利根【利根型重巡洋艦 一番艦】

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起工日昭和9年/1934年12月1日
進水日昭和12年/1937年11月21日
竣工日昭和13年/1938年11月20日
退役日
(解体)
昭和23年/1948年9月30日

建 造三菱長崎造船所
基準排水量8,500t
全 長201.60m
垂線間幅18.50m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:8,000海里
馬 力152,000馬力

装 備 一 覧

昭和13年/1938年(竣工時)
主 砲50口径20.3cm連装砲 4基8門
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 4基8門
25mm連装機銃 6基12挺
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 4基12門(水上)
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 重油8基
艦本式ギアードタービン 4基4軸
その他
水上機 5機
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前で撃て、後ろで飛ばせ 偵察特化の重巡洋艦 利根

戦闘は、戦術は無論、攻撃力や防御力の高さも言うまでもなく、しかし情報があればなお有利に進めることができます。
太平洋戦争においては、航空機による攻撃が最強であることが実証されましたが、飛行機は攻撃するためだけではなく、索敵や偵察にも非常に重宝されました。
この動きは水上機が開発されたころから各国熱心に研究を重ねていて、空母とは別に戦艦や巡洋艦にも航空機を載せて、水上に降ろすことなく手早く飛ばそうと熱心に努力してきました。

日本で初めて船の上から飛行機が飛び立ったのは、実は空母からではなく【山城】からです。
大正11年/1922年3月に【山城】の2番砲塔に滑走台が仮設され、短い距離ですがそこで一気に加速して飛行させるというものでした。
ちなみにこの頃はまだ水上機ではなく、車輪がついたれっきとした艦載機ですから、発艦後に船に戻ってくることはできません。

やがてカタパルトが開発されたことで、艦載機は水上機へと移り変わります。
日本も改装などで旧型間にもカタパルトと水上機が搭載されていきました。

空母の力が日増しに強くなるのと比例して、戦艦や巡洋艦の水上機の役割もより重要になってきました。
空母に偵察をさせると、それ用の飛行機が格納庫を圧迫し、純攻撃型艦載機の数が減ってしまうのです。
これを補うために各国では攻撃機に偵察機を兼ねさせるケースがよくありましたが、それでも攻撃に専念できないし、偵察に出た数だけ攻撃可能な数から省かれることになります。
なので偵察は空母より前方にいる可能性が非常に高い巡洋艦の水上機、すなわち水上偵察機に任せたいという意図が膨らんできたわけです。

そこで各国は艦船の攻撃力に加えて航空兵装の充実化も図る必要が出てきます。
日本では当初水上機の搭載数は2~3機が一般的で、イギリスも軽巡一本に絞った事情もあって同じぐらいでした。
しかしアメリカの巡洋艦は4機搭載できる船が多く、日本も改装によって4機まで搭載できた船がいるものの、船の数そのものが違うために水上偵察機の数の差は明らかに劣っていました。

アメリカの艦載機が多い理由には主砲を3連装砲3基という装備が標準になったからで、連装砲5基10門の火力を第一とした日本巡洋艦には航空兵装用のスペースが足りなかったのです。
ただ一方で艦中央部に可燃物が搭載されているのは被弾時の火災の影響が大きいという弱点もありました。
じゃあ日本はその点有利か、と言われると、残念似た位置には魚雷があってリスクは大して変わりません。
むしろ炎上する燃料よりも爆発する魚雷のほうが危険ですらあります。

この状況の中、日本は「最上型軽巡洋艦」の建造に向けて準備をし、また「最上型」4隻に次ぐ2隻の8,450t級巡洋艦の設計も行っていました。
この8,450tというのは、「ロンドン海軍軍縮条約」によって決められた保有総排水量をいっぱいに使うためのギリギリの重さです。
計画ではこの追加2隻が誕生するまでに【旧利根、旧筑摩、矢矧、平戸、天龍、龍田、球磨、多摩、北上、大井、木曾】が引退する予定でした。

