起工日 | 昭和9年/1934年12月1日 |
進水日 | 昭和12年/1937年11月21日 |
竣工日 | 昭和13年/1938年11月20日 |
退役日 (解体) | 昭和23年/1948年9月30日 |
建 造 | 三菱長崎造船所 |
基準排水量 | 8,500t |
全 長 | 201.60m |
垂線間幅 | 18.50m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:8,000海里 |
馬 力 | 152,000馬力 |
装 備 一 覧
昭和13年/1938年(竣工時) |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 4基8門 |
備砲・機銃 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
25mm連装機銃 6基12挺 | |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上) |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 重油8基 |
艦本式ギアード・タービン 4基4軸 | |
その他 | 水上機 5機 |
オールマイティーな利根が太平洋を駆け巡る
【利根、筑摩】は当初は横須賀鎮守府所属でしたが、昭和14年/1939年12月に舞鶴鎮守府に転籍します。
前月には2隻で第八戦隊を編成することになり、【利根、筑摩】は以後終戦まで、戦隊は変わっても2隻一緒に戦い続けることになります。
開戦前に3ヶ月だけですが宇垣纒(当時少将)が第八戦隊司令官に就任しています。
太平洋戦争の開幕となった「真珠湾攻撃」では、前述の通り第八戦隊は第一航空艦隊に所属。
【利根、筑摩】からの偵察機が敵情や天候を観測し、そこから攻撃が始まっています。
それから半年後のミッドウェー海戦までに、【利根】は「ウェーク島攻略作戦、ラバウル上陸作戦、蘭印作戦、セイロン沖海戦」など数々の作戦に参加。
いずれも偵察能力をかわれ、さらに重巡本来の役割である砲撃戦でも活躍。
水偵も爆撃を行うなど、偵察以外の任務でも積極的に運用されています。
機動部隊の大活躍を影で支えた【利根】は、デビューからいきなり引っ張りだこでした。
ただ、砲撃面では一度クリスマス島付近で遭遇した【米クレムソン級駆逐艦 エドサル】の撃沈に大苦戦します。
【エドサル】はこの時単艦で、対して日本は【比叡】【霧島】【利根】【筑摩】という過剰なまでに強力な戦力でした。
この時【利根】と【霧島】は【エドサル】のことを【オマハ級軽巡洋艦 マーブルヘッド】と認識していたようです。
【エドサル】が火力で敵うわけはありませんが、これぞ駆逐艦、非常に軽快な動きでこちらの砲撃が全く当たりません。
駆逐艦は小さいことで的が小さいのは当然として、舵の効きも加減速も大型艦の比ではありません。
まるでゲームのように着弾を予測回避して、煙幕を炊いて身を隠してと、完全に日本の艦船を翻弄しました。
結局痺れを切らした二航戦【蒼龍】の【九九式艦上爆撃機】の支援によって【エドサル】は命中弾を受け、最終的に砲撃で沈没しています(空襲による撃沈説もあり)。
「ミッドウェー海戦」では、これまで通り出撃後に偵察機を飛ばし、アメリカ軍の様子をうかがう予定でしたが、【利根】のカタパルトの調子が芳しくなく、予定よりも発艦が30分ほど遅れてしまいます。
その後の勝負の行方は言うまでもありませんが、当初はこの【利根】のカタパルトの不調による発見の遅れが、日本の敗北に直結したと考えられていました。
ところが近年の研究では、この発艦の遅れがあったからこそ、米艦隊を発見することができたのであり、予定通り発艦していたらむしろ発見できなかったという説が有力になっています。
ただし、偵察機の動きそのものは利根機、筑摩機いずれも不可解なもので、発艦が遅れた【利根】4号機は、当初2時間半の飛行を2時間で勝手に切り上げて帰還しています。
その結果としてアメリカ艦隊(空母ではない)を発見できたのは幸運でしたが、命令違反は命令違反です。
さらにこの時の発見位置も実際にアメリカ艦隊がいた場所から北に160kmもずれていて、かなりいい加減です。
この戦いでは空母とともに活動していた【利根、筑摩】にも10発以上の至近弾がありましたが、いずれも被害は僅少でした。
「ミッドウェー海戦」後、一時整備のため舞鶴へ帰還。
8月にはソロモン諸島、そしてヘンダーソン飛行場をめぐる戦いが勃発し、いよいよ連合軍の本格的な反撃が始まりました。
