起工日 | 昭和4年/1929年11月29日 |
進水日 | 昭和5年/1930年11月8日 |
竣工日 | 昭和6年/1931年10月31日 |
退役日 (沈没) | 昭和17年/1942年10月17日 |
キスカ島北西 | |
建 造 | 佐世保海軍工廠 |
基準排水量 | 1,680t |
垂線間長 | 112.00m |
全 幅 | 10.36m |
最大速度 | 38.0ノット |
馬 力 | 50,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 3基9門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式ボイラー 4基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
第七駆逐隊から唯一はずれ 、本来任される護衛任務も少なかった朧
【朧】から【潮】までの4隻は、これまでの「綾波型」よりも煙突の長さが短くなっています。
船を単独で見るだけではなかなかわかりづらいですが、比較すると結構はっきり違います。
【朧】は竣工後、【曙】【潮】とともに第七駆逐隊を編成。
【漣】は最初から【狭霧】【暁】とともに第十駆逐隊を編成しており、第七駆逐隊に編入されるのはしばらく後の話です。
昭和10年/1935年9月の「第四艦隊事件」の際には第七駆逐隊も演習に参加していますが、【朧】はここで煙突が屈曲する被害を負っています。
昭和15年/1940年4月15日から【漣】が第七駆逐隊に編入。
この時第七駆逐隊は第四水雷戦隊に所属していたのですが、11月からは第四水雷戦隊の面々は「白露型」で構成されることになり、第七駆逐隊は第一水雷戦隊へ移動。
さらに太平洋戦争が目前となった昭和16年/1941年7月18日に第七駆逐隊は第一航空戦隊所属となり、機動部隊の護衛という重要な任務につくことになりました。
このまま太平洋戦争に突入するのかと思いきや、9月1日に【朧】と【漣】は第七駆逐隊から除かれて第五航空戦隊直属となります。
が、【漣】は【秋雲】と入れ替わる形で1ヶ月も経たずに第七駆逐隊に戻ることになり、結局【朧、秋雲】で【翔鶴】【瑞鶴】の護衛をすることになりました。
ところが【朧】の運用は全く安定しません。
「真珠湾攻撃」に向かう機動部隊ですが、とにかくかなりの長旅になるため航続距離が何よりも重要です。
第二航空戦隊ですら無理矢理燃料を積み増しして作戦に参加しているぐらいなので、「陽炎型」が登場している今、航続距離の短い【朧】を随伴させるのはお荷物になりかねません。
【朧】は新たに南洋部隊に配属され、グアム島攻略のために第六戦隊とともに行動することになりました。
この南洋部隊はいわゆる旧式、また旗艦【鹿島】のような戦闘力に乏しい艦船で構成された第四艦隊が中心でしたが、これらと航空支援によって輸送船をグアム島まで護衛。
グアム島の占領は10日には完了して非常に順調だったのですが、南洋部隊は他にもウェーク島の攻略を任されていました。
こっちのほうが厳しい結果となっており、早速【疾風】と【如月】が沈没してしまいます。
その後マキンやクェゼリン環礁での警戒任務を行いながら、比較的平穏な日々をすごしていた【朧】。
ですが五航戦が動き出さないままだと警戒や護衛の任務が続くのも仕方ありません。
そして昭和17年/1942年4月10日は五航戦からも外されることになり、結局【朧】が五航戦を護衛することはありませんでした。
【朧】は横須賀鎮守府警備駆逐艦となり、他の「特型」とは明らかに違った道を進んでいました。
なので5月8日の「珊瑚海海戦」にも、せっかく五航戦の仕事になったのに【朧】は参加していません。
「ミッドウェー海戦」後、思いもよらず先輩方を失い機動部隊の先頭に立つことになった【翔鶴、瑞鶴】。
しかし【翔鶴】は「珊瑚海海戦」の傷が癒えておりません。
そんな状況にあって、アリューシャン列島でのアメリカの反攻の気配があったため【瑞鶴】が派遣されることになります。
この時竣工したばかりの【秋月】が護衛についたのですが、共に【瑞鶴】に付き添ったのが、五航戦から外れて間もない【朧】でした。
ようやく空母護衛の任務を果たすことができた【朧】でしたが、大湊まで送り届けるとお役御免、再び横須賀に戻り、警戒とたまに輸送を行う日常に戻ります。
【朧】が横須賀に留まっている間に南方では激しい攻防が繰り広げられていました。
そんな状況でも【朧】に声はかからなかったのですが、8月9日、伊豆大島付近で【朧】は【米ポーパス級潜水艦 ポンパーノ】に喧嘩を売られます。
なぜか砲撃を先に仕掛けたらしく、その後急いで潜航する【ポンパーノ】に対して【朧】は爆雷で反撃。
【ポンパーノ】はバッテリーの消耗や浸水など大きな被害を負ったのですが、【朧】は止めを刺すことができずに【ポンパーノ】に逃げ切られてしまいました。
10月1日からは北方部隊に編入され、すぐにキスカ島への輸送任務が与えられます。
相方として【初春】が参加し、10月11日に2隻は横須賀を出港、寒いキスカ島を目指しました。
しかし本格的な攻撃はなくとも自国領土であったアッツ島、キスカ島に対して無関心であるわけがありません。
潜水艦は当然として、隣のアムチトカ島の飛行場からも航空機がたびたび来襲しており、両島の守備隊は占領はしているものの蛇に睨まれた蛙状態でした。
加えて極寒で食糧不足、戦うためにも生きるためにも補給を欠かすことはできず、このエリアでは潜水艦との戦いが長きに渡り続いています。
その渦中に飛び込んでいった【朧】と【初春】でしたが、今回は【B-26】の激しい出迎えにあってしまいました。
6機の【B-26】が航空支援のない2隻の上空に現れて、次々と爆弾を投下。
この爆弾が2隻ともに命中し、【朧】はこの被弾で舵を故障。
さらに次の爆撃の炎が輸送してきた弾薬に引火してしまい、大爆発を起こします。
艦内での誘爆でなければ船そのものへのダメージはまだ小さいですが、圧倒される火炎は次の誘爆に繋がります。
至近弾もある中で消火もままならない【朧】は、爆発に次ぐ爆発でついに力尽きてしまいました。
【初春】も被弾による誘爆に苛まれていましたが、こちらは注水等が間に合ったようで何とか耐え抜きました。
【B-26】が去った後、【初春】が【朧】の生存者の救助に全力を尽くしましたが、船から脱出できても非常に冷たい海水に体力を根こそぎ奪われた者が一人また一人と沈んでしまいます。
結局【朧】の生存者はわずか17名に留まり、そして遂に【朧】は第七駆逐隊の面々とともに太平洋戦争を戦うことはありませんでした。