朝潮【朝潮型駆逐艦 一番艦】

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起工日昭和10年/1935年9月7日
進水日昭和11年/1936年12月16日
竣工日昭和12年/1937年8月31日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年3月3日
ビスマルク海海戦
建 造佐世保海軍工廠
基準排水量1,961t
垂線間長111.00m
全 幅10.35m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:3,800海里
馬 力50,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアードタービン 2基2軸

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かつての栄光を再び 特型復活を願って建造された朝潮

「特型」の起工から10年が経とうとしていた昭和10年/1935年、日本は駆逐艦で大きな試練を抱えていました。
「ロンドン海軍軍縮条約」によって駆逐艦の基準排水量が事実上1,500t以下に抑えられ、その条約に基づいて建造された「初春型」は改造に次ぐ改造を施すほどの大失敗、続く「白露型」「初春型」の教訓を活かして建造されたものの、「『特型』に準ずる能力をもつ中型駆逐艦」という目標には至っていませんでした。

特に「特型」で大きな成果となった外洋航行能力を最大限活かすための航続距離の延長が達せられなかったことに不満が集中し、結局1,500t以下ではどうしようもうないことを認めざるを得ませんでした。
「初春型、白露型」はともに騒動の末に1,500tをオーバーしてしまいましたが、それでも計画段階では1,500t以下として進められていました。
しかしこの突きつけられた問題を解決するためには、この枠を超えること以外に方法がなかったのです。

昭和9年/1934年、世界は「第二次ロンドン海軍軍縮会議」を開催し、「ロンドン海軍軍縮条約」の継承を希求します。
しかし日本はもともと米英との比率の開きに不満を持っており、当時から軍事力の平等化を訴えていました。
もちろん米英としては、日本の躍進を抑えるための会議と言ってもいい本会議でそれを認めるわけがありません。
そこで日本はこの「第二次ロンドン海軍軍縮会議」において「軍備比平等」を引き続き唱えるだけでなく、「戦艦・空母の全廃を視野に入れる」という、海軍兵力の大削減も提唱しました。
到底この主張は受け入れられるわけがなく、日本はこれをもって「ワシントン海軍軍縮条約」からの脱退を通告、同時に「第二次ロンドン海軍軍縮会議」からも脱会し、日本は久しぶりに束縛されない環境を取り戻します。
昭和11年/1936年から無制限条約時代に突入し、日本はそれを見越して動き始めました。

さて、駆逐艦にとって暗い闇の時代に光が差し込み、日本は改めて強力な大型駆逐艦の建造に踏み切ります。
誕生するのが条約脱退後ですから、建造が始まる時点では条約下であっても設計ではこの通告によって完全自由時代となります。
その第一号が、「朝潮型駆逐艦」です。
「朝潮型」「特型」の復活とも言える艦として期待され、また「特型」以後に得た新しい技術を採用する形で計画されます。
以下が「朝潮型」の要求値です。( ( )内は「第四艦隊事件」後)。

公試排水量2,370t(2,394t)
水線長115.00m
全 幅10.39m
最大速度35ノット(34.85ノット)
航続距離18ノット:3,800海里(18ノット:4,000海里)
搭載燃料387t(580t)
主 砲12.7cm連装砲C型 3基6門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置 2基
機 銃13mm連装機銃 2基4挺

「朝潮型」「友鶴事件」「第四艦隊事件」間に設計・起工されています。
そのため「朝潮型」は完全に両事件の反省を踏まえた艦ではなく、やはり過去の駆逐艦同様、設計途中で見直しが行われています。

まず復原性を大きく損ねてきた艦橋ですが、これは「改白露型」のデザインの大半が踏襲されています。
若干上部構造物に変化があるのと、「白露型」での角張りが全体的に丸みを帯びたものへとなりました。
小型の艦橋なので風圧側面積も少なくて済みます。

