起工日 | 昭和16年/1941年10月15日 |
進水日 | 昭和17年/1942年8月17日 |
竣工日 | 昭和18年/1943年1月25日 |
退役日 (沈没) | 昭和18年/1943年7月20日 |
チョイスル島 | |
建 造 | 浦賀船渠 |
基準排水量 | 2,077t |
垂線間長 | 111.00m |
全 幅 | 10.80m |
最大速度 | 35.0ノット |
航続距離 | 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | 52,000馬力 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
次発装填装置 | |
機 銃 | 25mm連装機銃 2基4挺 |
缶・主機 | ロ号艦本式缶 3基 |
艦本式ギアード・タービン 2基2軸 |
潜水艦の脅威にさらされ続け、就役1年で沈んだ岸波
【岸波】が竣工したのは、太平洋戦争開戦からほぼ2年後の昭和18年/1943年12月3日。
姉の【沖波】より遅く起工し、早く竣工しています。
まずは第十一水雷戦隊で訓練を積む毎日を送り、昭和19年/1944年2月10日に【沖波】【朝霜】とともに、【長波】1隻となってしまった第三十一駆逐隊に編入されました。
2月26日、【岸波】は【沖波、朝霜】とともに【安芸丸、東山丸、崎戸丸】を護衛し、宇品を出港しました。
目的地はグアムとサイパンで、これはマリアナ諸島の防衛力強化に基づく輸送でした。
この時期このルートの輸送には松輸送と呼ばれる作戦があるのですが、【岸波】達の輸送は松輸送の命令が下される前のものなので、役割は一緒でも松輸送とはみなされません。
しかし29日、船団には【米ガトー級潜水艦 ロック】に見つかってしまいます。
【ロック】は闇に紛れて浮上しながら船団に接近をしましたが、これを【朝霜】がしっかり発見。
探照灯で潜望鏡を発見するや否や【朝霜】はすぐに砲撃と爆雷で【ロック】を攻撃し、【ロック】は魚雷こそ発射したものの狙いは正確ではなく、ダメージを重ねて撤退していきました。
ところが【ロック】は応援を要請しており、次は【米タンバー級潜水艦 トラウト】が船団を攻撃するために接近してきました。
【トラウト】が船団を発見したのは夕方になってから。
【岸波】達は警戒しながら先を急ぎましたが、【トラウト】は発見されることなく魚雷3本を発射します。
そのうち2本が【崎戸丸】に、1本が【安芸丸】に命中し、【崎戸丸】は大火災で丸焼きになり、【安芸丸】も艦首の被雷により航行不能となってしまいました。
この瞬間にまたも【朝霜】が【トラウト】を発見。
【トラウト】の潜望鏡は僅か1,200mほどにあり、【朝霜】は迷うことなく接近して爆雷を次々に投下します。
逃げる暇もなかった【トラウト】はここで沈没し、【朝霜】は値千金の戦果を挙げます。
ですが【崎戸丸】の被害は甚大で、火災は全く収まる気配がありませんでした。
結局【崎戸丸】からは総員退船が決定し、生存者が次々に脱出していきます。
一方で【安芸丸】は8ノットまで速度が出せるように修理ができたため、乗員救助は【岸波、朝霜】に任せて【沖波、東山丸、安芸丸】は先行することになりました。
【崎戸丸】乗員は1,720名が救助された一方で2,300名以上の戦死者を出す被害となりました。
【崎戸丸】沈没後も乗員の救助は続けられましたが、駆逐艦2隻では救助できる数に限界があります。
なので救助作業は要請により駆け付けた【藤波】【早波】に引き継ぎ、【岸波】と【朝霜】はぎゅうぎゅう詰めの状態で輸送を再開します。
そして【岸波、朝霜】は3月6日にサイパンに到着しました。