【利根】は8月23日の「第二次ソロモン海戦」に参加しますが、この時【利根】が随伴した【龍驤】はほとんど囮のようなもので、実際【龍驤】は【米レキシントン級航空母艦 サラトガ】の艦載機を引き付けることに成功します。
しかし護衛の【利根】や【天津風】【時津風】の対空兵装はたかが知れています。
結局【龍驤】は空襲によって撃沈されてしまい、【利根】らは【龍驤】乗員を一人でも多く救出することしかできませんでした。
続いて「南太平洋海戦」でも【利根、筑摩】は機動部隊の前衛として出撃。
しかし【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ、ホーネット】の艦載機による断続的な空襲に振り回され、前衛部隊も空母も艦載機との戦いが続きました。
【利根】は幸いにも大きな被害はありませんでしたが、【筑摩】は日本の機動部隊まで到達できなかった【エンタープライズ】機の集中的な空襲を受けてしまいます。
数発の被弾と至近弾で沈没寸前の被害を出していますが、辛くも空襲から逃げきっています。
空母との連携運用が主任務であった第八戦隊は、【翔鶴】と【筑摩】の大破によって機能不全に陥り、ガダルカナル島からの撤退を余儀なくされます。
しかし連合軍も【ホーネット】が沈没、【エンタープライズ】も中破したために、ガダルカナル島の戦いはいよいよ飛行場と水上艦の戦いが色濃く、そして血生臭くなっていきました。
【利根】はトラック島で待機する日々を送りました。
昭和18年/1943年3月、【筑摩】が修理を終えて戦列に復帰。
2月にはガダルカナル島からの撤退もあって【利根】らは一度本土へ帰投していて、【利根】は【筑摩】と一緒に再びトラック島へやってきました。
【利根】は整備中に21号対空電探と機銃の増備換装を行ったとされています。
しかし山本五十六連合艦隊司令長官が待ち伏せによる撃墜で戦死した「海軍甲事件」によって、遺体を収容した【武蔵】と共に【利根、筑摩】はもう一度本土へ戻ることになります。
「海軍甲事件」は4月18日の出来事ですが、トラック島を出発しているのは5月17日と1ヶ月も後のことでした。
7月にトラック島へ帰ってきた【利根】ですが、直接的な戦果はほとんどないままに機関故障を引き起こします。
【明石】による修復では完治が不可能ということから、【利根】は【山城】【伊勢】らと護衛とともに呉を目指しました。
ところがこの道中で【隼鷹】が【米ガトー級潜水艦 ハリバット】の雷撃を艦尾に受けてしまい、操舵不能となってしまいました。
このため【利根】が【隼鷹】を曳航して呉まで戻っています。
結局昭和18年/1943年は多くの巡洋艦と同じく輸送や警戒に専念していた【利根】ですが、この傾向は最後まで続きます。
年末にトラック島へ戻ってきた【利根】ですが、翌年1月1日、第八戦隊は解散となり、【利根、筑摩】は第七戦隊に編入されます。
第七戦隊は年明け早々にカビエンへの輸送任務を果たし、その後インド洋での通商破壊を行い、またうまくいけば敵商船を拿捕、日本の輸送船として活用しようという目論見の「サ第一号作戦」が【利根、青葉、筑摩】の3隻で実施されました。
この作戦で【利根、筑摩】は臨時で第十六戦隊(旗艦【青葉】)の指揮下に置かれています。
この「サ第一号作戦」はアメリカ巡洋艦に化けて商船に近づいてとっ捕まえるという作戦で、日の丸ではなく星条旗が掲げられ、さらに菊花御紋章も外すという騙し打ちでした。
ですが日本とアメリカの艦船はメインの色が違うのでどこまで欺瞞効果があったのか。
そしてやはりこの騙し打ちは成功せず、3月から始まったこの作戦で9日にようやく発見した【英商船 ビハール号】に対して【利根】は国際信号旗などで停船を呼びかけますが、全く騙されず一目散に逃げだされてしまいます。
結局拿捕は失敗し、【ビハール号】は撃沈されます。
この際、救出した乗員115名を捕虜として扱うわけですが、情報などを聞き出し後に国際法違反である捕虜の殺害が発生しています。
これが「ビハール号事件」で、この命令を下したのは第十六戦隊司令官の左近允尚正少将でした。
これに対して当時の【利根】艦長であった黛治夫大佐は処刑に反対しますが、結局覆らずに黛自身の命令によって処刑は実施されていまいました。
3月19日の夜から捕虜を移動させる名目で呼び出し、気絶のち殺害という方法で、作戦終了後に立ち寄ったバタビアで十数人以上の捕虜が陸に上げられましたが、船に残った捕虜全員が殺害されてしまいます。
