葛城【雲龍型航空母艦 三番艦】

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起工日昭和17年/1942年12月8日
進水日昭和19年/1944年1月19日
竣工日昭和19年/1944年10月15日
退役日
(解体)
昭和22年/1947年11月30日

建 造呉海軍工廠
基準排水量17,150t
全 長227.35m
垂線間幅22.00m
最大速度32.0ノット
航続距離18ノット:8,000海里
馬 力104,000馬力

装 備 一 覧

昭和19年/1944年(竣工時)
搭載数艦上戦闘機/12機
艦上攻撃機/18機
艦上爆撃機/27機
補用機/8機
格納庫/昇降機数格納庫:2ヶ所
昇降機:2機
備砲・機銃40口径12.7cm連装高角砲 6基12門
25mm三連装機銃 13基39挺
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 8基
艦本式ギアードタービン 4基4軸
飛行甲板
長216.9×幅27.0

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帝国海軍最後の空母 出番は終戦後 葛城

「ミッドウェー海戦」で歴史的大敗を喫し、4隻の空母を失った帝国海軍は、【翔鶴】【瑞鶴】ほどではなくとも、【飛龍】なみの空母の量産が必要だと判断し、「雲龍型」の建造に移ります。
【葛城】はその三番艦として、【雲龍】より4ヶ月遅れて起工されました。

【葛城】は、先に起工している【雲龍】【天城】に比べて少し変更箇所がありました。
建造中に本来搭載するはずの機関の製造が間に合わず、仕方なく「陽炎型」で採用されていた機関に変更しました。
結果として、馬力は従来の15万馬力から10万4千馬力まで低下しています。
その影響で最高速度も2ノット減の32ノットになりました。
また、対空機銃の座台は本来加工して丸型になるのですが、時間がないということで六角形で妥協、その代わり対空噴進砲が増備されました。

多少工期短縮のために見逃されている点があったものの、【葛城】【雲龍、天城】よりもさらに早い1年10ヶ月で竣工されました。
戦争末期でのこの工期の短さは奇跡的なものでした。

しかし、その奮闘もむなしく、日本にはすでに敗戦濃厚の空気が充満していました。
「戦艦」に砲弾が不可欠なように、「空母」には艦載機が不可欠です。
しかしその艦載機はどこを見渡しても数えるほどしかなく、それも最新のものではなく、出番のなくなった旧式揃い。
さらにはすべての船に必要な燃料もカツカツで、【葛城】は生まれながらにして不要な鉄の塊とかしてしまうのです。

昭和19年/1944年5月 あ号作戦直前と計画時の対空兵装比較
高角砲40口径12.7cm連装高角砲 6基12門(±0)
機 銃25mm三連装機銃 13基39挺(±0)
25mm単装機銃 24基24挺(すべて橇式 +24基)
※あ号作戦後 12cm30連装噴進砲 8基
電 探21号対空電探 1基(±0)

「雲龍型」は合計15隻を数える建造計画が立てられましたが、竣工したのはこの【葛城】が最後です。
起工を含めると、【笠置、阿蘇、生駒】の3隻が後に続いていましたが、彼女らは結局竣工されることなく建造中止、解体されてしまいます。

呉には他にも動くことのできなくなった船が大勢いました。
【葛城】は昭和20年/1945年7月の空襲により中破。
【伊勢】【日向】とは違い、ただ浮いているだけの彼女は浮き砲台としてすら活躍できませんでした。
そして日本は終戦を迎えます。

中破したものの被害は飛行甲板のみ、航行に支障が全くなく、更には大型・高速であった【葛城】は、戦争のために建造されたにも関わらず、戦後に最も重宝されます。
内装を改造して輸送可能人員の増加をはかり、【葛城】は南方への復員船として戦地に赴いた兵員たちを本土へ送り返しました。
1年間で8往復、送り届けた人員は5万人にせまり、同じく復員船として従事した【鳳翔】よりも1往復少ないにも関わらず、1万人ほど多くの人たちの力となりました。

昭和21年/1946年、復員船の職務を終えた末っ子空母【葛城】は、母たる空母【鳳翔】とともに、日立造船桜島工場にて解体され、生涯を終えます。

日本の未来を変えることはできませんでしたが、今後の日本の未来を変えるであろう人たちを救うことはできた【葛城】でした。


終戦後の【葛城】 復員船として戦後日本の復興を支える

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