②昭和16年/1941年(重雷装改装完了後)
起工日 | 大正8年/1919年9月1日 |
進水日 | 大正9年/1920年7月3日 |
竣工日 | 大正10年/1921年4月15日 |
退役日 (解体) | 昭和22年/1947年3月31日 |
建 造 | 佐世保海軍工廠 |
排水量 | ① 常備排水量5,500t |
② 公試排水量6,900t | |
全 長 | ① 162.15m |
水線下幅 | ① 14.17m |
最大速度 | ① 36.0ノット |
② 33.6ノット | |
航続距離 | ① 14ノット:5,000海里 |
馬 力 | ① 90,000馬力 |
装 備 一 覧
大正10年/1921年(竣工時) |
主 砲 | 50口径14cm単装砲 7基7門 |
備砲・機銃 | 40口径7.6cm単装高角砲 2基2門 |
魚 雷 | 53.3cm連装魚雷発射管 4基8門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基 |
技本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 1機(デリック) |
昭和16年/1941年(重雷装改装時) |
主 砲 | 50口径14cm単装砲 4基4門 |
備砲・機銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 10基40門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基 |
技本式ギアード・タービン 4基4軸 |
水雷戦を優位に進めるための常識はずれな重雷装
「球磨型」の三番艦【北上】は、「球磨型」であることよりも『重雷装艦』であることの方が有名かもしれません。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
誕生は【球磨】と同じで、5,500t級の軽巡として建造されます。
竣工して1年半後には第二水雷戦隊の旗艦を務めますが、ピッタリ1年後の大正12年/1923年12月1日に【五十鈴】へバトンタッチしています。
改装までにあった出来事といえば、【阿武隈】との衝突事故です。
昭和5年/1930年10月22日の演習中、高速で航行中の【阿武隈】の自動操舵が突如故障し、人力操舵に切り替える間もなく【北上】の左舷に突っ込んでしまいました。
被害はそれなりに大きく、【阿武隈】に至っては艦首から突っ込んだために艦首圧壊という重症だったものの、幸い転覆することはなく、双方とも修理の末に戦力として復帰しています。
さて、【北上】も開戦時には艦齢20年を超える大ベテランとなるため、1930年代中盤には何かしらのテコ入れが必要だという空気が生まれます。
軽巡はもう長い間建造されておらず、強力な重巡が続々と登場していましたが、古い艦を破棄できるほどの余裕もない日本は「球磨型」の活用方法を模索していました。
【球磨】【多摩】は結局そのまま戦争に突入しましたが、【北上】【大井】【木曾】の前には想像だにしない突飛なレールが敷かれていくのです。
その正体は『重雷装艦』。
本来攻撃の中心となるべき主砲(14cm単装砲)を7門から4門に減らし、さらに対空砲である高角砲はまるまる撤去、申し訳程度に25mm連装機銃を2基搭載したものの、砲撃戦に必要な装備は最小限に抑えられました。
その代わりにてんこ盛りに積まれたのが魚雷発射管。
もともと搭載されていた53.3cm連装魚雷発射管から61cm四連装魚雷発射管に変更しただけでなく、その数が左右各10基、計40門という常識はずれな数字。
スペースがないから中央部分両側にそれぞれ1.6mの張り出しを増設してまで成し遂げた魚雷発射専用艦でした。
当時の軽巡洋艦の標準装備が53cmないし61cm8門だったため、いかに偏った兵装であるかがわかるかと思います。
一体なぜこんなむちゃくちゃな兵装を施したのか。
まず、魚雷の性能が格段に向上した背景があります。
日本はこの時期、酸素魚雷という従来の魚雷よりもはるかに性能の良い独自の魚雷を開発していました。
純酸素と燃料を使用して燃焼させた結果、発生するのは炭酸ガス。
炭酸ガスは水によく溶けるため、今までの圧搾空気よりはるかに魚影の隠蔽につながります(圧搾空気だとブクブクと泡が発生します)。
