第一航空艦隊旗艦 蝶のように舞い、蜂のように刺す
あらゆる妥協を強いられながらも【赤城】が本格的な空母となった時、すでに相方の【加賀】は【龍驤】【鳳翔】とともに「日華事変」で躍動していました。
それ以前に勃発している「上海事変」だって、多段式時代の【赤城】は通風設備改善工事などで出撃ができず、なので【赤城】は歴は長いのに初の攻撃作戦はあの「真珠湾攻撃」になります(「日華事変」は1回海南島の上陸支援だけやってる)。
見てきた通り大型ながらも決して良い環境の空母ではない【赤城】ですが、さすがに飛行機とパイロットが凄ければそのデメリットもかすみます。
昭和16年/1941年4月に【赤城、加賀】は第一航空戦隊を編成し、文字通り一番の強さを誇る空母として八面六臂の活躍を見せます。
精鋭があちこちから引き抜かれてこの2隻に乗り込み、11月22日に初めて「真珠湾攻撃」の内容が全空母のパイロットたちに明かされます。
彼らが立っていたのは【赤城】の甲板です。
いよいよ航空機が戦艦を沈めて時代をひっくり返す時が来たと、皆興奮したことでしょう。
26日に南雲忠一中将が率いる第一航空艦隊が出撃。
そして12月7日、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の通信に伴い、日本時間12月8日午前1時30分、オワフ島めがけて続々と各艦から艦載機が飛び立ちました。
「真珠湾攻撃」、そして太平洋戦争の幕開けです。
「真珠湾攻撃」の詳細を書き始めると切りがないのでサクッと終わらせますが、飛行隊長の淵田美津雄中佐から「トラ・トラ・トラ」と入電があったことで、世紀の奇襲は大成功となりました。
特に浅い海域に停泊している戦艦への雷撃は、この作戦の肝でもあり、訓練とともに魚雷の改修も含めてかなり入念な準備が行われていました。
その苦労が報われ、戦艦は次々と爆発し、黒い煙が濛々と立ち込めました。
戦艦は飛行機で沈められる、それを証明した世界初の軍事作戦でした。
爆撃や航空基地への攻撃が続けられ、その戦果は非常に大ではありましたが、最重要目標であった【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ】と【レキシントン】は共に攻撃の数日前にハワイを離れてしまっていたのは日本にとっては不幸でした。
さらに第二波の攻撃時は早くも敵の反撃が苛烈となり、第一波の被害の倍以上の犠牲が未帰還となっています。
【赤城】所属の隊員は8名が戦死しています。
ど派手な戦果を上げた南雲機動部隊の名は、以後半年にわたり太平洋を支配する存在として恐れられました。
その後日本の航空基地として長く運用されることになるラバウルの制圧に大きく貢献し、続いてニューギニア島の「ダーウィン空襲」でもオーストラリア軍を蹴散らします。
他にもビスマルク諸島やチラチャップの攻略支援に参加し、行く先々で大暴れしました。
しかしこの活動中に【加賀】が座礁して艦尾を損傷しており、【加賀】は3月13日に機動部隊を外れて佐世保に戻ることになりました。
なので一航戦最後の勝利となった、「セイロン沖海戦」は【加賀】を除いた5隻で行われています。
「セイロン沖海戦」は、主に4月5日と9日に行われたイギリス東洋艦隊の基地であるコロンボとトリンコマリーへの空襲です。
東洋艦隊の排除は、この後日本が南進する上での脅威を米豪に限定させる上でも非常に大切なことで、また陸軍としてもビルマ攻略の上で東洋艦隊やイギリス軍基地の存在は邪魔でした。
すでに「マレー沖海戦」で日本は【英キング・ジョージ5世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】や【英レナウン級巡洋戦艦 レパルス】を陸上攻撃機により撃沈していて、さらにシンガポールを奪った今、この2拠点を叩けば東洋艦隊は虫の息になります。
一方でイギリス側は、暗号解読によって事前にセイロン沖に南雲機動部隊が現れることを察知。
しかしその後の機動部隊の行動変更によって、予測されていた4月1日に攻撃を受けることはありませんでした。
その後補給が必要となった東洋艦隊は、多くの船をいったんアッドゥ環礁まで避難させます。
これが影響し、「セイロン沖海戦」では【赤城】達はこの戦いで戦艦を沈めることはできませんでした。
