ようやく完成するもすぐ大改装 遅さは残るが赤城を逆転
「上海事変」には第一航空戦隊の【加賀、鳳翔】が参加し、1932年2月5日、【加賀】所属機は初めて空戦を経験します。
【三式艦上戦闘機】3機が敵4機との戦闘を行い、撃墜はなかったものの機銃弾が敵機に命中しています。
一方で対空射撃を受けた【一三式艦上攻撃機】が1機撃墜されており、これは世界最初の艦載機撃墜記録となっています。
22日にはテストパイロットとして中国にいたアメリカ退役軍人のロバート・ショートが操縦する【ボーイング218】との戦いが発生。
敵1機に対して【三式艦戦】は3機だったとは言え、【ボーイング218】を撃墜。
日本は小谷進大尉の乗る【一三式艦攻】が撃墜されたものの、ロバート・ショートは戦死し、日本が初めて敵機の撃墜に成功した瞬間でした。
ちなみにこのロバート・ショート戦死後に現地では記念碑が建てられていて、抗日の象徴の1つとして21世紀になってからは銅像が立つまでになっています。
【加賀】の大改装は昭和8年/1933年10月から始まりました。
三段式甲板の全通化と煙突の適正化、これが【加賀】大改装の大きな宿題でしたが、他にも速度改善、航続距離改善、艦橋改善、搭載機増など、逆に今までちまちま工事をし続けた理由がわからないぐらい多岐に渡る工事となります。
そしてやりたいことが多すぎた【加賀】は、「友鶴事件」の影響も含めた数度の計画変更の結果、莫大な資金が注ぎ込まれしまいます。
そして今度は【赤城】改装のお金がどんどんなくなってしまい、【赤城】は多くの妥協を迫られるのです。
飛行甲板・格納庫
役に立たなくなった三段式甲板は最上の一段甲板に更新されます。
【加賀】の場合はそれだけでなく甲板の全長も長くする必要があったので、【赤城】よりも甲板に関する工事は大規模になります。
まず全長は171.3mだったものが248.5mと77mも増加。
この延長のために艦首艦尾は様変わりし、それぞれが支柱でV字に支えるようになっています。
この形は【赤城】でも同じなのですが、【赤城】は予算不足で艦尾の甲板支えの改修が万全ではなかったようです。
また【加賀】は甲板の延長だけでなく船そのものも延長されていて、艦尾が延ばされた結果238.5mだったものが247.7mになっています。
【加賀】の支柱では昨今最終的には6本になったという考察が進んでいて、今は「6本なのは確かだろうが、いつから6本?」というところが焦点になっています。
最後に紹介する【加賀】発見の映像の中では、結局【加賀】の支柱が4本だったか6本だったかを証明する決定的証拠がなかったのは、マニアたちをがっかりさせたことだと思います。
2023年発刊の『日本軍艦史』では、昭和16年/1941年1月撮影の6本の支柱が確認できるような写真が掲載されており、2023年時点では最終6本というのはかなり有力な説となっています。
ちなみに支柱を6本にした理由については、のちに紹介するカタパルトの影響ではないかと言われています。[4]
少し話が脱線しましたが、【加賀】の甲板面積はこれで約7,000㎡となり、次世代空母の「翔鶴型」を上回る広さとなります。
ただ「翔鶴型」はそもそも甲板が小さいという不満があったので、【赤城】より広かったという事実のほうが【加賀】を立たせる評価になりそうです。
加えて甲板が海面から高い(21.7m)という点も利点で、これで少々の荒波でも甲板が波をかぶる心配がありませんでした。
元戦艦の割に全然乗らなかった艦載機ですが、2本の甲板が無くなったことで2段の格納庫は大拡張され、しかも【赤城】のような歪な形状でもなかったこと、構造物が船の幅から張り出しても保たれるバランスから、【加賀】の格納庫には無駄がなくなりました。
改装後の上段格納庫は58m、中段格納庫は38m延長され、2つの格納庫の面積は合わせて7,493㎡もあり、搭載数も一気に補用機込みで90機に増加、詰め込むだけ詰め込めば103機は入ったと言われています。
下段格納庫は引き続き分解された補用機や資材置き場になったようです。
最低で48機しか乗らなかった時期から比べると激増で、飛行機が大型化した太平洋戦争が始まる時点でも75機が搭載できました。
近い時期の【レキシントン】の搭載機数が70~80機ぐらいなので、この改装によって引けを取らない数になりました。
