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白雲【吹雪型駆逐艦 八番艦】
Shirakumo【Fubuki-class destroyer】

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起工日大正15年/1926年10月27日
進水日昭和2年/1927年12月27日
竣工日昭和3年/1928年7月28日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年3月16日
釧路沖
建 造藤永田造船所
基準排水量1,680t
垂線間長112.00m
全 幅10.36m
最大速度38.0ノット
馬 力50,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 3基9門
機 銃7.7mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 4基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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見えない脅威にさらされた白雲 味方との衝突、潜水艦の脅威

【白雲】は建造時は「第四十二号駆逐艦」とされ、竣工直後の昭和3年/1928年8月1日に【白雲】に改称されます。
【白雲】【叢雲】【東雲】【薄雲】とともに第十二駆逐隊を編成しました。
昭和10年/1935年9月26日の「第四艦隊事件」では多くの艦船が大小さまざまな被害を受ける中、【白雲】も魚雷格納庫を少し損傷したほか、船体そのものも歪みを生じています。

戦前は「日華事変」や北部仏印進駐などでも活躍。
太平洋戦争開戦時は第十二駆逐隊は機雷によって戦列を離れている【薄雲】を除いて、3隻で「マレー作戦」に参加します。
ところが昭和16年/1941年12月17日に【東雲】が飛行艇の爆撃を受けて沈没(推定)。
【薄雲】の修理もかなり時間がかかっており、第十二駆逐隊は2隻だけとなってしまいました。

「マレー作戦」および「蘭印作戦」は順調すぎる快進撃を続け、2月22日、【白雲】【叢雲】とともにクチンへ上陸する船団を護衛していました。
しかし偵察機がちょこちょこ表れて存在が暴かれていた船団は、待ち伏せていた【蘭K XVI級潜水艦 K XVI】の雷撃を受けて4隻の輸送船が相次いで被雷。
実際この付近には3隻の潜水艦が存在していましたが、名前として残っているのは【K XVI】だけしか見つかりませんでした。

【香取丸】は沈没したものの、残り3隻は航行可能だったため、前方にいた護衛隊から派遣された【狭霧】とともにクチンへの進軍を再開します。
24日に船団は到着し、【白雲、叢雲、狭霧】は揚陸、救助支援を行ったあとは周辺での警戒任務に就きました。

ところが【K XVI】は先ほどの戦果では満足せず、次なる獲物を狙って再び接近してきました。
潜水艦を見つける手段が目視しかなかった時代ですから、潜望鏡が見つからなければ潜水艦のやりたい放題です。
【K XVI】が放った魚雷は、見事に【狭霧】の艦尾に命中。
艦尾の爆雷が誘爆し、それが弾薬庫、魚雷とさらなる誘爆につながったことで【狭霧】は火だるまになってしまいます。

手の施し様がなく、【狭霧】は沈没。
【白雲】はこの絶望的な状況でも乗員の約半分にあたる119名の救助を達成しています。

28日、いよいよジャワ島に上陸するために出撃した輸送船56隻がバンタム湾とメラク湾に到着。
この時【白雲】【叢雲】はメラク湾側の輸送船を護衛していました。

一方でバンタム湾には「スラバヤ沖海戦」を落ち延びた【米ノーザンプトン級重巡洋艦 ヒューストン】【豪パース級軽巡洋艦 パース】が輸送船を攻撃するために現れて、それを発見した護衛艦との海戦が始まっていました。
報告を受けて【白雲、叢雲】は後半から戦闘に参加しましたが、戦果は残っておりません。

最初はなかなか致命傷を与えれずに混戦となりましたが、最終的に【最上】【三隈】の登場もあって2隻の撃沈に成功。
しかし状況を確認せずにバンタム湾と【ヒューストン、パース】を一直線に結ぶ場所から放った魚雷が揚陸中の輸送船や掃海艇に次々と命中し、とんでもない被害をもたらしています。
一方でお手柄だったのは、この2隻を護衛する準備が整わず後から追いかけることになっていたを発見した【白雲、叢雲】でした。
【白雲】【叢雲】は海戦を目にしてバレないように撤退しようとしていた【蘭ヴァン・ガレン級駆逐艦 エヴェルトセン】を発見します。
【エヴェルトセン】「スラバヤ沖海戦」から離脱した駆逐艦だったのですが、バタビアでの出撃準備が間に合わずに2隻に同行できなかったのです。

【エヴェルトセン】はすでに2隻が日本軍に包囲攻撃されているのを目撃しており、支援できる状況でないことからチラチャップへと抜けるために南東方面へ向かいます。
それを見逃さなかった【白雲、叢雲】が、【エヴェルトセン】に砲撃を仕掛けたのです。
砲撃を受けた【エヴェルトセン】は煙幕を張ってとにかくに逃げの一途だったのですが、完全に隠れる前に複数の命中弾が【エヴェルトセン】を襲います。
報告では10発の命中弾があったと言いますが、【エヴェルトセン】はその被弾の被害とは別に、逃走中にスマトラ島南端付近にあるセブク島付近の浅瀬で座礁してしまいました。