5日、南雲機動部隊はコロンボへの空襲を開始します。
敵も迎撃のために航空機が飛んできますが、この頃の【零戦】は反則級の強さだったので敵いっこありません。
戦艦がいなかったコロンボですが、【英カウンティ級重巡洋艦 ドーセットシャー、コーンウォール】【英S級駆逐艦 テネドス】の撃沈に成功。
重巡2隻はいずれも急降下爆撃の雨で多数の被弾により沈没しています。
続いて9日、トリンコマリー空襲のために再び艦載機が続々と甲板から飛び立っていきます。
この時、トリンコマリーにいた【ハーミーズ】や【豪V級駆逐艦 ヴァンパイア】は、前日のうちに索敵により南雲機動部隊の動きを察知していて、空襲を受ける前に脱出していました。
コロンボに続いてトリンコマリーもあちこちから火の手が上がり、また同じように敵機が現れては火を吹いて落下していきました。
今回はめぼしい艦船はいなかったのですが、【榛名】の水上偵察機が北上する【ハーミーズ】を発見し、事態は大きく変わります。
空母がいるとなるとなんとしても沈めなければなりません、急いで第二次攻撃部隊の目標を【ハーミーズ】に切り替え、合計85機という膨大な数の【九九式艦爆】が【ハーミーズ】撃沈に向けて発艦していきました。
この【榛名】水偵からの通信は【ハーミーズ】も傍受していて、やばいと感じた【ハーミーズ】は急いで【ハリケーン】を派遣してくれと陸上基地に再三助けを求めています。
ですがこの救援の通信を【赤城】も傍受していたので、お互いが一刻を争う戦いとなりました。
【ハーミーズ】がなぜこれほど焦って何度もHELPを訴えたのかと言うと、実はこの時【ハーミーズ】は使える艦載機がただの1機もなかったのです。
しかし空襲を受けたばかりのトリンコマリーから潤沢な戦闘機を派遣するのは不可能でした。
結局丸腰の【ハーミーズ】は【九九式艦爆】の急降下爆撃の餌食となり、【ヴァンパイア】と共に沈没。
この時【九九式艦爆】の護衛である【零戦】はわずかに6機しかおらず、もし【ハーミーズ】が万全であれば、艦爆の被害は大きかったでしょう。
流石に盛りすぎでしょうが、この【ハーミーズ】爆撃については45発投弾のうち37発が命中という、【大和】もビックリの被弾を記録しています。
このようにまたも晴れ晴れしい活躍を見せた【赤城】。
しかしこの戦いの裏にはすでに雲行きが怪しくなる要素が含まれていました。
まず、先に逃げていた東洋艦隊の【英イラストリアス級航空母艦 インドミタブル、フォーミタブル】や、【英クイーン・エリザベス級戦艦 ウォースパイト】ら主力部隊を見つけることができませんでした。
というよりは、この後深追いをせずに通商破壊に留まったのが、東洋艦隊のみならず本戦争でのイギリスの延命に繋がったまで言われていて、イギリスとしては超ラッキーだったという評価です。
ですが結果的に太平洋戦争においてイギリスは長期間関与することができなくなったので、東を疎かにしてでも東洋艦隊を撃滅させるほうが危険だったと思います。
実際東洋艦隊はこの後ケニアのキリンディニ基地まで撤退していて、こんなところまで追いかけてたら太平洋戦争じゃなくてインド洋戦争です。
それよりもよく言われるのが、緊張感の欠如です。
【ハーミーズ】攻撃のために第二次攻撃部隊が発艦した後、トリンコマリーへの空襲を終えた第一次攻撃部隊が帰ってきて、彼らも【ハーミーズ】撃沈に加わるために次の出撃準備がバタバタと進められていました。
そんな時、不意に上空からイギリス空軍の【ブレニム双発軽爆撃機】9機が到来。
南雲機動部隊は全然その存在に気づかず、いきなり上から爆弾が次々に降ってきて大慌て。
この爆弾は1発も命中しなかったのですが、空母のみならず直掩の【零戦】も到来に気づいておらず、仕事をされてから反撃する始末。
5機を撃墜してはしますが、こちらも1機撃墜されています。
こんなの水平爆撃だったからよかったものの、「ミッドウェー海戦」の時のように急降下爆撃だったら絶対無事では済みません。
と、本来ならこう考えて油断大敵だと気を引き締めるはずなのですが、眠い時にハッとしてもまた瞼が閉じるように、なーんにも反省の色がありませんでした。
味方にも当時から「当たっときゃよかったのに」と言われるぐらい、勝利に酔いしれている上層部はだらしなかったようです。
