起工日 | 昭和18年/1943年8月25日 |
進水日 | 昭和19年/1944年9月25日 |
竣工日 | 昭和20年/1945年1月31日 |
退役日 (除籍) | 昭和18年/1963年 |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 2,701t |
垂線間長 | 126.00m |
全 幅 | 11.60m |
最大速度 | 33.0ノット |
航続距離 | 18ノット:8,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 65口径10cm連装高角砲 4基8門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 1基4門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
停泊防空艦 連日の呉空襲に抵抗した宵月
【宵月】の竣工は戦争末期の昭和20年/1945年1月末。
現場からの要望が強かった対空能力に秀でた「秋月型」でしたが、すでに勝敗は決したも同然の時期。
【宵月】も竣工後は燃料不足からなかなか訓練をすることができませんでした。
なお竣工日に関しても、当初は年末を予定していたものの、機関部の事故の影響で1ヶ月遅れる羽目になります。
第十一水雷戦隊に編入されるも、やはり燃料不足で呉への回航もままならない状態で、さらに2月16日、病により中尾小太郎艦長(当時中佐)が退艦します。
この交代は前々から決まっており、代わって荒木政臣艦長(当時中佐)が着任します。
2人は【宵月】内で引き継ぎ作業を行っておりました。
しかしその最中、横須賀港に空襲警報が鳴り響きます。
ラジオでは東京への空襲を報じていました。
とは言え安穏とするわけにもいかず、敵機の動向を電探などで追跡していたところ、その編隊が横須賀上空に現れます。
しばらくは空襲をする様子ではありませんでしたが、やがて高度を下げてきた機が現れ、また数が増え始めたところで打ち方始めの命令が下ります。
訓練もしていない【宵月】でしたが、機銃が次々に火を噴きます。
幸い負傷者も出ず、敵機2機の撃墜を確認しています。
翌日も敵機が横須賀の空を飛行していたしたが、高角砲の射程外だったために交戦はできず、また敵機からの空襲もありませんでした。
この在泊中に横須賀に「巡洋艦1隻、空母1隻」が存在しているという内容の無線を傍受。
この巡洋艦は【宵月】を指し、そして空母は標的艦であった【波勝】が該当します。
空からでも巡洋艦と誤認しているように、やはり「秋月型」は相当大きい駆逐艦だったことがわかります。
20日には【蔦】とともに横須賀を離れ、伊予灘での仮泊を経て23日に呉へ入港。
これでようやく第十一水雷戦隊に合流することができ、訓練に励む日々が始まりました。
ところが3月19日には呉にも敵機の襲来があり、そしてこの日は日が沈むまで断続的に空襲が行われました。
弾薬の1/3を消費するほど【宵月】は激しく応戦し、至近弾を受けたものの標的が【伊勢】や【榛名】などの大型艦だったので、損害軽微でこの難局を乗り切ったのです。
ただ16日に【宵月】は注油ポンプを故障しており、結局この故障は修理されることはありませんでした。
4月6日、沖縄を目指した「天一号作戦」の決行に伴い【大和】と第二水雷戦隊が出撃しますが、訓練が全くできていない【宵月】は【花月】【夏月】とともに作戦不参加となります。
同じ「秋月型」でも激戦を潜り抜けた【涼月】【冬月】が2隻とも生還しているのを見ると、やはり練度と経験というのは一瞬一瞬の中で選ぶべき択を取り続けるために必要なのでしょう。
結果だけ見れば【宵月】は命拾いしています。
【宵月】は引き続き瀬戸内海の安下庄や八島を泊地とし、防空任務や訓練を続けることになります。
5月10日、呉へと向かう途中で【宵月】は同じく呉方面に飛んでいく編隊を13号対空電探で確認します。
迎撃するために【宵月】は伊予灘へと移動するのですが、わらわらと現れた敵機は150機にも迫る大編隊でした。
先頭の第一梯団が長10cm砲の射程に入ったところで対空砲撃を開始。
しかし双眼鏡に移る【B-29】の高度はなかなか高く、しかも砲撃に気付いて高度を上げたらしく、目標とは随分離れたところで炸裂するのが確認できました。
邪魔をしてくる【宵月】を牽制する形で爆弾が投下されましたが、【宵月】はこれを回避。
【宵月】は積極的な攻撃対象にならなかったため、この空襲も無傷ではありましたが、こちら側の砲撃も命中はしませんでした。
20日、もはや体をなしていないものの、【宵月】は【涼月、冬月】の第四十一駆逐隊へ編入されます。
25日には【夏月】も第四十一駆逐隊に編入されますが、だからと言ってどうなるものでもありません。
二水戦が解隊されたため、7月15日には特攻のために無理矢理編成した海軍挺進部隊にも編入されましたが、これだって「回天」はあっても燃料がないので、出撃はおろか訓練すら稀に行われる具合でした。
6月5日には対馬海峡部隊に合流するために呉を出発しますが、周防灘で機雷に触雷し片舷航行となってしまったことから、止むなく呉へととんぼ返り。
修理をしようにも鎮守府がある呉は断続的な空襲を受け、また機雷もどんどん落とされていたので、7月20日に修理は完了したもののついに【宵月】は呉を出ることができませんでした。
修理後は繋留されたために見動きも取れず、好き勝手に爆撃を落とされるのを、自分に命中しないように祈ることしかできません。
そして23日、至近弾の破片によって【宵月】で初めての戦傷者が出ます。
さらに24日、28日と数日おきの空襲に応戦していたために、いよいよ弾薬の底が見えてきてしまい、命中率が高くなる距離や高度でない限りは射撃をしないように、反撃すら制限されるようになりました。
簡単に言えば、威嚇射撃は止めろということです。
8月2日に【宵月】は江田島の東能美島へと移動し、木々で船を覆い擬装を行います。
8月5日には広島へ向かう【B-29】を1機確認していたしたが、擬装しているのに撃つと意味がないので静かに通過するのを待ち、そしてしばらくもしないうちに、見たこともない閃光と、そして【大和】沈没時のものとは比較もできない程の巨大なキノコ雲を目にすることになります。
終戦まで外洋に出ることがなかった【宵月】でしたが、大きな損傷もないので終戦後は復員船として活躍。
駆逐艦の中でも一際大きな【宵月】はよく働きました。
そして昭和22年/1947年8月、復員船の任を解かれた【宵月】は、賠償艦として中国の青島へと向かいます。
『汾陽』という名を与えられた【宵月】は、新たな世界で活躍をすることを見込まれていましたが、しかし機関の調子が芳しくなく、そしてその修復は最後まで行われませんでした。
昭和24年/1949年の国共内戦において、『汾陽』は台湾へと逃げていますが、そこでも活躍の場はなく、結局昭和38年/1963年に除籍、解体されます。
【宵月】は最後まで駆逐艦としての仕事を行うことができませんでした。