小さな旗艦 やらねばならぬミンドロ島砲撃
ミンドロ島を巡っては海軍や大本営陸軍部と第十四方面軍山下泰文大将で意見が対立していました。
陸軍側の対立はさておいて、海軍としてはミンドロ島をアメリカに取られるとフィリピンの西側も常に敵機の攻撃範囲になり、輸送がますます困難となり海軍はおろか日本も干上がってしまうという恐怖を抱いていました。
なので海軍はミンドロ島への輸送船団に対して特攻機を何度も差し向けており、また17日には手負いの「丁型駆逐艦」で艦砲射撃をするためにカムラン湾から遠くミンドロ島まで差し向けるという無茶も行っています(台風接近により中止)。
飛行場の建設だけは何としても阻止せねばならない、さもなくばさらに輸送ルートは遮断されてしまう。
「礼号作戦」はこのような背景から計画されました。[1-P128]
「礼号作戦」の実施が下されたのは20日のことでした。
その内容は、22日以降に二水戦指揮の下で速やかにサンホセに突入して攻撃すべし、第五艦隊の巡洋艦1~2隻の他、つい先日サンホセに突入しようとしたものの台風だの自身たちの被害の状況などから引き返した【杉】【榧】【樫】もつけるというものでした。
ということは今度の作戦は木村少将が総司令官となるわけです。
木村少将は旗艦に【霞】を指定。
これが【霞】だけ【妙高】護衛から抜けた理由です。
作戦となれば旗艦は本来大きめの船が担いますが、司令官の木村少将は【霞】を旗艦に指定しました。
戦後本人にこの理由を尋ねたところ、「僕は駆逐艦乗りだよ」とこの一言にすべてが詰まっていました。[1-P135]
他にも第五艦隊の船である【足柄】や【大淀】に馴染みがなく、借り物である上に狭い湾内に入り込む際に邪魔になるかもしれないという合理的理由も語っています。
【霞】が【潮】に預けていた二水戦旗艦はこの後さらにコロコロ変わっており、【霞】は【大淀】から旗艦の座を譲り受けます。
できるなら【伊勢】【日向】も投入してボコボコにしたいところだったのですが、速度の問題と湾内の輸送船や物資を攻撃するということで狭い湾内に突入することから召集されませんでした。
統領たる第五艦隊司令長官の志摩清英中将は作戦の指揮が執れないので、【日向】に移って行く末を見守ることになります。
「礼号作戦」はミンドロ島に集まっている輸送部隊を攻撃し、同島占領の遅延を狙ったものですが、いかんせん艦砲射撃を行う戦力は心許ないものでした。
戦艦は不在、【足柄】1隻の重巡と【大淀】、残りはすべて駆逐艦です。
ですがミンドロ島で飛行場が整備されるとルソン島など近隣の島々やフィリピンやマニラは連日の爆撃が目に見えているので、効果の大小問わずやるしかなかったのです。
この作戦の結果、敵の戦力が分散されればなおよしというところでした。
その作戦を始めようにも、先立つものがなければ何もできません。
22日、補給のために少し前まで【霞】も護衛していた【日栄丸】が【榧、樫】【第十九号海防艦】に護衛されてカムラン湾にやってきました。
【霞】も同日すでにカムラン湾に到着しています。
翌日には残りの参加艦もカムラン湾に到着したのですが、悪天候のため【榧】達より先に出たにもかかわらず半日遅れたことから出発日は1日遅れて26日夜の突入に変更されました。[1-P132]
【日栄丸】が持ってきた燃料は潤沢で、全艦燃料は満タンだったといいます。[1-P132]
【霞、足柄、大淀】【朝霜】【清霜】【樫、榧、杉】の7隻で挺身部隊が編成され、12月24日、挺身部隊はカムランを出撃しました。
マニラ方面への偽装針路を取ったのが功を奏したのか、24日、25日は発見されることなくかなりミンドロ島に近づくことができました。
そして天候が悪く波も高くなってきたところで一気に南下を始めます。
激しい波浪は潜水艦の安易な浮上を許しませんから、水上艦にとっては天の恵みです。
一方で航空隊もミンドロ島への攻撃を継続しており、大規模な被害ではなくともアメリカ軍は輸送や整備に集中することができませんでした。
敵の偵察が散漫になる中で【霞】達はどんどんミンドロ島に迫ります。
しかし敵情が明らかになるにつれて、今回の作戦の戦果に陰りが見え始めました。
頻発する空襲を前に輸送船団はミンドロ島に停泊することを避け、22日に到着した船団は24日には一部を除いて早々にミンドロ島を出撃してしまいました。
