起工日 | 大正13年/1924年1月11日 |
進水日 | 大正14年/1925年7月11日 |
竣工日 | 大正15年/1926年8月28日 |
退役日 (沈没) | 昭和17年/1942年9月11日 |
ラビの戦い | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 1,315t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 9.16m |
最大速度 | 37.25ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 2基6門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 4基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
姉2隻の最期を看取り、自らは静かに沈んだ弥生
【弥生】は竣工当初は「第二十三号駆逐艦」と呼ばれ、昭和3年/1928年8月1日に【弥生】と改称されます。
【弥生】はラトー式タービンを搭載。
これは帝国海軍の駆逐艦で最後の海外製タービンを使用した例となりました。
駆逐艦は民間の造船所でも建造がされていたのですが、艦本式タービンは海外での特許技術も使われていた関係上、タービンの使用にはライセンス使用の許可が必要でした。
しかし一民間造船所である浦賀船渠がそのライセンスを取得することは負担が大きかったため、【弥生】と【長月】(石川島造船所)に関しては海外製のタービンを使用することとなったのです。
太平洋戦争勃発後は、【睦月】【如月】【望月】ら第三十駆逐隊で「ウェーク島の戦い」に参加。
第四艦隊による上陸作戦は、まずはマーシャル諸島からの【九六式陸上攻撃機】による爆撃でウェーク島の戦力を大幅に削ぎ、その後陸戦隊による上陸で制圧するというものでした。
しかし爆撃戦果を過信評価した結果、アメリカ軍の残された砲台と【F4F ワイルドキャット】による予想外の反撃により、【疾風】【如月】が相次いで沈没し、日本は大打撃を受けます。
その後、【蒼龍】【飛龍】が中心の第二航空戦隊が「真珠湾攻撃」帰りのところを助太刀することになり、辛くもウェーク島は占領することができましたが、日本側の死者数はアメリカ軍の4倍にもなりました。
その後、第三十駆逐隊は【如月】を失った戦訓から13mm連装機銃を1基だけ増備し、【如月】を欠いたまま約半年間南方作戦に参加します。
5月25日に第二十三駆逐隊が解隊されたことで【卯月】が第三十駆逐隊に編入され、これで定数4を回復しましたが、しばらくは【卯月】も修理があったため4隻が実際に揃うのはここから約1ヶ月後となります。
その後所属していた第六水雷戦隊が解隊になったことで、第三十駆逐隊は第二海上護衛隊所属となりますが、すぐに第八艦隊へと移ることになり、活動の場が南方諸島へと変わっていきました。
8月、【弥生】は「ガダルカナル島の戦い」へと挑みます。
「ウェーク島の戦い」以後、ここまで船団護衛ばかりを行ってきた【弥生】でしたが、この転地によって一気に血の気の多い戦場に飛び込んでいくことになりました。
ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃は戦艦や重巡だけでなく、こんな小口径の駆逐艦でも実施されており、その中でも最も小さい12cm砲を搭載している駆逐艦も【弥生】含め何隻も攻撃を行っています。
駆逐艦の砲撃の場合は、どちらかというと破壊より輸送を邪魔されないための陽動など、艦砲射撃による破壊を主な任務としないケースが多いと思います。
8月24日に「第二次ソロモン海戦」が繰り広げられ、日本はその後の【ワスプ】沈没も含めて2隻の空母を前線から退けることには成功しましたが、それでもヘンダーソン飛行場は健在のままです。
そこで海軍は一木支隊第二挺団の上陸を支援するためにヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を行うことを計画しており、24日夜には【睦月】【弥生】【江風】【陽炎】【磯風】の5隻が出撃します。
これもやはり輸送を邪魔されないための砲撃です。
長居は無用と、10分ほどの砲撃を終えた後5隻はすぐさま離脱し、その後は本命とも言える第二挺団の輸送隊と合流します。
ところがやはり脅かし程度の砲撃で沈黙するヘンダーソン飛行場ではなく、合流した25日6時ごろ、船団目掛けてすぐさま【SBD ドーントレス】が襲い掛かってきました。
どういうわけか船団はこの機体を味方だと誤解していたらしく、ギリギリまでこれが敵襲だと思わなかったと言われています。
この空襲によって、ともに「ウェーク島の戦い」に参加した【睦月】と【金龍丸】を失い、またしてもガダルカナル島への上陸は失敗。
【弥生】は【睦月】より第三十駆逐隊司令を救助し、ラバウルへと引き揚げていきました。
2度の海戦は勝敗こそ1勝1敗ですが、戦略的側面では2連敗している日本。
そんな中、ニューギニア島のラビにも飛行場が建設されていることを知った日本は、新たな航空基地が誕生することを恐れて急いでこれを制圧する必要に駆られます。
ニューギニア島にはすでに陸軍が上陸していましたが、ラビはニューギニア島の南東端ですからここまで足を延ばすことはできません。
なので陸戦隊による上陸でこれを制圧することになりました。
しかしドロドロの沼や湿地が広がる中で進軍は難しく、そこに敵からの反撃などもあって作戦は難航します。
結局多くの状況が連合軍側に味方していたため、戦意も乏しく作戦は中止となり、部隊の撤退の為に各艦がラビへ向かうことになりました。
9月10日、【弥生】は【磯風】とともにラバウルを出撃します。
しかし11日に2隻は【B-17】と【ハドソン】に発見されて爆撃を受けてしまいます。
この空襲で【弥生】は艦後部に一発被弾し、舵が故障。
そこへさらにもう一発の爆撃を受けたために航行不能となってしまい、そこから30分で沈没してしまいました。
空襲回避の中で【磯風】はかなり遠方まで追い回されたらしく、敵機が去ってから【弥生】の元へ向かいましたが、すでにそこには黒い重油が広がるばかりでした。
翌日の捜索でも【弥生】や生存者は見つからず、一時は【弥生】乗員は全員戦死したと思われていました。
ですが実は83名がカッター(一艘では足りないと思う)で15kmほど先のノーマンビー島まで逃げ延びていました。
その後、10人が乗ったカッターが21日に発見されました。
見つけてもらうための出発にしてはあまりに危険ではありますが、このままだと全員命はないと覚悟したのかもしれません。
そのカッターを戦闘機が発見したことで、【磯風】と【望月】がラバウルから出撃。
ここで22日に救助された乗員の証言から、初めて【弥生】の生存者がノーマンビー島で助けを待っているという情報がもたらされます。
そして26日、再び【磯風、望月】が救助に向かい、遂に生存者83名全員が救助されました。