この2隻が「利根型軽巡洋艦」にあたります。
しかし当初から現実に誕生した姿で計画されていたわけではなく、排水量を50tだけ抑えた「準最上型」といえる設計でした。
昭和8年/1933年の計画では、速度1ノット低下の36ノット、水上機は4機搭載(「最上型」は3機)、カタパルトは2基、航続距離が18ノットで11,000海里というものでした。
主砲と魚雷に関しては変わりなく、当初の計画では「利根型」は水上機の搭載数というよりも長航続距離のほうが特徴として出ています。
そしてこの段階では、まだ主砲が5基15門であったことから、前方集中という設計でなかったこともわかります。
ただ、「最上型」でもまず排水量が9,500tに成らざるを得ず、最終的には基準排水量11,200tにまで膨れ上がり、普通に考えれば「利根型」も同等もしくはそれ以上の排水量になったことは想像に難くありません。

しかし【最上】進水前に「友鶴事件」が発生し、この影響で【利根】【筑摩】の起工は1年遅れることになってしまいます。
さらに再設計中に【最上】の公試で発覚した溶接の不備も影響し、「準最上型」として線形の流用(全く同じではありません)はできても、その建造過程は見直さざるを得なくなってしまいます。

そしてこの起工1年遅れの間に巡洋艦の果たすべき任務も新境地に達し、進水前の昭和11年/1936年に「利根型」「最上型」とは全く様変わりした偵察型巡洋艦として建造されることになったのです。
上部構造が確定した時期については起工前をにおわせる資料もありますが、どちらにしても進水前、つまり艤装が始まる前であることは間違いなさそうです。
その構造は非常に思い切ったもので、日本の巡洋艦の歴史を紐解いても空前の船であったことは間違いありません。

当然ながら目を引くのは主砲の配置。
これまでは基数はともかく主砲は前後に配置されるのが一般的でした。
それは攻撃範囲を広げるための配置で、また前部の主砲がダメージを負っても後部の主砲で攻撃を続けることができるというリスクの分散の意味もありました。
イギリスでは「ネルソン級戦艦」、フランスでは「ダンケルク級戦艦、リシュリュー級戦艦」が主砲を前部に集中させる設計となっていますが(仏戦艦は後部に副砲)、巡洋艦では極めて珍しい兵装配置となります。

主砲は当初は予定通り15.5cm三連装砲4基でしたが、「利根型」「ワシントン海軍軍縮条約」から脱退した後に進水することがわかっていたため、この点も最初から20.3cm連装砲を搭載するように変更されています(排水量も自由になりました)。
なので「利根型」はいずれも15.5cm三連装砲を搭載した実績はありません。
ですが公式には最後まで20.3cm砲であることは明記されておらず、最後まで15.5cm砲搭載艦でした。

20.3cm連装砲に変更した理由はもちろん射程と貫通力の影響で、「最上型」の主砲を換装したのと同じ理由です。
特に「利根型」は艦隊の前衛で偵察を行うことが想定されたため、はじめに砲撃戦を行う可能性も十分あります。
そうなると貫通力の低い主砲で敵巡洋艦と交戦するのは不向きなので、やはり口径を大きくするのは必要なことでした。
砲は艦橋前に4基並べられ、3番、4蟠砲塔は後ろ向きで配置されて、背負い式なのは2番砲塔だけです。

この前部集中型ですが、基本的に砲撃戦というのは真後ろに向けて発射するケースは少なく、だいたいいずれかの角度に傾けて砲撃します。
なので前部だろうが後部だろうが、片舷指向門数が重要になってきます。
前部集中にしても前後分散にしても、指向門数は8門ですから攻撃力は変わりません。
さらに後部への砲撃も艦を完全にまっすぐにしてしまうと当然撃てませんが、ある程度傾ければ6門ぐらいは後ろに向けることができますし、大幅な攻撃力減にはつながらないという考えでした。

主砲がこれまでよりもさらに1基艦橋前に設置されたことから、当然艦橋は煙突などは後方に下がります。
このため煙突の後端がほぼ艦の中央に位置し、艦橋はより広い視界を得ることができました。
舵の効きも素晴らしく、操艦がこれまでの船に比べると非常に楽だったという証言もあります。

この配置のメリットは他にも重要防御区画(バイタルパート)を少なくできるというメリットがありました。
軍艦におけるバイタルパートとは、弾火薬庫や魚雷格納庫、機関部などがありますが、これらが分散されたり数が多いと、その数だけ防御を固めなければならなくなって排水量がどんどん膨れ上がります。
例え条約がなくても、重量が増えるのは基本的にはいいことではないので、バイタルパートは少ないに越したことはありません。