ですがこの格納庫は、場合によってはもっと巨大、艦首いっぱいいっぱいまで伸びた形になっていたかもしれませんでした。
現実の設計になった原因は、改装が始まる3ヶ月前に「友鶴事件」が発生したためです。
「友鶴事件」は水線上の船体が重すぎて、大丈夫だと思っていた傾斜角度でも転覆してしまったという事故なので、これで一気に重いものを上に乗せることができなくなりました。
ましてや【加賀】の場合はそれに加えて最初からバランスが右舷に偏る構造になるわけですから、もう転覆前提の設計と言っても過言ではないぐらいアンバランスでした。
ですから重心バランスにはかなり気を使う必要が出てきてしまい、極端な設計はできなくなってしまいました。
装甲でもない格納庫の外板がもたらす重量への影響は大きくないとは思いますが、風圧面積の増大なども考慮されたかもしれません。
もしこの復原性配慮の問題がなかったとした場合、【加賀】は艦首側の甲板支柱部分まで全部格納庫になっていた可能性があります。
イメージとしては甲板と船体が完全にくっついていた【大鳳】が近いのですが、【大鳳】は艦首が甲板まで繋がっていたのに対し、【加賀】の場合は格納庫がその形のまま押し出され、艦首の上にでかい箱状のものが乗っかったような感じです。
甲板上の設備については、着艦指導燈が初めて搭載されたのは【加賀】でした。
これは装備として設置されたのではなく自分たちで独自に開発設計したもので、これが目に留まってやがて正式装備になったようです。
また横索式着艦制動装置はフランスのフュー式が導入されたのが昭和5年/1930年で、ここから日本式のものへと更新されていき、最終的には呉式四号横索式制動装置が戦前の日本空母の標準装備となっていきます。
煙突・機関
【加賀】が嫌われる元凶だった煙突は当然この改装で撤去されました。
そして新しい【加賀】の煙突はどうするかということが、この時再び議論となっています。
【赤城】の弯曲煙突は好評だったので、この時真っ先にこの煙突が選ばれなかった理由は定かではありませんが、あの構造は見た目のとおり色々面倒そうではありますし、たぶん【赤城】の居住区への煤煙問題も影響したのでしょう。
【加賀】の煙突は、最初の空母化工事のときにも議論に上った、甲板上に艦橋と煙突を設置するというシンプルな形が採られることになります。
ただ構造こそシンプルですが、「レキシントン級」のように煙突と艦橋は大型にする予定だったため、バランスが保てる設計が求められました。
しかもこの時には一般的に思い浮かぶ形の煙突だけでなく、極端に高い煙突であったり、煙突を多少外側に傾斜させるという、のちの「飛鷹型」や【大鳳】【信濃】で採用されているようなデザインも検討されていました。
先ほど【加賀】改装案の模型を紹介していますが、そこでも艦橋と煙突が離れているのがわかります。
しかし【加賀】に直立煙突が設置されることはありませんでした。
飛行甲板・格納庫の項目でも述べている通り、「友鶴事件」によって過度な重心上昇が許されなくなったためです。
なので【加賀】の直立煙突案は廃案となります。
結局【加賀】も【赤城】と同じ弯曲煙突が採用されますが、機関の性能は【赤城】を上回ったため、煙突の大きさは【加賀】のほうが小さくなっています。[2-P49]
その影響なのか、逆に「焼き鳥製造機」が有名すぎるからなのか、結局弯曲煙突の煤煙による【赤城】の「人殺し長屋」の不満は他の船の説明や紹介ではあまり見かけない苦情です。
艦尾排煙方式の廃止によって、これだけで100tも重量削減につながりました。
足が遅くて有名だった【加賀】は、煙突の入れ替えと同じぐらい機関換装も大切な工事でした。
ロ号艦本式缶は大8基、小4基だったものが新型の空気予熱器付きの大8基に全換装。
さらにタービンはブラウン・カーチス式タービン4基の内、内側2基が最新の艦本式タービンに入れ替えられ、出力が91,000馬力から127,400馬力へと大幅にアップします。
これで速度も28.3ノットになり、やはり全空母中最低の速度ではありましたが、足を引っ張るほどのものではなくなります。
目標は30ノットでしたが、これはちょっと欲張り過ぎかも。
「友鶴事件」の影響で重心を下げ、バランスをとるために新たにバルジが追加されて抵抗が増えたことが一因です。
