マニラの海は赤かった 船の墓場で寝たきり状態
栗田艦隊の一員だった【沖波】は、【大和、武蔵】のいる大艦隊とともにレイテ島を目指します。
最終決戦のつもりだったこの「捷一号作戦」ですが、しかし23日にパラワン水道に差し掛かったところで【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】の2隻が【愛宕】と【摩耶】をあの世に送り、そして【高雄】も大破し撤退せざるを得なくなりました。
すぐに旗艦を失った栗田艦隊は、【大和】が旗艦を引き継いで、進撃を続けます。
潜水艦の洗礼を受けた翌日は、航空機の洗礼を受けます。
「シブヤン海海戦」ではどこからともなく現れる艦載機が栗田艦隊を四方から襲い、特に【武蔵】の被害が大きく、どんどん速度を落とし始めました。
あの【武蔵】が沈むのか、艦首が徐々に海面に近くなっていきました。
空襲から逃れるために栗田艦隊は一旦反転するのですが、【武蔵】はそれに付いていくこともできず、完全に落伍。
そしてついに沈むことは決してないと言われていた「大和型」の1隻が、広大な海の中に飲み込まれていきました。
これほどの犠牲を出してもなお、栗田艦隊は進み続けなければなりません。
そして25日、日が昇り始めた時、ついに連合艦隊の遅すぎる面目躍如となるか、「サマール沖海戦」が始まりました。
栗田艦隊の眼前には、太平洋戦争で散々戦艦の出番を邪魔しまくってきた機動部隊がのんびりと航行していました。
普段は慎重で狡猾な狼も、ガリガリに瘦せ細っていたら遮二無二襲い掛かります。
すでに餓死寸前だった【大和】らはその姿が「エセックス級航空母艦」のような空母かどうか確認することもなく攻撃を開始。
一方で正規空母とは似ても似つかぬ輸送部隊タフィ3は、巨人が迫ってくるのを見つけるや否や、速力で逃げ出しました。
タフィ3は駆逐艦の煙幕や少ない艦載機での反撃など、できる全ての手段を駆使して栗田艦隊に抵抗します。
栗田艦隊に航空支援がなかったのは、タフィ3にとって数少ない、しかし絶大なアドバンテージで、この空襲で栗田艦隊にはダメージが蓄積されました。
その中の1隻、【鈴谷】がまずは至近弾を浴びて速度が低下。
それでも追撃を止めなかった【鈴谷】ですが、再びの空襲で4発の至近弾を浴びて、魚雷が誘爆してその最期は目前でした。
機関浸水と誘爆が立て続けに発生した【鈴谷】に生き残る道はなく、早々に総員退去命令が下されました。
一方で救助には【沖波】と【雪風】が指示されましたが、やがて【雪風】は原隊復帰の命令もあったため、【沖波】1隻で重巡1隻の生存者の救助をしなければなりませんでした。
【鈴谷】は救助活動中に傾斜が酷くなってやがて沈没。
【沖波】は6時間にわたる救助活動で412ないし415名を救助しましたが、日没により救助活動は途中で切り上げざるを得ませんでした。
日没がなくとも駆逐艦の小さな身体に収容できる人数には限りがあるので、どこかで苦渋の決断はしなければならなかったでしょう。
栗田艦隊も結局撤退していたため、【沖波】も目前に迫ったレイテに背を向けて撤退を開始。
しかしコロンへ撤退中に【沖波】は第38任務部隊の網に引っかかり、およそ40機からなる編隊に1時間にわたって空襲を受けてしまいます。
空襲によって【沖波】は至近弾を浴びて舵を故障する事態となりましたが、【沖波】は必死に戦って空襲を耐えました。
舵の故障も修理により回復し、【沖波】はコロンへの航行を再開しました。
その道中で、不細工な船が小さな島で動けなくなっている姿を発見します。
これは「サマール沖海戦」で爆撃を受けたために速度が落ちて単艦行動となっていたところを、【沖波】と同じく空襲を受けたために浅瀬に乗り上げて沈没を防いでいた【早霜】でした。
【沖波】は【早霜】を救助するためにセミララ島近くの無人島へ接近。
ですが艦首がない状態の【早霜】をすぐに救助することはできず、【沖波】自身の燃料も乏しかったので、【早霜】に給油を行うことぐらいしかできませんでした。
この給油中、同じく【早霜】を発見した(もしくはたまたま沖合を通過した)【藤波】がまたまた第38任務部隊に狙われ、2隻の目の前で沈没してしまっています。
