五月雨【白露型駆逐艦 六番艦】輸送も戦闘もどんどんこなす 白露との衝突も復帰貢献 | 大日本帝国軍 主要兵器
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五月雨【白露型駆逐艦 六番艦】

起工日昭和9年/1934年12月19日
進水日昭和10年/1935年7月6日
竣工日昭和12年/1937年1月29日
退役日
(座礁沈没)
昭和19年/1944年8月26日
ガルワングル環礁
建 造浦賀船渠
基準排水量1,685t
垂線間長103.50m
全 幅9.90m
最大速度34.0ノット
航続距離18ノット:4,000海里
馬 力42,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
次発装填装置
機 銃40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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偉大な2隻の影に隠れる功労艦 五月雨

【五月雨】【村雨・夕立・春雨】と第二駆逐隊を編成し、彼女らは第四水雷戦隊の隷下にありました。
太平洋戦争では
「ビガン攻略作戦、バリクパパン攻略作戦、スラバヤ沖海戦」
など、南方海域での作戦にいきなり投入されることになります。
昭和17年/1942年8月からは「ガダルカナル島の戦い」が始まりますが、【五月雨】は最初は護衛と輸送任務に携わり、戦闘に加わるのは「第三次ソロモン海戦」前になります。

10月25日、第四水雷戦隊は難攻不落のヘンダーソン飛行場砲撃に向かうのですが、ここで米航空機の空襲を受けて返り討ちにあってしまいます。
この空襲によって【由良】が航行不能になってしまい、最後には【夕立・春雨】によって雷撃処分されています。
また【五月雨】もこの空襲によって小破していますが、続く「第三次ソロモン海戦」には支障ありませんでした。

11月の「第三次ソロモン海戦」では挺身攻撃隊の一員として突撃した【五月雨】でしたが、艦隊はスコールによって分断され、陣形は壊滅状態となってしまいます。
そんな中、【夕立】が米艦隊の存在を確認、すると【夕立】【春雨】とともにその多くの米艦隊の中を貫くように突撃していったのです。
これによって互いの位置がつかめていない日本側と、2隻の駆逐艦に翻弄されて陣形が崩されたアメリカ側、双方が正確な情報を持たないまま、「第三次ソロモン海戦」が勃発します。

【五月雨】はこの戦いで確認できた大きな艦影に対して素早く機銃を掃射します。
ところが実はこの艦影の正体は護衛すべき【比叡】であり、見張員の報告を受けた機銃指揮官が勝手に発砲を始めてしまったのです。
慌てて発砲停止を命令するのですが、すでに砲撃の音がそこかしこで飛び交っておりなかなか現場にその声が届きません。
まさに「五月雨」の如く機銃の雨を降らす【五月雨】でしたが、【比叡】からしたらたまったものではありません。
一向に誤射に気づかない【五月雨】に対し、【比叡】はついに高角砲で【五月雨】に威嚇射撃を行います。
これでようやく【五月雨】は味方識別灯を付け、機銃は沈黙することになります。

海戦は【夕立】の未曾有の大活躍によって米艦隊は大小様々な損傷を負います。
しかしもともと数も能力も米艦隊のほうが上、日本も相応の打撃を受け、【比叡】は第一夜の海戦によって沈むことになりました。
【五月雨】は第一夜の立役者でもある【夕立】の雷撃処分を行うことになりましたが、魚雷は外れてしまい、結局【米ポートランド級重巡洋艦 ポートランド】によって撃沈させられました。

昭和18年/1943年1月、「ガダルカナル島の戦い」での敗北を痛感した日本は、「ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)」を開始。
この作戦中ではありませんが、年明けから撤退が完了する間に【春雨】が沈没寸前の大損害を負って1年近く離脱、【村雨】も沈没するなど、損害は大きいものでした。
【五月雨】は幸い大きな被害もなく、ここでも多くの輸送任務をこなしました。

出典:『軍艦雑記帳 上下艦』タミヤ

5月には「キスカ島撤退作戦」に参加して見事に成功、その後8月から9月は整備に入っています。
復帰後も「コロンバンガラ島撤退作戦、第二次ベララベラ海戦」と、ともに後ろ向きな撤退作戦ですが参加。
「第二次ベララベラ海戦」では【米ポーター級駆逐艦 セルフリッジ】を大破に追い込むなどの戦果も挙げています。
さらに11月の「ブーゲンビル島沖海戦」では【米フレッチャー級駆逐艦 フート】に向けて発射した魚雷が見事命中、大破させるという戦果を残し、【五月雨】は着実に艦隊での存在感を大きくしていきました。

しかしこの海戦ではその魚雷を放った直後に【白露】と衝突。
これは前方で炎上・航行不能になっている【川内】【時雨】が回避したのですが、その時に【時雨】【五月雨】が急接近してしまったのです。
【五月雨】は慌てて逃れようと舵を切ったのですが、同じ要領で後続にいた【白露】【五月雨】と衝突してしまいました。
この事故は深刻で、【五月雨】は艦首が潰れ、さらに砲撃によって艦内電源が停止、また燃料が漏れだした挙句2番、3番砲塔付近でも火災発生。
その炎はなかなか消えず、弾薬庫への引火の危険性が常につきまとっていました。
それでも運良く【五月雨】は沈没することなく、トラック島に到着。
艦首に応急処置を行い、横須賀まで向かいました。

明けて昭和19年/1944年、【五月雨】は輸送任務の割合が増加し、5月には「渾作戦」が実施されます。
しかしこの作戦では僚艦である【春雨】、そして6月には【白露】が輸送船と衝突して沈没してしまいました。
【五月雨】も「渾作戦」では米軍の反跳爆撃の被害をうけるのですが、幸いその爆弾は貫通して爆発の被害はありませんでした。
貫通箇所付近には酸素魚雷が詰まった魚雷発射管があり、爆発していたら【五月雨】の爆沈は確実だったでしょう。

昭和19年/1944年7月15日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
機 銃25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 10基10挺
単装機銃取付座 1基
電 探22号水上電探 1基
13号対空電探 1基
対 潜九四式爆雷投射機 2基
九三式水中聴音機 1基
九三式水中探信儀 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

ところが生きながらえた【五月雨】の命運はすでに残り僅かでした。
8月、マニラとパラオの間で輸送を行っていた【五月雨】でしたが、パラオ北部の環礁に突っ込んでしまい、座礁してしまいます。
【三日月】同様、かなりの速度で突っ込んだ【五月雨】は一向に脱出ができず、1週間もその状態が続きました。
その離礁作業中にも空襲が起こり、ついに【五月雨】は船体放棄が決定。
そんな時に【五月雨】【米バラオ級潜水艦 バットフィッシュ】の雷撃を受け、【五月雨】は艦中央部で断裂。
それでもなお、突き刺さった艦前部は環礁に取り残されていました。
【五月雨】の後部のみが沈没し、ここで【五月雨】の生涯は終わりを告げます。

「白露型」には【時雨・夕立】という知名度トップクラスの駆逐艦がいる中で目立たないものの、【五月雨】は着実に成果を上げ、戦闘でも輸送でも大きく貢献した駆逐艦です。