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赤城【航空母艦】その3
Akagi【aircraft carrier】

記事内に広告が含まれています。
  1. 時代が戦艦を空母へ変えた 試行錯誤の多段式
    1. 飛行甲板
    2. 備砲
    3. 防御
    4. 煙突・機関
    5. 格納庫・艦橋
  2. 本格的な大型空母に しかし失敗と予算不足が足を引っ張る
    1. 飛行甲板・周辺設備
    2. 煙突・機関
    3. 格納庫・艦内設備
    4. 備砲
    5. 煙突・機関
    6. 艦橋
    7. 余談
  3. 第一航空艦隊旗艦 蝶のように舞い、蜂のように刺す
  4. 慢心傲慢のミッドウェー 赤城の喪失は日本の凋落
「テキパキ」は設定上、前後の文脈や段落に違和感がある場合があります。


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本格的な大型空母に しかし失敗と予算不足が足を引っ張る

第一航空艦隊としてデビューした本格的空母の【赤城】【加賀】
しかし多段式甲板だけでなく、実際に使ってみるとなかなか不便な点や行き届かなかった箇所が多く、竣工後も手直しが絶えませんでした。
前述の通り【赤城】の連装砲が搭載されたのも1928年末からの工事ですし、その後も予備艦になっている間に工事をするなど、なかなか形が安定しません。

そんな中でも一際問題だった【赤城】の多段式甲板を改めるための大改装は、比較してあらゆる面で【赤城】よりもさらに深刻な問題を抱えていた【加賀】の改装が終わってからでした。
工事期間は昭和10年/1935年11月~昭和13年/1938年6月。
実はこの期間中の昭和7年/1937年7月から「日華事変」が始まっています。

【赤城】の改装は、実は元々の資金不足に加えて、問題だらけの【加賀】の改装を徹底した結果、さらにお金を使ってしまい軍の要求通りの改装ができないという悲しい事情がありました。
わかりやすい点では高角砲換装の中止、単装砲増設の中止、機関は混焼缶を専焼缶にするのみということが挙げられますが、空母の立場がまだそこまで高くないことが伺えますし、加えてこの時はまだ軍縮条約の縛りの中(この後すぐ脱退通告)だったので、軍事費そのものもやりくりが大変でした。

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飛行甲板・周辺設備

順番が多段式時代と異なるのは話の流れ上お許しを。

多段式甲板は、艦載機の大型化、横式着艦制動装置の導入という2つの条件が誕生したことで不要となりました。
しかし飛行機の大型化と高速化により、着艦のためにできるだけ長くしたかった甲板は、それだけでなく発艦準備のためにもできるだけ長く保有したくなります。

多段式時代の上段甲板は190.2mでしたが、一段式になるとこれが艦首まで伸びて249.17mとなっています(最大幅は同じ30.48m)。
【加賀】と違い、【赤城】の甲板長は船体長より短くなっています。

また甲板は多段式時代の上甲板同様、艦首側に0.5度(多段式時代の傾斜角度はわからなかった)、艦尾側に1.5度それぞれ傾斜があり、若干両端が下がっています。(『航空母艦「赤城」「加賀」』では艦首1.5度、艦尾2度[1-P154]※この角度は本書以外では確認できず※)

具体的な角度は別として、少なくとも多段式時代の艦尾と、一段式時代の艦首艦尾に傾斜があることは、写真からはっきりしております。
艦尾の垂れ下がりに関しては、多段式時代の甲板を節約のためにそのまま使ったためですが、艦首は新しく作った場所なので明確な意図があるはずです。
一説には艦首からの着艦も想定し、その時のために傾斜をつけたらしいですが(艦首からの逆着艦そのものは本当に考えられていた[4-P410])。
【赤城】の艦尾を支える工事は【加賀】のそれとは大きく異なっていて、ここでも資金不足が影響し、完全な工事がなされていません。

着艦制動装置に関してはいずれ【鳳翔】の項の改訂時により詳しく説明しようと思いますが、フランスのフュー式横索着艦制動装置、萱場式、そして呉式とグレードが上がっていき、【赤城】【加賀】は改装の際に呉式四号が搭載されています。
横索着艦制動装置というのは、縦式のようにビッシリワイヤーを引いて摩擦で止めるものではなく、数本のワイヤーのどれかに着艦フックを引っ掛けて止めるものですから、フックを掛け損なうことも想定しなければなりません。
掛け損なった場合は別の対策をしておかないと暴走してしまいます。
そのために横索の次には滑走制止装置と呼ばれる保険の装置がありました。