さらに追撃したい【白雲、叢雲】でしたが、付近に機雷が敷設されているという情報を受けていたことから深追いはしませんでした。
夜が明けてから改めて捜索したところ、セブク島で座礁している【エヴェルトセン】を発見。
すでに【エヴェルトセン】は放棄されていたので、【叢雲】から臨検隊が派遣されて内部を調査します。
ビールや食料が残されていたのでありがたく拝借して【叢雲】は引き揚げていきましたが、その後【エヴェルトセン】は爆発沈没していきました。
これが被害の蓄積による爆発なのか、日本による処分なのかはよくわかっていません。

3月20日、第十二駆逐隊は解隊され、【白雲】【狭霧】を欠いていた第二十駆逐隊に、【叢雲】【吹雪】【白雪】【初雪】の第十一駆逐隊に編入されます。
【白雲】はスマトラ島やビルマの輸送支援を行いながら、逆に通商破壊作戦にも参加し、合計8隻の輸送船の撃沈に貢献しました。
南シナ海周辺の占領が異常な速度で進んだことから、体制を整えるために日本軍の進軍は一時中断。
第十一駆逐隊を率いる第三水雷戦隊も日本へ引き揚げることになりました。

しかしポートモレスビー攻略に難航した上に「ミッドウェー海戦」で歴史的な大敗北をしてしまい、日本の勢いは完全に停滞。
さらに8月には「ガダルカナル島の戦い」が始まったことで、インド洋での通商破壊作戦である「B作戦」は中止。
「B作戦」に参加予定だった第三水雷戦隊は、ガダルカナル島へ上陸させる川口支隊を輸送するために急遽マレー半島のメルギーからトラック島へ進出。
【佐渡丸】【浅香丸】に川口支隊が乗って、8月24日に第三水雷戦隊はガダルカナル島を目指して出撃しました。

ところが先陣を切ってガダルカナル島、特にヘンダーソン飛行場奪還のために送り込まれていた一木支隊を乗せた第二水雷戦隊と輸送船が25日に空襲を受けてしまいます(【睦月】【金龍丸】が沈没。)。
ヘンダーソン飛行場が本格稼働したことで制空権のない海をのんびり航行することが非常に危険になったことから、輸送船を使わずに高速の駆逐艦だけで輸送を行う鼠輸送へと転換を強いられることになりました。
そのため川口支隊は洋上で駆逐艦に全員乗り換え、【佐渡丸】【浅香丸】は一番速度の遅い【川内】が護衛してラバウルへ引き返していきました。

闇夜に黒い海を駆け抜ける第二十駆逐隊でしたが、飛行艇に発見されたことを受けて第二十駆逐隊は輸送を中断。
ショートランドまで引き返すと燃料が欠乏する恐れがあったことから、洋上で待機して28日にショートランドからやってくる第二十四駆逐隊と合流してガダルカナル島へ向かうことになりました。
ところが合流地点を目指しているところを、恐れていた爆撃機の到来によって第二十駆逐隊は次々と被害を受けてしまいます。
【白雲】は至近弾を受けて機関室の浸水が酷くなり航行不能、【夕霧】も複数の至近弾を受けて機関室や艦橋を損傷。
そして【朝霧】は2発の直撃弾を受け、魚雷発射管に命中したことで魚雷が誘爆して轟沈してしまいました。

【天霧】だけ無傷でしたが、このように4隻中3隻が被害を受けたため輸送は当然中止となり、【白雲】【天霧】に曳航されてショートランドへ向かいました。
途中で報告を受けた第二十四駆逐隊も護衛についてくれましたが、これで再びガダルカナル島への輸送は失敗し、ルンガ飛行場の防備がスカスカだったツケがとんでもない被害を生み出していることを痛感させられました。

ショートランドに到着してから、【白雲】【敷設艦 津軽】に曳航されてトラックへ、そして【夕霧】とともに応急修理を受けてから本土へ回航されました。
【白雲】「ガダルカナル島の戦い」における鼠輸送第一号だったのですが、遂に2度目を経験する前に「ガダルカナル島の戦い」は終結し、復帰した昭和18年/1943年4月からは今度は真逆の北方アリューシャン列島方面に派遣されることになりました。

4月1日に【白雲】【薄雲】【朝雲】とともに第九駆逐隊を編成。
【朝雲】は引き続き南方で活動するのですが、【白雲】はすでにここでの活動が長い【薄雲】とともに北方の過酷な海域に立ち向かうことになりました。

この頃はダラダラと一進一退の攻防が続いていたアリューシャン列島もアメリカの本格的な反撃によって苦境に立たされており、アッツ島への輸送が急務となっていました。
ところがこのエリアはとにかく霧がよく出るため、易々と航行することができません。
輸送ですから複数の艦艇での行動になるのですが、視界が悪いとはぐれたり衝突したり、また座礁したりと危険だらけでした。
そこへ加えてレーダーを搭載した航空機や敵艦艇が出撃するとなると、いくら見張り員の目が研ぎ澄まされていようとも不利な条件ばかりでした。

