日本の防空艦構想と秋月型の誕生
太平洋戦争の主役となり、そして現代においてもなお有人兵器としては主役である航空機。
陸上ではもちろん陸上基地から、海上では航空母艦を住処として圧倒的な広範囲を掌握し、そしてひとたび襲い掛かれば四方八方から致命的なダメージを負わす攻撃を理不尽に繰り出す航空機は、太平洋戦争の大局を左右する存在でした。
特に海軍においては、第一次世界大戦では存在しなかった海上での航空戦を実現する空母の誕生が革命的でした。
空母に関しては米英が既存艦の改装、日本は新造艦から歴史がスタートしています(厳密には日本は水上機母艦の【若宮】が日本初の空母となっていますが、これは逆に水上機母艦という分類がなかったために空母となっています)。
その後各国空母の研究と建造には殊更力を入れ、そして同時に艦載機の開発速度も劇的に速くなっていきいました。
また空母の発展に伴い、水上艦は敵空母からの攻撃に対処するために徐々に高角砲や対空機銃を装備するようになっていきました。
1920年代前半からたった15年足らずで空母の性能や戦局への影響力は爆発的に拡大。
日本は「翔鶴型」2隻の竣工が開戦時期に大きく影響していますし、アメリカも空母建造と合わせて1930年代中盤から水上艦の対空兵装強化を行っています。
日本も同時期にはまだ対空兵装は貧弱ではあったものの、会議の中では空母建造の加速と並行して機銃の大幅増備をすべきという意見も多数出ていました。
それだけ空母の力は侮れないものとなっていたのです。
そんな中、にわかに話題となってきたのが、「防空艦」という概念です。
その名の通り防空に特化した艦のことで、これまでのように対水上艦との戦闘を想定した装備ではなく、艦載機からの攻撃を撃退するための艦の配備が必要だというのです。
日本で対空兵装が豊富なのは強いて言っても空母のみ、戦艦もそれなりに機銃は備えていますが、巡洋艦と駆逐艦は些細なものしかありません。
このままでは空母の攻撃力は高まっても空襲に対する防御力は貧弱さを増す一方。
この状況に危機感を感じた日本は、防空に特化した艦を配備して艦隊・戦隊・空母などを直衛する艦の建造を計画したのです。
日本はここにきてようやく防空に力を注いだかのように見えますが、成果としては失敗の部類となりますが以前から防空の意識はありました。
それが主砲の高角砲化です。
例えば駆逐艦の12.7cm砲B型が仰角75度、20cm連装砲E型は仰角70度まで対応できるようになっており、また同時に方位盤高射式装置を備えたことで対航空機用の装備は整えられていたのです。
速射性の問題があって使い勝手は良くありませんでしたが、防空軽視一辺倒ではなかったことは忘れてはなりません。
しかしこれはあくまで個艦防空であって、防空艦とはコンセプトが異なります。
防空艦議論を後押ししたのが、イギリスが旧式の「C級軽巡洋艦」の兵装を防空特化に改める改装を行ったことです。
これは45口径15.2cm単装砲5基の主砲と39口径7.6cm単装砲2基を全部撤去して、10.2cm単装高角砲10基へ換装し、また4cm単装ポンポン砲2基は四連装ポンポン砲へ、魚雷は撤去するというもので、完全に対空兵装のみの艦となったのです(この兵装は時期と艦によって異なります)。
さらにイギリスは新造艦としても、防空巡洋艦として類似の兵装と53.3cm三連装魚雷発射管を持つ「ダイドー級軽巡洋艦」も昭和12年/1937年から建造し始め、本格的に航空機対策に踏み切りました。
引き続いてアメリカも「アトランタ級軽巡洋艦」の設計を行います。
「アトランタ級」は「オマハ級」の置き換えだったために昭和14年/1939年以降の竣工が認められていて、これ以降の竣工を目指して38口径5インチ(12.7cm)連装両用砲8基、28mm四連装機銃4基、20mm単装機銃6基と533mm四連装魚雷発射管2基を搭載した軽巡洋艦です。
サイズ的には軽巡洋艦ですが、この両用砲は何と日本の駆逐艦の50口径12.7cm砲よりも短砲身という異色の砲です。
