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【松型駆逐艦 槇】
Maki【Matsu-class destroyer】

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起工日昭和19年/1944年2月19日
進水日昭和19年/1944年6月10日
竣工日昭和19年/1944年8月10日
退役日
(解体)
昭和22年/1947年8月14日以降
建 造舞鶴海軍工廠
基準排水量1,262t
垂線間長92.15m
全 幅9.35m
最大速度27.8ノット
航続距離18ノット:3,500海里
馬 力19,000馬力
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 8基8挺
缶・主機ロ号艦本式缶 2基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸
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戦争末期、日本の儚い夢の実現のために尽力した槇

昭和19年/1944年9月5日時点の兵装
主 砲40口径12.7cm連装高角砲 1基2門
40口径12.7cm単装高角砲 1基1門
魚 雷61cm四連装魚雷発射管 1基4門
機 銃25mm三連装機銃 4基12挺
25mm単装機銃 12基12挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

【槇】は八番艦ですが、六番艦【桐】、七番艦【杉】よりも早い竣工で、いよいよ起工から竣工までの期間が半年を切ります。
竣工後は他の「松型」同様、第十一水雷戦隊で激しい訓練に励みます。
しかし無茶な稼働があったのか、訓練中に【槇】は機関の故障も起こしています。

9月30日には第四十三駆逐隊へ編入され、いよいよ実戦に配備されます。
しかし初陣で【槇】はいきなり日本の命運を決定づける大戦に巻き込まれました。
アメリカ軍がレイテ島に上陸したことで発生した「レイテ島の戦い」に、海軍は総力戦で挑むことになります。

作戦発動前は対潜掃蕩部隊の第三十一戦隊として【槇】は訓練を続けており、何もなければ【槇】にお鉢が回ってくることはなかったでしょう。
しかし「レイテ島の戦い」が始まったとき、機動部隊(小沢艦隊)を守る第五艦隊(志摩艦隊)は、「台湾沖航空戦」で幻の敵敗残兵を仕留めるために出動していて、護衛がいない状態でした。
なので志摩艦隊西村艦隊を追いかける形で「捷一号作戦」に参加したものの、小沢艦隊は機動部隊と第三十一戦隊が中心で構成されました。

初陣とは言え、【槇】は電探も装備していたので、それだけでも最低限の仕事はできます。
「松型」では他に【桑】【桐、杉】がこの作戦に参加。
小沢艦隊は20日に日本を出撃し、敵機動部隊の攻撃を一身に受けるために最後の奉公に出ます。

しかし24日に【瑞鶴】所属の【零式艦上戦闘機】が着艦に失敗し、救助に向かった【桐】【杉】が離脱。
25日には各空母から少々の戦闘機を残して索敵後に陸上基地へ向かうように指示を受けて発艦していきましたが、この時故障により不時着水してしまった【九七式艦上攻撃機】がありました。
【槇】はこれの救助に向かいましたが、艦隊から離れてしまったので急いで後を追いました。[1-P197]

そして8時ごろから敵機が続々と現れました。
「エンガノ岬沖海戦」が始まったのです。
その第一波で【秋月】が被弾し、魚雷の誘爆により大爆撃を起こして沈没。
【槇】【霜月】とともにすぐさまその救助に向かいました。

対空戦は熾烈極まりなく、空母は次々に被弾炎上、救助活動中にも空襲が容赦なく襲いかかり、犠牲者がどんどん増えていきます。
【槇】【秋月】沈没地点に急行して乗員を救い出しますが、その間にも周辺で次々に黒煙が上がり始めます。
これは戦争ですらないと【槇】は絶望を味わいながら、次は【千代田】の救援に向かいました。

【秋月】【千歳】の沈没により【千代田】の護衛は手薄になっていて、【千代田】は第二波の空襲で被弾。
【槇、霜月】【日向】の3隻は【千代田】を囲んで防御を固めますが、【千代田】が航行不能になったことから曳航する必要が発生し、【五十鈴】【霜月】と入れ替わって【千代田】曳航の準備に入りました。

しかし曳航するには【五十鈴】の燃料は明らかに足らず、曳航作業自体も空襲が邪魔をしてもたつきます。
そしてついに【五十鈴】は被弾して舵を故障、【槇】は3発の爆撃を1番砲付近に被弾し(流石にロケット弾でしょうか)、続いて第一缶室付近に被弾(これは普通の爆弾っぽい)したことで中破します。
被弾とそれによる被害の関係がはっきりしないのですが、【槇】は速度が最大20ノットに落ちた他、燃料約200tという膨大な量が流出。
舵も故障していた可能性があり、これでは【千代田】の護衛も難しいです。
【槇】はこの空襲で31名が戦死しています。

自艦の被害が大きいため2隻は撤退を開始。
しかし【五十鈴】【千代田】救助を諦めておらず、日没後に【千代田】救助のために反転を計画していました。
ですが【槇】はただでさえ航続距離が短い船なのに、先程の被弾で燃料を大量に失って今や90t、この救助を手伝うことはできませんでした。[1-P412]
【千代田】の救助は【五十鈴】【若月】、そして後から【初月】が加わっていますが、最終的に【千代田】の救助はできず、また【初月】が沈没しています。

【槇】は燃料がなくならないことを祈りつつ、単艦で撤退を継続します。
後で逃げてきた【五十鈴】【若月】も合流し、【槇】はギリギリの燃料で何とか沖縄に到着。
沖縄で【たかね丸】からの補給を受けた後は、【桑】乗艦の【瑞鳳】乗組員を引き受けて呉に向かいました。

