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峯雲【朝潮型駆逐艦 八番艦】

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起工日 昭和12年/1937年3月22日
進水日 昭和12年/1937年11月4日
竣工日 昭和13年/1938年4月30日
退役日
(沈没)
昭和18年/1943年3月5日
ビラ・スタンモーア夜戦
建 造 藤永田造船所
基準排水量 1,961t
垂線間長 111.00m
全 幅 10.35m
最大速度 35.0ノット
航続距離 18ノット:3,800海里
馬 力 50,000馬力
主 砲 50口径12.7cm連装砲 3基6門
魚 雷 61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃 25mm連装機銃 2基4挺
缶・主機 ロ号艦本式ボイラー 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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夜討ちで敵の顔すら拝めなかった峯雲

【峯雲】【朝雲】【山雲】【夏雲】とともに第四十一駆逐隊、やがて改称されて第九駆逐隊を編制しますが、実は開戦にはぎりぎり間に合ったという経緯があります。
昭和16年/1941年6月23日、【峯雲】は日向灘での夜間演習後に演習魚雷を回収しているところで【夏潮】の側面に衝突してしまいます。
慌てて後進をかけたのですが、さらにその時に後方にいた【黒潮】にも衝突してしまうという多重事故を起こしてしまったのです。
当時は朝霧が垂れ込めていたようで視界が悪く、さらに【夏潮】との衝突で慌てて後方の確認が疎かになったのでしょう。

【峯雲】 【夏潮】との衝突跡

この事故により3隻はすぐさまドッグ入りとなり、【峯雲】は艦首艦尾を損傷したのですが、怒涛の早さで修理を行い何とか11月中には修理を終えて戦列復帰を果たしました。
所属の第四水雷戦隊が出撃したのが11月26日ですから、誇張抜きでほんとにギリギリセーフでした。

なんとか太平洋戦争の開戦には間に合った【峯雲】ですが、第九駆逐隊の不幸はこれで終わりませんでした。
ビガンやリンガエンの攻略に従事していた第九駆逐隊ですが、12月31日、攻略したリンガエン湾に日本軍が敷設した機雷に【山雲】が触れてしまい、戦線離脱をしてしまったのです。
海戦1ヶ月も経たないうちに、第九駆逐隊は3隻となってしまいました。

第九駆逐隊は1隻を欠きましたが攻略は順調そのものでした。
翌月にはタラカンを、そしていよいよ油田確保のためにも重要だったバリクパパンの攻略を進めようというところで、四水戦は1月23日、船団を護衛してバリクパパンを目指していました。
しかし祖国を追われ東南アジアに残る植民地が貴重な拠り所となっていたオランダも抵抗し、船団から【南阿丸】が空襲を受けて大炎上。
【南阿丸】は放棄され、乗員は【峯雲】により救助されますが、船団は歩みを止めずにバリクパパンへと突き進みます。

夜間にバリクパパン沖に到着したところで、各艦は周辺の警戒と掃海活動を開始します。
しかしそこに接近する【蘭K ⅩⅣ級潜水艦 K ⅩⅧ】を発見することができず、今度は【敦賀丸】が魚雷を受けて沈没。
被害が増えつつありますが、揚陸を中止するわけにはいかず、やがて上陸作戦も始まりました。
また【敦賀丸】の被害を受けて、四水戦や補助艇は分散して潜水艦の捜索にあたりました。

が、潜水艦ではない敵が新たに接近していることには誰も気付きませんでした。
アメリカ第59駆逐隊【米クレムソン級駆逐艦 ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ】の4隻です。
【南阿丸】の炎と煙、更にその煙の向こうに移る影により船団がどこにいるかは目星が付き、かつ煙の向こう側にいる日本にはこの4隻の艦影が遮られるエリアもあり、敵の接近を遮ることができませんでした。

