
起工日 | 大正14年/1925年11月27日 |
進水日 | 昭和2年/1927年3月4日 |
竣工日 | 昭和2年/1927年7月25日 |
退役日 (沈没) | 昭和19年/1944年12月13日 第九次多号作戦 |
建 造 | 藤永田造船所 |
基準排水量 | 1,315t |
垂線間長 | 97.54m |
全 幅 | 9.16m |
最大速度 | 37.25ノット |
馬 力 | 38,500馬力 |
主 砲 | 45口径12cm単装砲 4基4門 |
魚 雷 | 61cm三連装魚雷発射管 2基6門 |
機 銃 | 7.7mm単装機銃 2基2挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 4基 艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
末っ子は沈むのも最後 卯月とともに沈んだ夕月
【夕月】は竣工当初は「第三十四号駆逐艦」と呼ばれ、昭和3年/1928年に【夕月】と改称されます。
太平洋戦争開戦直前に【卯月】と【望月】が入れ替わり、第二三駆逐隊は【卯月・菊月・夕月】で編成されることになります。
緒戦では「グアム島攻略」に参加後、「ラバウル方面攻略、モレスビー攻略」などでも第二三駆逐隊は活躍します。
しかし5月の「ツラギ島攻略作戦」では、【敷設艦 沖島】へ補給作業を行っている最中に運悪く空襲に巻き込まれてしまいます。
沈没寸前となった【菊月】はなんとか擱座させることができましたが、しかし浸水が酷くやがて沈没。
【敷設艦 沖島】も沈没し、ともに損傷した【卯月・夕月】は佐世保に戻ることになりました。
佐世保に戻ると同時に、第二三駆逐隊は解散。
【夕月】は第二九駆逐隊へ、【卯月】は第三駆逐隊所属となりました。
復帰後も【卯月・夕月】は「第一次ソロモン海戦」の輸送船団護衛を務めるなど、ラバウル方面や南海洋方面で活躍を続けました。
昭和19年/1944年9月以降は、その活動の場を台湾~内地間へと移しますが、12月にはマニラへと移動することになります。
【夕月】は【卯月・桐】ともに「第九次多号作戦」に参加します。
しかし道中で空襲によって輸送船が2隻沈没。
輸送部隊は二手に分かれ、【夕月】は【桐・第140号輸送船・第159号輸送船】とともにオルモック湾へと向かいます。
ところが到着すると【米ベンソン級駆逐艦 コールドウェル・コグラン】が【夕月】たちと対峙します。
【コールドウェル】は追い払ったものの、援軍を率いて再び攻撃を仕掛けた【コグラン】の砲撃によって一同は湾外へと避難します。
一度【桐】とふた手に分かれることとなり、【夕月】は敵軍がある程度引いたところを見計らって湾内に残っている【第140号輸送艦】を連れ戻します。
再び【桐】と合流した【夕月】は、出来得る限りのの輸送任務は終えたため、長居は無用とマニラへ引き返すことにしました。
しかしその途中で米戦闘機が60機の大群で【夕月】たちに襲いかかります。
ここまで生き抜いた【夕月】は爆弾を受けてついに航行不能、最後は【桐】の魚雷によって雷撃処分されてしまいます。
前日にはともに戦った【卯月】も沈没。
「睦月型」の歴史は、この2隻の沈没をもって終わりを告げました。