鹿島【香取型練習巡洋艦 二番艦】

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起工日昭和13年/1938年10月6日
進水日昭和14年/1939年9月25日
竣工日昭和15年/1940年5月31日
退役日
(解体)
昭和22年/1947年

建 造三菱横浜造船所
基準排水量5,890t
全 長133.50m
垂線間幅15.95m
最大速度18.0ノット
航続距離12ノット:7,000海里
馬 力8,000馬力

装 備 一 覧

昭和15年/1940年(竣工時)
主 砲50口径14cm連装砲 2基4門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃 2基4挺
魚 雷53.3cm連装魚雷発射管 2基4門
缶・主機ホ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアードタービン 2基/
艦本式22号10型ディーゼルタービン 2基2軸
その他
水上機 1機
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最後は本職に復帰 唯一生き残った練習艦 鹿島

「香取型練習巡洋艦」の二番艦【鹿島】は、【香取】竣工からおよそ1ヶ月後に竣工し、この2隻はそろって練習航海に出発しています。
しかしその航海が途中で中断されたことは、【香取】の項でも述べたとおりです。
求められた役割を果たすには、時期が悪すぎました。

【香取】は潜水艦統率の第六艦隊旗艦となりますが、【鹿島】は戦闘部隊ではなく、海防部隊である第四艦隊の旗艦に任命されます。
第四艦隊は「支那事変(日中戦争)」勃発に伴い、名称は引き継がれながらも解隊・新編された艦隊で、南洋諸島を直轄するものでした。
この南洋諸島、4文字ではとても伝わらない広範囲であり、この辺はどうせなんも起こらないからという考え方があったとしか思えないものです。


だいたいこのへんです、担当範囲は。
1つの島を目指すだけでも一苦労です、補給艦必須。

しかし第四艦隊を編成する艦艇は旧型・小型が多く、昭和15年/1940年11月15日に旗艦を任されたときの仲間は「天龍型」「睦月型」、また「呂号潜水艦」や敷設艦などで、戦うことはほぼ想定されていない艦隊でした。
【鹿島】は第四艦隊旗艦であるとともに隷下の第十八戦隊の旗艦でもありましたが、開戦直前の12月1日に旗艦を【天龍】に引き継いでいます。

太平洋戦争が始まってからも、【鹿島】はその戦闘能力の低さからトラック島から指揮を執る日々でした。
開戦と同時に第四艦隊にはウェーク島の攻略という重要な任務を任されたわけですが、実際にはこの「ウェーク島の戦い」に大苦戦。
【疾風】【如月】を失うなど多くの犠牲があり、結局第二航空戦隊の助けを借りてようやく攻略に成功しました。

【鹿島】唯一の水上戦の可能性があったのは、昭和16年/1941年2月20日の「ニューギニア沖海戦」です。
【米レキシントン級航空母艦 レキシントン】ら第11任務部隊がラバウルを攻撃するために出撃したことを受けて、第四艦隊司令長官の井上成美中将は第二四航空戦隊に攻撃を命ずるとともに、水上艦も【天龍】【龍田】【夕張】旗艦の第六水雷戦隊、また「古鷹型」「青葉型」の第六戦隊など戦える船をできるだけ搔き集め、砲撃戦を仕掛けるために出撃させました。
この中には断トツで速度が遅い【鹿島】も含まれています。
井上中将がいるからというのもあるでしょうけど、艦の能力で考えると文字通り足手まといな気もします。

最終的には【祥鳳】まで巻き込んだものの、第二四航空戦隊の働きによって第11任務部隊は撤退。
水上艦の出番はありませんでしたが、しかし戦力的には各艦種いずれでも古参艦ばかりでしたし、【加古】艦長の高橋雄次大佐は出撃前に「勝算のない出撃はいやなものだ」と漏らしているように、実際に砲撃戦となった場合は大きな被害を受けた可能性は高いです。

7月、艦隊の再編成により第四艦隊が管轄していた南洋諸島を新編の第八艦隊が担うことになりました。
これに伴い第四艦隊は内南洋部隊となり、規模も大幅に縮小されました。
【鹿島】にとって幸運だったのは、この再編によって以後半年に渡る激戦と飢餓の「ガダルカナル島の戦い」に巻き込まれなくなったことです。
拠点はトラック島のままでしたが、【鹿島】はこの機に本土に戻り、呉で整備と補強を行っています。

