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初春【初春型駆逐艦 一番艦】
Hatsuharu【Hatsuharu-class destroyer】

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艦型と個艦の説明を分けましたが、単純に分割しただけなので表現に違和感が残っていると思います。
起工日昭和6年/1931年5月14日
進水日昭和8年/1933年2月27日
竣工日昭和8年/1933年9月30日
退役日
(沈没)
昭和19年/1944年11月13日
マニラ空襲
建 造佐世保海軍工廠
基準排水量1,400t→約1,700t
垂線間長103.00m
全 幅10.00m
最大速度36.5ノット→33.27ノット
航続距離18ノット:4,000海里
馬 力42,000馬力
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 2基6門
次発装填装置
機 銃40mm単装機銃 2基2挺
缶・主機ロ号艦本式缶 3基
艦本式ギアード・タービン 2基2軸


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1年の修理が、初春の活躍の場を奪う

「初春型」誕生の流れは複雑なので、こちらをご確認ください
『求めすぎた結果、大損した初春型』

難産、そして登場後も様々な改造が施された「初春型」ですが、そのあまりの失敗ぶりから14隻の建造計画は着手していた6隻で打ち止め。
急遽「白露型」の建造が決定します。
当時はこの「初春型、有明型、白露型」の区別が曖昧で、書籍には「有明型」が2隻存在する表記もあれば、「白露型」「初春型」に含まれることもあったそうです。

【初春】は純粋な「初春型」4隻(【有明】【夕暮】「改初春型」と扱われることも多い)で第二十一駆逐隊を編成。
しかし太平洋戦争ではよく被害にあう艦で、こちらでも不幸を引きずっていました。

その後は「蘭印作戦」に参加して輸送護衛を行っていましたが、昭和17年/1942年1月25日には「スラウェシ島ケンダリー攻略」の増援のためにダバオから向かう途中、遭遇した【長良】と衝突してしまう事故を起こします。
これによって【初春】は艦首がつぶれてしまい、【子日】【若葉】に護衛されながらダバオへと引き返すこととなり、増援には【初霜】たった1隻で加わるという誤算が生じています。

4月に復帰後、第二十一駆逐隊を含めた第一水雷戦隊は5月の「AL作戦」に参加します。
アッツ島、キスカ島を制圧した後、【子日】はタンカー【富士山丸】の護衛に回ることになりましたが、7月5日に対潜哨戒中に【米タンバー級潜水艦 トライトン】の魚雷を受けて轟沈してしまいます。

10月11日、【初春】【朧】とともにキスカ島への輸送をするために横須賀を出港します。
ところが17日に2隻は【B-26】6機にまとわりつかれ、ついに爆撃によって2隻は被弾してしまいます。
【朧】は被弾によって舵が故障してしまい、また火災が運んでいた弾薬に誘爆して沈没してしまいました。
【初春】も艦後部ギリギリに被弾してしまい、機関は無事だったもののやはり輸送弾薬に引火して2番砲塔以後の兵装は全部止まってしまいます。
機銃でなんとか1機の撃墜に成功するものの、当然輸送は妨害されたために【初春】【朧】の数少ない生存者を救出して幌筵島へ向かいました。

ところが撤退中に巻き込まれた嵐によって【初春】は両舷の推進軸が折れてしまいます。
当然スクリューに動力が伝わらなくなった【初春】は航行不能に陥ってしまい、退避護衛の命令を受けて駆け付けた【若葉】に曳航され、また同じく護衛にやってきた【初霜】とともに幌筵島まで何とか戻ってきました。

途中まで自力で退避できていた【初春】でしたが、修理にはめちゃくちゃ時間がかかりました。
これには単なる修理以外にも、戦訓に合わせた改装も合わさったのが影響します。
2番の単装砲はなくなって機銃が増設、また九一式水中探信儀が九三式に換装、さらに22号対水上電探や九三式水中聴音機といった電波装備が加わりました。
工事が完了したのは昭和18年/1943年10月2日ですが、これでも早めたほうで、復帰後はトラックなどの要衝に回ることになりました。
かつての戦場はこの時すでに失陥しています。

その後はトラックだけでなく硫黄島やシンガポール、果ては千島まで行き来する馬車馬のような扱いで、駆逐艦の数不足を物語る酷使でした。
輸送輸送また輸送、1年間の改装の装備が役に立つ任務ではありますが、かつて血を吐くほど努力した水上戦の機会はもはやなく、ただひたすら音を聞き、海面を眺め、青空に移る黒点を探す日々でした。

昭和19年/1944年8月15日時点の兵装
主 砲50口径12.7cm連装砲 2基4門
魚 雷61cm三連装魚雷発射管 2基6門
機 銃25mm三連装機銃 3基9挺
25mm連装機銃 1基2挺
25mm単装機銃 12基12挺
13mm単装機銃 4基4挺
電 探22号対水上電探 1基
13号対空電探 1基

出典:日本駆逐艦物語 著:福井静夫 株式会社光人社 1993年

やがて10月となり、連合艦隊は「捷一号作戦」を発動させます。
第二十一駆逐隊は志摩艦隊に所属しましたが、ここでもまた輸送を任されます。
途中までは第五艦隊の護衛をしていましたが、台湾、そしてそこからマニラへ向かうことになりました。