滑走制止装置とは言いますが、ようは網で正面から止めようって装置です。
飛行機が網に引っかかると、網はもちろん伸びますが、網を支える支柱がちゃんと網を引っ張り戻そうとしてくれるので、無理やり飛行機を止めることができます。
止め方こそ違えど構造は着艦制動装置と同じで、飛行機の推進力をワイヤーか網で引っ張り返すわけです。

最初の実験は、なんと陸上に滑走制止装置を設置し、そこに時速50kmぐらいの速度でトラックに突っ込ませるという危険なものでした。
トラックがネットに捕まった瞬間、トラックは走ってきた馬が急に止まったかのように頭を持ち上げて停止。
一応効果は認められましたが、飛行機はこの倍以上の速度で突っ込んでくるので、これで成功とはなりません。
最終的にどのような実験をもって完成としたのかはわかりませんが、初期はこのような試験もありました。[7-P121]
【赤城】の滑走制止装置は、【加賀】が大改装後に換装したものと同じ空技廠式三型です。
滑走装置は固定された3基のほか、移動式2基と応急用1基が備わっていたようです。[2-P64]

着艦に関する装備としては他にも重要なものがあり、着艦指導燈というものが装備されました。
これもいずれ改訂時に【鳳翔】の項でもう少し詳しく紹介しようと思いますが、正しい着艦高度、着艦姿勢を取るための目印です。

搭載というか開発が間に合わなかった装置としては、カタパルトがあります。
戦艦や巡洋艦が搭載する火薬式に対して、空母では空気式など連続使用が可能なカタパルトが求められました。
しかし日本は結局空母にカタパルトを搭載することはできず、大型機の短距離発艦という夢は叶いませんでした。

エレベーターは、改装前が2基だったのに対して3基に増えています。
後方のエレベーターはそのまま使っていますが、前方の右舷よりにあったエレベーターは流用されずに撤去されています。
これは当時のエレベーターが長方形でしかも前後方面が長かったことから、乗せる時も降ろす時も機体の向きを変えなければならない不便があったからです。

元の前方エレベーターとほぼ同じ場所から、中央に寄せた箇所に1番エレベーターが、甲板のほぼ中央に2番エレベーターが搭載されました。
新設されたエレベーターは幅16m、縦11.8mと横長になったので運用面では楽になりました。[9-P27]

最後に消火装置についてです。
弯曲煙突を搭載した空母は、構造上海水を汲み上げる装置が必須となっています。
この構造を利用して、汲み上げた海水で消火をするというのは非常に合理的な思考でした。
が、なんと【赤城】にはこの装置が搭載されていません。
原因はよくわかっていませんが、恐らくこれも予算の関係でしょう。
いや他の諦めた箇所よりも絶対安くできるやろこれぐらいの装置。

この予算の問題もあったのでしょうか、【赤城】はカタパルト2基を搭載するための工事が一緒に行われていました。[9-P28]
ただこの工事もどの段階まで行われていたのかがわからず、少なくとも実験が可能だった【加賀】レベルには遠く及ばない段階でストップしているのは間違いないでしょう。

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煙突・機関

煙突に関しては機関も関係しますが、多段式甲板時代の混焼缶が重油専焼缶になったこともあり、煙突は全部下向きに統一、一体化されました。
機関に関してはこの混焼缶8機の換装だけに留まり、出力は131,200馬力だったものが1,000馬力だけ増加。
しかしそれ以上に船が重くなったので、最大速度は31.2ノットに低下してしまいました。
一方で航続距離は伸び、14ノット:8,000海里だったものが16ノット:8,200海里に延長されています。

煙突に関連することとしては、まず「友鶴事件」が影響しています。
「友鶴事件」が発生したのは昭和9年/1934年3月で、【加賀】の改装が始まる6月よりも前でした。
この事件が発生するまでは、改装の際には艦橋と煙突が並んで甲板上に設置される予定でした。
ところが「友鶴事件」発生により上部に重いものを乗せるのが極度に忌避されたため、煙突は弯曲型になり、艦橋も小さくなったのです。