当然射程も50口径12.7cm砲よりも短いのですが、両用砲ですから仰角を上げても分間12~15発(人力装填)と十分な速さを持っています。
1番艦の【アトランタ】は昭和13年/1938年計画、昭和15年/1940年から建造が始まりました。
仮想敵国が立て続けに防空巡洋艦を建造する中、日本もさほど遅れることなく昭和12年/1937年から具体的な防空巡洋艦の検討が行われました。
元となったのは、「C級」よりも少し前に建造され、すでにかなりの旧式となっている「天龍型」でした。
正直このままでは「天龍型」は練習艦などに格下げになるのが決定的だったので、最終的には新造するにしても一度試験もかねて既存艦を改装するのは、少ない予算でやりくりする上でも当然だったかもしれません。
この時の「天龍型」の改装では、40口径12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃4基、九四式高射装置に加え、九三式爆雷投射機と九四式爆雷投射機各1基、爆雷装填台2基、手動投下台4基、また煙幕発生機を搭載しボイラーも重油専焼缶へ換装するとされています。
米英の防空巡洋艦に比べるといささか貧弱ですが、三国の中では「天龍型」が最も排水量が少ないため止むを得ません。
同時にカタパルトと航空機を搭載する計画もあったようです。
ですが改装案を進める上で、今の主砲の位置にそのまま高角砲を搭載すると射角の狭さが問題となり、射角を優先すると艦橋を造り直す必要がある、艦橋をそのままにすると防空艦としての性能が落ちるという問題がありました。
つまり改装するには大げさだし、楽に造るとイマイチ効果が上がらないという、どっちにしても費用対効果が悪いということがわかったのです。
「天龍型」の改装案は1938年~1940年度案の3回も提出されたのですが、予算が通過したのは1940年度。
そして通過しても改装後の性能が疑問視されたことで、結局「天龍型」の改装は幻となってしまいました。
これに対し、日本も「ダイドー級」や「アトランタ級」に並ぶ新造防空艦を建造する計画がありました。
いわゆる「815号型軽巡洋艦」と呼ばれるものです。
「マル5計画」で姿を見せたこの「815号型軽巡」は、排水量5,800t程度と「阿賀野型」よりも軽く、「秋月型」と同じ長10cm砲を4基8門、そして航空機2機とカタパルトを搭載するというものでした。
これ以上の情報はなく、また「マル5計画」は「改マル5計画」によってガラリと様相を変えてしまったので、「815号型軽巡」は人知れず消滅していきました。
これ以上呆気なく散ったペーパープランには、排水量9,000t、長10cm砲12基24門、九四式高射装置4基というものもありました。
「天龍型」の防空巡洋艦化改装は実現しませんでしたが、防空艦の議論はより熱を帯びていました。
1937年から「天龍型」の改装案が進んでいた一方で、完全な新造防空艦の検討もされていました。
ですが巡洋艦クラスになるとさすがに予算と量産が難しいので、駆逐艦の大型化という枠内での建造が計画されたのです。
当初は駆逐艦という分類ではなく、新たに「直衛艦」という言葉で表されました。
これは初期計画案では魚雷の搭載がなかったことから、魚雷を持たない駆逐艦っていうのはなぁということで「直衛艦」となったのです。
ただ計画の内容を見てみると、これは駆逐艦サイズじゃ無理だろうという性能です。
この頃から主砲は採用されたばかりの長10cm砲になることは決定していて、速力:35ノット、航続距離は18ノット:10,000海里というかなりの性能に加え、不時着水した航空機の救難用デリックも設けるというものでした。
他にも空母随伴ですから波浪にも強くないといけないことから、この内容だと基準排水量3,700t以上となることが確実視され、また機関も新型を搭載するか数を増やすしかなく、当然ながら駆逐艦サイズに抑えるべく計画は練りなおされました。
1938年に提出された「マル4計画」には、「乙型駆逐艦」という表現となっています。