5月12日にアメリカ軍がアッツ島に上陸し、「アッツ島の戦い」が始まります。
一方で日本軍は無限の霧のカーテンに阻まれて輸送が2回連続で中止。
支援もなく、乏しい物資を精神力だけで耐え抜き、戦い抜いたアッツ島の守備隊ですが、ついに29日に玉砕。
アッツ島は陥落しました。

この敗北を受けて、日本はアリューシャン列島からの撤退を決意し、すぐさまキスカ島の守備隊を救い出す作戦の立案に入ります。
これが「キスカ島撤退作戦」で、7月29日にキスカ島に突入した駆逐艦が、生存している守備隊を一人残らず救出し、被害ゼロというこれ以上ない結果をもたらした奇跡の作戦でした。
もちろん入念な情報収集と決断力があってこその作戦ではありますが、実は【白雲】はこの一大作戦には参加することができませんでした。

6月6日、【神風】【沼風】がカムチャッカ半島付近で哨戒活動を行っていました。
相変わらずの深い霧の中、【米S級潜水艦 S30】を発見したということで2隻は爆雷の投下を始めます。
そして報告を受けた【白雲、薄雲】が支援のために幌筵島を出撃したのですが、この視界を遮る霧をかき分けながら進んでいるところに、不意に【沼風】が現れたことで【白雲】と衝突してしまいます。
この結果2隻ともしっかりした修理が必要になってしまい、ともに【羽黒】に横付けして応急修理を行った後に大湊へ、さらに【白雲】は函館港まで引き返しています。

9月1日に【霞】が新たに第九駆逐隊に編入。
しかし10月31日には【朝雲】が第十駆逐隊に異動となったため、2ヶ月で第九駆逐隊は3隻体制へ逆戻りします。
しかも【白雲】は9月21日に修理が終わっていたのですが、11月には【白雲、薄雲】がともに整備、修理を受けることになってこの2隻も離脱。
【白雲】は修理を終えたばかりでまたドック入りなので、これが正しい記録なのか、修理と整備は別物ということなのかよくわかりません。
ともかく3隻体制どころか【霞】1隻だけで第九駆逐隊は活動することになってしまいました。

【白雲】は大湊でしたが【薄雲】は呉まで南下して修理を受けます。
年明けと同時に【白雲】【帝洋丸】を護衛して占守島まで北上して戦列復帰。
ところがその【帝洋丸】を護衛して室蘭に戻る途中で、2隻は流氷に閉じ込められてしまいます。
砕氷船のように氷を砕く構造の船ならまだしも、軽量で波を切る構造の駆逐艦で流氷を砕くなんてことはできません。
幸い脱出はできましたが氷に挟まれたことで一部浸水が発生してしまい、室蘭までの護衛は達成したもののまた修理の為に離脱することになり、【帝洋丸】と共に横須賀まで引き揚げていきました。

2月に【白雲】は今度こそ活動を再開し、また3月1日は【不知火】も第九駆逐隊に編入されたことで4隻体制となりました。
ただこの時【不知火】は任務中だったために大湊にはいません。
【白雲】は松輪島までの輸送任務を受けて、3月15日に【薄雲、霞】とともに北海道を出発。
【薄雲】は2月28日に3隻の輸送船を護衛して松輪島を目指していたのですが、【米バラオ級潜水艦 サンドランス】の雷撃で【明石山丸】を失い、さらに【良洋丸】も到着後に座礁したことで放棄されており、苦い経験をしたばかりの航路を再び突き進むことになりました。

一度釧路に立ち寄り、再び北上を始めた面々ですが、今度は【米タンバー級潜水艦 トートグ】が門番として立ち塞がります。
実は16日夜に釧路を発った後、神経質になっていた【日蓮丸】【白雲】を誤射してしまっています。
この時【白雲】は味方識別灯を灯したようで、もしかしたらこの信号を目にした【トートグ】が接近したのかもしれません。

【トートグ】は船団に接近し、4本の魚雷を発射しました。
このうち2本が【白雲】の側面に命中し、【白雲】は何もできずに轟沈。
更に内側にいる【日蓮丸】にも残り2本が見事命中し、【日蓮丸】も沈没してしまいます。
この時【白雲】のすぐそばにいた【霞】【白雲】が大きな水柱をあげてから数分で姿を消したのを目の当たりにしていますが、【日蓮丸】が沈んだのには最初は誰も気付かなかったようです。
【白雲】の轟沈を受けて釧路まで引き揚げようとしたときに、初めて海上で救助を求める人たちを発見し、【日蓮丸】の姿がないことを知ったのです。

【白雲】は爆発の衝撃でほぼ全員が戦死し、僅かな生存者も救出することができずに冷たい海水に急激に体力を奪われて沈んでしまいました。
【薄雲】【霞】が救出できたのは、【日蓮丸】の50人足らずの乗員だけでした。