そしてこの時と全く同じ状況に陥り、「警告したのに」と神に嫌われた【赤城】は、2ヶ月後にその名の通り赤く燃え上がる城となってしまうのです。
連戦連勝を重ねていた日本ではありましたが、状況が良い方向に大きく変化したことから態勢を立て直すために海軍の侵攻は小休止に入ります。
しかし4月18日、舐めんじゃねぇぞとアメリカは【B-25】を空母から飛ばすという奇襲を仕掛け、「ドーリットル空襲」が発生しました。
完全に虚を突かれ、しかも随分遠方から発艦したことで【米ヨークタウン級航空母艦 ホーネット】を見つけることもできず、この奇襲は見事に成功。
【龍鳳】の改装に遅延が発生するなど物的被害もありましたが、それよりも日本を心理的に揺さぶることに成功したのがこの空襲最大の成果だったでしょう。
慢心傲慢のミッドウェー 赤城の喪失は日本の凋落
この太平洋戦争は、早期に日本に有利な形で講和に持ち込む必要がありました。
よっしゃよっしゃと浮かれていた日本にとって、「ドーリットル空襲」はやっぱりアメリカやばいと思わせるには十分でした。
そしてここに焦りが加わってくると、急いては事を仕損じるに通じるのです。
すなわち、これから甲論乙駁が繰り広げられる「MI作戦」が計画され、それをできるだけ早く実行する流れが生まれたわけです。
5月8日、「珊瑚海海戦」が発生し、【翔鶴】が損傷。
この被害により【翔鶴】は戦線からの離脱を余儀なくされ、船以外にもパイロットと機体の損害も大きかったことから、「MI作戦」に第五航空戦隊は参加することができませんでした。
しかし空母2隻が離脱したのにもかかわらず、この2隻抜きで「MI作戦」は実行されることに。
一方でアメリカも「MI作戦」の内容を暗号解読によって把握し、ミッドウェー島の防御を高め、かつ「珊瑚海海戦」で損傷した【ヨークタウン】を、包帯ぐるぐる巻きの患者のまま再び海に送り出しています。
5月27日、【赤城】はじめ南雲機動部隊は日本を出撃。
もちろん暗号が解読されているなんて知る由もないですから、機動部隊の第一目標はミッドウェー島。
6月5日、【赤城】からは【九九式艦爆】と護衛の【零戦】がミッドウェー島を空襲するために続々と発艦していきました。
他艦からは【九七式艦攻】も発艦していますが、当然搭載しているのは魚雷ではなく陸用爆弾です。
ところが島の防空態勢は盤石で、加えて航空機は事前にこちらの機動部隊を攻撃するために出撃していたため、日本側は予想外の被害を負った上に攻撃の成果も不満足でした。
第二次攻撃が必要だと入電が入り、敵機動部隊出現の可能性を考えて魚雷が搭載されていた【赤城】の【九七式艦攻】は、急いで魚雷を陸用爆弾に換装するように命令が入ります。
換装作業が行われている中、【赤城】達は敵に見つかってしまいます。
この攻撃は空襲前に離陸していたミッドウェー島所属の飛行機たちでした。
しかしこの爆撃は難なく回避し、これまで通り海に落ちていくのは敵機ばかりでした。
続々と爆弾が搭載され、第二次攻撃の準備が進められていました。
ところがそこに不穏な情報がぞくぞくと入ってきて、ついに最終的には「空母らしきもの1隻」という報告が飛んできます。
そのタイミングが最悪で、爆弾への換装はだいたい終わっていたし(艦爆も陸用爆弾搭載)、第一次攻撃隊が間もなく帰ってくるしと、すべてが混雑していました。
これほど混乱すると原則ではなく臨機応変な対応が必要だったのですが、南雲司令長官は定石通り「船には魚雷」ということで魚雷への再換装を命令。
【飛龍】からは「その状態ですぐに攻撃すべきだ」と矢のような催促が飛んでくるのですが、第一次攻撃隊の収容も考えると先に第二次攻撃隊を出撃させるわけにはいきませんでした。
ここの判断は批判されることが多いのですが、第一次攻撃隊を全員海に落とすわけにもいかないし、両立させるには攻撃部隊を半減させてでも発艦専用と着艦専用の2隻ずつに分けるなどするしかなかったと思われます。
ただ根本的な問題はは空母発見が遅れていることなので、タイミングが悪かっただけで済む問題ではありません。
なんとか第一次攻撃隊の収容が完了し、急いで敵空母へ向けての第二次攻撃隊の発艦準備に入ります。
ところがこの前後から敵襲が続いていた中で、雷撃機に対応していた【零戦】が低空に展開しているところで上空の警戒が完全になおざりになっていました。