「利根型」の場合は魚雷こそ「最上型」同様両舷に4連装2基でしたが、主砲は前部に集中できたために弾火薬庫を近い場所にまとめて配置することができました。
なのであちこちを固める必要がなくなり、浮いた重量を船全体の防御力の向上に割り当てることができました。

また、散布界を縮小させることにもある程度成功しています。
前部と後部で砲塔が離れていると、同じ目標に砲撃をしても砲弾のバラつきが発生してしまいます。
特に5砲塔を有した「妙高型」「高雄型」ではこの散布界の広さが問題となっていて、4門の門数の差があるにもかかわらず3砲塔の「古鷹型」「青葉型」のほうが命中率が高いという問題がありました。
しかし前部に集中させると発射位置の距離が近いため、たとえ散らばっても砲塔を分散している場合よりも散布界を小さくすることが可能なのです。

ですがこの一方で、斉射時の砲弾の距離が近すぎて相互干渉を起こし、やはり散布界が広がってしまうという問題が発覚します。
この問題については改装で各重巡が搭載した九八式遅延発砲装置によって多少は改善しているようですが、目に見えてよくなったほどではないようです。

そして後部に主砲がないことで、航空兵装への爆風が与える影響が完全になくなりました。
これまで2砲塔が航空兵装の後ろに設置されていて、結構近い位置に露天繋止されている水上機が砲撃時の爆風で破損するケースが多発していました。
日本の船はアメリカの三連装砲塔3基を主設計とする構造とは全く異なるため、どうしても各構造物の距離が近くなってしまいます。
しかし砲撃がなくなれば何の問題もありませんから、これで水上機が破損する危険性も排除されますし、交戦中に水上機を発射することも可能です。

このように主砲を前部に集中させることには大きなメリットがありました。
そして後部の航空兵装についても、これまでの巡洋艦とは比較にならないほど充実しています。
格納庫はありませんでしたが(予算や重量の影響と思われます)、後檣から艦尾にかけてはすべて航空甲板とし、露天繋止で最大6機の水上機を搭載。
設計にスウェーデンの【航空巡洋艦 ゴトランド】が影響したかどうかは不明ですが、同じような構造の船が当時【ゴトランド】しかなかったため、ある程度参考にはしていたと思われます。
通常は整備性やパイロットの数などの関係で5機が常用だったようですが、【筑摩】での実験では最大で8機までなら搭載できると判断されています。

航空兵装は上甲板と最上甲板の2段に分かれていて、最上甲板に4機、さらに2機が上甲板に繋止されていました。
上甲板と最上甲板は中央部がスロープで繋がっていて、ここを通じて最上甲板まで昇っていく形です。
カタパルトに載せるための大型クレーンは、同時に短艇の揚収にも使われました。

この思想そのものは極めて未来的ではありましたが、実際はやはり格納庫を設けることができなかった欠点もあります。
甲板の高さが低かったことで上甲板の水上機は波の影響を受けることも多くあり、また整備に関しても甲板上で行う必要が引き続きありました。
本来であれば最上甲板で統一するか、格納庫の上に最上甲板を置くというのが理に適っているのですが、これは「友鶴事件」以後の重心の高さを嫌う傾向が設計に現れたものと推測されます。

外観の特徴に続いて、今度は見えない部分の特徴に移りましょう。
特筆すべきはなんと言っても航続距離でしょう。
当初の計画18ノット:11,000海里を維持することはできませんでしたが、それでも「利根型」は18ノット:8,000海里というかなりの航続距離を誇っています。
「翔鶴型」の航続距離が18ノット:9,700海里、防空駆逐艦として空母を護衛する目的で建造された「秋月型」は同じ18ノット:8,000海里で、この航続距離は機動部隊運用に非常に重要な数値となります。
戦隊の偵察だけでなく、これまで空母が行っていた偵察任務も請け負う可能性がありますので、機動部隊と連携できる力がないといけません。
18ノット:8,000海里を14ノットに換算すると12,000海里以上。
「最上型」の航続距離が14ノット:8,000海里ですから、これまでの重巡と比較してもめちゃくちゃ長いことがわかります。