第59駆逐隊は目標に向けて魚雷を発射し、【須磨浦丸、呉竹丸、辰神丸】の3隻と、【第37号哨戒艇】に命中してその命を奪いました。
大きな損害を受ける中、日本軍は旧式4本煙突の「クレムソン級」の艦影を旗艦【那珂】と勘違いしたり、また逆に軽巡と勘違いするなど、敵の情報を把握することができません。
さらに敵と遭遇したのが哨戒艇だったことから反撃もままならず、頼みの綱の駆逐隊や【那珂】は全く戦闘に関わることができませんでした。
揚陸作戦がほとんど成功したから面目が立ったものの、5隻の輸送船を失うというのはここまでの快進撃の中でもあまりに目立つ被害でした。

その汚名返上の機会が2月27日にやってきます。
ジャワ島攻略を阻止しようと現れたABDA連合軍との海戦、「スラバヤ沖海戦」です。
この時四水戦は第五戦隊とともに船団を護衛していましたが、敵艦隊の襲来を受けてこれを迎え撃ちます。
船団護衛の引継ぎがあったので海戦には若干遅れた四水戦ですが、最も果敢に攻め込んだのもまた四水戦でした。
その中でも【峯雲】【朝雲】とともに他艦よりもさらに敵に肉薄して魚雷を発射。
5,000mで放った魚雷は命中はしませんでしたが、その後の砲撃戦で【英E級駆逐艦 エレクトラ】の撃沈に成功。
ともに抵抗してきた【E級駆逐艦 エンカウンター、J級駆逐艦 ジュピター】も撃破し、【朝雲】の被弾がありましたが見事にこの砲撃戦で勝利を収めています。

この海戦はダラダラした内容で非難が多いものの、ジャワ島攻略の大きな海戦で勝利したことには間違いありません。
【朝雲】が被弾したことで修理のために一時撤退、第九駆逐隊は【峯雲、夏雲】の2隻だけになりました。
その後はジャワ島周辺の哨戒活動を経て、次はクリスマス島の攻略に参加しますが、この時【那珂】【米サーゴ級潜水艦 シーウルフ】の魚雷を受けてしまい大破したため、【名取】の曳航を護衛する形で【峯雲】もシンガポールへ撤退。
【那珂】は修理のためにシンガポールに留まりましたが、【峯雲、夏雲】は整備のためにその後本土に帰投しました。

5月2日、【瑞穂】が静岡県の南で【米ガトー級潜水艦 ドラム】の雷撃により沈没したことで、【山雲】を除く3隻の第九駆逐隊が派遣されて対潜哨戒が行われました。
この時【瑞穂】は単独航行だったのですが、本土付近とはいえ全く油断ならないことがいよいよはっきりしたわけです。

また5月には長期修理中の【山雲】が第九駆逐隊から除かれたり、同じく長期修理に入った【那珂】に代わって【由良】が四水戦旗艦に就くなど、編制上の変化もありました。
そして改められた四水戦で「ミッドウェー海戦」に参加するわけですが、結果は無残な敗北。
帰投中に追手を誘引するためにウェーク島へ向かい偽電を通信しますが、これは追手がそもそも来なかったので無用な行動となりました。

その後アリューシャン列島で1ヶ月ほど敵機動部隊の襲来に備えましたが、アメリカは重要度が高くない北側への出撃は行わず、逆に日本が最前線に構築していた飛行場を掻っ攫うことで一気に形勢逆転を狙ってきました。
当然これを受けて第九駆逐隊もトラック島へ進出、さらにその後8月24日に「第二次ソロモン海戦」に参加することになりました。
トラック出港時に座礁したことで出発が遅れてしまいますが、急いで修理を行い【日本丸】を護衛しながら部隊を追いかけました。
しかしこの海戦で【千歳】が被弾し、【峯雲】【千歳】を護衛してトラック島へ撤退。
もともと水上艦の戦果が皆無だったこの海戦ですが、【峯雲】もまた【千歳】護衛以外の活躍はありませんでした。

再奪還は時間の問題だと高をくくっていたヘンダーソン飛行場ですが、輸送は空襲被害が甚大なので駆逐艦だけで少量輸送が行われたり、その空襲で各艦の被害が膨れ上がったりと明らかに形勢は不利になっていきます。
【峯雲】も当然ガダルカナルへの輸送に汗をかいていたのですが、10月5日、ショートランドからガダルカナルへ向かう途中で空襲を受けてしまい、至近弾2発が【峯雲】を襲いました。
この至近弾により艦首で浸水を起こした【峯雲】は最大速度12ないし14ノットにまで低下し、【夏雲】の護衛を受けてショートランドまで引き返さざるを得なくなりました。
また同じ空襲で【村雨】も被害を受けており、こちらも単艦で撤退しています。

