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雪風【陽炎型駆逐艦 八番艦】その4
Yukikaze【Kagero-class destroyer】

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「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。

  1. 帝国海軍史に堂々君臨する不沈艦 雪風
  2. 機動部隊の栄枯盛衰 ガダルカナルの攻防
  3. 強運艦の片鱗 危険な輸送を耐え凌ぐ
  4. 第十六駆消滅 雪風は味方を食ったのか
  5. 熱望した水上戦でも敗北 レイテは海軍の墓場
  6. 撃退の好機は臆病風に飛ばされる 悲哀信濃の処女航海
  7. 敗北すれども我勝てり
  8. 駆逐艦丹陽としての中華民国での余生
  9. 雪風沈む 返還運動の表裏
  10. 謎の沈没船 TARUSHIMAMARU
  11. 雪風を雪風たらしめたもの

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敗北すれども我勝てり

【大和】、第二水雷戦隊旗艦【矢矧】【雪風、浜風、磯風、初霜】【霞】【朝霜】【涼月】【冬月】【花月】【榧】【槇】(うち【花月、榧、槇】は戦闘前に撤退。他【響】は触雷により佐世保への移動中に撤退。のち【朝霜】機関故障により落伍)。

4月7日、「坊ノ岬沖海戦」がはじまります。
ここに至るまで艦隊は偵察機と潜水艦にバッチリ見張られていて、平文で通信される始末でした。
しかしそんなことは百も承知、【大和】らは最後の最後まで威風堂々と進撃し、そして敵機を迎え撃ちました。
艦隊は輪形陣で挑むものの、陣を維持することは到底不可能で、開戦と同時に多くの艦が被害を負っていきます。
【雪風】【大和】の左舷後方に位置していました。

敵は戦闘機に邪魔されることはなく、自らの空で自由に飛び、そして一気呵成に攻め込んできました。
その数も尋常じゃないため、上を見ても横を見ても、至る所に敵機の姿があります。
どの機が誰を狙うのか、そんなことを考える余裕もありません。
迫りくる黒点を瞬時に判断し、遮二無二引き金を引き機銃を旋回させるしかないのです。

ひときわ目立つ【大和】に攻撃が集中しますが、複数の爆撃程度では【大和】も沈むことはありません。
しかし魚雷が1本、また1本と命中するにつれて【大和】が傾斜し始めました。
【雪風】はおろか、誰も【大和】を守る余裕なんて残されておらず、ただ迫りくる破壊者に向けて機銃を向けるだけで精一杯です。
死が迫る恐怖は、敵を殺してやるという、更に負の意識で上書きされ、鬼の形相で機銃手は引き金を引き続けました。
敵の顔がはっきり見える、あの顔をふっ飛ばしてやる。

【雪風】自身は、降りそそぐ爆弾をいつものように芸術的に回避を続け、魚雷もかわして戦い続けます。
そして接近する魚雷も深度が深く艦の下を通過するなど、相変わらずの強運っぷりです(深度が深いということから、【大和】を狙った魚雷が流れてきたものだと推定されます)。

寺内艦長は航海長の肩を蹴って的確な操舵を指示し、パイプを吹かして普段と変わらず余裕綽々でした。
ですが被弾がないだけで至近弾による被害は増す一方でしたし、飛行機を落とすために装備されている12.7mmや20mmの銃弾が人身に命中すると、とても無事ではありません。
【雪風】の負傷兵は少ない方ではありましたが、医務室はかつてない光景に様変わりしていました。

しかし戦っているうちに前方の【浜風】が突然閃光と共に大量の黒煙を吹き出しました。
魚雷が船体を貫いて、【浜風】はあっという間に真っ二つとなり轟沈していきました。
味方の沈没を見ても、誰も救助に向かうことができません。
それぐらい怒涛の殺人の雨が降り注いでいたのです。
俺は死なない。
【雪風】の機銃も確実に撃破を重ねていきました。

2時間の猛攻の末、「大和型」最後の1隻【大和】は傾斜が進行し、やがて横転、底腹を晒した後に大爆発を起こして沈没します。
一瞬の間を置いて、引き裂かれるのではないかと言うほどの爆発音が周辺の船を揺さぶりました。

【雪風】【大和】の救助に向かっていたのですが、【大和】の爆発は避けられない状態だったため、接近することはできませんでした。
この時点で【矢矧、浜風、朝霜、霞】が沈没。
また【冬月】が中破、【涼月、磯風】が大破しました。