魚雷を始めとした艦中央部から艦尾へかけての構造もほとんど「白露型」と同じで、2番魚雷発射管の次発装填装置の位置が少し左舷側に斜めに配置されたぐらいでしょうか。
魚雷に関しては「特型」が三連装×3基に対して四連装×2基と最大射線は1本減ってしまいますが、その代わり次発装填装置がありますからこの点はそのまま「白露型」の兵装を継承しています。
ちなみに魚雷に関しては建造中に九三式魚雷、通称酸素魚雷が制式採用されたことから順次置き換えられていきます。

主砲も同じ12.7cm連装砲C型
ただ門数に関しては変化があり、「白露型」12.7cm単装砲B型から連装砲C型に換装、連装砲3基6門となりました。

機銃はバラツキがありますが、13mm連装機銃2基4挺というのが計画でした。
機銃は2番煙突前部に取り付けられた機銃台に設置されていますが、「初春型、白露型」とは逆で、煙突の形状が前が太く、後ろが細くなっています。

こう見ると「朝潮型」はほとんど「白露型」で、限られた排水量の中で蟻の子1匹逃さないかの如く軽量化を推し進めた考えを忘れ、ちゃんとした「白露型」を造ってみようという結果の印象を受けます。

変わったとこは、外観で分かるのは喫水の深さでしょうか。
喫水を深く取れば(つまり船が深く海水に浸かれば)安定性が増しますので、復原性を十分に取ることが求められた「朝潮型」としてはどうしても対応しなければならないことでした。
喫水が深くなれば凌波性が損なわれて「特型」以来の大きな特徴を失いかねないのですが、ここは艦首の乾舷を十分高く取ることで対処しています。
つまり艦首がより反ったデザインとなりました。
これらの結果、最大復原角度は95.7度にまで至っています。

出典:『駆逐艦 その技術的回顧』著:堀元美 原書房

続いて対潜兵装です。
「初春型」から「白露型」でも手動投下台をなくした一方で投射機と装填台が2基へと増強されましたが、「朝潮型」はこれを「初春型」時代の1基+手動投下台両舷3基ずつという形へ戻しました。
どうして軌条方式をやめて投射+手動投下に戻したのかは謎ですが、単純な対潜攻撃力としては幾分低下しています。

見えない部分でも重要な変化があります。
まずは新開発のボイラー、高温高圧缶が搭載されています。
従来のロ号艦本式缶に比べて燃費がさらに11%向上したこの新型缶は、長年追い求めていた航続距離向上には欠かせないものとなりました。
この高温高圧缶の登場によって、当初の計画であった18ノット:3,800海里を上回る18ノット:4,000海里という航続距離が発揮できることになりました。
のちに紹介しますが、公試ではさらに1,000海里以上の航続距離の上乗せが証明されています。

もう1つは、これも燃費・航続距離向上につながるものですが、艦内電力を交流化します。
これは過去ほど徹底的ではないものの譲ることはできない「軽量化」に直結するもので、電力設備数に大きく影響しました。
艦内は設備能力の改善にともなって消費電力も増加していました。
となると、その電気の力となる電圧もより高圧化するほうことが求められます。

電流とは「電気の量」で、電圧とは「電気の力」、そして電力はこの2つが掛け合わさって算出されます。
そして高圧化には直流よりも交流が優れており、この交流化によって電気設備を25%も軽くすることができました。
さらに交流化は陸上からの電力融通も可能にしています。
この実験はまず【明石】で試されて、効果的であったことから「朝潮型」にも取り入れられました。

「特型」再興を目指し、「白露型」に手を加える形で建造が始まった「朝潮型」
しかし【朝潮】起工からわずか3週間後、「朝潮型」の行く末にはどんよりとした曇り空が垂れ込めてきました。
昭和10年/1935年9月26日の「第四艦隊事件」です。

「第四艦隊事件」によって「特型」前後に建造された多くの艦艇では強度が不足していて、特に軽量化第一の設計であった艦は軒並み甚大な被害を追いました。
「朝潮型」はあくまで復原性を失わないような設計を主軸として設計されており、「『特型』に61cm連装魚雷発射管と次発装填装置を備えたもの」という色合いが強いです(機関室の縦壁がないのは地味かつ重要な違い)。
そのため「朝潮型」もこのまま建造してしまうと第二の「第四艦隊事件」を引き起こしかねないのです。