さらに一部が【沖波】達を目ざとく発見して空襲をしてきたため、【沖波】は止む無く給油を切り上げてコロンへ撤退しました。
コロン到着後、【沖波】はマニラへ向かうことになりました。
マニラへは先行して傷だらけの【熊野】が単艦で移動中だったので、【沖波】はこれに合流してマニラまで護衛するように命令されます。
2隻は無事に出港翌日の28日にマニラへ到着しました。
この頃、「捷一号作戦」失敗によってレイテへの輸送を頻繁に行わなければならなくなったことで、「多号作戦」が計画されていました。
マニラ到着翌日の29日に第一弾(第二次多号作戦)が発動され、【沖波】はマニラにいる貴重な駆逐艦として休む間もなく31日にマニラを出撃しました。
「多号作戦」は悲惨なイメージが強い輸送作戦ですが、この第二次作戦は90%以上成功しています。
玉船団と呼ばれたこの輸送は、駆逐艦は【沖波】含めて6隻、海防艦4隻、輸送船は6隻で構成。
さらには直掩機も船団を守っていて、珍しく強固な護衛を受けた船団でした。
11月1日にオルモックに到着。
揚陸中の空襲で【能登丸】が沈没してしまいましたが、煙幕の展開もあって輸送船の被害は僅かでした。
その後の撤退も異常はなく、輸送船1隻を失ったとは言え、今後の悲惨な顛末と比べると天地の差でした。
4日に【沖波】はマニラへ到着。
しかしホッとするのも束の間、5日にはマニラが空襲され、ここで【那智】が沈没してしまいます。
マニラは29日にも空襲を受けていましたが、この時【那智】は艦首を失うなど大破していて、この空襲で止めを刺されてしまいました。
【沖波】は【那智】のそばで対空射撃を行っていた影響で巻き添えを食らっており、艦長の牧野旦中佐が入院を余儀なくされるなど多くの人的、物的被害を受けています。
マニラへの空襲と並行して、「多号作戦」も連合軍の妨害が苛烈となり被害が激増します。
特に第三次多号作戦では輸送船全隻、駆逐艦も5隻中4隻が沈められるなど容赦がなく、そして諸悪の根源であるマニラを破壊するための攻撃もより激しくなりました。
11月13日、三度マニラは空襲を受けます。
今度の空襲も一切の手加減がなく、見える船には次々に爆撃が落とされていきました。
第四次多号作戦で艦首を失っていた【秋霜】も、5日の空襲の被害のために係留されていた【曙】もこの空襲で息の根を止められ、また【初春】が炎上沈没、10日に到着したばかりの【木曾】も大破着底し、ここから沈没認定まで長くマニラを眺めることになります。
そして【沖波】も、右舷の第二缶室付近に被弾します。
ヒビが前方に向かってビシーッと入り、また歪みや破孔など、命中していた箇所以外にも被害が広がり浸水が発生。
海水が入り込んだことで煙突からは蒸気が噴出し、また艦首艦尾にも至近弾を受けて浸水が加速、更に破孔からも海水が入り込んで、浮力がどんどん失われていきます。
特に直撃弾による中央から後方にかけての長い亀裂からの浸水は傾斜に直結し、徐々に【沖波】は傾き始めました。
このままだと沈没してしまうという苦しい状況の中、【沖波】はなんとか消火には成功しました。
また消火ができたからか、【沖波】は沈む前に曳航されているようです。
実際に【沖波】を引っ張ったのは【沖縄】のようですが、他にも【朝霜】や【霞】の協力があったようです(【朝霜、霞】は対空支援や消火、人の移動でしょうか)。
浅瀬までやってきた【沖波】でしたが、被弾の被害は激しく浸水に歯止めがかかりませんでした。
この浸水が致命傷となり、結局【沖波】は大破着底してしまいました。
それでも沈没扱いはないことから【沖波】は乗員は30名ほどが所属したままとなり、残りは「フィリピンの戦い」などのこの世の地獄に送り込まれたと言われています。
12月11日、【沖波】は総員退去が命令されました。
最期は昭和20年/1945年1月7日に爆破処理されたのですが、それは復活させることはできない状態になったと言うだけで、上部構造物はぐちゃぐちゃながらもその姿を止めるなど、しばらくは【沖波】もまたマニラで時代の流れを見守りました。