ここで直衛艦という言葉は消滅し、防空艦は正式に駆逐艦枠での建造が決定しました。
巡洋艦とならなかった理由は上記のサイズの問題もありますが、何よりも巡洋艦分類で建造してしまうと、巡洋艦の護衛用に駆逐艦を編成する必要があるため、もっと駆逐艦の数不足が加速してしまうのです。
防空艦のために新たに組織編成を改めるのも非常に手間ですから、駆逐艦として建造する理由はそういう側面もありました。
ただし予算が増えたわけではなく、「乙型」登場の影響で当初は「夕雲型」24隻建造の予定だったものが16隻に減少し、その分が「乙型」6隻に回されています。
予算承認のために海軍省が大蔵省に訴えられた内容を引用いたします。
「1.航空戦隊には従来艦齢超過駆逐艦を付属せしめ、対空対潜警戒並に救難等に充当し居たるも、航空母艦に随伴する為には、航続力著しく不足し、航空戦隊の行動を掣肘(筆者注 せいちゅう 干渉して人の自由な行動を妨げること)するに至る不利極めて大にして、予てより所要性能を具備する別個の艦型の必要を痛感し居たるも、諸般の状況を考慮し未だ実現を見ざりしものなり。然るに海上戦闘に於ける航空機の重要性、愈々加重したる今日、海上航空兵力の主体たる、航空母艦の全幅活用を計るの要、切なるを以て、総合戦闘力向上のため、特に本艦型を選定し、6隻を建造せんとす。
2.将来の戦場に於いては、航空母艦の如き重要兵力に対しては、常時対空対潜警戒を必要とする処、本艦型の要目を適当に選定し、以て我飛行機に対する警戒救難と共に。本要求をも充足せんとするものなり。」
この「乙型駆逐艦」ですが、原案を含めて4つの計画がありました。
しかし魚雷を積まないから直衛艦という名称になったことを逆に考えると、駆逐艦になったからには魚雷は搭載することになるのです。
これは結局限られた予算と量産性から鑑みても、防空(+対潜)一辺倒は贅沢すぎるということで搭載されます。
また「甲型」6隻を「乙型」に割り当てたということは、雷撃艦を6隻失うことになりますから、戦力構想としてもやはり「乙型」には最低限の敵艦隊との戦闘力を持っていてほしいという事情もあります。
出典:『日本駆逐艦物語』 福井静夫
上記資料では第1案を除いた(第2案と類似)図と4案すべてのサイズや兵装が記載されています。
最も機動部隊護衛に秀でているのが原案で、最も対艦戦闘との併用を意識しているのが第3案、そしていずれの案もデリックを搭載しています。
後者にいくほど排水量が増大しているのは当然として、この段階では機銃はすべて25mm連装機銃2基しかないのも注目です。
甘く見ていたというよりかは、まだ艦隊の対空戦闘を経験していない中で空襲がどれほどの脅威となるのかが推し量れなかったのでしょう。
最終的には原案と第1案を組み合わせてより計画が練られていく流れとなります。
振り返ってみれば、「乙型」の魚雷を発射する機会は「クラ湾夜戦」前夜に【新月】が発射した時のみのはずです。
魚雷があったから第三水雷戦隊旗艦になったわけですが、魚雷がなければこのように水上戦で沈むこともなかったかもしれません。
さらに【秋月】は原因は別として魚雷の誘爆によって沈没していますし、とても「乙型」に必要な装備だったとは言えません。
ともあれ、基本計画番号「F51」となる「乙型」は1939年4月ごろには設計がまとまりました。
速度は33ノット、航続距離は18ノット:8,000海里となりましたが、これは艦隊護衛を重視すると速度は必ずしも「甲型」ほどは必要ない、しかし巡洋艦以上の艦に随伴するために凌波性と航続距離は同程度必要とのことで、航続距離が重視されたのです。
8,000海里は最新の「翔鶴型」には劣るものの、それ以前に建造された空母には十分対応できるものでした。
高性能の長10cm砲 軽巡サイズの駆逐艦が備えた力とは
日本初の防空艦となった「乙型」ですが、まずはちょっと触れた魚雷から説明しましょう。
魚雷を搭載することになった「乙型」ですが、さすがに過去の駆逐艦のように2基3基と魚雷発射管を搭載するスペースはありません。
