数においてアメリカと圧倒的な差をつけられてしまいます。

数で戦えない以上、日本は能力で上回るしかありません。
「峯風型、神風型」は火力、速力、雷装全てにおいて、旧式を多く保有する米英を上回り、当時の世界の駆逐艦ではトップクラスの能力を誇っていました。
凌波性に関しても、国内ではまだ多くの改善の余地があるとはいえ、やはり諸外国、特に外洋航行の機会が限定的な欧州と比較すると非常に優れていました。

しかし、水雷戦隊によって敵勢力を削ぎ落とすには、速力と並ぶ最大の武器である魚雷能力の向上が不可欠でした。
なにしろ魚雷は一発で航行に甚大な被害が出る切り札です。
そしてこの「ユトランド沖海戦」の結果、各国は装甲の薄いイギリスのような巡洋戦艦を捨てて、より強力、より強固な戦艦を条約の範囲内で建造することが確実視され、また制限のなかった巡洋艦の建造競争に拍車がかかることも火を見るよりも明らかでした。

つまり駆逐艦は、さらに頑丈になった戦艦と、駆逐艦の脅威となる巡洋艦の大型・重火力化に対抗する必要があるのです。
そしてこの戦艦と戦うはずだった日本の戦艦は、絶対に数で負けてしまうわけですから、その数を補うのは言わずもがな機動性が高い駆逐艦なのです。
魚雷の威力を高めることは米英との差を埋めるための至上命題でした。

「睦月型」建造の時代は、巡洋艦でいうと「古鷹型」計画段階と時期が被ります。
すでに「長良型」より魚雷は61cmへと大型化していて、この雷装強化は当然「睦月型」にも引き継がれます。
しかも「睦月型」は連装ではなく61cm三連装魚雷発射管を採用しました。
三連装×2基となった「睦月型」の雷装は、門数は変わりませんが基数が減るため結果的にスペースを確保することができました。
一方で1基の大きさは大きくなるため、さすがに「神風型」から改めるべき箇所がいくつか存在しました。
ですが「睦月型」は基本的には「神風型」の発展型であり、「峯風型~睦月型」を大きく1つのグループとしてくくることが多いです。

まず61cm三連装魚雷発射管の配置ですが、ウェルデッキに1番連管が搭載されているのは同じです。
しかし八年式61cm魚雷は六年式53.3cm魚雷より長さも当然大型化します(六年式6.84m→八年式8.415m)から、同じスペースのままだと収まりません。
そのため1番砲の後ろのデッキが一部切り取られ、魚雷が旋回できるスペースを多く確保することになりました。
2番連管は「神風型」でいうと3番連管の位置、つまり3番砲の前に置かれました。
連装3基ではなく三連装2基になった理由は、省スペースを図るためではなく、逆に連装3基を乗せるスペースがなかったからというものもあって、結局三連装は積極的採用か消極的採用かがはっきりしていません。

ともかくスペースに余裕が生まれたのは確かです。
しかし余裕がなくなった点があります。
それは重量です。

まず六年式53.3cm魚雷は1.5t、それに比べて八年式61cm魚雷は2.4tと約1tも重くなります。
そして魚雷の搭載数が12本(うち予備魚雷が6本)ですから12tも魚雷関係だけで重量が増えていることになります。
魚雷発射管は十年式53.3cm連装魚雷発射管が5.6tに対して十二年式61cm三連装魚雷発射管は約15~16t(らしい)で、実は三連装化は省スペースには一役買っていますが、重量に関しては3基16tが2基30tと倍近くになりました。

他にも燃料の搭載数が増えたことで、基準排水量が45tほど増加しています。
これにより少し重心が上がってしまい、復原性が損なわれています。
そして「睦月型」以降はどんどんこの復原性がおざなりとなり、後で大きな影を落とすことになります。

しかし重量増を代償に払っただけあって、61cm魚雷は世界最強の威力を生み出します。
世界の魚雷の水準は53.3cmでしたが、61cmになったことで炸薬量は205kgから345kgと約1.7倍に膨れ上がります。
射程も36ノット:7,000mだったものが38ノット:10,000m(30ノットでは18,000m)となり、思いっきり強化されました。
戦艦の交戦距離が延びるように、「睦月型」もこれまでの駆逐艦よりも遠方から魚雷を発射させることができるようになり、安全性が増したのです。