引き続き弯曲煙突を保持することになった【赤城】ですが、煙が甲板に影響しないのは弯曲煙突の大きな利点でした。
しかし煙は特に走行中は後方に流れていきます。
そして煙突の後方には居住区があり、ここに煙が入り込んでくることから、窓を開けるのは自殺行為でした。

完全に穴を埋めてくれればいいのですが、窓を閉めたぐらいで外の空気を完全遮断はできません。
居住区に居続けると赤痢や結核を発症したり、そうでなくとも空気の淀みで不快指数は上がる一方ですから、居住区に誰も近づかないという完全な矛盾が生じてしまいました。

みんなイヤイヤ廊下や格納庫で寝泊まりをするしかなく、やがて【赤城】「人殺し長屋」と呼ばれるまでに。
もともと【赤城】は下記の格納庫の例からもわかるように内部構造がぐちゃぐちゃで、それに加えて寝る場所で死にかねないのですから、居心地は最悪だったでしょう。

この苦情は見る限りではすべて一段式時代のものなのですが、逆に多段式に問題はなかったのかが気になります。
第二煙突が上向きだった時代だと入り込まなかったのでしょうか?
石炭燃やしてる三段式甲板時代のほうが余計に酷そうですが。

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格納庫・艦内設備

改装後の【赤城】の格納庫ですが、これは【加賀】とともに前方に延長されています。
多段式時代の中段・下段の甲板があった場所が全部艦内に収まりますから、このスペースが大体格納庫となりました。
そして今回の改装により格納庫は完全密閉型となっています。

ですが、多段式時代のほうで述べていませんが、【赤城】の格納庫はかなり困った設計になっています。

これは改装後のものですが、多段式時代は上段はエレベーターが末端、中段はエレベーターよりちょっと前が末端となっています。
またこの画像にはありませんが、下段甲板は3番エレベーターから2番エレベーターまでが、あまりエレベーター幅より大きくならずに繋がっています。
多段式時代はおおよそこれの半分です。

上段中段の格納庫は細くなったり右に左に触れたりとぐちゃぐちゃです。
【加賀】がある程度ストレートな設計なので、ここは大きな違いがあります。
格納庫の幅に関する設計は多段式時代から変えられていないので、これは初期設計の問題がここまで祟っていて、格納庫だけでなく【赤城】全体が入り組んだ使いにく構造になっています。

このデザインの原因はどうみても煙突で、【加賀】の煙突は格納庫に干渉しない設計だったのでこんなことにはなっていません。
煙突が出てくる分格納庫が絞られ、その部分にも飛行機を詰め込もうとしたから非常に狭苦しいです。

格納庫の元スペースは【加賀】より大きかったのですが、延長部分で広くスペースを取れたことで総面積は【加賀】が逆転。
搭載機は改装当時が【九六式艦上戦闘機】常12+補4、【九六式艦上攻撃機】常35+補16、【九六式艦上爆撃機】常19+補5の計91機でした。
さらに太平洋戦争が始まったときだと、【零式艦上戦闘機】21機、【九七式艦上攻撃機】27機、【九九式艦上爆撃機】18機の常補あわせて66機を保有していました。
下段の格納庫には【零戦】5機ぐらいしか収まらないので、ここは多段式時代から補用機の保管場所として使われていた可能性が高いです。[1-P158][2-P64]
この艦載機に必要な爆弾、魚雷、燃料ですが、ざっくり計算で3回の攻撃ができるほどの量の搭載が決められました。

また【流星】の開発が開戦前から始まっていたこともあり、【流星】を搭載した場合は【零戦】18+補2、【流星】36+補4を計画していました(マル5計画では艦戦24、艦攻36機、艦偵6機及び各1/3補用を搭載する)。
うち【流星】6機が露天繋止となっており、この段階ですでに格納庫ですべての艦載機を保管することに固執していないことがわかります。[8-P85][9-P29]

艦内設備でも予算不足の煽りを受けたものがあります。
ガソリンタンクとそれを貯蔵するタンク庫です。

軽質油、つまり航空機燃料のガソリンですが、昔のタンクは鋲接だったため、ちょっとでも綻びがあると中のガソリンが気化してしまう恐れがありました。
そして懸念した通りガス漏れを起こすようになり、結局【赤城】の五番、六番ガソリンタンクは使えなくなりました。[4-P112]

