基準排水量 | 3,230t |
全 長 | 142.65m |
水線下幅 | 12.34m |
最大速度 | 33.0ノット |
航続距離 | 14ノット:5,000海里 |
馬 力 | 51,000馬力 |
駆逐艦を束ねる司令塔 実は生まれるのは後の天龍
日本は「筑摩型防護巡洋艦」以来、長らく巡洋艦の建造が行われていませんでした。
そんな折、欧州では第一次世界大戦が勃発。
遠い海上での戦いは、日本の帝国海軍にも刺激となり、そこでの戦況から日本に不足している力、日本が備えなければならないものを模索していました。
日本が着目したのは、「偵察艦・駆逐艦の先導艦」の重要度。
いかに優位な戦いを進めるかは、敵情だけでなく、戦場となる場所の環境も知っておかねばなりません。
そして日増しに成長していく駆逐艦の力をより大きく活用するための存在が必要になったのです。
当時駆逐艦の歴史はまだ浅く、駆逐艦そのものの性能は高いとは言えません。
しかしみるみるうちに高速になり、運用方法は必殺の魚雷を巨艦である戦艦や装甲の厚い装甲巡洋艦にぶつけることで一撃で沈めることができる驚異の存在です。
時代は駆逐艦を一大戦力とする新しい局面を迎えていました。
駆逐艦同士の殴り合いは、まだお互いの性能が大差ないため痛み分けに終わることも予測されます。
ならばその戦場に駆逐艦よりも強い存在を投入して、敵駆逐艦を排除して自軍の魚雷を敵の懐に送り届けてやろう、というコンセプトが「天龍型軽巡洋艦」誕生につながるのです。
「天龍型」は「八四艦隊計画(大正5年度計画)」の一環で、駆逐艦よりも高い攻撃力、駆逐艦の砲撃に耐えうる防御力、駆逐艦と同等の速度をもつスペックでの建造計画が始まりました。
「天龍型」で最も重要だったのは、「駆逐艦並みの速度」でした。
駆逐艦を先導する嚮導艦が駆逐艦より遅いと話になりません。
「筑摩型防護巡洋艦」の最大速度は26ノットで、「天龍型」誕生前に存在していた「磯風型駆逐艦」の最大速度34ノットとは8ノットもの開きがあります。
これはつまり、「磯風型」が最大でも26ノットで動かなければ艦隊行動が取れないことを示しており、駆逐艦の大きな武器を殺してしまいます。
そして巡航速度というものがありますから、実際はもっと遅い速度での移動を強いられるのです。
「筑摩型」の能力が低いわけではありませんが、嚮導艦としてはとても活用できません。
この問題を解消するために、機関は日本で初めてギアード・タービンを採用します。
これにより速力は直結タービンだった「筑摩型」の26ノットより7ノットも速い33ノットを出せるようになりました。
「磯風型」とも1ノット差ですからほぼ問題ありません。
そして馬力は5年前竣工の「扶桑型戦艦」よりも高馬力の51,000馬力を発揮できる高性能巡洋艦になりました。
缶は8基が重油専焼、2基が混焼の計10基で、その大小と組み合わせの関係で、3本の煙突はそれぞれ太さや間隔が違うという変わった設計となっています。
武装は速射性の高い14cm単装砲4基でしたが、これは人力装填、魚雷は53.3cm三連装魚雷発射管2基でした。
14cm単装砲は、「金剛型」で採用された副砲の15.2cm単装砲だと人力装填である以上、砲弾が重すぎて日本人の体格に合わないという理由で、「伊勢型」から14cm単装砲になったことが要因です。
以後、軽巡洋艦の主砲は最終型である「阿賀野型」と「大淀型」が現れるまでずっと14cm砲です。
「筑摩型」は15.2cm単装砲でしたが上記のように速射性に難があったので、実質的な攻撃力の低下はなく、むしろ強化されたと言えるでしょう。
主砲と魚雷発射管ははすべて艦中央に配置され、両舷どちらにも指向できました。
防御力ですが、これはこれまでの防護巡洋艦・装甲巡洋艦とは決定的に違います。
両者とも戦艦にはもちろん敵いませんが、敵巡洋艦の砲撃に耐えることが目的で誕生しています。