【雪風】は、主砲電路の故障と機銃1基の破壊が確認されますが、大きな損壊はこれぐらいで、またも無事に生還します。
【雪風】の被害は戦死者がたった3人、負傷者15名とまさに奇跡的な数字を残しています。
【初霜】も戦死者ゼロ、負傷者2人という【雪風】を凌ぐ被害の少なさでしたが、一方でそれ以外の艦の被害は甚大でした。
沈没した船は当然ながら、【涼月】も艦首が沈下し船全体が前に傾いた状態で後進しかできないギリギリの状態でした。

【雪風】は潜水艦の雷撃や空襲から即離脱できるよう、微速を維持しながら【大和】の乗員を救助しました。
【雪風】は105名を救助していますが、【雪風】接近の安堵感から、救助が始まるやいなや沈んでしまう者もいて、「助かった」の5文字に秘められた恐ろしい力に抗うことはできなかったのです。

次々に意識のあるものが引き揚げられます。
しかし仲間をおぶった兵士が、安堵から沈み始めると、今度はおぶわれていた者が水を飲んで意識を回復し、その瞬間から暴れ出します。
そして二人とも、溺れてしまいました。
人が引き揚げられる中、そのものの足を必死に掴み、離せ離せと言っても話さない者がいます。
共倒れをさせないために、足を掴む者の手を棒で必死に叩き、離させました。
そうして海に落とされた者は、プカっと頭を下にしたまま浮かんでくるのです。[2]

次に【雪風】【磯風】の救助に向かいますが(285名救助)、【磯風】はもはや自力航行ができないほどにズタボロでした。
第十七駆逐隊司令の新谷喜一大佐【磯風】を曳航することを考えていましたが、【大和】から司令を移された【初霜】が曳航中の被害を懸念して自沈処分を決定。
第十七駆逐隊最後の僚艦は、【雪風】の手によって沈められました。
「このときぐらい辛い思いをしたことはない」とは田口康生砲術長の談です(彼はこの作戦の少し前までは航海長)。

当初は砲撃処分の予定でしたが、この激戦の中で方位盤と砲の軸線が合わなくなり、なかなか砲撃が命中しません。
止む無く魚雷を放ちますが、これも【磯風】の下をくぐり抜けて命中せず。
誤差を念頭に置いて改めて砲弾を放つと、見事に魚雷に命中し、【磯風】は爆発の末沈んでいきました。
忘れ形見とばかりに、爆発した【磯風】の鉄片が【雪風】に飛び込んできました。

多くの救助者を抱えた【雪風】は日本へ返ってきます。
当初寺内艦長は魚雷も放たず沖縄にも向かわず引き下がることに怒り心頭で、「司令部が出した特攻作戦である以上、【大和】を失ったとしても沖縄突入が我々の使命だ!カッターをあげろ!」と、救助艇すら残さずに、まさに屍を乗り越えて沖縄に特攻するぞと息巻いていました。[5-P150]
【大和】から救出された乗員に対しても「沖縄行くぞ!」と気合を入れ直させていたぐらいでしたが、しかし司令部から人命救助と撤退の命令もあったため、救助に専念し【冬月】とともに佐世保へ戻っていきました。

【雪風】が健在であっても、【大和】の最期は海軍の最期であり、そしていくら【雪風】であっても、このまま沖縄に向かって闘志を燃やしながら戦う気力も残されていませんでした。

さらに4月10日にはかつて第十六駆逐隊で共に戦った【天津風】が座礁の末自沈。
これをもって、「陽炎型」【雪風】ただ1隻となってしまいました。

20日に第二水雷戦隊は解隊。
水雷屋の頂点で、戦艦勤務と並び立つ栄光だった華の二水戦にも終焉の時がやってきたのです。
同日【初霜】が第十七駆逐隊に編入されました。

5月10日には寺内艦長が防備戦隊に転出となり、変わって古要桂次中佐が艦長に就任します。
寺内艦長もまた、過去2名の艦長同様体調を崩していて、もはやこれまでのように駆け回ることもなかろうと、船を降りることになったのです。
体重も10kgほど減っていました。[5-P156]

後任の古要艦長ですが、彼は「バタビア沖海戦」時の【春風】の艦長でした。
この辺り、終戦後の護衛艦一番艦、二番艦の艦名に縁を感じます。

やがて舞鶴、宮津湾の警備を言い渡され、日本海側に回った【雪風】【初霜】
この時2隻は、多くの「丁型駆逐艦」が所属していた海軍挺進部隊への配属ではなく、海軍砲術学校の練習艦となっていました。
ですが燃料不足から、練習艦として動いたことはまったくなかったようです。

動くなと言われているため訓練も大したことができません、主だった訓練は水泳と山登りぐらいでした。
空き時間は食糧確保のために釣りをし(鰆が大量に取れるらしい)、上陸許可も出ていたから家族と再会したりと、もう田舎での休暇みたいなものでした。[3-P440][4-P302]