このようにガソリンの気化や被害拡大を防ぐ研究はずっと行われていて、喚起、隔離、気密、火気厳禁といろんなことが決まっていったほか、特に気密性を重視するために全溶接タンクへの入れ替えが行われました。[9-P25]
ところが【赤城】だけは一部のタンクが残されたままとなっていました。
普通なら五番、六番タンクの修理か交換がされるでしょうが、【赤城】の場合は逆にこの2つのタンクを絶対使えないように閉鎖する工事をする始末です。[4-P234]

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備砲

航空機の急成長に伴い、空母自身が直接敵水上艦と砲を交える可能性は激減しました。
加えて甲板を破壊するほどの衝撃を出す射撃でしたから、中段甲板にありました20cm連装砲はもちろん撤去されています。

しかし【加賀】は連装砲が無くなったかわりに単装砲が片舷5基となり計10門が維持されたにもかかわらず、【赤城】は金がねぇってことで増設されず、この6基だけが残されました。
増えようが減ろうが使い道の分からない主砲ではありましたが、「ミッドウェー海戦」では少なくとも54発の射撃が記録されていて(効果は不明)、錆びついていたわけではなさそうです。
本来ならこの単装砲も仰角を改良して高射砲っぽい使い方をすることも想定されましたが、そもそも古い高射砲をそのまま使い続けるぐらいカツカツだったので、高射砲じゃない主砲に手が回るわけもありませんでした。

空母の射撃と言えば本来は高角砲や機銃です。
しかし高角砲は、これもまた金がねぇってことで、最新の八九式40口径12.7cm高角砲に換装されることはなく、十年式45口径12cm高角砲のままでした。
どころか三段式時代でも述べている通り射角や配置の改善もされず、完全手付かずの状態だったので、何一つ変化がありません。
煙突が近い右舷側だけが、煤煙よけのシールドが付けられています。

機銃はさすがに海軍おなじみの25mm連装機銃が14基搭載され(竣工後搭載された13mm連装機銃からの換装)、また九一式高射装置が両舷と艦橋トップに計3基、九五式機銃射撃装置が各機銃群に計4基設置されました。
ところが改装後に増備された単装機銃はなんと7.7mm。
普通は25mmで、もっと言えば連装も三連装だろうし、高角砲が古いのなら尚更機銃には力を入れて然るべきでしょう。

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艦橋

改装後の【赤城】で常に話題に上がるのが、この艦橋です。
多段式時代に中段甲板にあった艦橋ですが、はっきり言って不便でした。
とにかく発着艦機の動向が全く見えません。
百歩譲って着艦は許すにしても、発艦準備などの攻撃態勢に入っている甲板上の動きが把握できないまま指揮をするなんて難易度が高すぎました。

他にも、大した高さのない艦橋からながーい中段及び下段甲板が見えますから、視界の中で甲板が見える割合が普通の水上艦よりも遥かに多いのも問題でした。
左右の視界も確保できないので、操船はできたとしても指揮という面では情報不足が顕著な配置だったわけです。

なので【加賀】が改装に入った時(昭和9年/1934年)、改装前の1932~1933年に後付けされた小さな艦橋(飛行科指揮所)を移設してもらっています。

再度ハセガワのHPからの引用です。
【加賀】から移設された艦橋はこの場所に設置されています。
そして今度の改装では、2隻とも艦橋が艦上に移動しています。
この時ちゃんと気流が乱れないように小型にすること、パイロットから見ても目障りにならないように、一番幅広のスペースに設置することが決まってます。

話を【赤城】に集中するために、先に対の【加賀】の右舷艦橋について軽く触れます。
【加賀】に関しては、まず艦載機の着艦ルールが左回り(空母を中心に反時計回に旋回して着艦動作に入る)だったことから、回り込む際に目に映って邪魔になる左舷側の艦橋設置はパイロットにとっては不親切でした。

さらに航空機のプロペラは二重反転プロペラでない限り、力が一方向に働きます。
時計回りの場合は力は左側に働くため、ボーッと操縦していると航空機は左にスライドしていきます。
左舷に艦橋があるということは航空機の流れる方向に艦橋があるということなので、これもまたパイロットにとって不親切です(これが理由で、大なり小なりレシプロ機は左右非対称であることが多い)。

主にこの2点が【加賀】で右舷艦橋が採用された理由ですが、【加賀】はこれを実現させることができる船体設計でした。
百害あって一利なしの艦尾排煙方式から【赤城】のような弯曲煙突に変更された【加賀】でしたが、煙突そのものは【加賀】のほうが小さくなりました。
加えて艦幅は【加賀】のほうが広くどっしりした構えなので、煙突と艦橋が右舷に偏ってもバランスを崩さずに済んだのです。