次の船団は果たしていつミンドロ島にやってくるのか(結果的に27日にレイテ島を出撃しているのが確認されている)、船団が来るまで待ち続けるわけにもいかず、挺身部隊の獲物は想定よりも少なくなってしまいました。[1-P161]
26日16時半ごろ、【足柄】が【B-24】(実際は【PB4Y】)を発見。
初めて発見した敵部隊がもうこんなところにいるのかと慌てた【PB4Y】は、暗号化する間も惜しんでこれを報告。
この無電はもちろん挺身部隊もキャッチしており、発見されたことはここからも明らかでした。
しかし現在地はミンドロ島まで7時間足らずの距離で、2日間の行程から振り返るとあと僅かの距離でした。
もちろん尻尾を巻いて逃げるなんてことはなく、このまま突っ込みます。[1-P162]
ミンドロ島の航空戦力は万全とは程遠く、機体はあっても爆弾は半分もありませんでした。
とにかく爆弾を積める機体は積んで、積めない機体は機銃で暴れる、目標も統率もない、とにかく飛べる奴から飛んで、目についた船に遮二無二攻撃しろという我武者羅な対応となりました。
また海上戦力も魚雷艇しかおらず、空襲さえ耐え凌げば日本の有利は絶対でした。[1-P164]
26日21時前、夜とはいえ月明かりが海を眩しいほどに照らしていたため、挺身部隊は隠れることができません。
【朝霜】への至近弾を皮切りに、いよいよ空襲が始まりました。
ここ最近の雨のような空襲に比べると生温いものではありましたが、こちら側の反撃能力は相変わらず乏しいので追い払うことはできません。
ですが緊急発進の影響か、【大淀】に2発命中した爆弾はいずれも不発弾、どころか信管がない状態、つまり爆発することのない状態の爆弾だったことで、貫通だけで難を逃れることができました。
これまで何往復もされてきた機銃掃射も粘着されることは少なく、奇襲がある程度功を奏しているようでした。
しかし被害ゼロで突破できるほど甘いものでもありません。
夜間の空襲で、まず【大淀】が2発の直撃弾をさっそく浴びます。
これは信管が付いていない爆弾だったのでいずれも貫通するだけで済んだのですが、うち1発は缶に命中する寸前だったのでめちゃくちゃ危険でした。
続いて艦隊型駆逐艦で最も若い【清霜】が、艦中央部に被弾。
この爆弾は機関部にまで到達したことで機関は沈黙、さらに浸水も始まったことで【清霜】は航行不能になってしまいました。
ですがミンドロは目前であったこと、海は前述の通り明るかったことから、救助は後回しにしてミンドロへの砲撃を優先することになりました。
敵の空襲が激しさを増してくると、当然機銃も冷める暇なく叫び続けます。
【霞】はこの戦いの中で3基の単装機銃が相次いで故障し、行き着く暇のない戦いだったことがわかります。
一方で水上の脅威であった魚雷艇については完全に日本側に運が向いていました。
まず日本側の空襲で魚雷艇の被害は一定数蓄積されていて、さらに移動中に味方から攻撃を受ける、珊瑚礁に引っかかって動けなくなるなど散々でした。[1-P190][1-P191]
鉛弾の雨を耐え抜き、23時ごろについに挺身部隊はサンホセ泊地へ向けて砲撃を開始。
輸送船はほとんどが出発した後だったので、数にして4隻の船が近くの湾内に避難しているだけ、しかもアメリカ側の記録では大破したのはそのうち1隻だけです。
なので船へのダメージは非常に少なく、メインは陸上に揚げられた物資や施設への攻撃となります。
魚雷艇の動きに注意しながら、挺身部隊はかなり一方的な攻撃を行うことに成功しました。
実際の戦果としてはほとんど効果があるものではありませんでした。
航空機も日本への攻撃のために離陸しているものが多く、被害は残念ながら極少数です。
ただし間接的には、飛行場が使えなくなったことで遠くレイテまで逃れようとしたものの、燃料不足であえなく墜落する機体があり、これも戦果の1つではあります。[1-P203]
27日0時4分、射ち方止め。
これまで失敗と敗北のオンパレードだった作戦の中で、単発小規模とはいえ久々に思い描いた結果を残した作戦となりました。
「ミンドロ島沖海戦」とも称さる「礼号作戦」は、海軍最後の組織的戦闘の勝利であります。
とはいうものの、志摩中将は要約すると「戦力僅かの中で駆逐艦1隻失っただけの価値がある戦果か?面子のための作戦だ」と冷静に分析しており、まぁ勝ったっちゃ勝ったけど【清霜】1隻に相当する戦果とはとても言えません。
砲撃を終えたあと、【霞】は【朝霜】とともに【清霜】の乗員の救助に従事。