しかし「天龍型」の敵は巡洋艦ではなく駆逐艦です。
ですからこんな重量のかさ増しになる装甲は必要ありません。
駆逐艦の砲撃に耐える、具体的にはアメリカが採用していた4インチ(10.2cm)砲に耐える程度の防御力にとどめ、とにかく軽量化と高速化を重視した造りになりました。
結果、船体は「筑摩型」に比べると2,000t近くも軽くなり、33ノットの速度達成に貢献しています。
設計は、軽巡洋艦の祖とも言えるイギリスの「アリシューザ級巡洋艦」を元に設計されましたが、だいたいは「磯風型」と、「八四艦隊計画(大正5年度計画)」で建造が計画された新しい「江風型駆逐艦」を大きくしていくようなものでした。
しかし性能は当時の需要をほぼ叶えていたものの、いかんせん軽量化重視の影響で小さすぎたため、居住性は壊滅状態でした。
さらに「天龍型」にとって不運なことに、【天龍】起工から1年半後の大正7年/1918年12月、アメリカがもっと大きな「オマハ級軽巡洋艦」の建造を始めたのです。
「オマハ級」は排水量7,000t、主砲が15.2cm砲、そして最大35ノットで役割が駆逐艦の嚮導艦。
「天龍型」同様、「オマハ級」もまた水雷戦隊旗艦の役割を担う存在として誕生したのです。
つまり、「天龍型」の戦場には「オマハ級」が出てくるということになります。
「天龍型」の防御は10.2cm砲を想定したものですから、15.2cm砲をぶち込まれたらたまったものではありません。
そして最大33ノットに対して35ノットで、しかも大口径ですから速度でも射程でも絶対に逃げ切れません。
「天龍型」は少なくともアメリカとやり合うことになった場合は、完全劣勢での戦いを強いられることになるのです。
(イギリスも「エメラルド級軽巡洋艦」が7,500tほどでしたが、仮想敵国ではなかったので。)
大正6年/1917年の「八四艦隊計画完成案(大正6年度計画)」では、最終的に「天龍型」は【天龍】【龍田】を含めて計6隻、そして同時に7,200t級という大型巡洋艦3隻が建造案として上がっていました。
7,200t級とは図らずもアメリカが翌年末に建造する「オマハ級」と類似する排水量でした。
しかし「天龍型」のスペックではどうも物足りないという事態になってきたため、もっと強くて速い嚮導巡洋艦を造るということになりました。
当時アメリカで計画されていた「レキシントン級巡洋戦艦」の速度が33ノット、そして日本で建造された「峯風型駆逐艦」は最大39ノットとギアード・タービンの能力を活かしてしてべらぼうに速くなりました。
このままでは「天龍型」は逃げ切れないし先導もできないということで、「天龍型」は【天龍、龍田】の2隻のみ、7,200t級については高価になる上にこの39ノットに近い速度は出せないということで、お蔵入りとなります。
そして折衷案として登場するのが、いわゆる5,500t級と呼ばれる軽巡洋艦です。
幸いと言っていいのか、「天龍型」はこのように2隻で建造が打ち切られましたので、対「オマハ級」の戦力として大正7年/1918年成立の「八四艦隊計画完成案」で決定した5,500tの「球磨型」の建造が急がれることになります。
しかし「天龍型」は小さすぎために改装も非常に難しく、一部の換装を除いてほぼ竣工時の状態で生涯を全うしています。
計画時には強力な軽巡だったものの、悲しいことに誕生する頃にはすでに日米はより強力な軽巡の建造を進めていました。
ちなみに【天龍】は、【龍田】より2ヶ月早く起工するも、竣工は【龍田】より半年も後となっています。
これは初めて搭載したギアード・タービンの機嫌が悪く、故障や破損が度々見つかって竣工日が遅れてしまったのが原因です。
【古鷹】【加古】のようにネームシップが入れ替わることはなく、そのまま「天龍型」として名を残していきます。
出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