「乙型」には61cm四連装魚雷発射管1基と九三式魚雷を装備することになります。
しかし次発装填装置は搭載していて、この点からも本気で水上戦を考えていたことがわかります。
まぁ33ノットだと敵艦隊と遭遇した時は逃げきれなさそうですし、分からなくもないですが。
魚雷発射管は中央より少し後ろ側に、次発装填装置はその後ろ左舷側に斜めで搭載されました。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
機関は「甲型」と変わっておらず、速度が落ちているのは排水量が増えていることからも当然とも言えます。
それに伴いタービンの回転数も「陽炎型」の毎分380回転から340回転に落とされています。
ただし配置については異なっています。
「乙型」では【島風】にも採用されているタービンの二室配置が採用されています。
これまで前部機械室に機関が左右軸とも集中して配置されていたため、被弾や浸水が起こると両方ともが使い物にならなくなり、航行不能に陥ってしまう危険性がありました。
これを前後で別々に区画にすることで、片方が使用不能になっても航行が可能になりました。
また、これまで3つの缶はそれぞれ1つの缶室に区画されていましたが、1番缶、2番缶を同室として2室に圧縮。
缶室は「甲型」より2.3mも短くなっています。
なので「乙型」もまた機関・缶に関してはオリジナルの区画配置となっています。
機関室・缶室スペースを抑制したことと、後述のように船首楼がかなり長くなったこと、さらに魚雷搭載スペースを確保するといった複数の理由により、煙突の距離が短縮されて駆逐艦唯一の誘導煙突を採用しています。
誘導煙突を持つ「乙型」はサイズも【夕張】並みではありますが、本当に軽巡にしてしまうと内部構造から運用から全部軽巡として扱わないといけなくなるので、ここまでのサイズになってもやはり臨機応変な活用と簡素な構造で済む駆逐艦としての建造が理に適っていたのです。
ちなみにこれまでの誘導煙突は2本のうち1本を曲げてくっつける形でしたが、「乙型」の煙突は3本の煙突をくっつけていますので、誘導煙突と言わずに集合煙突とも呼ばれます(むしろこっちのほうが正しいと思う)。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
出典:『高角砲と防空艦』 遠藤 昭
これまでの駆逐艦とは役割が一変することから、艦橋も内部配置の設計は全く新しいものとなりました。
実物大の艦橋模型を製造し、昭和15年/1940年4月から防空駆逐艦として4層式の最良の配置が検討されました。
羅針艦橋は今はもう閉鎖空間となっていますが、対空戦が主任務となると、上空の視界がほとんど遮られる羅針艦橋での指揮は非常に問題がありました。
なので、艦橋の上に露天の防空指揮所を設け、対空戦闘の際はここから指揮を執るということになっています。
ここまでの高さになると33ノットで移動している時に浴びる風速は60mにも達し、指揮の際に妨げとならないように、羅針艦橋と防空指揮所の間には【島風】と同じような遮風装置があります。
艦橋には他にも12cm高角双眼望遠鏡が3基、2m測距儀が2基装備されています。
高角双眼望遠鏡というのは一般的な望遠鏡とは異なり、覗き穴とレンズが水平ではありません。
角度はいくつか種類がありますが、水平に覗き込むとレンズは上に向くようになっています、つまりくの字のような形です。
また主砲が高角砲であることから、方位盤の位置にも駆逐艦としては最大サイズになる4.5m測距儀付きの九四式高射装置が配置されました。
九四式高射装置は前部艦橋と後部艦橋に1基ずつ搭載され、前部が1番、2番砲、後部が3番、4番砲を統制しています。
これにより2方向への正確な射撃が可能となりました。
しかしこの九四式高射装置の装備については、今もなお真実がボヤっとしています。
九四式高射装置は実際には【霜月】以降の艦では前部の1基のみ搭載され、後部は代わりに25mm三連装機銃が搭載されているのです。