【赤城】からは1機の【零戦】がまさに発艦しているところ。
その直上から、3機の【SBD】が槍のように【赤城】の甲板に向けて落下してきました。
これまで何度も退けてきた敵機の爆撃でしたが、攻撃に気づかなかったら当たるか当たらないかは神頼みです。
以前の「セイロン沖海戦」では神様がありがたくも【赤城】に味方してくれたのですが、二度目はありませんでした。
リチャード・ベスト大尉らの爆撃はこれまでになく精密で、7時26分、1発が完全に【赤城】の甲板を破壊。
命中箇所が第二エレベーター付近だったこともあり、爆弾はあろうことか格納庫内で爆発。
格納庫には収容された第一次攻撃隊の他に、まだ魚雷換装が終わっていなかった【九七式艦攻】、そして付けたり外したりしていた爆弾が散乱していました。
爆発は次の爆発を生み、また爆発を繰り返し、【赤城】は第二エレベーターより後ろの甲板が吹き飛びます。
他2機の攻撃も至近弾2発か1発が命中しており、空母の弱いところですが、この一瞬の爆撃だけで【赤城】は完全に機能停止に陥ります。
艦内も甲板も炎が自由気ままに走り回り、連合軍が畏怖してきた【赤城】は今巨大な火葬場となっていました。
そしてそれは【赤城】だけではなく、【加賀】も【蒼龍】も全く同じ有様で、特に【蒼龍】は被弾から15分で総員退去命令が下るほど致命的な被害を負います。
南雲司令長官を始め士官たちは作戦を続けなければならないため続々と【赤城】を去りました。
【長良】に移る一航艦司令部ですが、カッター上では航空参謀が「五航戦がいてくれたらなぁ」と悔しそうにつぶやく姿がありました。
一航艦航空参謀と言いますと源田実中佐か吉田忠一少佐ですが、どちらの証言かは明示がありません。[7-P46]
一方で【赤城】に残る艦長の青木泰二郎大佐は必死に状況把握に努めて指揮を継続。
舵も故障していたものの機関だけは無事で、また機関科のメンバーも多くが脱出できたため、消火ができればまだ生存できるという微かな望みがありました。
しかし周辺設備の項で述べています通り、【赤城】には海水を使った消火装置が備わっておらず、艦内のホースを使うしかありません。
その艦内が灼熱地獄でありますから、消火手段はゼロに等しい状態でした。
艦橋での指揮が危険になってきたことでやがて青木艦長らは艦首側へ移動。
この時広大な甲板を挟んで艦首艦尾に生存者は避難していたのですが、火の手が回っていなくても【赤城】はどこもかしこも熱気が渦巻いているため、機関部に到達することができません。
誘爆も度々発生するため、ついに4時25分、青木艦長は総員退去命令を下し、連合艦隊にも【赤城】の処分を求めました。
そして連合艦隊も【赤城】の処分を命令し、青木艦長は【赤城】と共に死を受け入れるつもりでした。
ですが退艦するように周囲に説得され、苦悩の末【赤城】から降ろされました。
ところが後ほど【赤城】処分の命令が取り消されます。
唯一空襲を受けていなかった【飛龍】の反撃が成功すれば、単なる負け戦にはならないし、戦艦での曳航も可能かもしれないという判断があったものと思われます。
これに【嵐】に助けられていた青木艦長は驚愕。
生かすのであれば指揮を執るのは私でなければならない、【赤城】に戻せと声を荒らげますが、今の【赤城】は接近すらできない状況だと青木艦長は無理矢理抑え込まれてしまいます。
しかし【飛龍】も戦いの中で4発の爆弾を被弾して万事休す。
後ほど地獄に片足突っ込みながらもまだ生き残っていた【ヨークタウン】は【伊168】がきっちり冥土に送っていますが、国力で勝る相手に空母喪失4対1は、計算できないほどの差を両国に生み出します。
「ミッドウェー海戦」は、太平洋戦争の色を完全に変えてしまいました。
【飛龍】の喪失によって、処分が保留となっていた【赤城】はとうとう沈没させられることになりました。
全焼し、焼け爛れた有様の【赤城】には警戒のために【野分】ら第四駆逐隊がそばにいたのですが、彼らの魚雷によって偉大な第一航空戦隊の旗艦は沈められることになります。
さすが元戦艦、【加賀】のように爆発が続いて断裂からの沈没はやむを得ませんが、丸焦げになるだけでは全く沈む様子はありませんでした。
しかし沈まないとは言え中は鉄すら変形する高熱の世界です、人の手を入れて復旧させることは不可能でした。