また燃焼効率の改善に加えて艦内スペースの増大から搭載燃料も約3,000tも増えました。
これで航続距離が16ノット:10,000海里となり、これは「翔鶴型」の18ノット:9,700海里には及ばないものの、【赤城】【蒼龍】【飛龍】には大きく差をつける能力となりました。
「真珠湾攻撃」で航続距離の心配がなかったのは「翔鶴型」と【加賀】の3隻だけで、他の3隻は参加させるか迷うぐらいには航続距離がギリギリで、備え付けのタンクだけでは足りないから燃料入りのドラム缶を積みまくってようやく安心できるぐらいでした。
艦橋
【加賀、赤城】はいずれも中段甲板を封鎖して、上段甲板の下に艦橋を設けました。
しかし視界は狭いし最終的に上段のみしか使わなくなった上段甲板の状況もわからないしとかなり不便であり、さらに今回の改装では1本の甲板が船の水線長よりも長くなりますから、同じような場所に設置したらもっと不便になります。
なので【加賀】の艦橋は甲板上に乗ることになりました。
当初はかなり大型の艦橋を設置予定でしたが、「友鶴事件」の影響で艦橋の大きさは四層構造の小型サイズとなってしまいます。
ですが甲板上に艦橋があるだけでも運用の楽さは段違いです。
【赤城】が五層構造になっているのは、【加賀】の四層だとちょっと低い上に、艦橋が船の中央付近に設置されたことで視界が足りなかったためです。[2-P6]
大きさの他にも【赤城】にある4.5m測距儀が【加賀】にはないのも特徴です。
艦橋は若干外にはみ出る位置に設置されたのですが、【赤城】では艦橋トップにある測距儀は、【加賀】では艦橋からさらに舷側にある張り出しに設置されています。
【加賀】は昭和8年/1933年2月から始まった修理中の5~6月頃に、仮設の小さな艦橋を右舷先端付近に設置しています。
この艦橋は箱に天幕張ってちょっと張り出しがあるレベルのホントに簡単な作りでした。[2-P4]
これは改装時に撤去されたので使われたのは半年ちょっとではありましたが、この期間に新艦橋に求める要素が集積されたでしょう。
撤去された小型艦橋はその後【赤城】に移されて、こちらも改装が入るまで使われています。
【加賀】の新しい艦橋は右舷にされます。
なぜ煙突が右舷で艦橋も右舷に設置するのか、対に置けばバランスが取れるのではないかと思うのですが、これにはちゃんと理由があります。
【赤城】でも説明をしておりますが、まず船は左舷接舷が世界的に常識となっているルールです。
そのため左舷に煙突を設置すると、特に【加賀】達のような弯曲煙突だと港に煤煙を噴射するに等しいわけですから、入港拒否されても文句は言えません。
なので煙突、排煙は左舷に寄せないように配慮した設計をするのは、船造りの不文律でした。
では艦橋を左舷に置けばいいじゃないとなるでしょうけど、これもそう簡単な話ではありません。
当時はプロペラを回して飛ぶレシプロ機の時代。
二重反転プロペラや双発機など複数のプロペラを持たない限りは、プロペラの回転により力が一方向に向かいます。
1基のプロペラを持つ機体はプロペラが時計回りに回るので、力は左に傾いていくため、操縦桿を全く握らずに飛行していると飛行機は勝手に左に流れていきます。
つまりパイロットは左に流れる力を制御しながら操縦する必要があり、左への意識は右よりも強くなります。
その左に艦橋という障害物があると、どうしてもパイロットに精神的負荷がかかってしまうのです。
煙突と艦橋、それぞれ右に置きたい事情があり、【加賀】はこの2つの構造物でバランスを取ることよりも実用性を重視し、いずれも右舷への設置を決定。
これは【加賀】が幅広の戦艦であったこと、煙突が【赤城】よりも小型であったこと、改装により艦内スペースに余裕が生まれたことなども影響しています。
また【赤城】ができるだけ構造物が外にはみ出さないような設計になっているのに対して、【加賀】はその設計を活かして構造物も横に大きく張り出しています。
ただし水線下には元からあるバルジに重ねてバルジを設置していることから、いくら元戦艦であっても今回の改装は少々負担が大きかったようです。
もし改装でもバランスが取れずに右舷への負荷が強ければ、【赤城】のように左舷に艦橋を設置するか、より艦橋を小さくするなど別の手段を取らなければならなかったでしょう。
艦橋を設置しても艦橋付近の甲板幅は29.5mあり、最大甲板幅が30.48mであることを加味すると着艦時の負担はかなり小さかったと思います。