やむなく「朝潮型」は設計を見直すことになり、強度設計が改められました。
もともと排水量1,900t程度での設計で余裕が多少あったとはいえ、それでも補強によって基準排水量は2,000tに達してしまいます。
また速度もこの改修によって0.15ノット減、つまり34.85ノットになると計算されました。
航続距離は足りないし速度も35ノットも出ないんじゃあ、という空気が現場に漂ったことは間違いないでしょう。

さらに「朝潮型」には特有の問題も降りかかってきます。
艦尾の形状が、「朝潮型」では復原性をよくするために喫水線付近の小さな丸みの部分が「特型」以来のものよりも小さくなっていました。
ところがこの小さな変化と二枚舵の形状が、旋回半径を増幅させる悪い方向に作用してしまいます。

「朝潮型」に取り付けられていた舵は縦に細長い形で、二枚で制御する構造だったのですが、この縦横比が縦に偏りすぎたこと(縦に細長すぎる)、また艦尾の形状が高速時に水面から離れすぎ、舵を大きく切るときに空気を吸い込んで水圧が減少して抵抗力が不足することがわかりました。
その結果、小さく旋回するための力がないため旋回半径が大きくなってしまったというのです。
それどころか最大速度も1.5ノットほど低下してしまい、看過できない事態に発展します。

この結果を受けて「朝潮型」の艦尾と舵の形状の改修が行われました。
艦尾と艦底はいずれも平面とし、また丸みのあった個所には鋭角のナックルをつけて海水を押さえつけるような形状にします。
舵も縦横比を見直して少し横に長い形状となり、また舵の枚数も一枚に戻っています。

出典:『駆逐艦 その技術的回顧』著:堀元美 原書房

他に推進器も回転数が計画380rpm(分間回転数の単位)に対して350rpmしかないことから、推進器を3.40mから3.28mへ小型化したうえで回転数を370rpmとしました。
これらの改修の結果、【大潮】の公試ではありがたいことに旋回半径を小さくしただけでなく最大速度も逆に計画より0.7ノット改善したことがわかりました。
数値で表すと最大速度での抵抗が7%減少、馬力換算で3,600馬力分上乗せされたことになります。
【朝潮~荒潮】は順次改修、以後の6隻は建造の段階で対策が取られ、「甲型駆逐艦」にも採用されていますが、実はこの艦尾形状は「陽炎型」設計の中で検討されていたもので、緊急事態のため「朝潮型」に取り入れたことになります。

さらには航続距離も18ノット:5,190海里に達したとされ(重油578.9tの95%消費で航続距離4,975海里)、計画段階では果たせなかった海軍の要求を試験航行で達成しました。
速度も公試で35.29ノットを発揮していますから、機関に関しては想定以上の性能を発揮できました。
ただ手放しで喜べないのは、航続距離4,000海里を達するために必要だとされた燃料は580tでしたが、公試の結果を見ると燃料は450tほどでよくなります。
130tの差は駆逐艦にしてみれば1割近い排水量になりますからものすごく影響します。
計画を上回るにしてもこれはこれで問題だったのですが、結局この燃料に対する航続距離の計算誤りは「陽炎型」でも解決していません(機関改善の影響も大きい)。

災い転じて福となしたこの艦尾と舵の問題。
しかし「朝潮型」を、そしてそれは海軍全体を貶めるやもしれぬ事件が【朝潮】竣工からしばらくして発生します。
昭和12年/1937年12月19日(それとも8月の公試中?)、【朝潮】のタービン開放検査をして発覚した、中圧タービン翼の破損です。
嫌な汗を流しながら他の「朝潮型」のタービンを検査すると、なんと同様にタービン翼の破損が確認されたのです。