【加賀】が残した戦訓には、他に艦橋の前後の配置があります。
【加賀】は煙突が丁度中央付近にあったことから、艦橋はその前に配置されました。
ところが艦橋が前方にありますと、発艦加速時に艦橋が目に入る時間が長くなります。
これが結構ストレスで、発艦時の視界はできるだけ広く取ることが求められました。

艦橋の前後には課題を残した【加賀】でしたが、右舷艦橋という選択は良いものでしたし、それが可能な船でした。
しかし【赤城】は違います。
元巡洋戦艦の【赤城】は細長く、大きな煙突の近くに艦橋を置くと、流石に右舷側に重量が偏る危険がありました。
艦橋を左舷に移せば煙突とのバランスが取りやすいですから、【赤城】ではこのような判断に至るのもやむを得ません。

「友鶴事件」の影響も大きく、煙突とのバランスを考慮して、【加賀】の四層構造なのに対して【赤城】の艦橋は五層になっていることからも配慮が伺えます。[1-P162]
ただ艦橋の高さが高くなったのは、バランスの問題ではなく、艦橋が後退したことから見通しをよくするためとも言われていて、私はこっちの説のほうがしっくり来ます。[2-P6]

一応左舷艦橋側の理由も述べておきましょう。
船は港に入る時、左舷側で接岸をします。
これも船の共通認識(左舷をポートサイドと呼ぶ)で、陸側に煙突の煙を吐き出すと絶対厄介者扱いされますから、煙突がどちらかに偏る設計になりがちな空母は、右側に煙突を置く必要がありました。
じゃあ艦橋関係なく、両舷についている【加賀】の艦尾排煙方式はどうなんだよと思うのですが、舷梯付近で煙が出ないならいいのでしょうか?

ともかく煙突は絶対と言っていいほど右舷に設置され、加えて上記のバランス調整があり、【赤城】は左舷艦橋を土台として議論が進められました。
またこれは副次的なメリットだったかもしれませんが、【赤城】【加賀】を並走させた時、艦橋同士を接近させることで発行や手旗信号での伝達が容易になるという想定もありました。

【加賀】のこともありますし、【赤城】の艦橋は全体のほぼ中央に設置されることが決まります。
ですが右舷の方が良いものを敢えて左に設置するわけですから、風洞実験を始めとした事前の検証は行われています。
【赤城】は改装を行う前に甲板上に実物大の艦橋模型を設置し、実際に船を走らせて、風を観測したり発着艦実験を行い、慎重に設計を行ったのです。[4-P410]

当たり前ですが、当時の【赤城】は言うまでもなくまだ三段式甲板時代であったことが実験の前提として存在しています。
その中で実験を行った結果、

・当日の天候不良のため気流の調査は不十分ではあるが艦橋のために着艦に支障があるとは認められない
・煤煙は熱煙冷却(海水シャワー)を使用すればその影響は相当減殺されると思われる
・発着艦の利益があるのであれば、操艦上の不利益は補助艦艇などの補助で賄うべき

という結論が出されており、この結果左舷艦橋が誕生したのです。[4-P411]

このように無策で左舷艦橋を採用したわけではない【赤城】だったのですが、実際に工事が完了してからのパイロットからの評判は酷いものでした。
やはりトルクにより左に流れる現象が脳裏にあると、左舷艦橋は目に入って着艦しづらいという声が方方から飛んできたのです。
加えて気流の乱れもあったというのが通説ですが、上記の通り【赤城】の上で実験を行った際は気流の影響は不十分とあります。
もし実験はこの旧【赤城】上で行ったものだけであり、風洞実験などより数値を追究する研究がされていなかったのであれば、このようなことが発生しても不思議ではありません。
しかしこんな新しい設計を取り入れる中で詳細な実験をしないという事があるのでしょうか。

この問題に関しては急を要する事情がありました。
目の前では「翔鶴型」の建造がすでに始まっていて、しかも艦橋はいずれも左舷に置かれていました。
やはり船のバランスを考えると煙突と艦橋は分けた方がいいのがよくわかりますが、発着艦に不便であれば空母の存在意義が大きく薄まります。
まだ進水前でギリギリ変更が可能だという事から、昭和13年/1938年10~11月に急いで実地試験が行われたのです。[4-P412]

