酒匂【阿賀野型軽巡洋艦 四番艦】

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起工日昭和17年/1942年11月21日
進水日昭和19年/1944年4月9日
竣工日昭和19年/1944年11月30日
退役日
(沈没)
昭和21年/1946年7月2日
クロスロード作戦
建 造佐世保海軍工廠
基準排水量6,625t
全 長174.50m
水線下幅15.20m
最大速度35.0ノット
航続距離18ノット:6,000海里
馬 力100,000馬力

装 備 一 覧

昭和19年/1944年(竣工時)
主 砲50口径15.2cm連装砲 3基6門
備砲・機銃65口径7.6cm連装高角砲 2基4門
25mm三連装機銃 2基6挺
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 2基8門
缶・主機ロ号艦本式ボイラー 6基
艦本式ギアード・タービン 4基4軸
その他
水上機 2機
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帝国海軍最後の軽巡は戦知らず 酒匂

「阿賀野型」の四番艦【酒匂】は、もともと誕生の遅かった「阿賀野型」の中でも最も遅く、三番艦である【矢矧】竣工からも約1年も後での竣工でした。
昭和19年/1944年末は、もはや「レイテ沖海戦」すら終焉し、帝国海軍は壊滅状態、軽巡1隻でどうこうできる状況ではありませんでした。
以下の装備については恐らく艤装の段階から施されていたはずです。

昭和19年/1944年11月30日 レイテ沖海戦後と計画時の対空兵装比較
高角砲65口径7.6cm連装高角砲 2基4門(±0)
機 銃25mm三連装機銃 10基30挺(+8基)
25mm連装機銃 2基4挺(+2基)
25mm単装機銃 18基18挺(+18基)
25mm単装機銃取付座 11基(+11基)
電 探21号対空電探 1基(+1基)
22号水上電探 2基(+2基)
13号対空電探 1基(+1基)

竣工後の12月11日、【酒匂】は第十一戦隊水雷戦隊の旗艦に就任するのですが、この水戦は訓練用に編成されたもので、戦場に赴くことはなく、そもそも戦場に赴ける艦艇もごく僅か、燃料も枯渇寸前だったため、主に瀬戸内海での航海が続きました。
この時期はまだ本土の危機は大きくなかったわけですが、駆逐艦や海防艦の喪失は激しく、狭いものの瀬戸内海という安全な海域でなんとか応急的にも戦力にする必要があったのです。
戦争の空気が全く感じられない瀬戸内海では、穏やかな海を眺め雄大な山々を眺め、艦内で映画鑑賞をする余裕もありました。
ただ、映写機そのものがボロボロだったため、そのような設備も盤石である【大和】にたびたび器材を借りに行っていたそうです。

そんな苛烈かつ平穏な日々を送っていた中、昭和20年/1945年3月、いよいよ【酒匂】に初の実践の機会が訪れます。
「天一号作戦」【大和】以下、数々の名鑑が沈んでいった沖縄への特攻作戦です。
【酒匂】【矢矧】とともに出撃準備を行いますが、幸か不幸か、作戦直前に【酒匂】の出撃は中止されてしまいます。
特攻ということで、参加する艦は帰還が前提とされていません。
いくら敗戦濃厚とはいえ、竣工間もなく【酒匂】をわざわざ敵にくれてやる必要はないという判断だったのかもしれません。

一方で、まだ実戦の経験がない【酒匂】に砂漠の中の水滴に等しい燃料を搭載して、無駄にすることを嫌った可能性もあります。
当時の【酒匂】はボイラーも炊かれておらず、電気は全て陸上から供給されていました。
戦艦にしても、呉には【伊勢】【日向】が残されていましたし(【長門】は横須賀、【榛名】は活動はなかなか厳しい状況)、燃料があれば彼女らも出撃していたに違いありません。
しかし結局この2隻は燃料不足で【大和】最期の戦いにも付き添うことができませんでした。
燃料配分は【大和】を中心として考えられ、残りは比較的燃料が少量で済み、かつ沖縄までの道中を突破できる歴戦の艦船・兵士で水雷戦隊を構成したと考えられます。