しかしこれまでいいこと尽くしの【加賀】の改装ですが、艦橋の配置には別の部分で問題を残してしまいました。
煙突が船の中央からちょっとだけ前にあるのですが、これが邪魔をして【加賀】の艦橋はこれより前に置く必要がありました。
他の船でもそうですが、煙突の後ろに艦橋を置くと煙をもろ被りしますから、そんなところには絶対置きません。
ですが艦橋が前方にあると、発艦時に艦橋が視界に入る時間が長くなります。
着艦時のパイロットの負荷を考えて右舷配置を決めた艦橋でしたが、発艦時の負荷までは対応しきれず、これは弯曲煙突導入、そして右舷艦橋を採用している【蒼龍】「翔鶴型」でも同様の問題が残されたままでした。
これが解消されるのは煙突と艦橋の一体型設計となった「飛鷹型」や【大鳳、信濃】になってからで、「雲龍型」でも艦橋は前寄りです。
艦橋が前方に設置された理由としては、他に横索式着艦制動装置がまだ発展途上であることから、どうせ着艦機は甲板のかなりの距離を滑走するだろうから、収容の指揮や準備をするのも前のほうが良いだろうというものもあったようです。[1-P102]
備砲
20cm砲を10門搭載していた【加賀】と【赤城】でしたが、そのうち連装砲2基は中段甲板の撤去により行き場を失いました。
多段式甲板はもうダメだとわかったものの、主砲については結局踏ん切りが付かずに引き続き搭載されました。
そして【加賀】は連装砲2基分の4門が両舷に追加されて10門搭載を維持しています。
ちなみにこの片舷5門の主砲ですが、支柱の項目でも出てきた1941年1月の写真では最後尾の砲が撤去されており、開戦の少し前に主砲は8門になっていたようです。
更新されたのは高角砲もです。
当時の高角砲は45口径12cm連装高角砲が6基。
しかしこの高角砲は大正生まれの古い砲で、飛行機に当てはめると【一〇式艦上戦闘機】、つまり【加賀】誕生時の標準搭載機の時代です。
もちろん【一〇式艦上戦闘機】はとっくの昔に引退していますから、高角砲だって新しいものにしないと今の飛行機に対応できません。
海軍は昭和7年/1932年に新しい高角砲として四十口径八九式12.7cm高角砲を採用していて、【加賀】の高角砲はこちらに換装されます。
この高角砲は日本の主力高角砲として、戦艦から駆逐艦まで幅広く搭載されています(海防艦の高角砲は古い45口径12cm高角砲)。
また数も2基増えて8基16門となりました。
対空兵装と言えばもちろん機銃も含まれます。
【加賀】は空母として竣工後に13mm機銃と留7.7mm機銃をそれぞれ搭載していますが、この口径だと当然力不足なので、こちらも25mm機銃に換装されています。
ここはチェックポイントなのですが、当時の25mm機銃は九六式ではなくホチキス社製の保式。
九六式が採用されたのは昭和11年/1936年で、【加賀】が九六式を搭載したのは昭和14年/1939年のようです。
基数は11基というのが有力ですが、『昭和造船史』では14基となっていて、これが【赤城】の14基に引っ張られたのか、はたまた後で増備されたことで計14基となったのか、定かではありません。
対空兵装に関しては配置も改善されました。
三段式甲板時代の高角砲などは飛行甲板の下に潜り込むような配置だったため、真上への射撃が精一杯でした。
逆側から攻撃された時に力を発揮できないため、この位置が甲板のほぼ真横にまで移動。
以後の空母も同じ位置になりますが、こうすると甲板に遮られずに360度に攻撃が可能となります。
カタパルト実験
これは昭和16年/1941年9月に行われたことであり、改装時の事柄ではないのですが、【加賀】の性能に関することなので敢えてここで紹介いたします。
年々大型化していく艦載機でしたが、艦載機に合わせて空母も大型化していくと、どれだけ空母を作っても何年も持たずに使えなくなってしまいます。
着艦は何とかなったとしても、発艦は加速+揚力がなければできませんので、航空機の発展は空母を苦しめるというジレンマがありました。
それを解決するために、各国ではカタパルト開発に余念がありませんでした。
カタパルトと言えば水上艦の水上機射出のための火薬式カタパルトはすでに実用化されていて、日本ももちろん運用しています。