これだけの人数の食料なども確保しながら1週間航行というのは、どれほど過酷だったか想像ができません。
その後日本に戻った2隻は、今度こそ松輸送の命令の下での輸送を行いました。
【岸波】達で構成された船団は東松三号特船団で、【浅香丸、山陽丸、さんとす丸】の3隻が輸送船でした。
3月20日に出港した船団は28日に無事トラックに到着。
その後【山陽丸】が【岸波、沖波】の護衛、【朝霜、第30号駆潜艇】が【浅香丸、さんとす丸】を護衛してサイパンへ移動していますが、このサイパン行きについてはちょっと情報が異なるものの、トラックを経由せずに【山陽丸】と道中で分かれたというものもあります。
5月下旬、【岸波】がタウイタウイ泊地に停泊していました。
ついに久々の艦隊決戦ということで、多くの艦船がタウイタウイに集まってきていました。
これはこれまで松輸送などで防御を固めてきたマリアナ諸島や西カロリンにやってくる敵艦隊を迎え撃つという「あ号作戦」発動に向けての準備であり、【岸波】にとっては初めて駆逐艦らしい働きができる可能性がある作戦でした。
ところがフィリピンに近いタウイタウイはもともと連合軍も通商破壊のために警戒をしていたエリアで、いくら自陣とはいえフリーで動き回れるほど楽な場所ではありませんでした。
周辺では潜水艦が点在していて、他の輸送同様、今日は大丈夫でも明日はわからないと、常に緊張感を持ち続けなければならない場所だったのです。
おかげで迂闊に沖合まで出ることができずに訓練も大きな制限をかけられ、特に洋上での発着艦訓練もできない空母にとってはとっとと出ていきたい場所だったでしょう。
そんなタウイタウイでは、6月に入ると続けざまに駆逐艦が撃沈されてしまいます。
6日は【水無月】、7日はそれを探しに出た【早波】、そして9日には哨戒中の【谷風】が、全て【米ガトー級潜水艦 ハーダー】の手によって撃沈されたのです。
一方で日本は「ビアク島の戦い」を支援するために「渾作戦」を発動していて、なんやかんやあって「第三次渾作戦」の実施が決まり、タウイタウイとダバオから各艦がハルマヘラ島へ向かっていました。
ところがダバオ発の中にいた【風雲】が8日に【米ガトー級潜水艦 ヘイク】の雷撃で沈められ、挙句「第三次渾作戦」は連合軍によるマリアナ攻撃によって中止。
結局敵に主導権を握られた状態で「マリアナ沖海戦」に突入しました。
昭和19年/1944年8月20日時点の兵装 |
主 砲 | 50口径12.7cm連装砲 3基6門 |
魚 雷 | 61cm四連装魚雷発射管 2基8門 |
機 銃 | 25mm三連装機銃 4基12挺 |
25mm連装機銃 1基2挺 | |
25mm単装機銃 12基12挺 | |
電 探 | 22号対水上電探 2基 |
13号対空電探 1基 |
出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年
「マリアナ沖海戦」で惨敗したあと、【岸波】は13号対空電探や機銃の増備など、整備と補強を受けた後にリンガ泊地に移動。
しばらくはリンガで訓練を続けており、そして10月18日には「捷一号作戦」が発動されました。
【岸波】は第一遊撃部隊、いわゆる栗田艦隊に所属し、各方面からレイテ島を目指す最後の大規模作戦に打って出ました。
23日、日本の大名行列にさっそく横槍が入ってきました。
【米ガトー級潜水艦 ダーター、デイス】がショートカットのためにパラワン水道を無謀にも突破しようとしていた栗田艦隊に向けて、タダでは通さんと魚雷を発射し、【愛宕】【摩耶】を撃沈させ、【高雄】を大破に追い込みました。
【愛宕】のすぐそばで護衛していた【岸波】は2隻の存在を探知できず、雷跡に気付いて汽笛を鳴らした時にはもう手遅れでした。