続いて防御力です。
まず「最上型」があとからあとから修正をしていたものを踏まえた設計になったので、その点がスッキリしています。
前述の通りバイタルパートを削減できたことで、「利根型」は日本重巡で最強の防御力を誇る艦となりました。
「最上型」で大きく強化された弾薬庫の舷側装甲はさらに厚さを増して145mm、天蓋装甲は56mmとなっています。
船の舷側装甲は20度の65~100mm傾斜装甲を引き続き採用。
さらに装甲もこれまでむき出しだったものがバルジで覆い隠す形状へと変更になり、装甲の腐食を防ぐことができるようになりました。

この方式はインターナル・アーマー方式と呼ばれるものです。
防御方式でいうと二層防御に近く、1枚目の板(これが装甲かどうかは船によります)である程度衝撃を抑え、更に2枚目の装甲で砲弾を受け止めるというものです。
いくら装甲が分厚くても、これまでの装甲だと割れやすいという問題がありました。
もし装甲が弾けなかった場合はヒビが入って貫通されます。
これを防ぐために二層防御というものが考えられ、有名なところでは「ビスマルク級戦艦」が採用したわけですが、これを採用すると重量が増えてしまいます。
そんな中、日本は「最上型」でNVNC鋼(改良ヴィッカース無滲炭非表面硬化鋼)を採用し、硬さよりも軽量・靭性を重視した装甲へ切り替えることにします。
そのNVNC鋼の性能をさらに高めるために、このインターナル・アーマー方式は打ってつけでした。

他にも水平防御が非常に強化されています。
「最上型」も強靭でしたが、全部が全部硬くしすぎたことがあり、上甲板の上の最上甲板が敵砲弾からの耐弾性に加えて船そのものの耐久性にも影響してしまうようになります。
船は航行中にしたからの突き上げがひっきりなしに起こりますが、「最上型」ではこの衝撃が上甲板と最上甲板に分散してしまい、それぞれで衝撃を受けていました。
この結果が溶接のひずみであり、一本の長い板で衝撃を受け流すのではなく、バラバラの板で中途半端に衝撃を受けていたのです。

これに対して「利根型」は最上甲板を完全に上に置いたものとして扱うようにします。
すなわち衝撃を全部長い上甲板で受け止め、最上甲板には極力衝撃が伝わらないようにしたのです。
このために「利根型」の最上甲板の厚さは6mm(D鋼 従来よく使われた硬い装甲)となり、代わって上甲板の装甲は最大で「最上型」の倍の40mmが敷かれていました。
つまり、舷側装甲に加えて水平防御に関しても劇的に改善されているのです。
実は機関部の水平装甲は「最上型」の35mmから31mmに減っているのですが、その上に二層防御とも言える形で40mm装甲がはられていますから、全然薄くなっていません、かなり強化されています。

この他にも各所施設が集中配備されたことで艦内スペースに余裕が生まれ、下士官までベッドが配備されるなど(これまではハンモック)、非常に過ごしやすい船となりました。
対空兵装こそ12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃6基と当時の情勢としてはいささか不安ですが、これでも他の船に比べると機銃が強化されただけマシです。
機銃については高射装置が最新の九四式高射装置に改められています。

改善点が全くなかったわけではありませんが、それでも「利根型」は絶賛の嵐でした。
攻撃力はあまり落ちない、偵察ができる、防御力が高い、航続距離がある、操艦がしやすい、安定している、生活しやすいといいこと尽くし。
日本の巡洋艦の中でも最も優れた船であるという称賛を浴びてやまない「利根型」ですが、その評価は太平洋海戦での活躍を見ても決して過剰なものではありません。
【利根、筑摩】はいずれも三菱長崎造船所で起工。
その偵察能力を見込まれ、重巡洋艦にもかかわらず、開戦時は第一航空艦隊に配属されました。

出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集』

オールマイティーな戦力は太平洋を駆け巡る

【利根、筑摩】は当初は横須賀鎮守府所属でしたが、昭和14年/1939年12月に舞鶴鎮守府に転籍します。
前月には2隻で第八戦隊を編成することになり、【利根、筑摩】は以後終戦まで、戦隊は変わっても2隻一緒に戦い続けることになります。
開戦前に3ヶ月だけですが宇垣纒(当時少将)が第八戦隊司令官に就任しています。