「友鶴事件」「第四艦隊事件」と続き、今度はまさか全ての艦のタービンチェックか?
昭和13年/1938年1月19日に臨時機関調査委員会が組織され、急いで原因究明が行われることになりました。
これが「臨機調事件」です。
この時はディーゼル機関でも不調が相次いでいて、機関に対する反応は極めて敏感でした。
また「支那事変(日中戦争)」も前年から勃発していましたから、とにかく事態は急を要したのです。

タービンに問題があるということは、規模によっては大多数の艦艇に問題が波及することになりかねません。
どうか大事になってくれるなという思いの中で、いったいどこまで回転数を上げれば振動が危険な域に達するのかを突き止める実験が行われました。
その結果、だいたい6/10から全力までの速度がもっとも振動数が早くなり、亀裂につながる可能性が考えられることがわかります。
また構造から対象は「妙高型」以降の巡洋艦、「特型」以降の駆逐艦と考えられました。

そして次の実験では亀裂の危険性がある対象を絞る作業に入ります。
その方法はシンプルかつ大胆。
ひたすら6/10~全力の速度で走って走って走りまくらせたのです。
この実験に選ばれたのは、【妙高】【吹雪】【狭霧】【初春】【千鳥】【鴻】の6隻で、平時の艦隊任務10年分の航走を1年間で成し遂げるという超スパルタ教育のランニングを課し、その結果亀裂が入るかどうかを徹底的に調べました。

その結果、約1年後に原因は中圧タービンであることを突き止めます。
中圧タービンに原因があったという報告を受けて、皆どっと力が抜けたことでしょう。
中圧タービンは、駆逐艦では高温高圧缶に搭載されていたタービンだったからです。
つまり駆逐艦の対象は「朝潮型」のみということがわかりました。

続いて【山雲】を使った陸上実験が舞鶴海軍工廠で行われます。
ドックで改良翼と原型翼を1つずつ取り付け、速度を上げては破断を確認しを繰り返していきました。
そしてその実験の結果、破損が発生するときは22ノットに到達するときということがわかります(加減速いずれでも)。

何故22ノットで亀裂が発生するのかはこの段階ではわかりませんでしたが、とりあえず対策は打てたのでこの「臨機調事件」は幕を下ろしました。
これでようやく「朝潮型」が完成します。
そして調査を続けるうち、昭和18年/1943年にようやくの翼二節の振動共鳴が原因であることがわかりました。
そのため翼車の固有振動数を増やして共鳴しないようにすれば22ノットでも破損しないということがわかったのです。

しかし二大事件の影響は計り知れず、「朝潮型」はその排水量に対して適切なバランスを逆の形で欠いており、つまり慎重に造りすぎた結果、船体の構造に対して過剰な復原性や頑丈性を持たせてしまったのです。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

勇猛果敢に敵に挑んだ、義理堅い駆逐艦

【朝潮】【大潮】【満潮】【荒潮】とともに第八駆逐隊を編成し、「マレー作戦、リンガエン湾上陸作戦」に従事。
昭和17年/1942年2月からは「バリ島攻略作戦」に参加しました。
輸送と護衛に汗を流していた第八駆逐隊でしたが、2月19日、2隻の輸送船を伴ってマカッサルからバリ島へ輸送を行っていました。
揚陸中に空襲を受けて輸送船が2隻とも損傷したため、第二小隊の【満潮、荒潮】は一足先に【相模丸】を護衛してマカッサルへ、【笹子丸】は第一小隊の【朝潮、大潮】とともに夜が来るまで身を潜めました。

しかし20日を迎えようとしていた時、闇夜に紛れてバリ島から撤退しようとした3隻に対してABDA艦隊がその行く手を遮ります。
「バリ島沖海戦」の勃発です。
ところがこのABDA連合艦隊、しっかりとした統率や指揮系統が確立されておらず、同海域で日本に攻められては困る国々が寄せ集まったような状態でした。