「ビハール号事件」は戦後発覚し、左近允少将と黛大佐は香港裁判で裁かれることになり、左近允少将は絞首刑、黛大佐は命令に反対したことなどもあって禁固七年の刑に処されています。
6月19日の「マリアナ沖海戦」では第七戦隊は【大和、武蔵】を中心とする第二艦隊の一員として出撃。
しかしこの戦いはほぼ100%航空戦となり、飛行機以外の攻撃は潜水艦からの魚雷だけだったために水上艦はひたすらに防空と哨戒を続けるしかありませんでした。
肝心の航空戦も壊滅的被害をもたらした上に戦果はほぼなく、空母3隻の喪失を以て完敗します。
【利根】はこの際に機動部隊の本丸である第一航空戦隊の艦載機を誤射するという失敗を犯しています。
誤射は第二艦隊の複数の船で発生しており、なんと3機も撃墜されてしまいました。
ただしこれは本来行わないように決まっている艦隊上空の飛行があり、敵味方識別のための威嚇射撃に対しても無反応だったことからの本格射撃だったことは留意しなければなりません。
昭和19年/1944年6月30日時点の主砲・対空兵装 |
主 砲 | 50口径20.3cm連装砲 4基8門 |
副砲・備砲 | 40口径12.7cm連装高角砲 4基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 8基24挺 |
25mm連装機銃 4基8挺 | |
25mm単装機銃 25基25基 | |
電 探 | 21号対空電探 1基 |
22号対水上電探 2基 | |
13号対空電探 1基 |
出典:[海軍艦艇史]2 巡洋艦 コルベット スループ 著:福井静夫 KKベストセラーズ 1980年
そして太平洋海戦は「レイテ沖海戦」を迎えます。
航空機による戦争となった太平洋海戦で、その航空機が絶対的に不足してしまい健在の空母すら囮にしてレイテ島を目指すという背水の陣での出撃となりました。
この戦いで第七戦隊は栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属しますが、「パラワン水道の悲劇、シブヤン海海戦」によって数々の艦船が力尽きていきます。
そんな中、10月25日についに栗田艦隊は敵艦隊を発見します。
その艦隊の正体は護衛空母と護衛の駆逐艦という、簡単に言えば貧弱な艦隊でした。
タフィ3と呼ばれた艦隊は、艦載機と駆逐艦による死に物狂いの抵抗で栗田艦隊を苦しめます。
そしてあまりにも戦力的に有利な栗田艦隊でしたが、近代海戦の象徴である航空機と、日本が夢見た魚雷戦によってどんどん被害を重ねていきました。
この戦いでは最終的に【筑摩】【鈴谷】【鳥海】【能代】【野分】と多くの船が沈んでしまいました。
一方で攻撃の砲では、【ガンビア・ベイ】と駆逐艦3隻を撃沈することに成功しますが、同時に空襲で1発被弾し、最終的に速度が20ノットにまで抑えられてしまいました。
ですが被害の程度でいえば、数でも艦船の戦闘能力からも日本の負けです。
【利根】はこの戦いで空襲によって4発の被弾と砲撃を1発受けていますが、航行には全く支障はありませんでした。
【利根】は【ガンビア・ベイ】に数発の命中弾を主張しており、撃沈に貢献はしたものの、結局栗田艦隊の反転によって作戦は終了、日本の敗戦はより確実となりました。
【利根】は沈没した【鈴谷】に向けて艦載挺を送っています。
11月21日、第七戦隊は解散。
ここまで一緒に戦い続けた【筑摩】を失い、そして何よりも連合艦隊は事実上壊滅。
舞鶴に戻った後【利根】はさらに機銃を増備、また電探も21号対空電探が22号対水上電探へと換装されています。
しかし【利根】は昭和20年1月1日、燃料不足なども関係してついに練習艦にまでなってしまいました。
作戦からの帰投でまずは舞鶴に戻っていますが、練習艦になったと同時に呉練習戦隊に編入されたことで、【利根】は呉へと移動しました。
そしてここで終戦を迎えます。
3月19日には空襲で至近弾を受けて3番砲塔が動かなくなり、そしていよいよ軍港である呉にはひっきりなしに空襲に見舞われるようになっていきます。
これに対して【利根】は植物などで擬装して身を隠していきましたが、ついに7月24日から数日に及ぶ呉軍港空襲で直撃弾や至近弾を多数受けてついに大破着底しました。
その後、【利根】は復興資源として解体され、使われていた鋼材は国民のために再利用されています。
【利根】は砲撃での戦果はあまりありませんが、抜群の索敵実績によって日本に勝利をもたらし、そして快適な乗り心地と洗練された防御力を兼ね備えた万能巡洋艦として、乗組員の誰からも愛され、開戦から終戦まで駆け抜けた素晴らしい軍艦でした。