太平洋戦争の開幕となった「真珠湾攻撃」では、前述の通り第八戦隊は第一航空艦隊に所属。
【利根、筑摩】からの偵察機が敵情や天候を観測し、そこから攻撃が始まっています。

それから半年後のミッドウェー海戦までに、【利根】はなんと「ウェーク島攻略作戦、ラバウル上陸作戦、蘭印作戦、セイロン沖海戦」など数々の作戦に参加。
いずれも偵察能力をかわれ、さらに重巡本来の役割である砲撃戦でも活躍。
水偵も爆撃を行うなど、偵察以外の任務でも積極的に運用されています。
機動部隊の大活躍を影で支えた【利根】は、デビューからいきなり引っ張りだこでした。

ただ、砲撃面では一度クリスマス島付近で遭遇した【米クレムソン級駆逐艦 エドサル】の撃沈に大苦戦します。
【エドサル】はこの時単艦で、対して日本は【比叡】【霧島】【利根】【筑摩】という過剰なまでに強力な戦力でした。
この時【利根】【霧島】【エドサル】のことを【オマハ級軽巡洋艦 マーブルヘッド】と認識していたようです。
【エドサル】が火力で敵うわけはありませんが、これぞ駆逐艦、非常に軽快な動きでこちらの砲撃が全く当たりません。
駆逐艦は小さいことで的が小さいのは当然として、舵の効きも加減速も大型艦の比ではありません。

まるでゲームのように着弾を予測回避して、煙幕を炊いて身を隠してと、完全に日本の艦船を翻弄しました。
結局痺れを切らした二航戦【蒼龍】九九式艦上爆撃機の支援によって【エドサル】は命中弾を受け、最終的に砲撃で沈没しています(空襲による撃沈説もあり)。

「ミッドウェー海戦」では、これまで通り出撃後に偵察機を飛ばし、米軍の様子をうかがう予定でしたが、【利根】のカタパルトの調子が芳しくなく、予定よりも発艦が30分ほど遅れてしまいます。
その後の勝負の行方は言うまでもありませんが、当初はこの【利根】のカタパルトの不調による発見の遅れが、日本の敗北に直結したと考えられていました。
ところが近年の研究では、この発艦の遅れがあったからこそ、米艦隊を発見することができたのであり、予定通り発艦していたらむしろ発見できなかったという説が有力になっています。

ただし、偵察機の動きそのものは利根機、筑摩機いずれも不可解なもので、発艦が遅れた【利根】4号機は、当初2時間半の飛行を2時間で勝手に切り上げて帰還しています。
その結果としてアメリカ艦隊(空母ではない)を発見できたのは幸運でしたが、命令違反は命令違反です。
さらにこの時の発見位置も実際にアメリカ艦隊がいた場所から北に160kmもずれていて、かなりいい加減です。
この戦いでは空母とともに活動していた【利根、筑摩】にも10発以上の至近弾がありましたが、いずれも被害は僅少でした。

「ミッドウェー海戦」後、一時整備のため舞鶴へ帰還。
8月にはソロモン諸島、そしてヘンダーソン飛行場をめぐる戦いが勃発し、いよいよ連合軍の本格的な反撃が始まりました。
【利根】は8月23日の「第二次ソロモン海戦」に参加しますが、この時【利根】が随伴した【龍驤】はほとんど囮のようなもので、実際【龍驤】【米レキシントン級航空母艦 サラトガ】の艦載機を引き付けることに成功します。
しかし護衛の【利根】【天津風】【時津風】の対空兵装はたかが知れています。
結局【龍驤】は空襲によって撃沈されてしまい、【利根】らは【龍驤】乗員を一人でも多く救出することしかできませんでした。

第二次ソロモン海戦中で戦闘中の【利根】

続いて「南太平洋海戦」でも【利根、筑摩】は機動部隊の前衛として出撃。
しかし【米ヨークタウン級航空母艦 エンタープライズ、ホーネット】の艦載機による断続的な空襲に振り回され、前衛部隊も空母も艦載機との戦いが続きました。
【利根】は幸いにも大きな被害はありませんでしたが、【筑摩】は日本の機動部隊まで到達できなかった【エンタープライズ】機の集中的な空襲を受けてしまいます。
数発の被弾と至近弾で沈没寸前の被害を出していますが、辛くも空襲から逃げきっています。