まず先頭にいた【蘭軽巡洋艦 デ・ロイテル】【蘭ジャワ級軽巡洋艦 ジャワ】が砲撃を仕掛けてきますが、数的に不利ではあるものの2隻の軽巡は本格的な砲戦を避け、すぐに引き上げてしまいます。
軽巡を失った第二小隊は追撃を始めますが、発見したのは軽巡ではなく【蘭アドミラーレン級駆逐艦 ピート・ハイン】でした。
この時【ピート・ハイン】は突出しており、【朝潮】は遭遇した【ピート・ハイン】に向けて砲撃、雷撃を行います。
【ピート・ハイン】は大した反撃もできずに大破炎上し、やがて沈没。
【朝潮】【大潮】と共に撤退する2隻の駆逐艦を発見していますが、深追いはせずに周辺の警戒に戻りました。

午前3時ごろを過ぎると第一小隊は再び敵を発見。
海戦はこの後も第二次~第四次と続きますが、途中で援護に加わった第二小隊が結果的に挟み撃ちにあってしまい、【満潮】が大破してしまいました。
海戦としてはさらに【トロンプ】【米クレムソン級駆逐艦 スチュアート】の撃破に成功して勝利を収めていますが、海戦後も空襲を受けて【満潮】に至近弾、【大潮】も同じく至近弾を受けて浸水が発生してしまいます。
この結果、第八駆逐隊は一時的に半壊、【朝潮、荒潮】の2隻だけになりました。

【朝潮、荒潮】はその後もジャワ島攻略に参加し、ひと段落ついてから本土に帰還。
2隻とも3月25日から4月15日まで横須賀で整備修理を行いました。

修理を終えた直後、横須賀にもその爆音が届いたでしょうか、まさかのアメリカによる東京空襲が行われました。
「ドーリットル空襲」です。
急いで本土に残る艦艇に命令して機動部隊の捜索が始められましたが、すでに【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット、エンタープライズ】は逃走していたために発見できませんでした。
どころか日本に戻る最中に巻き込まれた悪天候で、【荒潮】が一番主砲の防水帯が故障(剥がれ?)による浸水、【朝潮】は負傷者発生と散々なものでした。

散々なのはこれだけではありません。
第七戦隊の護衛として参加した6月5日からの「ミッドウェー海戦」では、第七戦隊の問題行動に付き合わされた挙句、衝突損傷した【最上】【三隈】の護衛をさせられます。
その2隻は空襲によってさらに痛めつけられ、もちろん【朝潮、荒潮】も巻き込まれてしまいました。
最終的に【三隈】は沈没し、【朝潮、荒潮】はできるだけ救助を行いますが、【朝潮】も被弾して燃料タンクを損傷、【荒潮】も至近弾で人力操舵に切り替えざるを得なくなります。

何とか逃げ切った3隻でしたが、この歴史的敗北は日本の行く末そのままでした。
【朝潮】は修理後に船団護衛や哨戒活動を行いますが、10月末にラバウルへ進出。
早速鼠輸送という背に腹は代えられない任務を背負い、最前線の戦いの苦境を思い知らされます。

11月13日には、前日の「第三次ソロモン海戦第一夜」による【比叡】ら沈没を受けてもなお輸送を強行しなければならないジリ貧の状態の中、ショートランド泊地に残る第七戦隊がヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を行うことになりました。
しかしそこを狙ったショートランド泊地への空襲で、同行する予定だった【満潮】が大破します。
この影響で第八艦隊と行動を共にするはずだった【朝潮】が第七戦隊の護衛に変更。
砲撃自体は無事に行えましたが、効果は薄く、逆に蜂の巣をつつく行為であったことを思い知らされます。

引き上げる第七戦隊と、途中で合流している第八艦隊は、その後方からバタバタといううるさい音に血の気が引きます。
今しがた砲弾をありったけぶち込んだヘンダーソン飛行場から、またしても航空機が飛んできたのです。
何回撃ってもすぐ反撃されるおなじみのパターンに嫌気がさしますが、四の五の言ってられません、すぐさま対空射撃が始まりました。
しかし飛行場と【エンタープライズ】からの艦載機による空襲は的確で、【衣笠】撃沈、【五十鈴】大破、また艦砲射撃を隠れ蓑にして別ルートで進んでいた輸送船団もばっちり狙われてしまい、船団も11隻中6隻を失うという大惨事となりました。