一方主砲については12cm単装砲4門と変化なし。
機関も「神風型」の後期型より採用された艦本式ギアード・タービンが搭載されています。
最大速度は「神風型」と同じ37.25ノットとなっておりますが、凌波性については新たにダブルカーブド・バウが採用されたことで、もともと「峯風型」より施されていた大きなフレアー(「睦月型」でより大きくなりました)との相乗効果が増して大きく改善。
速度低下もほぼほぼ抑え込むことができたようで、「峯風型、神風型」で改善できなかった問題がついに「睦月型」で解消されました。
燃料搭載量が増えたことと航洋性が増したことで航続距離も14ノット:3,600海里から4,000海里へと延長されました。
対戦艦を目論む日本の駆逐艦にとって、「睦月型」は決戦上に到達する能力と、そこで戦艦に牙をむく破壊力の2つを兼ね備えたのです。

【追風】より装備されることになった爆雷兵装については、基本的にそれを引き継いでいます。
八一式爆雷投射機と爆雷投下軌道、爆雷装填台がそれぞれ2基(2条)ずつ、爆雷は18個です。
さらに【睦月】【長月】までは1号機雷を16個搭載しています。
この機雷は自陣や敵陣の封鎖のために敷設するのではなく、海戦中に敵進路上にばら撒くという使い方をするものでした。
【菊月】以降は爆雷投下軌道と1号機雷がなく、逆に機雷を除去するためのパラベーンなどの掃海具が一式装備されました。

このような形で、「睦月型」「神風型」から雷装強化とダブルカーブド・バウを得た駆逐艦として誕生。
27隻から9隻へと大幅縮小を余儀なくされた「神風型」ですが、その結果より強力な「睦月型」が12隻建造されることになりました。
【睦月】はその一番艦として、大正15年/1926年に誕生します。

出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ

「睦月型」は当然ながら日本最強にして世界最強の駆逐艦ですから、日本でも水雷戦隊の最高峰である第二水雷戦隊に抜擢されます。
ところがもともと駆逐艦は強度不足が問題視されていました。
【磯風型駆逐艦 浜風】が演習中に受けた波浪で艦橋が潰れて司令が殉職したという事件がありました。
この結果駆逐艦の凌波性をどうやって高めるかが設計の鍵になってはいましたが、一方で重量が著しく増加する強度補強はほとんど図られず、「睦月型」もまた露天艦橋のままでした。
つまり、凌波性が高くなったとはいえ荒くれる波に立ち向かった際の衝撃に耐えきれる構造ではなかったのです。

その結果が「第四艦隊事件」による艦橋圧壊に繋がります。
昭和10年/1935年9月26日、台風が来るにもかかわらず訓練のいい機会だと演習を続行した結果、復原力や強度に難があった船が次々と損傷していった事件です。
「睦月型」【睦月】【菊月】【三日月】が艦橋が大破してしまい、強度不足が露呈。
【睦月】では航海長が殉職してしまい、下手すると転覆するほどの危険な状況に至っています。

出典:『駆逐艦 その技術的回顧』著:堀元美 原書房

「第四艦隊事件」で損壊した【睦月】の艦橋

事件の反省を受けて、「睦月型」は艦橋幅を縮小し、天蓋も設置、また風や波を受け流すために角ばっていた艦橋が丸みを帯びるようになりました。
他にも短艇を置くために艦橋の横に取り付けられていた短艇甲板は重心を下げるために撤去されます。
また重心の関係上短艇や魚雷用のダビットの位置を変更するなど、細かな変化も見られました。

これらの改装の結果、「睦月型」は武装には変化がないもの(「第四艦隊事件」前に魚雷発射管にシールドを搭載する改装工事が始まっています)の排水量は増加し、最大速度は32.5ノットまでに低下してしまいます。
「特型駆逐艦」の爆誕によって「睦月型」はいずれは実戦から離れていくことが想定されていましたが、「第四艦隊事件」の発生で日本は駆逐艦の設計に頭を抱える時代を迎えます。
そのため「睦月型」はまだまだ働いてもらわなければ困る存在となり、結果として艦齢15年ほどの旧式駆逐艦が太平洋を縦横無尽に駆け回ることになるのです。

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駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
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