空母との連携運用が主任務であった第八戦隊は、【翔鶴】【筑摩】の大破によって機能不全に陥り、ガダルカナル島からの撤退を余儀なくされます。
しかし連合軍も【ホーネット】が沈没、【エンタープライズ】も中破したために、ガダルカナル島の戦いはいよいよ飛行場と水上艦の戦いが色濃く、そして血生臭くなっていきました。
【利根】はトラック島で待機する日々を送りました。

昭和18年/1943年3月、【筑摩】が修理を終えて戦列に復帰。
2月にはガダルカナル島からの撤退もあって【利根】らは一度本土へ帰投していて、【利根】【筑摩】と一緒に再びトラック島へやってきました。
【利根】は整備中に21号対空電探と機銃の増備換装を行ったとされています。
しかし山本五十六連合艦隊司令長官が待ち伏せによる撃墜で戦死した「海軍甲事件」によって、遺体を収容した【武蔵】と共に【利根、筑摩】はもう一度本土へ戻ることになります。
「海軍甲事件」は4月18日の出来事ですが、トラック島を出発しているのは5月17日と1ヶ月も後のことでした。

7月にトラック島へ帰ってきた【利根】ですが、直接的な戦果はほとんどないままに機関故障を引き起こします。
【明石】による修復では完治が不可能ということから、【利根】【山城】【伊勢】らと護衛とともに呉を目指しました。
ところがこの道中で【隼鷹】【米ガトー級潜水艦 ハリバット】の雷撃を艦尾に受けてしまい、操舵不能となってしまいました。
このため【利根】【隼鷹】を曳航して呉まで戻っています。

結局昭和18年/1943年は多くの巡洋艦と同じく輸送や警戒に専念していた【利根】ですが、この傾向は最後まで続きます。
年末にトラック島へ戻ってきた【利根】ですが、翌年1月1日、第八戦隊は解散となり、【利根、筑摩】は第七戦隊に編入されます。
第七戦隊は年明け早々にカビエンへの輸送任務を果たし、その後インド洋での通商破壊を行い、またうまくいけば敵商船を拿捕、日本の輸送船として活用しようという目論見の「サ第一号作戦」【利根、青葉、筑摩】の3隻で実施されました。
この作戦で【利根、筑摩】は臨時で第十六戦隊(旗艦【青葉】)の指揮下に置かれています。

この「サ第一号作戦」はアメリカ巡洋艦に化けて商船に近づいてとっ捕まえるという作戦で、日の丸ではなく星条旗が掲げられ、さらに菊花御紋章も外すという騙し打ちでした。
ですが日本とアメリカの艦船はメインの色が違うのでどこまで欺瞞効果があったのか。
そしてやはりこの騙し打ちは成功せず、3月から始まったこの作戦で9日にようやく発見した【英商船 ビハール号】に対して【利根】は国際信号旗などで停船を呼びかけますが、全く騙されず一目散に逃げだされてしまいます。
結局拿捕は失敗し、【ビハール号】は撃沈されます。

この際、救出した乗員115名を捕虜として扱うわけですが、情報などを聞き出し後に国際法違反である捕虜の殺害が発生しています。
これが「ビハール号事件」で、この命令を下したのは第十六戦隊司令官の左近允尚正少将でした。
これに対して当時の【利根】艦長であった黛治夫大佐は処刑に反対しますが、結局覆らずに黛自身の命令によって処刑は実施されていまいました。
3月19日の夜から捕虜を移動させる名目で呼び出し、気絶のち殺害という方法で、作戦終了後に立ち寄ったバタビアで十数人以上の捕虜が陸に上げられましたが、船に残った捕虜全員が殺害されてしまいます。

「ビハール号事件」は戦後発覚し、左近允少将黛大佐は香港裁判で裁かれることになり、左近允少将は絞首刑、黛大佐は命令に反対したことなどもあって禁固七年の刑に処されています。