その後、海軍一大拠点だった呉にアメリカの航空機がどっと押し寄せてくるようになります。
この
空襲に合わせてアメリカは海上封鎖のために空中から機雷をばら撒くという手段も取り始めました。
呉は日本随一の軍港であることから、アメリカは呉への空襲と機雷敷設を重点的に行います。
やがて呉軍港空襲は頻繁に行われるようになるわけですが、【酒匂】はその前に貴重な燃料をこの時ばかりはしっかり使い、5月21日、【酒匂】【柹】【菫】【楠】【櫻】【楢】【欅】と一緒に関門海峡を抜けて舞鶴港へと向かいました。
途中【櫻、楢、欅】は門司港にて離脱しています。

しかし舞鶴も当然ながら日本海側の軍港の中心ですから、アメリカのターゲットであることに変わりありません。
舞鶴には太平洋戦争の生き証人である【雪風】【初霜】がいましたが、舞鶴に到着した27日の時点ではすでに呉と同じく「B-29」の姿がたびたび目撃され、また機雷も投下され始めていました。
結局軍港に安全な場所はなく、【酒匂】らは早くも近隣の福井県小浜湾へと避難しました(【雪風、初霜】は宮津湾へ)。

ところが航空機からしてみれば目と鼻の先である小浜湾は避難所としては大きな役割を果たせず、月末には小浜湾にも機雷投下や機銃掃射が行われるようになります。
軍港ならまだしも、ここは民間の漁船たちが往来する長閑な湾です。
ここを危機に晒すと、ただでさえ民間人の犠牲者が増えている中でもっと被害を拡大させてしまいます。
そして6月26日には【榎】が触雷して大破着底。
平穏な小浜にはこの前から対空兵器が設置されたり、学校が野戦病院化したり、生徒がその手伝いをしたりするようになっており、この【榎】の触雷大破は大きな出来事でした。

このままでは小浜にもっと被害が重なることになる。
止む無く【酒匂】は7月に再び舞鶴へと戻ることになりました。
7月15日、もはや有名無実と化していた第十一水雷戦隊の解隊も決定され、【酒匂】は特殊警戒艦として舞鶴を最後の地とするべく出撃の準備に入ります。
燃料はもう重油すらなく、大豆油を使っていました。

出港当日の7月19日。
すでに湾出口付近に機雷が敷設されていることはわかっていました。
これをどう突破するかが最大の問題でした。
この時敷設されていたのは感応機雷と呼ばれるもので、直接接触しなくても、電波や地磁気の乱れに反応して爆発する機雷です。
対空機銃の近接信管のようなものです。

この感応機雷は触接機雷よりも広い攻撃範囲を持ちますが、反応してから爆発までに僅かな時差が生じます。
その何秒もない差で生き延びるために、【酒匂】は全速力で湾内を脱出することにしました。
そしてこの航法は見事【酒匂】を小浜湾から救い出し、2回の機雷爆発を受けますが直撃を回避することができました。
この際港内ではなく、港の向かいにある佐波賀に【酒匂】は繋留され、対空兵器は陸揚げし、木々や草などで擬装を施しました。
(参考:「榎がいた海 駆逐艦榎の最後」永月にに・福井県立小浜中学校併設中学校卒業「榎会」)

擬装された【酒匂】は、その後の空襲でも自らの隠匿性を最重視するために一切対空砲火を放つことはありませんでした。
そのおかげで【酒匂】は空襲の被害を受けることはありませんでしたが、逆に言えば一切援護をすることもなかったのです。
船の兵員たちは非常に歯がゆい思いをしたことでしょう。
(米軍が撮影した、擬装した【酒匂】の写真が残されています)

そしてこの最たるものが7月30日の「宮津空襲」です。
【酒匂】が沈黙を守る中、【雪風、初霜】【長鯨】らが退避しながらも必死に応戦しました。
しかし【初霜】はこの最中に触雷し大破、【長鯨】も艦橋に被弾しています。
強運の持ち主である【雪風】はこの戦いでも大きな被害を負うことはありませんでしたが、【酒匂】からは水柱が上がった次の瞬間には見るも無残な姿となった【初霜】の姿が見えたかもしれません。

8月15日、太平洋戦争は大日本帝国の敗北という形で終結しました。
【酒匂】は遂に実戦を経験せず、訓練中に遭遇した「B-29」への射撃のみでその役目を終えます。
【酒匂】は終戦後、約半年間特別輸送艦として【鳳翔】らとともに兵員の帰還のために働きました。
当然武装は解除され、居住区などが整備されて釜山や台湾、ニューギニアなどと日本を往復しました。