【峯雲】【村雨】はその後トラックまで引き上げ、【明石】による修理を受けます。
この修理中に【五月雨】がトラックにやってきて、やがて日本に帰ることになる【峯雲】から少しでもいい装備を提供してもらおうということで、【五月雨】の主砲砲身の交換と、旧式の毘式40mm機銃と【峯雲】の25mm機銃の交換が実施されました。
【村雨】は軽傷だったのですぐに戦列に戻りましたが、11月16日に【峯雲】はトラックを出発して日本を目指します。
ちなみに10月12日に【夏雲】「サボ島沖海戦」に絡む空襲で沈没してしまっていて、この時点で第九駆逐隊は【峯雲、朝雲】の2隻だけとなっています。

【峯雲】が修理を受けている間に「ガダルカナル島の戦い」は日本の撤退という形で決着がつきました。
3度の「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」により、腐肉と骸骨を無数に残してガダルカナル島から日本人はいなくなりました。
しかしソロモン諸島やニュージョージア島などへの輸送はより重要性を増します。
無理な計画を押し通した「第八十一号作戦」では「ビスマルク海海戦」が起こり、輸送船全滅、駆逐艦半壊という恐ろしい惨劇が起こってしまいます。
それをすぐそばで見ていた【峯雲】は、3月5日に【村雨】とともにコロンバンガラ島への輸送を実施。
この揚陸はうまくいったのですが、敵に見つかっていないわけではありませんでした。
日本海軍の次の悲劇は、この2隻を巡って起こります。

【PBY カタリナ】の偵察により、2隻がショートランドへ向けて北上する姿が報告され、ムンダやコロンバンガラへの艦砲射撃のためにクラ湾付近に進出していた第68任務部隊【米クリーブランド級軽巡洋艦 モントピリア、クリーブランド、デンバー】【米フレッチャー級駆逐艦 ウォーラー、コンウェイ、コニー】が動き出します。
いずれもアメリカ最新型の艦種で、まだ改良の余地を残しながらもこれら6隻はみなレーダーを搭載していました。
数で圧倒しているから問題ないとはいえ、夜戦に関してはまだアメリカも対日本戦で自信があるわけではなかったので、このレーダーの性能次第ではしっぺ返しを食らうかもしれません。
そのような不安もゼロではなかったでしょうが、ともかく6隻はレーダーの性能を信じ、探知した2隻へ向けての砲撃を開始しました。

しかしこのような第68任務部隊の一抹の不安は全くの杞憂でした。
砲撃の発光に関して【峯雲】【村雨】も水上艦の砲撃だと把握できず、空襲ではないかと右往左往します。
その間にどんどんと暗闇でも精度の高い砲撃が2隻を翻弄し、ようやく第68任務部隊の存在に気づいたときにはもう2隻の命は風前の灯火でした。

【峯雲】は砲撃命令が出たとほぼ同時に炎上し、数分のうちに【ウォーラー】の魚雷が命中し、轟沈したというアメリカの記録が残ります。
余りの混乱に【峯雲】の最期については不鮮明です。
【村雨】【峯雲】同様に、敵の姿こそ捉えることができたもののとても反撃できる体制ではなく、【峯雲】沈没から15分後に【村雨】も沈没。
「ビラ・スタンモーア夜戦」は、完全敗北に終わりました。

敵を一掃した第68任務部隊ですが、本来のお仕事はコロンバンガラ島への艦砲射撃です。
この後艦砲射撃も行い、【峯雲】【村雨】が輸送してきた物資も黒焦げになり、死傷者も多数出してしまいます。
生存者はコロンバンガラまで泳ぎ切ったり島から出発した【大発動艇】で救助されていますが、【村雨】は艦長種子島洋二少佐ら約130名ほどが生還したのに対して、【峯雲】の生存者は40名ほどに過ぎません。