6月19日の「マリアナ沖海戦」では第七戦隊は【大和、武蔵】を中心とする第二艦隊の一員として出撃。
しかしこの戦いはほぼ100%航空戦となり、飛行機以外の攻撃は潜水艦からの魚雷だけだったために水上艦はひたすらに防空と哨戒を続けるしかありませんでした。
肝心の航空戦も壊滅的被害をもたらした上に戦果はほぼなく、空母3隻の喪失を以て完敗します。
【利根】はこの際に機動部隊の本丸である第一航空戦隊の艦載機を誤射するという失敗を犯しています。
誤射は第二艦隊の複数の船で発生しており、なんと3機も撃墜されてしまいました。

昭和19年/1944年6月30日 あ号作戦後と竣工時の対空兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 4基8門(±0)
機 銃25mm三連装機銃 8基24挺(+8基)
25mm連装機銃 4基8挺(-2基)
25mm単装機銃 25基25挺(+25基)
電 探21号対空電探 1基(+1基)
22号水上電探 2基(+2基)
13号対空電探 1基(+1基)

そして太平洋海戦は「レイテ沖海戦」を迎えます。
航空機による戦争となった太平洋海戦で、その航空機が絶対的に不足してしまい健在の空母すら囮にしてレイテ島を目指すという背水の陣での出撃となりました。
この戦いで第七戦隊は栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属しますが、「パラワン水道の悲劇、シブヤン海海戦」によって数々の艦船が力尽きていきます。

そんな中、10月25日についに栗田艦隊は敵艦隊を発見します。
その艦隊の正体は護衛空母と護衛の駆逐艦という、簡単に言えば貧弱な艦隊でした。
「タフィー3」と呼ばれた艦隊は、艦載機と駆逐艦による死に物狂いの抵抗で栗田艦隊を苦しめます。
そしてあまりにも戦力的に有利な栗田艦隊でしたが、近代海戦の象徴である航空機と、日本が夢見た魚雷戦によってどんどん被害を重ねていきました。
この戦いでは最終的に【筑摩】【鈴谷】【鳥海】【能代】【野分】と多くの船が沈んでしまいました。

一方で攻撃の砲では、【ガンビア・ベイ】と駆逐艦3隻を撃沈することに成功しますが、同時に空襲で1発被弾し、最終的に速度が20ノットにまで抑えられてしまいました。
ですが被害の程度でいえば、数でも艦船の戦闘能力からも日本の負けです。
【利根】はこの戦いで空襲によって4発の被弾と砲撃を1発受けていますが、航行には全く支障はありませんでした。
【利根】【ガンビア・ベイ】に数発の命中弾を主張しており、撃沈に貢献はしたものの、結局栗田艦隊の反転によって作戦は終了、日本の敗戦はより確実となりました。
【利根】は沈没した【鈴谷】に向けて艦載挺を送っています。

11月21日、第七戦隊は解散。
ここまで一緒に戦い続けた【筑摩】を失い、そして何よりも連合艦隊は事実上壊滅。
舞鶴に戻った後【利根】はさらに機銃を増備、また電探も21号対空電探22号対空電探へと換装されています。
しかし【利根】は昭和20年1月1日、燃料不足なども関係してついに練習艦にまでなってしまいました。
作戦からの帰投でまずは舞鶴に戻っていますが、練習艦になったと同時に呉練習戦隊に編入されたことで、【利根】は呉へと移動しました。
そしてここで終戦を迎えます。

3月19日には空襲で至近弾を受けて3番砲塔が動かなくなり、そしていよいよ軍港である呉にはひっきりなしに空襲に見舞われるようになっていきます。
これに対して【利根】は植物などで擬装して身を隠していきましたが、ついに7月24日から数日に及ぶ呉軍港空襲で直撃弾や至近弾を多数受けてついに大破着底しました。

その後、【利根】は復興資源として解体され、使われていた鋼材は国民のために再利用されています。
【利根】は砲撃での戦果はあまりありませんが、抜群の索敵実績によって日本に勝利をもたらし、そして快適な乗り心地と洗練された防御力を兼ね備えた万能巡洋艦として、乗組員の誰からも愛され、開戦から終戦まで駆け抜けた素晴らしい軍艦でした。


着底した終戦後の【利根】


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