実験の結果は詳しく記されており、延べ451回の発着艦を行い、艦首より発煙させて写真を撮って気流の流れを読み取りました。
実験の中では2機が艦橋に接触して翼を損傷しています。[4-P412]

・風向正首ヨリナル場合ハ着艦ニ差支ナシ
・風向左舷5度迄ハ着艦容易ナリ
・風向右舷ノ場合ハ艦首ヨリ二度以上外ルレバ気流乱レ着艦困難トナル
・横風ノ場合ハ風下ノ方相当ノ吸込気流アリ
・要スルニ横風ノ許容範囲小ニシテ風向シバシバ変化スル場合ハ着艦ヤヤ困難ナリ
・夜間ノ着艦困難ナリ
・艦橋ハ極力舷外ニ張リ出スヲ要ス
・艦橋及煙突ハ極力同一舷トシ艦橋ノ位置ハ煙突ノ前方適当ノ位置ヲ可トス[4-P411]

これが実験の結論であり、左舷艦橋には大きな問題があることがはっきりしたのです。

いずれにしても利用者が不便を訴え、しかもそれは命に関わることですから、みんな【赤城】、そして同じく左舷艦橋となった【飛龍】に乗るのを嫌がりました。
ですが艦橋をすげ替えるなんてとんでも工事、すぐにできるわけがなく、しかも【赤城】に至ってはそれが不可能な構造です。
加えてすでに「日華事変」も始まっていましたから、結局【赤城】はこの問題児をずっと抱えたまま生涯を終えることになります。

最後に、艦橋そのものの構造について説明します。
【赤城】の艦橋が四層構造であることはすでに述べましたが、搭乗員待機所、発着艦飛行機指揮所、操舵室、羅針艦橋の順に昇っていきます。
そして羅針艦橋の上には射撃測定装置と高射装置が備わっていました。
【赤城】の艦橋の設置は【蒼龍】よりも遅かった可能性があり、過去の経験から決まった形なのでしょう。

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余談

これまでの項目に当てはまらなかったこととして、風紀の悪さは評判でした。
もともと特に大型艦は監督不行き届きにより風紀が乱れがちで、駆逐艦でよく言われる家族的な環境は生まれにくい場所でした。
【赤城】の場合はこれに加えて居住区(居住できるとは言っていない)状態だったし、例に漏れず陰湿ないじめや理不尽な制裁は日常茶飯事でした。
ただ【加賀】のほうがもっと酷かったようです、彼女は中国大陸の戦争にも参加しているので、そのストレスは【赤城】にはないものでした。

ここまで酷評続きだった【赤城】ですが、唯一褒めてもよさそうな点は、料理は抜群に美味しかったようです。
特に糖分を積極的に提供していたようで、夜食後に出てくるデザートは他艦では味わえないラインナップでした。

【赤城】で他に有名な出来事としては、ドイツへの技術供与です。
ドイツは結局空母【グラーフ・ツェッペリン】を建造することはできませんでしたが、三段式甲板時代にドイツ将校が【赤城】の調査や発着艦訓練の視察を行っています。
建造途中で放棄された【グラーフ・ツェッペリン】のどの部分に【赤城】の研究要素が含まれているかは定かではありませんが、そういう意味では日本がこの取引で大勝ちしているとも言えます。
もちろんただで見せるわけもなく、ちゃんと見返りをもらっていました。

代わりに日本が手に入れたのは、15,000tの水圧機やクルップ社製の最新の防御鋼板などでした。
これらはいずれも「大和型」建造に必須で、日本では絶対手に入らない最高級品でした。
逆にドイツからしてみると、「こんなパワーの機械でなに造るんだ?気狂ったん?」と全く理解ができない要求だったようで、「大和型」が世界の常識を覆した戦艦であったことは間違いないでしょう。

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参考資料

Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
日本海軍史
NAVEL DATE BASE
[1]航空母艦「赤城」「加賀」大鑑巨砲からの変身 著:大内健二 光人社
[2]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[3]艦隊防空 著:石橋孝夫 光人社
[4]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[5]銀座一丁目新聞
[6]大正11年5月 華府会議報告 軍備制限問題調書(上巻)極秘 第5項 第7回海軍分科会
[7]鳶色の襟章 著:堀元美 原書房
[8]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社
[9]日本海軍艦艇図面全集第三巻解説 潮書房