その後呉のドックで修理を受けた【槇】は、【涼月】【冬月】とともに【隼鷹】を使ったマニラ輸送に加わります。
「レイテ沖海戦」後の11月上旬に1回成功していたこの作戦は、2回目の今回(11月23日出撃)も無事何事もなく達成され、12月1日にマニラを出発しました。

4隻はそのまま日本に直行せず、3日に馬公に立ち寄ります。
日本に戻る途中の【榛名】が合流する予定だったためです。
5日に【榛名】達が到着し、6日に【槇】達は日本へ向けて出発しました。

ところがこれまで順調に進んでいた航海も、最後の最後で大きな壁に阻まれます。
9日未明、野母崎西方の女島付近に差し掛かった5隻を、【米バラオ級潜水艦 シーデビル、レッドフィッシュ、プライス】のウルフパックが発見。
空母がいるとなればそりゃ目をつけられるわけで、まず1時半頃に【レッドフィッシュ】【シーデビル】【隼鷹】に向けて魚雷を発射します。
そのうち2本が時間差で【隼鷹】右舷に命中し、艦首の被雷は底部を抉り取り、機関付近の被雷は機械室を満水にさせ、傾斜は18度に達しました。
それでも水密隔壁がしっかり役割を果たし、浸水は右舷の機械室だけに食い止めることができ、無事だった左舷機関を駆使して自力航行が可能でした。

しかし複数の潜水艦がいるのに魚雷を撃つのが1隻だけなんてことはありえません。
次は【シーデビル】【プライス】がやはり【隼鷹】に向けて魚雷を発射しました。
そしてそのうちの1本が、【隼鷹】ではなく護衛の【槇】の艦首に命中し、衝撃で【槇】の艦首は無くなってしまいました。

ここで情報の不正確さが残ります。
2隻が魚雷を発射したタイミングは1時間ほど異なり、【シーデビル】は0時半頃、【プライス】は1時半頃となっています。
そしてさらに2隻とも複数本の命中を主張しています。
一方で【槇】の被雷は2時頃となっていて、日本近海ですから時差もないので、誰かの記録が絶対間違っています。
また【隼鷹】の被雷に関しても、時間差の2本は1隻からの魚雷ではなく、【レッドフィッシュ】【シーデビル】それぞれから1本ずつという可能性もあります。
被雷の順番から見ると、日本の記録は間違っていないように感じますが。

話を戻して、【槇】の艦首被雷に関しても、100%信じるのは危険かもしれませんが逸話が残っています。
【槇】は2時に【隼鷹】後方の護衛に付くべく移動をしていた時に、また魚雷が【隼鷹】に向かって進んでいるのを発見しました。
すごく傾斜していたものの、なんとか沈まずに耐えていた【隼鷹】に、また魚雷が命中したら今度こそ沈んでしまいます。
そこで【槇】はあえて回避行動をせず、【隼鷹】めがけて突っ込んでくる魚雷をわざと艦首に命中させるという捨て身の行動に出たのです。

これは艦橋でも意思疎通ができていて、【槇】は見事に艦首で魚雷を受け止めます。
艦首の被雷というのは見た目こそグロテスクですが、実は頭・腹・お尻の3箇所で見れば圧倒的に生存性が高い場所です。
お腹は機関、お尻は舵やスクリューがあり、どちらも当たりどころ次第で動けなくなりますし、その間も弾薬庫とかがあります。
しかし艦首はその後の防水処理次第では前進すら可能で、それが無理でも後進ができます。
今しがた【隼鷹】の艦首底部が失われたのと同様に、中途半端に残らず無くなってくれるので、ある種バランスも取れるし、片側に偏った浸水も起こりにくいのです。

その狙い通り、4名の戦死者こそ出てしまいましたが、【槇】は最小限の被害で【隼鷹】を守ります。
【槇】は浸水を抑えて微速前進で航行が可能だったため、最大の危機を沈没なしでなんとか乗り越えました。
【槇】はその後三菱長崎造船所に入り、修理を受けました。

【槇】の修理が完了したのは昭和20年/1945年3月9日か15日。
その後呉に移動した【槇】でしたが、タイミング悪く、到着の翌日である19日に呉軍港空襲に巻き込まれます。
【大淀】が直撃弾を受けて中破するなど、大きめの船を中心に大小の被害が及びましたが、【槇】が被害を受けることはありませんでした。

そして4月6日、「天一号作戦」に合わせて第一遊撃部隊は最後の出動に備えます。
沖縄に上陸したアメリカ軍を、破壊されるまで撃って撃って撃ちまくってやるという、最期の戦いでした。
しかし【槇】ら第三十一戦隊はその死出の旅の見送りしかできず、旗艦の【花月】【槇】【榧】は豊後水道を通過するまで護衛。
あとは帰らぬ我が友の背中を見送るのみでした。

その後第二水雷戦隊すら解隊となり、「回天」搭載艦を中心に海軍挺進部隊なるものものが編成されましたが、燃料がないのですから中身はどうあれ看板の架替えに過ぎません。
【槇】「回天」搭載予定艦の1隻で、実際に工事が行われていたと言われています。
何度かの空襲で対空射撃を行いましたが、【槇】は終戦まで空襲による被害を受けることはありませんでした。
そして8月15日、玉音放送が流れます。
復員輸送に従事した後、【槇】はイギリスに引き渡されましたが、しばらくもしないうちに解体されました。

参考資料(把握しているものに限る)

Wikipedia
[1]空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い 著:神野正美 光人社

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