ただ火薬式は連続射出に不向きで、水上機のような数機の発射程度なら許されても、空母のように何十機も飛ばす運用にはとても使えませんでした。
なので空気式カタパルトの開発が急がれていたのです。
【加賀】で準備が進められたのは、空技廠が開発した空気式カタパルトの実験です。
実験に使われたのは、当時もまだ現役だった【九六式艦上戦闘機】。[4]
【加賀】には滑走車が走るための3方向から溝があらかじめ掘られていました。
しかし実際は【加賀】のカタパルトが実用されたことはありませんでした。
予めお断りしておきますが、以下の内容は私自身の解釈によるものです。
どうもこの件に関してはバシッと「事実はこう!」と読み取れる書き方をしているものが見当たらず、人それぞれどう思うかが分かれる表現ばかりでした。
なので個人的にいろいろ調べた結果、こういう事ならまだ腑に落ちると思い至った内容になります。
また根本的な問題として、滑走車に乗せて航空機を発射する方法は仕組みが水上艦から水上機を発射するのと一緒なので、1機1機滑走車に乗せる手間が発生します。
さすがに全機カタパルト射出ってことはないでしょうが、にしても全機発艦にアホほど時間かかるので、空母でこの方式のカタパルト射出がそもそもナンセンスではあります。
カタパルトの実験は厳密には「失敗」ではなく「延期・中止」という表現の方がしっくりきます。
まず1939年に「陸上実験で【九六式艦戦】のカタパルト射出実験に成功」しているのは間違いないようです。
問題は【加賀】上での実験で、「実験は実施された」とか、「予定された」とか書かれていて、「実験したの?してないの?」と当初から混乱していました。
よくよく調べたところ、「9月に【加賀】でのカタパルト射出実験を予定していたが、搭乗員を乗せないダミー機で先に射出を行ってみたところ、前述の問題が明らかとなり、実際に人を乗せて飛ばすのは止めた」という解釈が一番納得いくものでした。
実験に係った小福田晧文少佐が「人が乗っていたら死んでいた」と言われるぐらいのものだったので、相当やばい結果だったのでしょう。[7-P122][8]
ただこのダミー機についても【九六式艦戦】ではなく【零式艦上戦闘機】ではなかろうかと思われる節もあります。
【零戦】が誕生したのなら【九六式艦戦】がそもそも不要だからです。
もちろん両方で試した可能性もありますが。
【零戦】は【九六式艦戦】よりも重いですから、【九六式艦戦】のダミー射出の結果を踏まえて、【零戦】ではやるまでもないという判断だったかもしれません、ここはほんとにわからない。
『日本の航空母艦パーフェクトガイド』には、「射出速度の不足が問題となり」とあるため、やはり現行のカタパルトでは少なくとも【零戦】は落下してしまうという事だったと思います。[9-P87]
この結果から有人実験は延期され、実験は昭和17年/1942年3月に行われることになりました。
しかしこの間に太平洋戦争が始まってしまい、射出速度が改善しないから今度は機体の角度を12度上向きにして走らそうとしたところ、尾部が滑走車に当たる問題が新たに発生。
こんなゴタゴタをしているうちに【加賀】も沈んでしまい、カタパルト開発は停滞、やがてカタパルトを使わないロケット式の研究が熱を帯びるようになります。[9-P87]
ちなみに一対のカタパルト軌条が明確にわかるのがこの写真です。
右側の斜めに2本直線が入っているのが軌条になります。
加賀の写真を見る
参考資料
Wikipedia
艦これ- 攻略 Wiki
日本海軍史
NAVEL DATE BASE
[1]航空母艦「赤城」「加賀」大鑑巨砲からの変身 著:大内健二 光人社
[2]図解・軍艦シリーズ2 図解 日本の空母 編:雑誌「丸」編集部 光人社
[3]三段空母『加賀』の恐怖のメカニズムを3DCGで解説してみた【音声改善版】 宮前めさの『テイコク立体』
[4]【最新調査】航空母艦『加賀』の真の姿を3DCGで復元してみた【4K】 宮前めさの『テイコク立体』
[5]大正11年5月 華府会議報告 軍備制限問題調書(上巻)極秘 第4項 第6回海軍分科会
[6]日本空母物語 福井静夫著作集第7巻 編:阿部安雄 戸高一成 光人社
[7]指揮官空戦記 ある零戦隊長のリポート 著:小福田晧文 光人社
[8]真実一路
[9]日本の航空母艦パーフェクトガイド 歴史群像太平洋戦史シリーズ特別編集 学習研究社