さらに【霜月】以前の艦でも、【涼月】と【新月】以外は後部高射装置を搭載していなかったという証言が多数残されており、恐らくは【涼月、新月】も同様で、実際に九四式高射装置を2基搭載した例はないのではないでしょうか。
【初月】の乗員によると「後部高射機は外観のみで内容は整備されていなかった」とのことで、計画では確かに2基だったが、それが実現しなかったということでしょう。
実現しなかった理由として、故障が頻発した、納入が遅れたという事が挙げられていました。
しかし故障に関しては多くの乗員が否定しているようで、納入遅れのほうが真実味が高そうです。
軍艦や駆逐艦の装備は民間企業も多くかかわっていますが、九四式高射装置はできるだけ多くの艦に搭載したい光学装置で、当時の能力で量産ができる装備ではありませんでした。
ちなみに九四式高射装置はじめ当時の光学兵器の生産の中心にいたのは、日本光学工業株式会社、現在のニコンです。
装備できる艦を増やすために、2基搭載する予定だった「乙型」に折れてもらうしかなかったのでしょう。
公式の写図でも後部高射装置は実線ではなく一点鎖線で描かれています。
この九四式高射装置、計算こそ自動でやってくれるものの、ああしろこうしろは全部人力だったので、コンピューターを組み込んだアメリカのMk.37 GFCSとは比べ物にならないぐらい劣っています。
長10cm砲そのものはアメリカの対空砲よりカタログスペック上優れているとはいえ、使い方を覚えれば誰でもちゃんと対処できるアメリカと、月月火水木金金で個人の腕による振れ幅と人力に頼る日本とは埋められない差がどうしても出てしまいます。
アメリカは確かに長10cm砲を搭載する「乙型」(アメリカは戦後でも「照月型」として認識していました)を脅威としていましたが、あくまで他の奴らとは違うという認識で、決して絶対的な壁として存在していたわけではありません。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
艦橋の高さは「甲型」に比べて2mほど高くなっています。
これは艦首にこれまでにはない2基の高角砲が搭載されたためで、背負式となったことから視界確保のために高さを増すことになりました。
また同様の理由で艦首スペースを確保する必要があるために船首楼も47.3mにまで延長されました。
これは艦全体の35%までになる計算です。
そのため「乙型」は「初春型」のようなトップヘビーが懸念され、実際そうだったのですが、船首楼は艦首に向かうにつれて重心が下がる、斜め型の特殊な低船首楼型を採用し、各兵装の高角砲の高さを可能な限り下げるほか、重油タンクの配置など緻密な設計で何とか復原性は十分維持することに成功しています。
前檣は甲板では四脚、中央部の探照灯管制器が置かれる台座からは三脚檣というちょっと変わった形ですが、やがて竣工時から21号対空電探を搭載する艦が出てくると、マストの形が21号電探に到底収まらなくなります。
そのためにマストが途中で分離され、21号電探をトップに置く枝とその後ろから信号線や見張台などを設ける枝に分かれました。
マストは九四式高射装置との干渉を避けるために少し後方に反らされています。
後檣も電探装備前後ではその電探を支える必要のありなしで形状が変わっています。
「乙型」は対空だけでなく対潜装備も機動部隊防衛のために比較的充実していました。
艦尾には「天龍型」の改装案にもあった爆雷投射機と爆雷装填台が2基(投射機はいずれも九四式)、手動投下台が両舷3基ずつ、また九五式爆雷は54個搭載しています。
54個という数字は「甲型」がたった18個(パラベーンを搭載しない場合は36個)と考えると3倍の数ですから、発見するための兵器は九三式水中探信儀と依然乏しいものの、攻撃力としては格段にアップしました。
機銃に関してはこの時点でも当初案と同じく2基のままです。
煙突後方に設けられた、左右につながる形の機銃台に25mm連装機銃が1基ずつとかなり貧相でした。
