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【松型駆逐艦 桐】

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起工日 昭和19年/1944年2月1日
進水日 昭和19年/1944年5月27日
竣工日 昭和19年/1944年8月14日
退役日
(解体)
昭和44年/1969年12月20日

建 造 横須賀海軍工廠
基準排水量 1,262t
垂線間長 92.15m
全 幅 9.35m
最大速度 27.8ノット
航続距離 18ノット:3,500海里
馬 力 19,000馬力
主 砲 40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃 25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸

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最後の多号作戦に参加 ソ連での生活が長い桐

【桐】は竣工後も残工事があり、それを終えてから第十一水雷戦隊の所属となります。
10月10日には第三一戦隊、第四十三駆逐隊にそれぞれ編入され、来たる「レイテ沖海戦」に向けて準備が進められていました。
【桐】は機動部隊、通称小沢艦隊の一員となり、彼の地で果てることを覚悟して出撃する囮として出撃することになります。
しかし20日に出撃してから2日後の22日、道中で【大淀】からおよそ100tの燃料を補給される予定でしたが、【桐】に送られた燃料は僅かに30t。
燃料不足にあえぐ日本の窮地を自ら実感する形となりました。

24日、上空警戒を終えて【瑞鶴】へ着艦する予定だった【零戦】が1機、着艦に失敗して海へ墜落してしまいます。
乗員の救助のために【桐・杉】が捜索にあたりますが、その間に機動部隊から離されてしまいました。
急いで合流を目指す【桐・杉】でしたが、やがて複数の艦影が映ります。
ようやく追いついた、とおもいきや、なんとそれはアメリカ軍の艦隊のものでした。
合流しかかったところでその艦影や航空機から敵軍と気づいた【桐・杉】は、すぐさま反転、辛うじてアメリカから気づかれることなくこの危機を脱しました。

しかしこの時【桐】の燃料は乏しく、反転や航路の変更で、合流に必要な燃料は残されていませんでした。
止むなく【桐】は合流を断念し、高雄へと帰投することになります。
高雄から奄美大島ヘ向かい、奄美大島で補給を受けた【桐】は、【杉】とともに10月30日に呉へと戻ります。
その間、「エンガノ岬沖海戦」で最後の機動部隊は壊滅しました。

11月9日、航空戦艦と改装されていた【伊勢・日向】が招集され、南方への進出が決定します。
【桐】はその護衛としてともに呉を発ちます。
11日には強風により馬公港内で座礁してしまいますが大事なく、無事予定の南沙諸島長島まで送り届けることができました。
ここで【伊勢・日向】とは分かれ、【桐】は続いて第三一戦隊旗艦【五十鈴】らとともにマニラへ向かうことになっていました。
しかし【桐】は「レイテ沖海戦」で傷ついている第二艦隊の本土回航の護衛に就くことになります。
これには【梅】も同じ命令がくだされており、【桐】はブルネイ湾からやってきた第二艦隊、【梅】らと合流し、17日から
20日まで護衛を行いました。

護衛を終えたあと、馬公、そしてマニラへ再進出した【桐】は、そこで新たな任務を任されます。
それはレイテ島で未だ奮戦する陸軍への輸送任務である「多号作戦」の参加です。
12月9日、最後の作戦となる第九次多号作戦に参加した【桐】は、他に【卯月・夕月・第9号輸送艦・第140号輸送艦・第159号輸送艦】、そして輸送船3隻と駆潜艇2隻の計11隻でレイテ島へと出発します。
【卯月・夕月】「睦月型」の中で生き残っているたった2隻の駆逐艦でした。

しかし前途は多難です、翌10日には早くも敵偵察機に発見され、11日には敵機による波状攻撃にされされます。
【桐】は25mm機銃が増設されていたこともあって最大10機の撃墜の記録が残っていますが、もっとも重要な輸送船が2隻沈没しています。
空襲が終えると、船団はふた手に分かれます。
【桐】【夕月・第140号輸送艦・第159号輸送艦】とともにオルモック湾へと突入することになりました。

ところが幾度と無く米軍の攻撃に晒され、多くの仲間を失ったオルモック湾はもう日本軍の入り込む余地がありませんでした。
陸を含めてオルモックは米軍に制圧されており、【第159号輸送艦】は陸からの砲撃によって炎上してしまいます。
深夜、【桐】【夕月】とともに【米ベンソン級駆逐艦 コグラン】に攻撃を仕掛けますが逃げ切られ、逆に【コグラン】に援軍を呼ばれて今度は【桐・夕月】がオルモック湾を脱出します。
退却した【桐・夕月】は一度分かれ、【桐】はパロンポンにて陸軍兵を陸揚げ、【夕月】は取り残されていた【第140号輸送艦】をオルモック湾から連れ出すことに成功しました。

輸送船、輸送艦の沈没がありましたが、可能なかぎりの輸送を終えた【桐・夕月】は、急ぎオルモックを離れ、マニラへと帰投します。
しかしそうやすやすと米軍が離脱を許してくれるはずがありません。
退避をはじめてから半日ほどが経過した12日16時頃、ついに米艦載機に追いつかれ、再び激しい空襲に襲われます。
【桐】は至近弾を受けて片軸が作動しなくなり、【夕月】は缶室に2発の直撃弾を受けて航行不能。
止むなく【夕月】の乗員を【第140号輸送艦】とともに収容し、【夕月】は砲撃処分されることになりました。
長い歴史を築いてきた「睦月型」の最期でした。

無事この空襲も耐え抜いた【桐】は、呉へ戻ると昭和20年/1945年3月まで修理を行うことになります。
その後、特攻兵器「回天」の訓練を行いましたが、やがてその出撃機会も与えられることがなくなり、8月15日の終戦まで待機することとなりました。

昭和22年/1947年7月29日、戦後賠償艦として【桐】はソ連へと引き渡されることになります。
新たに『ヴォズロジュジョーンヌイ』という名を与えられた【桐】でしたが、昭和24年/1949年3月には武装解除、その後は標的艦として扱われました。
名は『TsL-25』と改められ、さらに昭和32年/1957年3月には工作艦として『PM-65』に再び改称。
昭和44年/1969年の解体まで、ひっそりとした余生を過ごすことになりました。

駆逐艦
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※1 当HPは全て敬称略としております(氏をつけるとテンポが悪いので)。

※2 各項に表記している参考文献は当方が把握しているものに限ります。
参考文献、引用文献などの情報を取りまとめる前にHPが肥大化したため、各項ごとにそれらを明記することができなくなってしまいました。
勝手ながら今は各項の参考文献、引用文献をすべて【参考書籍・サイト】にてまとめております。
ご理解くださいますようお願いいたします。