過去も木村少将は自らの船が率先して残り救助などを行ってきましたが、今回も旗艦でありながら残りの船を撤退させて【清霜】の救助のために戦場に留まりました。
この【清霜】捜索時に2隻は相次いで敵の魚雷艇を発見していて、救助中に襲われたら逆に被害が拡大するので【霞】は【足柄】へ向けて「魚雷艇がこっちに向かってきている」と連絡しています。[1-P211]
ただ魚雷艇は【足柄】達を見つけていたようでこちらには来ず、【足柄】達も見事にこれを追い払っています。
他にも【B-25】を発見しましたが、これも敵が向かってくることはありませんでした。[1-P211]
暗い海でカッターも1隻しかなく、しかも敵潜警戒をしながらの救助ですから一瞬たりとも気が抜けません。
1時間半ほど救助活動が行われましたが、2時15分ごろ、後方に何かが光るのを【霞】は確認します。
これ以上の長居はできない、2時35分、【霞】と【朝霜】のスクリューの回転速度は上がり、先を行く【足柄】達を追いかけました。
逃げる【霞】達に向かって【B-25】から1発の爆弾が投下されましたが、今度は至近弾でもなく2隻は30ノットの速度で撤退を続けます。[1-P213]
すっかり日も昇った9時過ぎ、ようやく【霞、朝霜】は【足柄】と合流することができました。
しかしまだ安心はできません、密集しても空襲の被害はゼロにはならないからです。
実際に攻撃は受けなかったものの敵機は何度か現れており、さらに潜水艦まで現れていました。
敵機からの攻撃は分厚い雲が遮ってくれたのですが、潜水艦に関しては命中しなかったものの魚雷の発射を2度にわたり許しています。
ここで問題となってきたのが「松型」3隻の存在です。
最大速度は言うまでもなく、航続距離も巡航速度も他の艦に劣る「松型」は、そもそも最初からこの航海は燃料的にギリギリでした。
それに加えて【杉】は「多号作戦」の被害の修理が終わらないままの出撃、【樫】は給水ポンプが故障したままの出撃で速度が21ノットまでしか出ず、【榧】は道中の機銃掃射の被害で缶が1つ使い物にならなくなっており、最大速度が20ノットに落ちていました。
そして空襲や潜水艦はまずは大型の【足柄、大淀】を狙うことが予想されたので、被害を最小に抑えるために【足柄、大淀、霞、朝霜】は「松型」3隻と分離して先にカムランへと向かうことになりました。
先行した4隻は28日18時30分ごろにカムランに到着。
そのまま今度はサンジャックに向かうように指示があったのですが、木村少将はそれを無視して3隻が戻ってくるのを待ち続けました。
危険海域で【清霜】を救助した【霞】が、今度は3隻を置き去りにして逃げてきたわけですから、この決断そのものも苦渋のものだったでしょう。
皆元気に戻ってきてくれるだろうか、そう願いながら夜が明けました。
そして間もなく正午というところで、ついに一際小さな駆逐艦3隻がカムランに姿を見せました。
1隻も欠けていません、どころか3隻は【米ガトー級潜水艦 デイス】に撃沈された【給糧艦 野埼】の乗員の救助まで行っていて、より多くの命がカムランに戻ってきたのです。
「礼号作戦」はこれにて完全に終了、戻ってきた7隻はちゃんと全員そろってサンジャックへ向かいました。
さらば大和の国 敵の手に陥らんとする沖縄を前に沈没
その後【霞、足柄、大淀、朝霜】は【伊勢、日向】とともにシンガポールへ移動。
また二水戦司令官は古村啓蔵少将と交代となりました。
整備を行っている間に、第七駆逐隊には衝突の修理を終えて【潮】から1番砲塔を受け継いだ【響】が新たに編入されました。
ただ【響】はこの時呉にいましたから、一緒に行動できたわけではありません。
シンガポールでちょっと一休みができていた一行ですが、事態は切迫しています。
日本はあらゆるシーレーンが包囲されており、シンガポールと日本という生命戦も潜水艦と航空機の検問が何重にも敷かれていました。
この航路や航路上の要衝では被害が尋常じゃないほど積み重なっていて、沈んだ船を数えだすとうんざりします。
おかげで日本は資源不足が顕著であり、一方でシンガポールはこのまま手をこまねくと脱出もできなくなる危険性がありました。
もちろんシンガポールも包囲だけで済まずやがて壊滅させられることでしょう。
なので一か八か、動ける船に資源や人材をドカドカ積み込んで薄氷を踏みながら日本まで帰るという超危険な賭けに出ることになりました。
「北号作戦」と呼ばれるものです。
失敗すれば致命傷ですが、残っていても致命傷、しかも逃げ切ったとしても積める物資の量は中型貨物船1隻分足らず。
