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山風【白露型駆逐艦 八番艦】
Yamakaze【Shiratsuyu-class destroyer】

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起工日昭和10年/1935年5月25日
進水日昭和11年/1936年2月21日
竣工日昭和12年/1937年6月30日
退役日
(沈没)
昭和17年/1942年6月23日
東京湾付近
建 造浦賀船渠
基準排水量1,685t
垂線間長103.50m
全 幅9.90m
最大速度34.0ノット
航続距離18ノット:4,000海里
馬 力42,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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白露型初の喪失 対蘭戦で活躍した山風

【山風】【海風】【江風】【涼風】とともに第二十四駆逐隊を編成し、太平洋戦争が始まった時は第四水雷戦隊に所属していました。
しかし開戦前の昭和16年/1941年2月3日、訓練中に【涼風】と衝突した衝撃で【山風】は艦首下部を一部削り取られてしまいます。
何とか太平洋戦争には間に合いまして、【山風】はパラオから「レガスピー上陸作戦」の為に出港。
フィリピンを怒涛の勢いで南下していく陸軍の後方支援を行いました。

【涼風】との衝突跡

続いて「タラカン攻略作戦」に参加。
タラカンの攻略には成功し、その後敷設された機雷の掃海活動が行われました。
掃海艇が機雷を撤去していく中、降伏したはずのタラカン島から突然砲撃が行われました。
山の中に隠れていた砲台からの砲弾が【第13号掃海艇、第14号掃海艇】に命中し、この攻撃で156名もの戦死者を出しています。

その夜、【山風】はタラカンから逃げようとするある船を発見します。
その正体は【蘭機雷敷設艦 プリンス・ファン・オラニエ】で、まさに2隻の沈没の間接的原因を造った張本人でした。
【山風】【第38号哨戒艇】とともにこれを攻撃、撃沈。
生存者が5人に留まったのは夜間だったからなのか、救出できたのはわずかな人数でした。
この戦闘は太平洋戦争初の洋上砲撃戦と言われ、当日昼に多くの仲間を失っていた日本の士気は犯人の撃沈により再び高揚しました。

「バリクパパン攻略作戦」にも参加していますが、「バリクパパン沖海戦」の時は【足柄】【涼風】とともに護衛して別任務を行っていたので関与していません。
その後「マカッサル攻略作戦」の実施に伴い、セレベス島スターリング湾に参加艦が順次集まっていました。
【山風】【涼風】とともにスターリング湾に到着していましたが、2月4日、哨戒活動中の【涼風】【米サーゴ級潜水艦 スカルピン】の魚雷を受けてしまいます。
右舷前部に命中した魚雷は機関室を浸水させ、これで【涼風】は修理の為に任務から外れざるを得なくなりました。

しかし今度も【山風】はやり返します。
2月11日、同じ相手ではありませんが、【山風】は浮上航行中の潜水艦を発見します。
すぐさま接近し、これを砲撃により撃沈。
沈めた相手は【米ポーパス級潜水艦 シャーク】とされていて、アメリカ側もこの記録を正式に取り扱っています。

潜水艦は、沈めた側の戦果もさることながら、沈んだ原因や日付を知ることもなかなか困難です。
いつの間にか音信不通になり、いつまでたっても連絡がないから沈没認定。
そして相手側の記録から、恐らくこの時に沈んだのであろうという判断がよくあります。
日本は17日深夜に【雷】が何者から雷撃を受け、これを回避した後に爆雷で反撃、重油の流出を確認したことから撃沈確実と判断しています。
1週間ほどの差、さらにエリアも同じということから、【シャーク】の撃沈は【山風】説と【雷】説が有力なものの、恐らく今後も確たる証拠は現れないでしょう。

2月末、いよいよ日本はジャワ島の攻略に差し掛かっていました。
このとき第五戦隊が東部ジャワ攻略部隊の護衛に参加していて、この護衛に【山風、江風】ら、他にも第二水雷戦隊が加わっていました。
そして27日、第五戦隊はABDA連合軍と遭遇、砲雷撃戦が始まりました。
「スラバヤ沖海戦」の勃発です。
統率に影響するため、この時すでに【山風、江風】【潮】【漣】とともに第五戦隊から二水戦の指揮下にありました。
駆逐艦は敵の懐に潜り込み、魚雷で敵を真っ二つにするのが最大の仕事です。
駆逐艦は敵との距離9,000mまで接近して魚雷を発射しますが、大量の魚雷が敵艦隊に向けて続々と流れていくにもかかわらず、なんと1本も命中することはありませんでした。