次の瞬間に【愛宕】から爆発音が聞こえたと思ったら、早速少し傾斜し始めている姿が目に飛び込んできたのです。
慌てて【岸波】は【朝霜】とともに【愛宕】に接近します。
しかし4本の魚雷が満遍なく右舷に命中していた【愛宕】の浸水は酷く、どんどん傾斜が強くなります。
【岸波】は乗員救助のために【愛宕】への横付けを試みましたが、あまりに早く傾斜するために断念。
結局【愛宕】は被雷から20分ほどで沈没し、【岸波】は221名か529名か、人数の差が大きいのですが乗員を救助しています。
なおこの時ともに救助にあたった【朝霜】はその後【高雄】の救援にも向かい、最終的には撤退に同行したためここでお別れとなっています。
その後「シブヤン海海戦」や「サマール沖海戦」を戦いましたが、「サマール沖海戦」こそ戦果は多少あったものの被害はこちらの方が多く、また作戦の肝であったレイテへの突入も見送られ、「捷一号作戦」は失敗に終わりました。
撤退する駆逐艦は多くがコロンへ向かい、【岸波】もそこで補給を受けてからブルネイへ移動。
ブルネイ到着後は「シブヤン海海戦」で損傷した【妙高】を護衛してシンガポールへ向かうことになり、11月3日に到着しました。
「レイテ島の戦い」はまだ続いているのでレイテへの緊急輸送は欠かせず、「多号作戦」がすでに発動していました。
「多号作戦」は輸送船や輸送艦をレイテに送り込む輸送で、初期こそ連合軍の対応が甘かったために被害は少なめで済んでいましたが、日本の動きを知った後は空襲が激化。
第四次輸送も撤退中に喪失艦が出ており、さらに後に続いた第三次輸送では輸送艦全滅と【朝霜】を除いた駆逐艦4隻が沈没という蹂躙を受けます。
さらにその「多号作戦」の拠点であったマニラも空襲され、5日と13日の空襲でこれまた多くの船が犠牲になりました。
この一連の戦いの中で、第三十一駆逐隊は【長波】が沈没、【沖波】が大破着底となりました。
書類上、15日には【長波】と同じく第三次輸送で沈没した【浜波】が第三十一駆逐隊に編入されましたが、一方で【朝霜】は第二駆逐隊に転出。
なので第三十一駆逐隊は【岸波】1隻だけとなってしまいます。
26日、【岸波】は【第17号海防艦】【敷設艦 由利島】とともに【八紘丸】を護衛してシンガポールからマニラへ向けて出発。
これは問題なく進み、3日にはマニラからシンガポールへ帰ることになりました。
ところがその航路にはやはり潜水艦が潜んでいたのです。
船団を発見した【米バラオ級潜水艦 ホークビル】(【神風】と死闘を繰り広げた潜水艦)は、予想進路にいた【米ガトー級潜水艦 フラッシャー】に連絡。
【フラッシャー】は悪天候を隠れ蓑に、恐れることなく【岸波】達に接近しました。
【フラッシャー】は艦首魚雷4本を発射すると、2回に分けて2本の魚雷が【岸波】に命中し、【岸波】は航行不能に陥ります。
続いて【八紘丸】にも艦尾魚雷4本を発射してこれも2本が命中し、【八紘丸】もまた航行不能となってしまいました。
【第17号海防艦】が爆雷で反撃に出ましたが、すぐさま潜航していた【フラッシャー】にダメージは与えられず、魚雷を再装填し、爆雷が落ち着いたところで再び浮上。
この時【岸波】は【由利島】による曳航が試みられていました。
逃げられると思うなよと、【フラッシャー】は追撃の魚雷を【岸波】に向けて発射しました。
この魚雷がまた2本【岸波】に命中し、さすがに【岸波】も耐え切れずにここで船団を断裂させて沈んでしまいました。
さらにもう一度【第17号海防艦】の爆雷を回避した【フラッシャー】は【八紘丸】もきっちり追加の魚雷をお見舞いして仕留めています。
【岸波】は150名が【由利島】に救助されたものの、90名がここで戦死。
この日は12月4日。
竣工日から丸1年が過ぎ、新しい1歩をというところで奈落の底に落とされてしまったのです。