釜山⇔函館の往復の際は、日本で働いていた韓国人が艦内で戦勝を叫んで士官室などを韓国人に開放するように要求してきました。
戦勝(韓国は戦勝国じゃないですけど)戦敗如何によらずそのような要求を受けることは当然できないため、ここで揉め合うことになってしまったのですが、やがて船が時化に遭遇すると艦内の状況は一変します。
兵士たちは多少の時化で酔うほどやわではありませんが、陸での従事者である韓国人にとってはそれはそれは激しい揺れだったため、船酔いで艦内は汚物まみれとなってしまいます。
この時に食料として搭載していたキャベツが紙代わりに使われたことで、後甲板は汚物とキャベツの山となってしまい、敗戦国の成れの果てを象徴するような光景でした。


終戦後の武装解除された【酒匂】

昭和21年/1946年2月、【酒匂】は特別輸送艦の任を解かれますが、【酒匂】の最期は非業なものでした。
【酒匂】【長門】とともに、核兵器の実験「クロスロード作戦」の標的艦とされ、米軍に接収されてしまいます。
日本はビキニ環礁まで【酒匂】に添乗してほしいと頼まれますが、断っています。
そのせいで【酒匂】は最後はアメリカ人の手で操艦されることになりますが、別に日本が非協力的だったわけではなく、船の扱い方などは辞書を介したやりとりと身振り手振りでちゃんと説明がされています。

日本人がアメリカ人に操作を教えるという前代未聞のやり取りが【酒匂】内で行われる中、東京湾内での試験航行が行われることになりました。
しかしこの時日本の船とアメリカの船の巡航タービンと高圧タービンの関係が異なることから、大事故につながりかねない問題が発生します。
日本の巡航タービンは蒸気弁によって送り込まれる蒸気量が調節されていて、高圧タービンに切り替えるときは巡航タービン側のクラッチを切る必要があります。
当然その際には事前に巡航タービンへの蒸気弁は閉じなければなりません。
ですがアメリカのタービンの関係は減速ギアを介した直結タービンだったため、そもそもクラッチによる切り替えが存在しません。
この時は日本人も隣にいたわけですが、常識中の常識だった日本にとってのクラッチと蒸気弁の閉鎖、概念として切り替えが存在しないアメリカの食い違いによって、蒸気弁が閉じられないまま巡航タービンに規定量を大幅に上回る蒸気が注ぎこまれました。

巡航タービンはたちまちオーバーランを起こし、故障どころか吹き飛んでしまう大惨事となります。
幸いけが人は出なかったものの、巡航タービン1基は完全にお釈迦になってしまいました。
通常なら大問題で、すぐに缶の交換がされてしかるべきではありますが、どうせ近いうちに粉々になる船ですし、航行はできるわけですから、残念ながら【酒匂】はこの状態のままビキニ環礁まで向かうことになりました。

最後まで【酒匂】に残っていた、【酒匂】の分隊長だった阿部達大尉柴田一曹の2人は、アメリカ軍にビキニまでの同行を求められましたが、この時両者は実験の詳細については知らなかったのですが、同行は断っています。
阿部大尉の始末記にはこの時の判断を後々後悔されていることが綴られています。
ともあれ彼らは、日が昇らず、星が輝く【酒匂】を送り出した最後の日本人となりました。

7月1日の「クロスロード作戦」当日、【酒匂】は第一次実験「空中爆発」の際、爆心予定地からおよそ600mほど離れた場所で浮かんでいました。
しかし投下場所は予定地から逸れ、無情にも【酒匂】のほぼ真上で爆発してしまいます。
【酒匂】よりも爆心地に近かった【米兵員輸送艦 ギリアム】は瞬時に沈没。
しかし【酒匂】は艦上のあらゆるものが薙ぎ払われ、艦尾が粉々に粉砕されながらも持ちこたえます。
ところが核爆発による熱線が生み出した炎は消えることがなく、【酒匂】は1日中炎に包まれてしまいます。

翌日、米軍は被害状況の確認のために【酒匂】の曳航を試みます。
しかし曳航索が繋がれて曳航が始まるや否や、【酒匂】はその行為を拒むかのように船尾から徐々に沈没していきました。
幸い曳航索は切断ができたため、曳航していた【アチョウマイ】は沈没に巻き込まれずに済んでいます。

【酒匂】は今も【長門】とともにビキニの海で眠っており、ダイビングスポットとしてダイバーたちを楽しませています。

2020年12月29日 加筆修正

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