しかし舞鶴にも連日機雷が投下されていき、ここに避難していた船の多くが袋の鼠となってしまいます。
そんな中でも【初霜】とともに空襲と戦っていた【雪風】でしたが、7月30日、【雪風】最後の戦いである「宮津空襲」の時に【初霜】が機雷に触れて大破擱座。
指折りの武勲艦は終戦目前で力尽きてしまいました。

空襲に備えて予め火を入れていた2隻は、狭い湾内でグルグル回りながら機銃を放ち、ここでもこれまでと変わらず巧みな操艦で攻撃を回避。
【雪風】は不発のロケット弾1発を受けるも、どうにか大きな被害を受けることはありませんでした(「坊ノ岬沖海戦」の時とごっちゃになっているようで、どちらが真実かわかりません)。

ですが1日のうちに何回も空襲され、戦闘配置に付いていたのは10時間に及び、この全く気が休まらない戦いで20名の負傷者が近くの病院に担ぎ込まれていきました。
終戦間近、残念ながら最後の戦死者が出てしまっていて、そしてこの「宮津空襲」での死傷者の数が、【雪風】の戦いの歴史で最多だと言われています。[4-P306]

【初霜】の成れの果てを見て、【雪風】はその夜には機雷群を突破するために隣接する伊根湾へ向かうことになりました。
伊根湾には【長鯨】がいて、【長鯨】もこの空襲で被弾していましたが幸い周辺に機雷はないようだったので、とりあえずここに避難することになりました。

少し時間を巻き戻して19日、小浜湾にいた【酒匂】が舞鶴へとやってきました。
この時も小浜湾は機雷が敷設されていて、これに対して【酒匂】は全速力で突っ切り、反応から爆発までの僅かな時間で機雷から離れて被害を抑えるという手段が取られ、見事2回の爆発を回避して小浜湾を脱出していました。

果たして【雪風】関係者がこのことを聞いていたかはわかりませんが、【雪風】も同様の手段で機雷群を高速突破し、無事に伊根湾までたどり着いたのです。
この時1回も爆発していないのがやはり【雪風】【雪風】たる所以です。

その後【雪風】は偽装され、二度の原子爆弾投下の末、日本はポツダム宣言を受け入れて敗北。
ついに【雪風】は、一度も大規模修復を行うことなくこの戦争を生き抜きました。

太平洋戦争で亡くなった兵士は陸海合わせて179万人。
【雪風】の乗員は239人でしたが、戦争中に亡くなった【雪風】の乗員はわずか13名。
戦闘中に亡くなった人に限れば9名と、2桁にすら満たないという神がかり的な数字です。
寺内艦長は終戦後、【雪風】が生還した理由について乗員が優秀であったことは当然として、「やはり運だろう」と述べています。

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駆逐艦丹陽としての中華民国での余生

終戦後、【雪風】には第二の艦生が待っていました。
激動の太平洋戦争をくぐり抜けたとはいえ、彼女はまだ竣工してからたった5年しか経っていません。
働く場所はたくさん残されていました。

まずは復員輸送船です。
小型とはいえ、艦隊型駆逐艦では唯一まともに稼働することができた【雪風】は1年半近くで15回の復員輸送を行い、延べ1万3千人以上を日本に送り返しました。
その輸送中、【雪風】は様々な試みをしています。
一例としては艦内慰安や知識思想の交流などを目的に「雪風新聞」を発行、また疲弊している復員兵たちを労うために乗員が作詞作曲した「復員者歓迎雪風の歌」を歌い、雪風楽団を結成しました。

一方で、戦争に負けたのは国のせいだ、軍のせいだと考える人も大勢いました。
綺麗に整備されてやって来た【雪風】を見て、「この船は今まで何をやってたんだ。弾の痕1つないではないか」と文句を言われることもありました。

それでも精力的に働き、お国のために働いた人たちを送り届けた【雪風】は、ついに新しい世界で活躍することになります。
その世界は、中華民国でした。

連合国軍にも最優秀艦に認定された【雪風】は、復員輸送を終えると戦時賠償艦として一度連合国に引き渡されました。
しかし引き渡されてからも日本の誇りある【雪風】の美しさを保ちたいと、整備士たちは最後の最後まで入念に手入れをし続けました。
整備が始まる際、乗員が1/4に減らされたために艦長代理となっていた中島典次航海長(大尉)の訓示があります。