当然ながら竣工が遅い船ほど増備された状態で誕生し、また竣工済みの艦にも逐次増備されていきます。
増備の内容は各艦全く異なります。
意外なのは電探もでしょう。
【秋月】と【照月】は竣工時に電探を装備しておらず、竣工時から電探を装備していたのは4番艦の【初月】からです。
【照月】に至っては沈没が早かったこともあって、ついに電探を装備することなく生涯を閉じてしまいました。
【初月】以降は21号電探を搭載しますが、大型のために戦争末期の残存艦は小型の13号対空電探と22号対水上電探に置き換えられていきます。
【霜月】は21号電探も22号電探も装備していたようです。
いよいよ「乙型」の代名詞である65口径九八式10cm連装高角砲について紹介していきましょう。
言わずと知れた長10cm砲で、長とはもちろん長い砲身を指しています。
長砲身が初速・射程に影響することは「最上型」の60口径15.5cm三連装砲でも述べていますが、ちょうどフランスからの技術導入によって長砲身の生産が可能となったことから、日本では長砲身高角砲の研究が行われていました。
そして昭和13年/1938年に制式化された長10cm砲は、日本最強の高角砲であるどころか、世界随一の性能を誇る超優秀な高角砲でした。
それまでの日本の高角砲の代表だったのは40口径八九式12.7cm連装高角砲でした。
両者の性能を比較してみましょう。
項目/種類 | 40口径12.7cm連装高角砲 | 65口径10cm連装高角砲 |
初 速 | ||
膅 圧 | ||
発射速度 | ||
最大射程 | ||
最大高度 | ||
砲身寿命 | ||
旋回速度 | ||
俯仰速度 |
一目瞭然、砲身寿命以外全てが上回っています。
当然1発の威力というのは1:2.05とほぼ半分なのですが、それに比べて被害半径は1:1.27とそこまで大差がないこともあり、総合力で見るととんでもない性能を持った高角砲だったのです。
実際は15発/分ぐらいが現実的な数字でしたが、それを言い出すと他の兵器も実際の数値は多少落ちますから同じです。
最大高度も最大射程も10km以上であり、高高度飛行を行う「B-29」に対しても命中させることができます。(空気抵抗でどこまで威力が落ちるかわかりませんが。)
揚弾機構は二段式の半自動装填で、まず弾庫から自動で揚弾されたあと、装填架までは人力で装填され、そのあとは自動で砲に回されるという形でした。
毎分19発という速度はだいたい3秒に1斉射となりますが、これは砲塔内の予備弾20発を撃ち尽くすまでは何とか可能だったようです。
しかし弾庫からの揚弾が必要になると、どれだけ頑張っても4秒に1斉射が限界だったと言います。
とは言え12.7cm連装砲で対空射撃をするのと比べると天と地の差でした。
砲塔の重量はかなり重く、これまでの12.7cm連装砲の32t前後に対して33.4tとなります。
さらには砲の数が3基から4基になっていますから、魚雷発射管が1基減っているとはいえ相当な重量になります。
そして艦首に2基並ぶわけですから、復原性に苦慮するのもうなずけます。
砲身寿命が短いのは構造上やむを得ないのですが、とにかく長砲身になると砲身を支えるために重量を重くするか、軽量にして寿命を短くするしかないのです。
そして重くするとそりゃもうめちゃくちゃ重くなるので、まず船そのものも重くなりますし、俯仰速度が遅くなりますし、デメリットが大きかったのです。
そのため軽量短寿命の砲身としたのですが、その代わり内筒の交換が艦の中でも可能な設計がされていた、と言われています。
が、実際に交換した実績どころか、交換用の予備砲身を積んだ実績もなく、可能かどうかは別として実際にはドックなどで交換をしていました。
他にも機構の複雑さが招いているのか、長時間発射し続けると揚弾装置も故障する事が増えてきたようで、その場合は全部人力で行うことになりますから一気に速射性が失われたでしょう。