その後「ブナ・ゴナの戦い」の支援の輸送が始まりますが、ここでも船団を狙う空襲が後を絶ちません。
11月18日には一緒に輸送を行っていた【海風】「B-17」の爆撃を受けて大破してしまい、【朝潮】がラバウルまで曳航しています。
その【朝潮】も12月8日の空襲で至近弾を受けてしまい後部砲塔2基を損傷しましたが、その後も応急修理程度で済まされてすぐにカビエンやラバウルへの輸送を強いられました。

そして12月22日、ショートランド泊地で爆撃を受けてからほとんどほったらかし状態だった【満潮】がようやく修理を受けれるようになりました。
【朝潮】がトラックまで【満潮】を曳航し(【天霧】護衛)、そこで【満潮】【明石】による修理が行われます。
一方【朝潮】もこの避退によって「ガダルカナル島の戦い」から離脱。
昭和18年/1943年1月7日には【瑞鶴】【陸奥】らと共にトラックを発ち、横須賀へと戻っていきました。

2月20日、【大潮】【米ガトー級潜水艦 アルバコア】の雷撃を受けて大破、のち沈没しました。
【大潮】が被雷したのはビスマルク海に浮かぶマヌス島の北で、ビスマルク海はラエやニューギニアを目指す上で必ず通過しなければならないエリアでした。
ビスマルク海の東側はラバウルがありますが、南側のニューブリテン島とパプアニューギニアに挟まれたビスマルク海からダンピール海峡というのは、「ブナ・ゴナの戦い」が終結した後はニューギニア島南端を連合軍が掌握したため、海峡沿いにあるラエへの日本の支援を遮るためにも重要な場所でした。

当然日本側も「ポートモレスビー作戦」の失敗によってラエやサラモアの防備増強は急務でした。
1月7日から8日にかけて、ラバウルからウェワクへの輸送が成功。
これに続いてガダルカナル島から撤退した兵士たちを含めた陸軍兵をニューギニア島の各署へ派遣することが決まりました。
これを「八十一号作戦」と呼びます。
「八十一号作戦」はラエ・サラモア、マダン、ウェワクの3ヶ所に陸軍を輸送する作戦でした。

この中でぶっちぎりに危険なのがラエルートです。
ラエはポートモレスビーから最も近く、また唯一ダンピール海峡を通過しなければなりません。
そして連合軍も圧倒的に攻めやすい位置なので、底なし沼の看板があるのに沼に入っていくようなものでした。

もちろん反対意見が噴出しますが、第八艦隊作戦参謀の神重徳大佐を始め幹部たちは意見を曲げません。
第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、実際に神大佐に対して作戦中止を求めていますが、「命令であるから全滅覚悟でやってもらいたい」と取り付く島もありませんでした。
ラエの補強は絶対であり、マダンからの陸路ではずいぶん時間がかかるため仕方ない一面もありますが、手厚い支援もないのに突っ込めとは無慈悲極まりないでしょう。

ともあれ命令なのでやるしかありません。
ラエへの輸送は【朝潮、荒潮】を始め8隻の駆逐艦、そして7隻の陸軍輸送船と【給炭艦 野島】が行うことになりました。
2月28日出撃、突入は3月3日となりました。

【野島】は大正時代に建造された、駆逐艦で言うと「神風型」時代の給炭艦です。
最高速度はわずか12ノットでしたが、別にこれは輸送船としては珍しい速度ではありません。
【野島】艦長の松本亀太郎大佐は、第八駆逐隊司令の佐藤康夫大佐の1つ後輩で同じ分隊だった時期がありました。
出撃の前日、2人は残り数日となった命を肴に酒を飲み交わしていました。
松本大佐「脚の遅い野島は必ず犠牲になります。骨は拾ってください」と伝えます。
これに対し佐藤大佐「私の朝潮が護衛する限り、決して見殺しにはせん。野島の乗員は必ず拾いにゆく」「やられたらお互い必ず救ける」と固く約束しました。