作戦が決まってから、皆口には出さないものの死を覚悟しなかった者はいないでしょう。
参加艦はシンガポールに戻ってきた6隻から【足柄】が抜け、代わりに【初霜】が加わっています。
2月10日、完部隊と称された部隊がシンガポールを発ちました。
皆が縋ったのが強運艦であった【伊勢、日向】の存在。
その強運と各艦の命を懸けた努力により、部隊は次々と降りかかる危機を見事に回避していきました。
特に潜水艦の雷撃に関しては見張り員の目の交換が必要なぐらいあちこちから現れますが、ほとんどが発見することができて不意打ちを避けることができました。
さらに強運艦のなせる業か、天候は一貫して悪く、空からの視界は非常に悪い状態でした。
悪すぎて台湾から護衛についた【神風】【野風】や、その後を引き継いだ【汐風】は完部隊に続行することもできず、またその後たまたま航路が被った【蓮】も護衛に加わろうとしましたが30分ほどで脱落してしまうほどでした。
ちなみにこの3隻はいずれもこの後無事に目的地に到着しています。
数える指がなくなるほどの難事を乗り越えて、完部隊は2月20日、ついに呉に到着。
なんと被害はほぼゼロ、空襲を受けることがなかったので、変な被害で足を引っ張られることがなかったのも大きかったでしょう。
半分帰ってきてくれれば、という作戦だったのですが、この航路で100%成功とは逆に怖いほどでした。
海戦ではありませんが、この「北号作戦」が本当の海軍最後の勝利だったと言ってもいいでしょう、アメリカ側もすっかりやられたと戦後証言しています。
帰還した【霞】ですが、今稼働する駆逐艦は第十七駆逐隊の他は皆所属がバラバラでした。
一番数が揃っているのは第七駆逐隊だったのですが、【潮】はなおも作戦参加が難しく、【響】はまだ整備中でした。
このため【霞、初霜、朝霜】の3隻で新たに第二十一駆逐隊が編成されることになります。
そしてこの所属で、「天一号作戦」、すなわち「坊ノ岬沖海戦」に参加し、【霞】はその生涯を閉じます。
出典:『極秘 日本海軍艦艇図面全集 第一巻解説』潮書房
3月1日、3年以上【霞】の主であった山名寛雄中佐が【冬月】の艦長に異動。
最初で最後の作戦を指揮する新しい艦長には、「睦月型」を最後まで牽引した【夕月】の艦長を最後に務めていた松本正平少佐が就きました。
4月6日、【大和】と【矢矧】に率いられて第一遊撃部隊が出撃。
豊後水道の敵潜水艦に見送られて、艦隊は沖縄に向けて南進します。
この時敵潜水艦は哨戒だけを求められていました、半端に被害を出して引き返されるのを嫌ったのです。
不幸はまだ続きます。
4月7日早朝、【朝霜】が突然速度を落とし始めたのです。
こんなタイミングで機関故障を起こしてしまった【朝霜】は、どれだけ手を施しても全然足を速めてくれず、結局【朝霜】は孤立無援状態のところを空襲され、拭おうにも拭いきれない未練を残して沈没してしまいました。
【朝霜】一人で死なせはしない、すぐに我々も後を追う。
そのような気持ちで【霞】達は沖縄を目指したことでしょう。
曇り空、しかし荒れてはいない天候で、ついに連合艦隊最後の戦いが始まりました。
日本軍が憧れた大航空編隊、それが【大和】目掛けて突進してきます。
輪形陣はすぐに崩壊し、バラバラになったところに【矢矧】や駆逐艦に対しても爆撃が始まりました。
もちろん【霞】にも爆撃が降り注ぎ、【霞】は直撃弾2発、至近弾1発の被害を受けてしまいます。
缶室が浸水したことで【霞】は航行不能に陥り、【大和】を、大和の国を守るという【霞】の長い長い戦いは終わったのです。
空襲の合間を縫って、救助のためにある駆逐艦が【霞】に接近してきました。
山名艦長率いる【冬月】でした。
防空駆逐艦の力を存分に発揮し、自身はこの爆弾と魚雷、銃撃の嵐の中でも戦い続けていました。
【冬月】は【霞】の生存者を次々と【冬月】に移譲させますが、残念ながらかつて我が子のように接した【霞】を救うことはできませんでした。
救助とともに、【霞】には雷撃処分とすることが決定されました。
救助を終えて、距離を取り、【冬月】は「秋月型」として使う機会が非常に限られていた魚雷を味方に向けて放ちます。
命中して大きな水柱が立ち上り、次の瞬間、【霞】の姿はなくなりました。
戦死者17名、負傷者43名。
【大和】や【朝霜】らとともに、【霞】はこの地で役割を終え、立派な最期を迎えたのです。
参考資料(把握しているものに限る)