その複雑な機構故量産に向かず、「乙型」建造打ち切りの原因ではないかと言われていますが、「歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦」によれば終戦時にはおよそ60門の長10cm砲が余っている計算になるようです。
単純計算7隻分ほどの主砲が余っていたわけですから、建造打ち切りに直結するほどの遅さとは思えません。
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
このように多少の弱点はあるものの、10,000m前後の範囲にわたって対応が可能。
被弾しても耐えきれる可能性がある25mm機銃弾よりも、命中すればほぼ確実に大ダメージとなる100mm弾を遠方からそれなりの頻度で攻撃されるほうがよっぽど危険です。
特にアメリカの後期型の航空機は25mm機銃程度では大した被害を負わなくなりますから、なおさら長10cm砲を多く備える「乙型」の重要度は増していきました。
また長10cm砲は砲塔版だけでなく砲架版も製造され、これが【大鳳】【大淀】(と計画では【信濃】)に搭載されました。
「秋月型」は特に初期型においては長10cm砲に完全に特化した防空艦でした。
そこから機銃と電探の増備を行い、警戒と空襲時の防空力を強化し、その長い足を活かして多くの場面で大活躍をし、有志に名を残していきます。
なお、「改秋月型」となる「冬月型」、「改冬月型(改改秋月型)」となる「満月型」の計画についてはそれぞれ各項にて紹介する予定です。
例えば艦首形状は後期型になるほど直線が増え、はっきり統一されていませんが喫水線から折れている艦(【花月】か?)、末端で少し折れている艦(【満月】)、完全に一直線の艦(修理後の【冬月】)などのバリエーションがあります。
その他多くの箇所で相違点があるのですが、なんとか文字だけで伝わるように頑張りたいです。
(どこで改・超と使い分けるかは個人によると思いますが、当HPでは「高角砲と防空艦 著:遠藤昭」に沿って表しております。)
出典:『軍艦雑記帳 上下巻』タミヤ
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』
島風と秋月のハイブリット 夢の超秋月型計画
ここからは一種の架空艦の世界となりますが、もし開戦が遅れていたら、駆逐艦は「乙型」と「丙型」の2本、そして最終的には次の1本に絞り込まれたのではないかと思われる駆逐艦案が存在します。
それが「超秋月型」です。
そもそも「甲型」はこれまでの駆逐艦の歴史の王道ではありますが、時代の変化はかつて日本が目論んだ水雷戦隊による砲雷撃戦から機動部隊を主力とした艦隊戦に変わろうとしていました。
戦い方の変化により、「甲型」は優秀ではあっても戦況にそぐわなくなる可能性があったのです。
同じ事は「丙型」にも言えました。
「丙型」は日本がこれまで長く課題としていた低速から脱却し、また雷撃力をとことん突き詰めた、駆逐艦の意義を徹底追及したような存在でした。
言うなれば「甲型」の未来の姿のようなもので、「甲型」は予算が許せばやがて「丙型」に切り替わっていくことになったでしょう。
一方で「乙型」は、まさに時代の変化に対応するために新しく生まれた存在です。
基礎となる防空艦は対艦戦闘はほぼ想定しない、対空と対潜に絞り込まれた存在で、しかもそれを艦隊防衛のために役立てるという、従来の海軍思想からは全く縁遠い存在でした。
ところが防空艦から防空駆逐艦となり、さらには「甲型」を削減して「乙型」を新規建造したなどの理由から魚雷を搭載するようになり、対空力の高い駆逐艦へと変容していきます。
そしていずれは、「甲型」を削減したことからもわかるように苦しい台所事情から「乙型」と「丙型」の両立は難しくなったはずです。
なにせ「大和型」を上回る「超大和型」や【大鳳】、「雲龍型」を建造する計画だった「マル5計画」、そしてその次段となる「マル6計画」はかつての「八八艦隊計画」を遥かに凌ぐ無謀な計画でしたから、破綻覚悟でやるつもりなら2種類の駆逐艦を別々に建造する余裕なんて到底ないわけです。