マニラ到着後は、第二十一駆逐隊は「捷一号作戦」で進撃を続けている第五艦隊と合流して連合軍への反撃に一役買う予定でした。
ところが24日午前に第二十一駆逐隊はおよそ20機もの航空機に取り囲まれ、この空襲によって【若葉】が沈没してしまいます。
【初霜】も被弾したため、この状況で強引な合流は困難と判断され、【若葉】の生存者を救出した後、2隻はマニラへと引き返していきました。

マニラへ戻ってきた【初春、初霜】ですが、「レイテ沖海戦」で日本は大きな船を大量に失いました。
もともと駆逐艦は何でもやらされる役回りでしたが、これがなお一層顕著となり、日本は一等・二等輸送艦は当然として、レイテ島への輸送のために生き残っている駆逐艦をリスク承知で投入せざるを得なくなりました。
それが「多号作戦」です。

31日、第二次輸送部隊の一員として【初春】は出撃します。
この部隊は「第二次多号作戦」の中では最大で、輸送船4隻に対して駆逐艦6隻、海防艦4隻、さらには上空にも直掩機ありという気合の入ったものでした。
結果この輸送では【能登丸】が空襲によって沈没してしまいますが、輸送はほとんど達成し、被害も戦闘機の援護もあったことでごく僅かでした。

この勢いに乗って次の「第四次多号作戦」が実行され、「第二次」で生還した3隻の輸送船と駆逐艦、海防艦で組織された船団が11月8日にマニラを出撃しました。
ところが今回は直掩機も少なく、また揚陸のために配備されていたオルモックの【大発動艇】が台風でぐちゃぐちゃにされてたった5隻しか残っていなかったことから、揚陸は非常に困難なものとなりました。
おかげで輸送船の少数の大発と海防艦による輸送が精一杯で、特に海岸まで接近させないと揚陸させることが難しい物資類の揚陸は遅々として進みませんでした。
結局今回の輸送は人員の揚陸ぐらいしかちゃんとこなせず、さらに【高津丸、香椎丸】が沈没してしまいます。

貴重な輸送船を2隻失った第四次輸送部隊がマニラへ引き返しているところ、同じくオルモックへ向かう第三次輸送部隊とすれ違うことになりました。
この第三次輸送部隊は【初春】【島風】【浜波】【竹】が5隻の輸送船を護衛していました。

戦力的に見れば、この4隻の中では【初春】【竹】が一歩劣ります。
一方で第四次輸送部隊には【長波】【朝霜】【若月】がいたため、どう見てもこっちのほうが役立ちそうです。
もともとこの艦船入れ替えは南西方面艦隊の命令で、【初春、竹】がこの合流の際に第三次輸送部隊から離脱し、【長波、朝霜、若月】が第三次輸送部隊に加わって再びオルモックへ向かうことになりました(【長波、朝霜】は空襲後の救助を行っていたため、その救助者を【霞】に移してから後を追いました)。

しかしこの第三次輸送部隊は、多号作戦の中で最も甚大な被害を負ってしまい、なんと生存艦は【朝霜】のみ。
残り全ての駆逐艦、掃海艇、輸送船が沈没し、レイテ島への輸送はおろか、海軍の貴重な稼働戦力を一気に失います。

一方で命拾いした形となった【初春】でしたが、その余波は輸送の出発地であったマニラにもやってきました。
13日、マニラには複数の駆逐艦や【木曾】が停泊していましたが、そこへ突如無数のアメリカ艦載機が襲来し、大規模な空襲が【初春】らを襲いました。
マニラは5日にも空襲に晒されていて、この時は【曙】が2発の直撃弾を受けて大破、航行不能となっていました。
そんなところにまたも訪れた沈没の危機に、各艦は必死に動き回って機銃を撃ちまくります。

ですがこの時期の空襲は数の差がありすぎて艦艇の機銃程度では焼け石に水。
次々に爆弾が投下され、【初春】は命中弾こそなかったものの至近弾によって舷側が穴だらけになり、浸水が始まる一方で燃料も漏れ出してしまいます。
浸水はまずいことに機械室にも缶室にも入り込んだため、航行不能となり空襲から逃れることができなくなりました。
そして海面に漏れ出した燃料に火がついて、たちまち【初春】はその周囲も含めて火炎に飲み込まれてしまいました。
燃料への引火は致命的です、【初春】はどす黒い煙の中で総員退去命令が出され、すぐさま乗員の脱出が始まりました。

結局【初春】は最大で3/4ほどの範囲が猛火に包まれ、擱座沈没。
この時側にいた【初霜】はこの立ち込める黒煙と火炎を隠れ蓑に、空襲の被害から逃れることができたと言われます。
しかしこの空襲で【木曾】【曙】、第四次輸送部隊で艦首断裂をしていた【秋霜】【沖波】も着底しており、また生存艦もその比のうちにマニラを脱出したことから、フィリピンの海軍戦力は事実上消滅しました。

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