敵を悠然と薙ぎ払い、日の丸が次々と掲げられてきた太平洋戦争。
その日の丸を支えてきた立役者が、まだ浮かんでいるというのに、日本の手によって沈められるのです。
4隻の駆逐艦から魚雷が発射されます。
そのうち2本が命中爆発し、また【野分】が放った1本は命中したものの不発に終わったと言われています。
【赤城】はこの戦いで魚雷を受けておらず、この被雷が初めて吃水線下の被害でした。
大きな水柱が発生した後、【赤城】は徐々に艦尾から沈み始め、そして命中からわずか10分で、【赤城】は海に飲み込まれていきました。
沈んだ後、一際大きな爆発が轟いたと言います。
【赤城】の戦死者は221名と、定員1,630名と被害状況から比較すると少ないとは思います。
海戦は終わりを告げました。
4隻の空母と、そこから颯爽と空に飛び立っていった航空機達の姿は、今はもう彼らの記憶の中でしか見ることができません。
何もできなかった戦艦が、敗残兵を引き連れて日本に戻っていきました。
その後空母の乗員は歴史的敗北を隠蔽するために病院に否応なく隔離され、トイレも一人で行くことができない、まるで刑務所のような監視下で日々を過ごすことになります。[7-P266]
生還した青木艦長ですが、彼のこの後の戦争は酷いものでした。
この戦いで生還した空母艦長は彼ただ一人。
これが船と艦長は一蓮托生、船を見捨てて逃げるなど言語道断となってしまったのです。
しかもそれが【赤城】となると、当時の帝国海軍では最高クラスの力を誇っていた船ですから、それが沈むというのにお前は生き恥を晒しているのかと、どこに行っても彼はそのような誹りを受けました。
この潔さをはき違えた自決の精神は、次に【比叡】艦長の西田正雄大佐を閑職に追いやったり、今後の人手不足や特攻に繋がる、紛うことなき悪癖です。
日本に戻った後、彼は挽回も弁明の機会もなく早々に予備役へ。
その後招集により各地の航空隊の司令を勤めたものの、一国一城の主であった身からすればとんでもない都落ちです。
彼の息子である青木彰も後に海軍に入るのですが、青木艦長の息子だとわかるとそれだけで殴られたそうです。[5]
青木艦長はこの出来事で変わってしまったのか、それとも元々こういう性格だったのかはわかりませんが、終戦間際、特攻が始まった際には積極的に特攻を実施。
彼の最後の勤務地は朝鮮半島の元山航空隊だったのですが、予備士官を含めて「菊水作戦」を中心に次々と特攻機が連合軍に突っ込んでいきました。
しかし終戦間際の8月11日、これはもう日本は負けるなと感じ取った彼は、なんと持ち場を放棄して家族とともに日本に逃げ帰ってしまったのです。
終戦後に元山航空隊に残っていた仲間たちはシベリアに抑留され、この恨みは一生晴れることはなかったでしょう。
終戦のゴタゴタにより、この敵前逃亡が咎められることもありませんでした。
話を【赤城】に戻しまして、2019年10月20日、ポール・アレン創始の探査チームが海底に沈む【赤城】の発見を公表しました。
18日には【加賀】の発見も発表されています。
そして2023年9月15日にはロバート・バラードの海洋調査船が【赤城、加賀】の撮影に成功したことを発表。
彼は1998年にも一度【ヨークタウン】を発見しています。
【赤城、加賀】の映像は大変貴重なもので、新たに発覚したことも多く、考察が今も進行形で捗っていることでしょう。
赤城の写真を見る
参考資料
Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
日本海軍史
NAVEL DATE BASE
[1]航空母艦「赤城」「加賀」大鑑巨砲からの変身 著:大内健二 光人社
[2]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[3]艦隊防空 著:石橋孝夫 光人社
[4]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[5]銀座一丁目新聞
[6]大正11年5月 華府会議報告 軍備制限問題調書(上巻)極秘 第5項 第7回海軍分科会
[7]鳶色の襟章 著:堀元美 原書房
[8]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社
[9]日本海軍艦艇図面全集第三巻解説 潮書房