なのでいずれは「丙型」に長10cm砲が搭載された形か、「乙型」に「丙型」を混ぜ込むかのどちらかの道を進んだと想定されます。
現実には太平洋戦争の開戦と「ミッドウェー海戦」によって「改マル5計画」が誕生し、「丙型」は歴史を閉ざし、「乙型」は「甲型」8隻を削減して7隻が追加建造という流れ、さらには「丁型」の緊急建造により追加7隻も中止となっています。
2つのifパターン、すなわち開戦が遅れる場合、また「改マル5計画」が生き続けた場合のいずれでも誕生の可能性があったのが、艦型番号「V7」を与えられた「超秋月型」と言われる存在です。
もともと「乙型」は速度が遅いのは止むを得ないと諦めた駆逐艦でしたが、これは「甲型」でも同様で、これを解消した最強の駆逐艦が「丙型」でした。
なので実際に【天津風】による実験が好評だったことから、「乙型」にも新しい機関を搭載させようという流れは全く自然なものでした。
「改マル5計画」では追加の7隻からが「超秋月型」となっています。
以下は特に「高角砲と防空艦 著:遠藤 昭」の内容に沿ったもので、氏の綿密な取材に加えて推定も含まれていますのでご注意ください。
「超秋月型」の「改マル5計画」の計画案は次の通りです。
基準排水量 | 約3,100t |
水線長 | 136.2m |
全 幅 | 12.00m |
最大速度 | 35.5ノット~36.7ノット |
航続距離 | 18ノット:8,000海里 |
馬 力 | 75,000馬力 |
主 砲 | 65口径九八式10cm連装高角砲 4基8門 |
魚 雷 | 61cm六連装魚雷発射管 1基 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
「超秋月型」の一番艦ですが、「マル5・マル6計画」の延長だった場合は【山月】、「改マル5計画」から誕生した場合は【北風】になっただろうと言われています。
機関は当然「丙型」に搭載された新型の高温高圧缶(ホ号艦本式缶?)です。
馬力は52,000馬力から75,000馬力に激増し、基準排水量は300tと約1割増えている中でも最大速度は35.5ノットは出せるだろうと考えられました。
これでも高温高圧缶の燃費向上で搭載燃料を減らすことができたので、実は公試排水量としては3,470tから3,580tと100t程度の増で抑えることができました。
機関配置は、もう一度載せますがこちらの資料の「丙型」のような3缶全て独立させた形で、どうしても全長は伸びてしまいました。
基準排水量300t増もこの影響が大きいです。
※スペースの関係で煙突は「乙型」同様集合煙突だったと推定されています。
出典:『高角砲と防空艦』 遠藤 昭
魚雷は新開発の61cm六連装魚雷発射管1基。
「丙型」同様次発装填装置は搭載しません、さすがに載せると重すぎます。
六連装魚雷発射管は恐らく「丙型」の七連装案が却下された後も計画が進んでいたでしょうから、それを実現させるつもりだったのでしょう。
それらを踏まえておおよその外観として遠藤氏はこのような推定図を同書に載せています。
出典:『高角砲と防空艦』 遠藤 昭
時期が時期だけに、「乙型」から大幅な変更はなかったでしょう。
ただし並行して電探の開発が進んでいましたから、電探の装備に合わせた細かな修正は想定されます。
「超秋月型」の概要はこのような形です。
「秋月型」の順当な進化型と言えますが、しかしあとはどれだけ建造費を抑え、量産性を高めることができたかが問題になるでしょう。
まだ量産のめどはたっていない高温高圧缶と、誕生すらしていない六連装魚雷発射管、「超秋月型」の最大の特徴が「超秋月型」誕生に大きくかかわるので、計画が生きていてもいつごろ完成したかは見当がつきません。
しかし時代として「超秋月型」か「乙型」を量産しなければならないのは間違いないはずなので、例え「超秋月型」とはならずとも、「乙型」の進化は止まらなかったでしょう。