起工日 | 昭和14年/1939年3月20日 |
進水日 | 昭和16年/1941年6月26日 |
竣工日 | 昭和17年/1942年5月3日 |
退役日 (解体) | 昭和22年/1947年8月1日 |
建 造 | 三菱長崎造船所 |
基準排水量 | 24,140t |
全 長 | 219.32m |
垂線間幅 | 26.70m |
最大速度 | 25.5ノット |
航続距離 | 18ノット:10,000海里 |
馬 力 | 56,250馬力 |
装 備 一 覧
昭和17年/1942年(竣工時) |
搭載数 | 艦上戦闘機/12機 |
艦上攻撃機/18機 | |
艦上爆撃機/18機 | |
補用機/5機 | |
格納庫・昇降機数 | 格納庫:2ヶ所 |
昇降機:2機 | |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 |
25mm三連装機銃 8基24挺 | |
缶・主機 | 三菱水管ボイラー 6基 |
三菱ツェリー式ギアード・タービン 2基2軸 | |
飛行甲板 | 長210.3×幅27.3 |
商船の仮面をかぶった優秀空母 隼鷹
日本郵船は欧州航路向けに【新田丸、八幡丸、春日丸】という3隻の豪華客船の建造を計画しますが、それとは別に、サンフランシスコ航路向けの【出雲丸、橿原丸】という、やはり豪華客船の建造を命令されます。
特にこの【出雲丸、橿原丸】は海軍からの圧力がものすごく、日本郵船は嫌々ながらの建造となりました。
【橿原丸】は、進水こそ【出雲丸】よりも後になりますが、結局竣工したのは【橿原丸】改め【隼鷹】が先となりました。
そのため一部では「隼鷹型航空母艦」とも呼ばれます。
【隼鷹】は同じく呉で建造されていた【武蔵】の隣で建造されており、【武蔵】進水後もまだドックを覆う幌が残されていたため、「もう1隻【武蔵】がいるのか?」と噂がたったようです。
【隼鷹】は【飛鷹】と同じく非常に大型の改装空母で、【蒼龍】にも引けをとらない力を持っていました。
しかし装甲だけが薄く、内火艇が【隼鷹】の艦首に衝突した際は内火艇ではなく【隼鷹】の装甲が凹んでしまいました。
現場では「こんな弱っちぃ装甲でやってけるのか?」と不安でたまらなかったようです。
しかし【飛鷹】も【隼鷹】も魚雷を受けても、航行困難な状態にはなりますが、沈没することなく帰投できています。
装甲の薄さに反して異常なほどの丈夫さでした(可燃物徹底除去など、装甲以外の対応がよかったことが大きな要因です)。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
【隼鷹】は改装が遅れている【飛鷹】の完成を待たず、竣工1ヶ月で早速「アリューシャン方面海戦」へ【龍驤】とともに出撃しています。
初陣にしては強行な作戦の中、【隼鷹】はなんとか任務をこなします。
【飛鷹】が無事竣工し、姉妹で挑んだ「南太平洋海戦」は道中で【飛鷹】が機関故障により戦線離脱、結局【翔鶴】【瑞鶴】とともに出撃しています。
しかしその「南太平洋海戦」では【隼鷹】は大活躍。
次から次へと攻撃を繰り出し、先輩空母とともに【米ヨークタウン級空母 ホーネット】を撃沈、【ヨークタウン級空母 エンタープライズ】を撤退させることに成功します。
ところが次の「第三次ソロモン海戦」に敗北し、この一連のガダルカナル島を巡る戦いには勝利できませんでした。
昭和19年/1944年に入り、本格的な海戦に突入する前に、各空母では徹底した防火対策が取られました。
特に商船改装空母である「飛鷹型」は標準装備として可燃物が多く、テーブルや椅子のような一般的な者だけでなく、壁や隔壁などにも板が使われていたため、対策には骨が折れました。
もちろん塗料も剝がしまわり、豪華客船の趣を微塵も感じさせない殺風景な空母となります。
さらに不要な舷窓を鉄板で塞ぎ、よくわからない孔も溶接で塞ぎました。
このよくわからない孔が非常に多く、機関室や缶室の隔壁はあちこちに孔があってこれを全部塞ぐのが非常に大変でした。[1-P354]