2月28日深夜、旗艦【白雪】が率いる船団がラエへ向けて出撃しました。
そしてそれは、どれだけ覚悟を積もうがなお足らぬ冥土への入り口でした。

3月2日、船団に敵機が迫ってきました。
前日にはすでに触接を受けていて、無事に済むわけがないことは皆がわかっていました。
2日の空襲では【旭盛丸】が沈没。
ラバウルからの直掩機が援護に出ていたものの、敵機より多いわけでもないし相手も護衛の戦闘機を引き連れていますから爆撃を妨害するのはなかなか難しいのが現実でした。

そしてあくる3日、ダンピール海峡に差し掛かったところで怒涛の爆撃が船団を食い散らかしていきました。
やはり敵機の数が多い中直掩機の爆撃阻止は不可能に近く、足止めを食らった「零式艦上戦闘機」を尻目に次々と爆弾が空から、否、横から突っ込んできたのです。
アメリカが編み出した反跳爆撃、これは水切り石の要領で魚雷のように低空から爆弾を投下し、海面を爆弾が跳ねて標的に命中させるという攻撃方法でした。

この方法は雷撃機と同じ攻撃の仕方になりますから、艦隊に対してほぼ水平に落下してきます。
艦船からの機銃攻撃が命中しやすいため危険なのですが、日本の艦船は機銃が少ないことは知っていましたし、そして事前の機銃掃射で甲板上の兵士を攻撃し、機銃を扱える人数そのものを減らしてから攻撃することでその危険性を軽減させたのです。
さらに水平爆撃と組み合わせることで、船団は上と横の二方面からの攻撃に振り回されることになります。

最初の空襲で【白雪】【荒潮】【時津風】が被弾し、そして3隻はいずれも最終的には沈没しています。
辛くも無傷でこの難局を乗り切った【朝潮】ですが、【野島】からは火の手が上がっており、沈没は時間の問題でした。
【白雪】から司令を引き継いだ【敷波】は第二波の空襲が迫っているという報告を受け、救助活動を中断し、残りの船と共に避難することを命令します。
しかし【朝潮】「ワレ野島艦長トノ約束アリ、野島救援ノ後避退ス」

とこの命令を振り切り、【野島】と同じく炎上中の【荒潮】(被弾後舵故障で【野島】に衝突)の救助に向かいました。

この時【荒潮】は大破していたもののまだ動ける状態だったため、全員が脱出するわけではなく、負傷兵や陸軍兵が優先的に【朝潮】に移乗。
続いて【野島】の乗員と松本大佐を救出した【朝潮】でしたが、逃げ切れる時間はもう残されていませんでした。
報告のあった敵機が命あるものすべて滅ぼすつもりで再び爆撃が始まりました。
特に避難するためにちょこまか動くうるさい【朝潮】は目ざわりで、最初に集中的に爆弾が投下されました。
四方八方から襲い掛かる爆弾に成す術もなく、【朝潮】は大破、そして沈没していきました。

松本大佐佐藤大佐によって【野島】から脱出できました。
【朝潮】沈没後も漂流しているところを夜になって引き返してきた駆逐艦に救助されました。
しかし自身は【朝潮】から離れることはありませんでした。
佐藤大佐「もう疲れたよ」と脱出を拒否、前甲板に座り込み、勇気ある駆逐艦【朝潮】とともに沈んでいきました。

【朝潮】艦長の吉井五郎中佐、一時は救助された【荒潮】の艦長久保木英雄中佐も戦死し、ここに「ビスマルク沖海戦」、通称「ダンピールの悲劇」は終結します。
この海戦では先の3隻の駆逐艦どころか、参加した輸送船全てが沈没しています。
船団だけでなく、陸上火砲41門、自動車89両、物資2,500tも海の藻屑となり、また同時に修理によって同海戦に参加していなかった【満潮】を除き、第八駆逐隊は全滅。
たった数週間で、【満潮】は自身の修理中に僚艦をすべて失ってしまいました。

2021年04月11日 加筆修正