その後も砲雷撃戦は続き、日本の攻撃はじわじわと敵艦隊にダメージを与えてはいました。
実際に【蘭ファン・ゲント級駆逐艦 コルテノール】が沈み、【英ヨーク級重巡洋艦 エクセター】にも機関にダメージを与えるなど初日の昼戦で戦果はあったのですが、いかんせん外れた砲雷撃が多すぎて、この戦いはのちに大目玉を食らっています。

3月1日に【山風】は再発見したABDA連合軍に対して砲撃を開始。
この砲撃が【英E級駆逐艦 エンカウンター】に命中し、被弾により【エンカウンター】の速度は低下します。
最終的に逃げきれなくなった【エンカウンター】は砲撃により撃沈されました。
【山風】は砲撃後に魚雷を発射していますが、これも命中はせず早爆してしまっています。
海戦がほとんど終わった中、【山風】は撃沈した【エクセター】の生存者の救助を行います。
その後【江風】が救助した【蘭ジャワ級軽巡洋艦 ジャワ】の生存者も受け入れてマカッサルへと向かいました。

4月10日に第二十四駆逐隊は第一水雷戦隊に配属となります。
ジャワ島の攻略を以て「蘭印作戦」はおおむね達成。
その後フィリピンの戦いにも目途がついたことから、日本は次なる作戦の準備に取り掛かります。
【山風】は5月3日に佐世保に入港し、ひと時の休息に入りました。

そして29日、【山風】ら一水線はでっかい【大和】をはじめとした連合艦隊の護衛に就き、ミッドウェー島を目指して柱島を出撃しました。
ところが「ミッドウェー海戦」で空母4隻が立て続けに沈められるという、図上演習すら上回る最悪の結果が展開されてしまいました。
戦艦を差し置いてここまで海軍を牽引してきた機動部隊の瓦解は日本に計り知れないダメージを与えます。
日本に戻ってきた一行は方向性の練り直しを迫られますが、一方で途中までは進んだ「AL作戦」で、アッツ島、キスカ島の維持のために戦力が派遣されることになりました。
【山風】【神国丸、日本丸】という、べらぼうに縁起が良く、かつ重みのある名前の2隻の油槽艦を護衛し、大湊に向かう任務を受けました。

21日に横須賀を出港した3隻は23日に無事大湊に到着。
その後【山風】は柱島へ戻ることになっていたので、2時間ほどで再び出港、南下します。
これが、【山風】が最後に確認された姿でした。

柱島にはいつまでたっても【山風】は戻ってきません。
大湊でも所属の佐世保でも【山風】の所在は途絶えたっきりで、1週間以上が経過してからようやく異変に気付き、捜索が始まりました。
しかしどこを探しても全く面影も残骸もありません。
海軍では【東雲】がすでに行方不明の末に沈没認定されていましたが、これは沈没につながる通信や残骸が見つかっています。
ところが【山風】に関しては完全に消失しており、また捜索が始まったのも1週間以上後でしたから、結局【山風】の最期は謎に包まれたまま、7月23日に沈没認定、8月20日に除籍されてしまいました。

その【山風】の最期が判明したのは終戦後でした。
【山風】は前述の通り大湊から柱島へ向けて航行していましたが、25日、勝浦沖を移動しているところを【米ナワール級潜水艦 ノーチラス】に発見されます。
【山風】【ノーチラス】に気付いた様子はなく、【ノーチラス】【山風】に向かって魚雷4本を発射。
うち2本が【山風】に命中し、【山風】は数分で轟沈してしまいました。
沈みゆく【山風】【ノーチラス】は潜望鏡越しに撮影していて、その写真には左舷に傾斜しながら沈み、辛うじて残された艦首と1番砲塔の天蓋が写っています。
この記録がきっかけとなり、【山風】の最期は終戦後とはいえ供養することができました。

【ノーチラス】から撮影された沈没寸前の【山風】