5cm礼砲が4基中2基だけ撤去され、残った2基は何に使うつもりだったのかはわかりませんが天測甲板へ移動。
25mm連装機銃が2基増設されたほか、これまで装備されていなかった爆雷投下台を左右2基ずつ搭載されました。

9月に【鹿島】はトラック島に戻ってきますが、その際に司令長官であった井上中将が解任。
これまで井上中将は「ウェーク島の戦い」での被害やラバウルで指揮を執った「珊瑚海海戦」での【祥鳳】喪失といった汚点があり、信頼を失ってしまったのです。
開戦前も戦艦を捨てて航空戦力の増強を訴え続け、またより昔はアメリカとの戦争に反対だった彼は海軍の中でも少数派に属する立場であり、煙たい存在だったので、これを機に追っ払ったと考えるべきでしょう。
一方で彼も自身の戦下手をよく理解しており、この決定に対して「全くほっとした」とも漏らしています。
彼はその後海軍兵学校長として、練習巡洋艦からではなく陸上から明日の海兵を育てることになりました。

再編された後の第四艦隊の任務はこれまでと変わりませんが、これから重要になるソロモン諸島やマーシャル諸島などの担当から外れたおかげで平穏な日々を送ることになります。
輸送と護衛、待機ばかりで、戦争が本当に起こっているのかわからなくなりそうですが、しかし【明石】に助けを求めてやってくる軍艦の傷付きようがその勘違いから目を覚まさせてくれました。

昭和18年/1943年11月18日、【鹿島】【長鯨】らと共に日本へ向かいます。
この道中で護衛の【山雲】が迫りくる【米サーゴ型潜水艦 スカルピン】の撃沈に成功しています(【山雲】はトラックへ戻る)。
呉に戻った【鹿島】ですが、実は出発前の10日に第四艦隊旗艦の任務を【長良】に引き継いでいます。
【鹿島】は新しい職場で働くことになったのです。
それこそが、練習艦としての任務でした。

昭和18年/1943年12月、かつての役割とは少々異なるものの、開戦がなければ置き換えとなるはずだったのに練習艦としてあり続けた【磐手、八雲】とともに呉練習戦隊に編入。
更に12月31日には【香椎】も参加することになりました。

昭和20年/1945年2月8日時と竣工時の対空・対潜兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 3基6門(+2基)
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺(+4基)
25mm連装機銃 4基8挺(+2基)
25mm単装機銃 18基18挺(+18基)
電 探21号対空電探 1基(+1基)
13号対空電探 1基(+1基)
対 潜九四式爆雷投射機 4基(+4基)
九四式水中聴音機 2基(+2基)
三式水中探信儀 2基(+2基)

昭和19年/1944年7月11日、【鹿島】は沖縄への輸送「ろ号作戦」に参加。
以後練習艦であり続けながら日本周辺への輸送任務を多く経験することになります。
果たして遥か遠い戦場では何が起こっているのか、はっきりはわからずとも、練習艦を出撃させるという状況から危機が迫っていることはひしひしと感じ取れたことでしょう。

昭和20年/1945年1月1日、【鹿島】は練習艦としての任務を解かれ、新たに海上護衛総隊の第一護衛艦隊、第102戦隊旗艦を拝命します。
これは船団護衛と対潜掃討に力を発揮するための専門の編成だったわけですが、時期が時期だけにもはや焼け石に水でした。
【鹿島】は編入に伴って上記のように装備を大幅に増強。
対潜兵装については一部不明確ですが、爆雷は補給用も含めて300個搭載していたようです。
この爆雷搭載の為に司令部居住区は爆雷庫に改造されています。
またこの際に危険なだけの魚雷は撤去されました。

対潜掃討作戦には3回参加しているものの、戦果はなく、7月にはその任務も解かれて舞鶴へ向かいます。
もはや出撃することもない【鹿島】は枝葉などで擬装され、この状態で耐え凌いで戦争は終結しました。
最終的に【鹿島】は自身が直接戦うことがないままこの太平洋戦争を乗り切ったのです。

終戦後、【鹿島】は特別輸送艦となって出兵していた兵員を日本へと送り届けます。
そして昭和22年/1947年に【鹿島】は解体されました。

2021年01月17日 加筆修正

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