また航続距離の延長、さらに高速になったため、日本は以後酸素魚雷の運用がどんどん進んでいきます。
水雷戦隊が重宝されたのは、この強力な酸素魚雷が存在していたことも理由の一つです。
酸素魚雷を運用したのは、世界で日本ただ一国でした。
世界でもこの酸素魚雷の開発に取り組んだ国はあったのですが、酸素はとにかく燃えやすいので、ちょっとした衝撃でも爆発してしまいます。
そのため、なかなか実用化まで至らずに研究を中止していたのです。
話を戻して、重雷装艦にするメリットですが、この酸素魚雷を用いると、戦闘前から敵へ攻撃を仕掛けることができるためです。
40,000メートル先でも36ノットの速度で推進するため、低速艦が向こうにいた場合はなかなか回避も大変です。
また、40,000メートル先の相手と砲撃を交わすなんて芸当ができるのはそれこそ【大和】【武蔵】が積んでいた46cm三連装砲ぐらい(最大射程距離です)。
41cm連装砲では40,000メートルにはちょっと届きません。
つまり、砲撃戦を交わせない安全な場所から攻撃をすることができるのです。
この重雷装艦の役割は、戦闘前の敵の「撃滅」ではなく、敵の「混乱」を誘うこと。
いくら強力とはいえ、40,000メートルも離れた距離から正確に敵艦を仕留めるなんてできません(46cm三連装砲なら着弾まで30秒ほどですが、これも40kmの距離を相手に正確な砲撃なんて神業にも等しいものでした)。
しかし相手は基本的に陣形を組めるほどの数、全長は200mを超えるものも存在するため、左右含めても40本という魚雷が第一波、第二波として襲いかかるのはなかなかの恐怖です。
戦闘態勢が整う前から被雷、損傷すれば当然戦術や陣形などに多大な影響が出ます。
その混乱が終息する前に、日本が襲いかかるという戦法でした。
最終的に改装されたのは【北上、大井】だけでしたが、【北上】は開戦の足音が聞こえる昭和16年/1941年8月25日に改装が始まります。
1ヶ月後の9月30日には工事が完了し、【大井】も同期間工事を行っていたため2隻の重雷装艦が海軍に誕生します。
【北上、大井】は第一艦隊に新編された第九戦隊に所属し、帝国海軍に世界のどこにも存在しない切り札を手に入れました。
「これで【北上、大井】が出撃した戦闘では日本が先制できる!」
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
魚雷?時代は飛行機だろ、魚雷山盛りとか危ないだけ
ということで、時代は航空機が攻撃の主力。
40,000メートルの移動は飛行機にも可能ですし、もし先に航空機の爆撃を受けた場合、40本もの魚雷を積んでいる重雷装艦は言うなれば移動する爆薬庫です。
一度攻撃を受ければ、それ単体が大きな爆弾となるほどの規模での爆発が予想できます。
そんな危険なものを海上に浮かべる訳にはいかない。
つまり重雷装艦は単なる危険物に成り下がってしまったのです。
「真珠湾攻撃」で【九九式艦上爆撃機】【九七式艦上攻撃機】が大活躍をし、さらに「マレー沖海戦」で【九六式陸上攻撃機】【一式陸上攻撃機】が航行中の【英キング・ジョージ五世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】と【英レナウン級巡洋戦艦 レパルス】を撃沈せしめるという世界中を驚かせる大戦果を上げました。
空母は、航空機は戦艦を沈める。
この2つの海戦は大艦巨砲主義の時代の終焉の象徴となりました。
そして同時に重雷装艦の終焉にもなったのです。
トドメは宇垣纏連合艦隊参謀長が【大井】を視察した際に残した、「どうにも使いにくいから運用方法を考えてほしい」という趣旨の言葉でした。
戦争から半年間は護衛や輸送で出動していますが、その先制雷撃という真価を発揮することはなく第九戦隊は解散、「ミッドウェー海戦」後は使い道のなくなった魚雷を撤去するために【北上】は【大井】とともに改装工事に入ります。
奇しくも重雷装艦へと改装されたときと同じ8月から9月の改装を経て、再びその姿を見せた【北上、大井】でしたが、その役割は戦闘とは全く無縁のものでした。
もともと竣工から20年を超える老齢の艦のため、戦力としては望まれていませんでした。
彼女たちは「高速輸送艦」として、次の任務につくことになります。