「私は雪風の引渡しに対し、忠臣蔵の城代家老大石良雄のことを思う。赤穂城を明け渡す時、城内の隅ずみまでくまなく整備し、最良の状態で明け渡した彼の武士としての心情に深く打たれる。われわれの今の心はその通りでなくてはならない。いま日本に来ている外国人は、大なり小なり敗戦国民としての日本人を軽蔑しているだろう。しかし日本人のすべてが軽蔑に価する民族ではない。われわれはそれを事実で示すだけだ。乗員諸君、雪風をベストの状態で相手国へ引渡そう。」

引用元:『駆逐艦雪風 誇り高き不沈艦の生涯』 P169-P170 著:永富映次郎 出版共同社

その輝く姿を見た連合国側は、「敗戦国の軍艦でかくも美事に整備された艦を見たことがない。正に脅威である」と賛辞を送っています。[5-P170]

抽選の結果、【雪風】は中華民国へと引き渡されることになりました。
中華民国は「日華事変」によって相当な被害を受けていて、かつての敵国とはいえその敵国を支えた武勲艦を迎え入れることができるのは僥倖でした。

昭和22年/1947年7月7日、【雪風】は上海にいました。
接収手続きが終わり、君が代の演奏を背景に、日の丸がスルスルと降りていきます。
そして国歌が終わると、次にそこにはためいていたのは青天白日旗でした。

【雪風】は名を『丹陽』と改め、他の戦時賠償艦たちとともに中華民国の貴重な戦力となりました。
しかし再武装化はすぐに行われず、1年もしないうちに国共内戦が本格化。
『丹陽』は戦闘に巻き込まれる前に澎湖諸島に逃げましたが、中華民国軍は日本と同じく最初だけ強かったのですが後は終始劣勢だったため、艦艇の整備はかなり後回しになっていました。

内戦の中で中華民国海軍旗艦だった【軽巡洋艦 重慶(旧英アリシューザ級軽巡洋艦 オーロラ)】が敵に寝返った後、『丹陽』はこれに代わって中華民国海軍旗艦の座に就任しますが、この時の『丹陽』は武器を何も装備していない状態でした。
なおこんな状態で戦場にいない船が旗艦になることはなかなか怪しいので、時期に誤りがある可能性も留意いただきたいところです。

『丹陽』が武器を搭載したのは国共内戦で国民党の敗北が決まった後(昭和26年/1951年)でした。
武装は旧海軍の12.7cm連装高角砲1基と10cm高角砲(長10cm砲)2基となっていて、魚雷は搭載していません。
機銃も含めて日本兵器が目立ちますが、電探だけはSOレーダーに置き換わっています。
この時の公試で発揮した速度は27.5ノットと、ずいぶん遅くなっていました。

しかし旧海軍の装備では、アメリカからの支援を受けるには不都合でした。
そのため1955~1956年の間に『丹陽』の装備はアメリカ式のものに換装されます。
装備されたのは5inch単装両用砲や7.6cm単装両用砲などで、日本のものよりも口径は小さいのですが、平射砲だった日本のものとは違い俯仰角が-15~85度、さらに速射性に優れた非常に優秀な砲です。

その後も【ソ連油槽船 トープス】を拿捕したり、人民解放軍のコルベット艦を1隻撃沈、1隻撃破したりと、齢20年を超えても『丹陽』は第一線で活躍し続けました。
合わせて幸運っぷりも発揮していて、すでに快速性を失っている中でも、人民解放軍との戦闘中に油漏れがひどかったボイラーが突然復調し、往年の機敏さを取り戻したり、『丹陽』へ向かって放たれた砲弾が命中寸前に爆発するという経験もしています。[5-P177]
昭和39年/1964年の観艦式でも『丹陽』の姿は今だ健在でしたが、さすがに衰えは隠しきれず、いよいよ、『丹陽』にも引退の時がやってきます。

昭和40年/1965年12月16日、『丹陽』は退役、昭和41年/1966年11月16日付で除籍されました。
起工昭和13年/1938年8月2日、竣工昭和15年/1940年1月20日。
竣工してから26年と10ヶ月。
長きに渡り主を守り続けた『丹陽』は、ついにその役目を終えました。

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参照資料

Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
NAVEL DATE BASE
大日本帝國海軍 特設艦船 DATA BASE
[1]戦争アーカイブ「特攻兵器の目標艦に」
[2]BS1スペシャル 少年たちの連合艦隊~”幸運艦”雪風の戦争~
[3]『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 著:豊田穣 光人社
[4]奇跡の駆逐艦「雪風」太平洋戦争を戦い抜いた不沈の航跡 著:立石優 PHP文庫
[5]駆逐艦雪風 誇り高き不沈艦の生涯 著:永富映次郎 出版共同社

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