工事の終盤では実際に水を流し込み、水漏れがないかをチェックして浸水被害の抑制を徹底しました。[1-P352]
5月3日には注排水による傾斜テストを実施。
計算上10度の傾斜になるであろう注水を行うと、実際は7.8度にしか至らず、また乗員600名を飛行甲板の片側に移動させるだけで、そちら側に0.3度傾斜することもこのテストで判明しています。[1-P352]
6月の「マリアナ沖海戦」では【大鳳】【翔鶴】が相次いで沈没、さらに【飛鷹】も翌日の空襲によりついに倒れます。
【隼鷹】は必死に攻撃を回避するものの、爆弾が煙突に命中、その破片が飛行甲板に飛び散って突き刺さり、結果的に着艦も不可能となってしまいました。
さらに【隼鷹】にとどめを刺そうと突っ込んでくる航空機がありましたが、これは間一髪で【長門】が砲撃を行い、追い払うことに成功しています。
煙突が破壊されたことで煙は周辺に霧散し、さらに蒸気も混ざって漏れ出ているのがわかりました。
火災もあちこちで発生し、しかも消火がなかなかできずに炎との長い戦いが続きました。
爆弾庫への注水は間に合ったので誘爆の危険性は低くなりましたが、高温の中での放水作業は体力を猛スピードで消耗させるため、次々にホースを持つものが交代して対処するしかありません。
それでも火の勢いは一行に衰えず、どころか火災箇所が増えていく始末でした。[1-P366]
やがて炎の原因が石油缶の中の油である可能性が高いことがわかり、放水から泡沫消火装置を用いた消火作業に変更。
他の個所も換気通風をよくすることで消火作業員の滞在がやりやすくなり、ようやくこの戦いに終止符が打たれました。
調査してみると火災が長く続いた第十一兵員室には毛布が残ったままであり、普段からの防火努力に緩みがあるとどうなるかが如実にわかる結果でした。[1-P367]
一方的な敗北を喫した「マリアナ沖海戦」以降は何もかもが不足し、【隼鷹】はその後は大きなスペースを利用した輸送任務につくことになります。
昭和19年/1944年7月10日時点の兵装 |
高角砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 19基57挺 |
25mm連装機銃 2基4挺 | |
25mm単装機銃 27基27挺 | |
単装機銃取付座 4基(のち12cm28連装噴進砲6~最大8基増備) | |
電 探 | 21号対空電探 2基 |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]3 航空母艦 水上機母艦 水雷・潜水母艦 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1982年
【槇】を護衛につけてマニラへ物資を輸送中、【隼鷹】は【米バラオ級潜水艦 スペードフィッシュ】の魚雷に襲われました。
1発を【槇】が身代わりになって受けたものの、2発が【隼鷹】に命中。
傾斜回復はできませんでしたが航行は可能で、右舷に18度傾きながらも13ノットの速度でかろうじて佐世保へ帰還します。
【槇】も艦首を失うなど大破するものの航行可能で、同じく長崎港へ逃れています。
【隼鷹】はあとはじっと耐えることしかできませんでした。
機関の修理は片舷航行はできるぐらいには応急修理がなされましたが、もう空母は空母としての役割を果たすことができません。
アメリカ軍の空襲を耐え続けて難を逃れた【隼鷹】は、ついに沈むことなく終戦を迎えます。
その後、結局破壊された機関の快復は最後までされることなく、かつて夢見た豪華客船の夢(客船復帰案がありました)も潰え、昭和21年/1946年に解体が始まりました。
【飛鷹】はなかなか活躍できずに無念の沈没でしたが、【隼鷹】は戦果をあげた空母で唯一終戦まで生き抜いた強者でした。
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参照資料(把握しているものに限る)