40門あった魚雷発射管は32門に削減され(それでもすごく多いですが)、25mm三連装機銃2基を増設、さらに輸送艦として【大発動艇】も4艇載せることができるようになりました。
また、11月にはさらに魚雷発射管を2基削減して計16門となり、代わりに【大発】の増備を行ったとされています。
高速輸送艦 北上 |
基準排水量 | 5,860t |
水線長 | 159.8m |
水線下幅 | 14.25 |
最大速度 | 31.7ノット |
航続距離 | 14ノット:4,000海里 |
馬 力 | 78,000馬力 |
装 備 一 覧
主 砲 | 50口径14cm単装砲 4基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 2基6挺 |
25mm連装機銃 2基4挺 | |
13mm連装機銃 2基4挺 | |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 8基32門 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 混焼2基、重油10基 |
技本式ギアード・タービン 4基4軸 |
しかし「高速輸送艦」とはいえ、輸送艦のように大量に搭載することはできませんし、また速度に関しても輸送スペース確保のためにボイラー四基・タービン2基を撤去してしまったために29ノットにまで落ちてしまいます。
輸送艦としてはたしかに高速ですが、軽巡洋艦の果ての姿と考えると悲しいものです。
その後は新たな任務である輸送を精力的に行い、昭和18年/1943年7月には【北上、大井】は第十六戦隊の一員となります。
実はこの「高速輸送艦」としての改装後、さらなる改装の計画があったようです。
昭和18年/1943年6月頃から、さらに魚雷発射管を減じて2基8門とし(全廃にできないのが海軍らしいです)、第一煙突を撤去、12.7cm連装高角砲2基、25mm三連装機銃10基という対空装備の大幅な強化。
さらに【大発動艇】4隻、【小発動艇】2隻を搭載できるようにするという計画でした。
しかしこの計画は【北上】は本土に帰還する暇がなく、【大井】は任務中に沈没してしまったため、施されることはありませんでした。
少々の損傷がありながらも、修理を経て任務へ復帰していた【北上】でしたが、昭和19年/1944年1月には輸送任務からの帰投中に【英T級潜水艦 テンプラー】の魚雷を艦尾に2発受けてしまいます。
なんとか航行することはできましたが損傷は激しく、【北上】は【鬼怒】に曳航されてシンガポールのセレター海軍基地でしばらく修理されることになります。
この被害により【北上】の機関部にまで海水が流れ込んでしまったので、修理をするにはボイラーとタービンを中から取り出して徹底的に洗浄しなければなりません。
この修理は長期に渡るのですが、6月に【北上】はその修理が完了していないうちに出撃命令を受けてしまいます。
任務はマニラへ向かうタンカー【旭東丸】の護衛で(この状態の【北上】に護衛に足る能力があったかどうかはさておき)、輸送を終えると今度はフィリピンで修理の続きを行います。
ただ、フィリピンにも2週間ほどしか滞在せず、8月に【北上】は日本へ向かう「ヒ70船団」に合流して、佐世保港へとやってきました。
ようやく落ち着いて修理ができる。
しかし、【北上】の一生は「高速輸送艦」で幕を閉じることはありませんでした。
【北上】は、「生きて帰ってきてほしい兵士を送る」ことから、「生きて帰ってくることのない兵士を送る」仕事を行うための、さらなる改装に入ります。
昭和20年/1945年1月3日時点の主砲・対空兵装 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 2基4門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 12基36挺 |
25mm単装機銃 27基27基 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
13号対空電探 2基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年